4 / 20
4.楓GAMES
しおりを挟む
真面目な桃葉にとって、こんなにも血の気が引く感覚は久しぶりだった。まず、カーテンの隙間から差す光の具合で、いつもの時間ではないことだけは確信した。目をそらしたい思いでスマホを見、寝坊を確認すると、重たい上体を勢いよく起こし、化粧もそこそこに家を飛び出した。
昨晩というべきか、今朝というべきなのか。桃葉が布団に入ったのは、四時をとっくにまわった頃だった。結局、その配信の目的である「ポプリくんからの特別アイテムをもらう」まで、見守ってしまったのだ。
「ポプリくんのアイテム、これかよ!」
朝方ようやくもらえたポプリくんからの親友の証――巨大な哺乳瓶を街に飾り、楓は腹を抱えて笑った。それにつられ、隣人のことも気にせず大笑いしてしまったことを、桃葉は徹夜でハイになったせいだと言い分ける。新聞配達のバイクの音が、いっそすがすがしかったことを思い出す。
配信が終了し、画面が暗くなってからもその熱が冷めなかった桃葉は、その投稿者のプロフィールにアクセスし、チャンネル登録を済ませた。「楓GAMES」という文字を見て、楓という名前は本名にしろハンドルネームにしろ、どこか古風な黒髪である彼にぴったりの名前だと思った。
桃葉が講義室後方の扉を開けたのと、前方で先生がスクリーンの電源を入れたのは、ほとんど同時だった。何人かがこちらを振り返り、桃葉は息を一瞬止める。酸素をほしがる心臓に苦しさを感じながら、切れ切れになった呼吸を無理矢理おさえ、重い扉をゆっくり閉めた。
ゆるやかな階段状になっている座席をそろそろと降りながら、桃葉は雪子を探すことを諦め、代わりにあいている席を探す。十人がけの長机の、真ん中あたりには空席があるのに、端が全て埋まっているため入れない。ちょうど、バスの入り口付近だけ混んでいるときのようだった。詰めてくれればいいのに、と思いながら十五列ほど降りて、講義室の中ほどでようやく空席を見つけ、腰かけた。端をひとつだけあけて座っていた男子学生と隣り合う格好になり、桃葉はいちおう、すみません、と会釈した。
茶髪の男子学生は桃葉を一瞥し、ふたつ右の席にずれた。ありがたいと思う気持ちと、最初から詰めて座ればいいのにという気持ち、どちらも矛盾なく感じながら、今度はお礼のつもりで、会釈をする。男子学生はボールペンを回しながら前を向いており、桃葉の礼には目もくれなかったけれど。
黒板の前では先生が、心理学の基礎用語について説明し始めていた。文字だけのスライドをレーザーポインタで指し、「心理学の基礎的なことば」を、難しい用語を交えて説明している。
ノートを取りはじめた男子学生をちらりと見て、桃葉も授業に集中しようと背筋をのばした。そこでようやく、筆記用具もノートも、家に忘れてきたことに気が付いた。
「遅くまで何してたのよ。彼氏でもできた?」
右手のフォークでカルボナーラを巻きながら、雪子が聞く。桃葉は苦笑いを返した。
「振り付け考えてたら、夜更かししちゃったの」
高く白い天井は、開放感がある。二限が終わったあとの学食は賑わっていて、二人はこの、狭い座席を確保するので精一杯だった。
Aランチのハンバーグをつつきながら口にした夜更かしの理由は、筆記用具もノートも忘れた桃葉が、眠気と戦いながら授業中に考えていた嘘だった。何食わぬ顔をしながら、皿に広がったデミグラスソースを最後のひときれですくいとり、口に運ぶ。雪子は驚いたように食事の手を止め、桃葉をまじまじと見つめると、ため息をついた。
「それはありがたいけど、さっきみたいなのはまずいでしょ。ダンスサークルのやつは、って言われちゃう。さっき派手に舟こいでたのだって、先生、絶対気付いてるからね」
一限のことを思い返し、桃葉は顔を赤らめる。眉毛を書いていない、髪もぼさぼさの自分が、舟をこぐ姿が目に浮かんだ。雪子は容赦なく続ける。
「ダンスなんて、ただでさえ、ちゃらちゃらしてるって思われがちなんだから。行動は気をつけてかないと。……って、先輩も言ってたでしょ」
桃葉がしゅんとしたのに気付いたのか、きまりの悪いときにいつもそうするように、雪子は横髪をかきあげる。そしてフォークを置くと、安っぽいプラスチックのコップを手に取った。
「確かに桃葉は、四人の中でも一番上手いと思うけど。だからって、桃葉だけががんばらなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
言い切って、勢いよく水を飲み干す。うん、ありがとう。桃葉は目を伏せ返事をしながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。
昨晩というべきか、今朝というべきなのか。桃葉が布団に入ったのは、四時をとっくにまわった頃だった。結局、その配信の目的である「ポプリくんからの特別アイテムをもらう」まで、見守ってしまったのだ。
「ポプリくんのアイテム、これかよ!」
朝方ようやくもらえたポプリくんからの親友の証――巨大な哺乳瓶を街に飾り、楓は腹を抱えて笑った。それにつられ、隣人のことも気にせず大笑いしてしまったことを、桃葉は徹夜でハイになったせいだと言い分ける。新聞配達のバイクの音が、いっそすがすがしかったことを思い出す。
配信が終了し、画面が暗くなってからもその熱が冷めなかった桃葉は、その投稿者のプロフィールにアクセスし、チャンネル登録を済ませた。「楓GAMES」という文字を見て、楓という名前は本名にしろハンドルネームにしろ、どこか古風な黒髪である彼にぴったりの名前だと思った。
桃葉が講義室後方の扉を開けたのと、前方で先生がスクリーンの電源を入れたのは、ほとんど同時だった。何人かがこちらを振り返り、桃葉は息を一瞬止める。酸素をほしがる心臓に苦しさを感じながら、切れ切れになった呼吸を無理矢理おさえ、重い扉をゆっくり閉めた。
ゆるやかな階段状になっている座席をそろそろと降りながら、桃葉は雪子を探すことを諦め、代わりにあいている席を探す。十人がけの長机の、真ん中あたりには空席があるのに、端が全て埋まっているため入れない。ちょうど、バスの入り口付近だけ混んでいるときのようだった。詰めてくれればいいのに、と思いながら十五列ほど降りて、講義室の中ほどでようやく空席を見つけ、腰かけた。端をひとつだけあけて座っていた男子学生と隣り合う格好になり、桃葉はいちおう、すみません、と会釈した。
茶髪の男子学生は桃葉を一瞥し、ふたつ右の席にずれた。ありがたいと思う気持ちと、最初から詰めて座ればいいのにという気持ち、どちらも矛盾なく感じながら、今度はお礼のつもりで、会釈をする。男子学生はボールペンを回しながら前を向いており、桃葉の礼には目もくれなかったけれど。
黒板の前では先生が、心理学の基礎用語について説明し始めていた。文字だけのスライドをレーザーポインタで指し、「心理学の基礎的なことば」を、難しい用語を交えて説明している。
ノートを取りはじめた男子学生をちらりと見て、桃葉も授業に集中しようと背筋をのばした。そこでようやく、筆記用具もノートも、家に忘れてきたことに気が付いた。
「遅くまで何してたのよ。彼氏でもできた?」
右手のフォークでカルボナーラを巻きながら、雪子が聞く。桃葉は苦笑いを返した。
「振り付け考えてたら、夜更かししちゃったの」
高く白い天井は、開放感がある。二限が終わったあとの学食は賑わっていて、二人はこの、狭い座席を確保するので精一杯だった。
Aランチのハンバーグをつつきながら口にした夜更かしの理由は、筆記用具もノートも忘れた桃葉が、眠気と戦いながら授業中に考えていた嘘だった。何食わぬ顔をしながら、皿に広がったデミグラスソースを最後のひときれですくいとり、口に運ぶ。雪子は驚いたように食事の手を止め、桃葉をまじまじと見つめると、ため息をついた。
「それはありがたいけど、さっきみたいなのはまずいでしょ。ダンスサークルのやつは、って言われちゃう。さっき派手に舟こいでたのだって、先生、絶対気付いてるからね」
一限のことを思い返し、桃葉は顔を赤らめる。眉毛を書いていない、髪もぼさぼさの自分が、舟をこぐ姿が目に浮かんだ。雪子は容赦なく続ける。
「ダンスなんて、ただでさえ、ちゃらちゃらしてるって思われがちなんだから。行動は気をつけてかないと。……って、先輩も言ってたでしょ」
桃葉がしゅんとしたのに気付いたのか、きまりの悪いときにいつもそうするように、雪子は横髪をかきあげる。そしてフォークを置くと、安っぽいプラスチックのコップを手に取った。
「確かに桃葉は、四人の中でも一番上手いと思うけど。だからって、桃葉だけががんばらなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
言い切って、勢いよく水を飲み干す。うん、ありがとう。桃葉は目を伏せ返事をしながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。
0
あなたにおすすめの小説
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる