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昭和
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作品名:一本
作者名:諸木 英雄(ペンネーム)
❶ある夏の日、事務所にガタイの大きな刑事が、汗を拭きながら入って来た。
応接室のソファに、いきなり横柄にドッカと腰を下ろすと、車のキーをテーブルの上に無造作に放った。
ガチャン。
鍵のぶつかる音が、やけに大きく響いた。
監視カメラを眺めていた店長が、インカムでホールにいる主任を呼んだ。
ほどなく、主任がノックをして店長室に入ってくる。
すべてを察したのだろう。
主任は無言のまま、テーブルの上のキーを手に取り、ポケットに入れると一礼して部屋を出た。
すると刑事は、厚さ五、六センチはあろうかという分厚いファイルを、今度はドン、とテーブルに置いた。
パラパラとページをめくり、真ん中あたりで止める。
そしてわざわざ、反対側に座る店長のほうへ、ファイルを滑らせて寄せた。
中身は、店員たちの履歴書をコピーしたものだった。
現在の従業員だけでなく、歴代の履歴書まで綴じられている。
「店長、またお願いしますヨ」
刑事はニコニコと笑いながら、タバコに火をつけた。
―――🔺🔺🔺――
「昭和の駆け込み寺」と呼ばれたパチンコ屋。
それぞれの店には、決まって二階に寮があった。
不倫、駆け落ち、ヤクザ絡みのトラブル。
身の上を隠すには、これほど都合のいい場所はなかった。
店にとっても、そうした人間は便利だった。
仕事は単純で、玉の入ったドル箱を、客の言うとおりに上げ下ろしするだけでいい。
鉄製の箱には、三千個、四千個と玉が入る。
それなりの重さはあるが、体力があれば女でもこなせる。
冷暖房は年中効いている。
タバコの煙に備えて換気設備も整っている。
今で言う三Kとは、少し違った。
もう一つ理由がある。
不正防止だ。
地元の人間を雇うと、家に帰ってから常連客に絡まれる。
「出る台を教えろ」
そう言われれば、簡単には断れない。
だから店は、なるべく地元でない人間を雇った。
素性の分からない者のほうが、都合がよかった。
❷「お疲れさんです!」部屋を出て行く刑事に聞こえるように声高に、主任が「挨拶」した。
主任は刑事が車で出て行くのを窓から確認して、店長を見て言った「あいつ、評判悪いんスよ」。数ヶ月前に就任した店長は知らないだろうという感じの言葉遣いだった。
店長はこの業界に纏わりつく不正を知り尽くすこの道十年のベテランだ。しかし、不正は、店それぞれ違う。主任の言葉をありがたく受け取り店長はホールにでた。
夏の日は、水を打つのが店長の日常だ。
すると、バイクに乗った50前後の男が寄って来た。店長は、最近どうですか?と聞くと、「あきませんがな、ワシは、パチンコよりもこっちがええねん」と言って、脇の下から親指と人差し指でリングをつくった手を見せた。お金の表示なのだが、おおよその察しはつくが、具体的にどんな事をしているのかは、わからない。
パチンコで負けこんだ客にお金を貸すというパチンコの「闇金」 の事だ。「十一」というからけっこう儲かる金貸しだ。
貸した客がその日勝てばその日に返済できる。その時は、手数料一割。後は、「十一」だから厳しい。
逃げないのか?そこは、貸す人はよく見てて、その店の常連にしか貸さない。
パチンコの常連は、自分の打ち込んだ台に執着する。他の店で新たに開拓するよりもずっと効率が良いのだ。例え逃げてもパチンコの世界は狭い。おおよその見当はつく。
ましてや貸した金額は、一万円二万円の世界だ。
しかし、毎日一万円以上もって遊ぶと一年二百万以上の損金額になり退職金の一千万円を三年で使い果たした、と言う話もある「たかがパチンコされどパチンコ」ということか。
でも、パチンコは開店から閉店まで一日中打っても、負け金額は、三十万円にならない。
競輪競馬は、掛け金に上限がないので一日で首をくくらなくてはならない事もある。パチンコは賭け事よりも遊戯性が強いゆえんだ。
そんな、ことを考えながら店長室に戻ると、主任が、「あれみてくださいよ、店長」と、監視カメラを指さした、その先にさっきの刑事とバイクの金貸し男が、並んで打っている。
刑事が横で打っているバイク男に合図をすると小さく折ったお金を渡す。
なるほど、刑事なら食いっぱぐれはないだろうし、刑事も例のタバコがあるので返済は心配ない。
店にとっても害はない。主任と何気なくみていると、突然主任が「あっ」言って店長室を慌てて出ていった。
❸(乱闘~警察)
スロットを打っていた若い男が、突然、襟首をつかまれて引き倒された。
次の瞬間、ホールがざわついた。
引き倒した男の言い分はこうだった。
もう少しで出そうだった台を離れ、金を取りに家へ帰った。
戻ってきたときには、その台が大連チャンしていた。
「カッとなった」
それだけの理由だった。
「目印のタバコ、置いてあったやろ」
男はそう責め立てる。
席を立つとき、タバコやハンカチを置くのは暗黙の了解だ。
だが、引きずり倒された若者は首を振った。
「そんなもん、なかった」
それで済む話ではない。
「置いてあった」「置いてなかった」
押し問答のまま、二人は店の外へ出た。
次の瞬間、掴み合い、殴り合いになった。
主任は、ホールの空気を鎮めるため中へ残った。
外の乱闘を止めるのは、店長の役目だった。
だが、百六十にも満たない私が、百八十はあろうかという若い男二人の間に割って入るのは、無謀に近い。
そのとき、パトカーのサイレンが聞こえた。
乱闘は、あっけなく終わった。
店長室に戻ると、ヘルメットをかぶった警察官が二人いた。
どちらも、元は生活安全課だという。
履歴調査に来る刑事は刑事課だが、パチンコの担当は生活安全課だ。
何を求めているのかは、分かりきっている。
主任は、タバコを一カートン、レジ袋に入れた。
中身が分からないようにして、二人に手渡す。
警察官たちは、出された缶コーヒーに手も付けず、袋を持って部屋を出た。
「あいつら、ほんまにパチンコ屋をなめてますわ」
三十の主任が、吐き捨てるように言った。
五十を過ぎた私は、
「そんなもんやろ」
とだけ答えた。
そのときだった。
さきほどの刑事に向けた「お疲れさんです」と、
今の警察官たちへの態度が、まるで違うことに気づいた。
その違和感が、頭の片隅に、残った。
❹(主任の消失)
朝から、主任の様子がおかしかった。
開店は十時だ。
早いと言うほどではないが、主任は落ち着きがなかった。
いつもなら、ゆっくり飲むコーヒーを半分も残している。
灰皿には、少しだけ吸ったタバコの吸い殻が一本。
どうしたんだ、と声をかける前に、
監視カメラの画面に目がいった。
主任と、あのバイクの男が話している。
しばらくして、主任が店長室に入ってきた。
「店長、昼は外で食べます。少し、店を空けます」
そう言って、机の上に書類を置いた。
「従業員の履歴書のコピーです」
私は、深く考えずに、
「はいはい」
と返事をした。
昼前、例の刑事が入ってきた。
いつものようにソファに腰を下ろし、車のキーをテーブルに放る。
ファイルを開き、また、真ん中あたりで止めた。
タバコに火をつけ、缶コーヒーを手に取る。
広げたページは、先日と同じだった。
そのとき、初めて気づいた。
右に私の名前がある。
左には、「主任」とだけ書かれている。
文字は、パソコンではない。
ボールペンで、殴り書きしたような「主任」だった。
私は、主任が用意したという履歴書のコピーを差し出した。
刑事は、それに目を落とすなり言った。
「いつもタバコ運んでくるんは、主任か?」
「そうですが」
「主任の、名前は?」
少しだけ声を落として、
「金本です」
と答えた。
刑事は、紙から目を離さず言った。
「金本、いう名前、ないな」
八枚ほどの履歴書だ。
見落とすはずがない。
そのとき、遅れて理解した。
私は一か月前に、この店に赴任した。
主任は、ずっと前からいるものだと思い込んでいた。
だが、
主任の履歴書は、どこにもなかった。
刑事は、そのことを知らせるために、
わざわざファイルを開き、
真ん中で止めていたのだ。
私はインカムで、別の従業員を呼んだ。
主任の代わりに、刑事の車のキーを渡す。
その従業員は、何も聞かず、黙ってうなずいた。
どうやら、このやり取りは、
店では言わずもがなのことらしかった。
刑事は、キーをポケットに入れながら言った。
「主任さん、呼んでや」
「昼食に出ています。もうすぐ戻ると思いますが」
「ほな、待たせてもらうわ」
部屋には、私と刑事だけが残った。
私は思い切って聞いた。
「主任に、何かあるんですか」
刑事は、軽くうなずいた。
「ちょっとな」
それ以上は、何も言わない。
時間が過ぎた。
主任は戻らなかった。
インカムで聞いても、誰も知らないという。
いつの間にか、
あのバイクの男の姿も消えていた。
そのことを伝えると、
刑事の目が、わずかにつり上がった。
「いつからや」
「午前中から……」
そう言い終わる前に、刑事は立ち上がり、
足早に部屋を出ていった。
一人になった私は、
エアコンを切り、窓を開けた。
張りつめていた空気が、
一気に外へ流れていく気がした。
冷めたコーヒーを飲みながら、
私は、ここ数日の出来事を思い返していた。
❺(名前)・エンディング
冷めたコーヒーを飲みながら、
私は、ここ数日の出来事を一つずつ辿っていた。
必要もないのに、刑事がファイルを開いたこと。
バイクの男と刑事が、並んで台を打ち、
小さく折った金が手渡されたこと。
そして、乱闘のとき。
主任が外に出ず、
私に仲裁を任せたこと。
主任は、百七十前後の体格で、
格闘技をやっていたと言っていた。
今思えば、
どの場面でも、
主任は警察を避けていた。
そのとき、
ふと、ある会話を思い出した。
店休日、たまたま店長室で二人きりになったとき、
主任がぽつりと言った。
「差別って、嫌ですよね」
私が言葉を探していると、
主任は続けた。
「差別いうたら、朝鮮人や韓国人の話になる。でもな、同じ外人でも、アメリカ人を差別した話なんて、聞いたことないでしょう」
私たちは、それ以上何も言わなかった。
主任は、少し寂しそうな顔で部屋を出ていった。
あれは、数週間前のことだった。
「差別」という言葉は便利だ。
何でも、それで片づけられる。
だが、
公の差別と、
個人の差別は、
同じではない。
それを混ぜたままでは、
何も見えなくなる。
主任の名前は、金本。
おそらく、本名は「金」だったのだろう。
どんな差別を受け、
何を選び、
どこへ行ったのか。
それを、私は知らない。
もう、戻ってこないのだろうか。
従業員に聞くと、
バイクの男の後ろに乗り、
大きなバッグを抱えて出ていったという。
後になって知ったことだが、
主任と、あの男は親戚だった。
闇金も、
二人で手広くやっていたらしい。
私自身も、朝鮮人だ。
だが、
「諸葛」という珍しい名字のおかげで、
日本で生まれてこの方、
通名を使ったことはなかった。
私の本名は、
諸葛英雄という。
三十年来の付き合いになる歯科医の友人がいる。
日本人だ。
彼は、いつもこう言っていた。
「私は日本が好きだ。
そして、諸葛さんも朝鮮が好きだ。
だから私は、あなたが好きなんです」
「国を愛する人間は、
日本にだけいるわけじゃない。
それを忘れたら、
何も見えなくなる」
冷えきったコーヒーを、
私は最後まで飲み干した。
パチンコ業界には、
私の知るだけでも、
多くの在日の名前がある。
その一つ一つを思い浮かべながら、
私は、
大きく息を吐いた。
(了)
作者名:諸木 英雄(ペンネーム)
❶ある夏の日、事務所にガタイの大きな刑事が、汗を拭きながら入って来た。
応接室のソファに、いきなり横柄にドッカと腰を下ろすと、車のキーをテーブルの上に無造作に放った。
ガチャン。
鍵のぶつかる音が、やけに大きく響いた。
監視カメラを眺めていた店長が、インカムでホールにいる主任を呼んだ。
ほどなく、主任がノックをして店長室に入ってくる。
すべてを察したのだろう。
主任は無言のまま、テーブルの上のキーを手に取り、ポケットに入れると一礼して部屋を出た。
すると刑事は、厚さ五、六センチはあろうかという分厚いファイルを、今度はドン、とテーブルに置いた。
パラパラとページをめくり、真ん中あたりで止める。
そしてわざわざ、反対側に座る店長のほうへ、ファイルを滑らせて寄せた。
中身は、店員たちの履歴書をコピーしたものだった。
現在の従業員だけでなく、歴代の履歴書まで綴じられている。
「店長、またお願いしますヨ」
刑事はニコニコと笑いながら、タバコに火をつけた。
―――🔺🔺🔺――
「昭和の駆け込み寺」と呼ばれたパチンコ屋。
それぞれの店には、決まって二階に寮があった。
不倫、駆け落ち、ヤクザ絡みのトラブル。
身の上を隠すには、これほど都合のいい場所はなかった。
店にとっても、そうした人間は便利だった。
仕事は単純で、玉の入ったドル箱を、客の言うとおりに上げ下ろしするだけでいい。
鉄製の箱には、三千個、四千個と玉が入る。
それなりの重さはあるが、体力があれば女でもこなせる。
冷暖房は年中効いている。
タバコの煙に備えて換気設備も整っている。
今で言う三Kとは、少し違った。
もう一つ理由がある。
不正防止だ。
地元の人間を雇うと、家に帰ってから常連客に絡まれる。
「出る台を教えろ」
そう言われれば、簡単には断れない。
だから店は、なるべく地元でない人間を雇った。
素性の分からない者のほうが、都合がよかった。
❷「お疲れさんです!」部屋を出て行く刑事に聞こえるように声高に、主任が「挨拶」した。
主任は刑事が車で出て行くのを窓から確認して、店長を見て言った「あいつ、評判悪いんスよ」。数ヶ月前に就任した店長は知らないだろうという感じの言葉遣いだった。
店長はこの業界に纏わりつく不正を知り尽くすこの道十年のベテランだ。しかし、不正は、店それぞれ違う。主任の言葉をありがたく受け取り店長はホールにでた。
夏の日は、水を打つのが店長の日常だ。
すると、バイクに乗った50前後の男が寄って来た。店長は、最近どうですか?と聞くと、「あきませんがな、ワシは、パチンコよりもこっちがええねん」と言って、脇の下から親指と人差し指でリングをつくった手を見せた。お金の表示なのだが、おおよその察しはつくが、具体的にどんな事をしているのかは、わからない。
パチンコで負けこんだ客にお金を貸すというパチンコの「闇金」 の事だ。「十一」というからけっこう儲かる金貸しだ。
貸した客がその日勝てばその日に返済できる。その時は、手数料一割。後は、「十一」だから厳しい。
逃げないのか?そこは、貸す人はよく見てて、その店の常連にしか貸さない。
パチンコの常連は、自分の打ち込んだ台に執着する。他の店で新たに開拓するよりもずっと効率が良いのだ。例え逃げてもパチンコの世界は狭い。おおよその見当はつく。
ましてや貸した金額は、一万円二万円の世界だ。
しかし、毎日一万円以上もって遊ぶと一年二百万以上の損金額になり退職金の一千万円を三年で使い果たした、と言う話もある「たかがパチンコされどパチンコ」ということか。
でも、パチンコは開店から閉店まで一日中打っても、負け金額は、三十万円にならない。
競輪競馬は、掛け金に上限がないので一日で首をくくらなくてはならない事もある。パチンコは賭け事よりも遊戯性が強いゆえんだ。
そんな、ことを考えながら店長室に戻ると、主任が、「あれみてくださいよ、店長」と、監視カメラを指さした、その先にさっきの刑事とバイクの金貸し男が、並んで打っている。
刑事が横で打っているバイク男に合図をすると小さく折ったお金を渡す。
なるほど、刑事なら食いっぱぐれはないだろうし、刑事も例のタバコがあるので返済は心配ない。
店にとっても害はない。主任と何気なくみていると、突然主任が「あっ」言って店長室を慌てて出ていった。
❸(乱闘~警察)
スロットを打っていた若い男が、突然、襟首をつかまれて引き倒された。
次の瞬間、ホールがざわついた。
引き倒した男の言い分はこうだった。
もう少しで出そうだった台を離れ、金を取りに家へ帰った。
戻ってきたときには、その台が大連チャンしていた。
「カッとなった」
それだけの理由だった。
「目印のタバコ、置いてあったやろ」
男はそう責め立てる。
席を立つとき、タバコやハンカチを置くのは暗黙の了解だ。
だが、引きずり倒された若者は首を振った。
「そんなもん、なかった」
それで済む話ではない。
「置いてあった」「置いてなかった」
押し問答のまま、二人は店の外へ出た。
次の瞬間、掴み合い、殴り合いになった。
主任は、ホールの空気を鎮めるため中へ残った。
外の乱闘を止めるのは、店長の役目だった。
だが、百六十にも満たない私が、百八十はあろうかという若い男二人の間に割って入るのは、無謀に近い。
そのとき、パトカーのサイレンが聞こえた。
乱闘は、あっけなく終わった。
店長室に戻ると、ヘルメットをかぶった警察官が二人いた。
どちらも、元は生活安全課だという。
履歴調査に来る刑事は刑事課だが、パチンコの担当は生活安全課だ。
何を求めているのかは、分かりきっている。
主任は、タバコを一カートン、レジ袋に入れた。
中身が分からないようにして、二人に手渡す。
警察官たちは、出された缶コーヒーに手も付けず、袋を持って部屋を出た。
「あいつら、ほんまにパチンコ屋をなめてますわ」
三十の主任が、吐き捨てるように言った。
五十を過ぎた私は、
「そんなもんやろ」
とだけ答えた。
そのときだった。
さきほどの刑事に向けた「お疲れさんです」と、
今の警察官たちへの態度が、まるで違うことに気づいた。
その違和感が、頭の片隅に、残った。
❹(主任の消失)
朝から、主任の様子がおかしかった。
開店は十時だ。
早いと言うほどではないが、主任は落ち着きがなかった。
いつもなら、ゆっくり飲むコーヒーを半分も残している。
灰皿には、少しだけ吸ったタバコの吸い殻が一本。
どうしたんだ、と声をかける前に、
監視カメラの画面に目がいった。
主任と、あのバイクの男が話している。
しばらくして、主任が店長室に入ってきた。
「店長、昼は外で食べます。少し、店を空けます」
そう言って、机の上に書類を置いた。
「従業員の履歴書のコピーです」
私は、深く考えずに、
「はいはい」
と返事をした。
昼前、例の刑事が入ってきた。
いつものようにソファに腰を下ろし、車のキーをテーブルに放る。
ファイルを開き、また、真ん中あたりで止めた。
タバコに火をつけ、缶コーヒーを手に取る。
広げたページは、先日と同じだった。
そのとき、初めて気づいた。
右に私の名前がある。
左には、「主任」とだけ書かれている。
文字は、パソコンではない。
ボールペンで、殴り書きしたような「主任」だった。
私は、主任が用意したという履歴書のコピーを差し出した。
刑事は、それに目を落とすなり言った。
「いつもタバコ運んでくるんは、主任か?」
「そうですが」
「主任の、名前は?」
少しだけ声を落として、
「金本です」
と答えた。
刑事は、紙から目を離さず言った。
「金本、いう名前、ないな」
八枚ほどの履歴書だ。
見落とすはずがない。
そのとき、遅れて理解した。
私は一か月前に、この店に赴任した。
主任は、ずっと前からいるものだと思い込んでいた。
だが、
主任の履歴書は、どこにもなかった。
刑事は、そのことを知らせるために、
わざわざファイルを開き、
真ん中で止めていたのだ。
私はインカムで、別の従業員を呼んだ。
主任の代わりに、刑事の車のキーを渡す。
その従業員は、何も聞かず、黙ってうなずいた。
どうやら、このやり取りは、
店では言わずもがなのことらしかった。
刑事は、キーをポケットに入れながら言った。
「主任さん、呼んでや」
「昼食に出ています。もうすぐ戻ると思いますが」
「ほな、待たせてもらうわ」
部屋には、私と刑事だけが残った。
私は思い切って聞いた。
「主任に、何かあるんですか」
刑事は、軽くうなずいた。
「ちょっとな」
それ以上は、何も言わない。
時間が過ぎた。
主任は戻らなかった。
インカムで聞いても、誰も知らないという。
いつの間にか、
あのバイクの男の姿も消えていた。
そのことを伝えると、
刑事の目が、わずかにつり上がった。
「いつからや」
「午前中から……」
そう言い終わる前に、刑事は立ち上がり、
足早に部屋を出ていった。
一人になった私は、
エアコンを切り、窓を開けた。
張りつめていた空気が、
一気に外へ流れていく気がした。
冷めたコーヒーを飲みながら、
私は、ここ数日の出来事を思い返していた。
❺(名前)・エンディング
冷めたコーヒーを飲みながら、
私は、ここ数日の出来事を一つずつ辿っていた。
必要もないのに、刑事がファイルを開いたこと。
バイクの男と刑事が、並んで台を打ち、
小さく折った金が手渡されたこと。
そして、乱闘のとき。
主任が外に出ず、
私に仲裁を任せたこと。
主任は、百七十前後の体格で、
格闘技をやっていたと言っていた。
今思えば、
どの場面でも、
主任は警察を避けていた。
そのとき、
ふと、ある会話を思い出した。
店休日、たまたま店長室で二人きりになったとき、
主任がぽつりと言った。
「差別って、嫌ですよね」
私が言葉を探していると、
主任は続けた。
「差別いうたら、朝鮮人や韓国人の話になる。でもな、同じ外人でも、アメリカ人を差別した話なんて、聞いたことないでしょう」
私たちは、それ以上何も言わなかった。
主任は、少し寂しそうな顔で部屋を出ていった。
あれは、数週間前のことだった。
「差別」という言葉は便利だ。
何でも、それで片づけられる。
だが、
公の差別と、
個人の差別は、
同じではない。
それを混ぜたままでは、
何も見えなくなる。
主任の名前は、金本。
おそらく、本名は「金」だったのだろう。
どんな差別を受け、
何を選び、
どこへ行ったのか。
それを、私は知らない。
もう、戻ってこないのだろうか。
従業員に聞くと、
バイクの男の後ろに乗り、
大きなバッグを抱えて出ていったという。
後になって知ったことだが、
主任と、あの男は親戚だった。
闇金も、
二人で手広くやっていたらしい。
私自身も、朝鮮人だ。
だが、
「諸葛」という珍しい名字のおかげで、
日本で生まれてこの方、
通名を使ったことはなかった。
私の本名は、
諸葛英雄という。
三十年来の付き合いになる歯科医の友人がいる。
日本人だ。
彼は、いつもこう言っていた。
「私は日本が好きだ。
そして、諸葛さんも朝鮮が好きだ。
だから私は、あなたが好きなんです」
「国を愛する人間は、
日本にだけいるわけじゃない。
それを忘れたら、
何も見えなくなる」
冷えきったコーヒーを、
私は最後まで飲み干した。
パチンコ業界には、
私の知るだけでも、
多くの在日の名前がある。
その一つ一つを思い浮かべながら、
私は、
大きく息を吐いた。
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