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19話:山倉に、また子供と小判を換金、投資と家探し

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 赤ちゃんが家に入ると親戚が来て,大きな尾頭付きの鯛の横で記念写真を撮ったり一族の赤ちゃんを見ようと大勢の来客に驚いた。そして加藤和男はずっと泣いていたが、母の香織さんが抱くと泣き止んで、おっぱいを飲んで安心して寝た。

 そして1976年を迎えた。この秋には山倉夫妻も加藤夫妻も自分の家に戻って生活を開始。そして1976年10月20日、範子さんが妊娠し1977年5月2日が予定日とわかった。こう言うめでたい事と言うのは、えてして伝染もので1976年12月22日に香織さんも妊娠。

 出産予定日が1977年6月23日と告げられた。そして、再び、範子さんは山倉本家へ、香織さんは矢島本家に戻り生活を始めるはめになった。そして出産予定の女性達は、上げ膳据え膳で身重で身体は辛いが炊事、洗濯など雑用を免除された。

 しかし、太りすぎない様に注意して庭を散歩したりして過ごした。1977年となり初詣に行き家内安全、子供の健やかな成長を祈願した。やがて、少しずつ、暖かくなり3月が過ぎた。4月30日に範子さんが近くの産婦人科病院に入院。

 そして、女の赤ちゃんを産み、名前を幸せな子になる様にと、山倉幸子と名付けた。その後、退院して加藤家の本家で、再び生活を始めた。しばらくして、6月20日に香織さんが、産婦人科病院に入院して、元気な女の赤ちゃんを授かった。

その後、名前を幸福になって欲しいと、加藤福子と名付けた。そして両家とも、年子で、育児が大変で、おばあちゃんが、大活躍し、奥さんと分担して子育てをした。両家とも子供達に健康上の問題もなく元気に育った。

 おっぱいの飲み方も豪快で、母は、すぐお腹が空いて食べてばかりいた。そのせいか両家の長男坊は、すくすくと大きく育っていった。しかし2歳になると世の中の手痛い洗礼として風邪をひいて生まれて初めての試練を受けた。

 しかし、すぐに克服し元気な声をあげて家の中を動き回った。約1年が、経ち、再び自宅へ帰って来た。その時、一番寂しくなるのが、おばあちゃんで、悲しそうな目で、孫達を見送った。やがて1978年を迎えた。

 その後、1979年からに金価格が今日上昇してると金業者から電話連絡が入り加藤さんが金業者に子供の名義で小判を売ることが出来るかと電話で聞くと、問題ないと教えてくれた。その代わり身分証明として戸籍謄本が必要になると言われた。

 そこで1979年12年24日に加藤家で3枚の小判を90万円ずつで270万円で銀座のTK貴金属で買い取ってもらった。山倉家でも同日3枚の小判を90万円ずつで270万円で神田のTR本店で買い取ってもらい総合計540万円となった。

 翌年になり小判1枚が百万円となり同じ様に加藤家と山倉家で3枚ずつ3百万円で売り総合計6百万円となった。その後、加藤家から百万円ずつ定期的に山倉家の口座に移した。手数料として百万円を渡した。これにより山倉家の総資産が3540万円となった。

 一方、加藤家では1千万円となった。加藤さんは、その後も地道に株で資産を増やした。1981年10月に2600円で1975年に1.25分割したので5万株売り税引き後利益が8780万円となり預金と合計し12320万円となった。

 1982年2月にはトヨタ株が下落し550円で6万株3300万円で買い、投資残高が9000万円となった。1982年10月にはソニー株が下がり1300円で6万株7800万円で買った。その結果、投資残高が1200万円となった。

その後、加藤さんが、これだけの資産が出来たのだから、減らさない投資を心がけろとワリコーやワイドで5年満期で年6%。大勢の名義で預けるのが良いと証券会社で教えられた。竜二の家族、両親を入れて6人。

 もっと必要なら加藤さんも家族4人も名義を貸すからと言い目標利率5%以上で行こうと告げた。それには郵便貯金の定額預金と定期預金、さらに一時払い養老保険も10人で作ろる話になった。そして1億円を10人で10の口座に分けて管理しようと言われた。
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