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プロローグ
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俺を抱く時のあいつの顔や声、甘いフェロモンの香りを、鮮明に覚えている。
何度も忘れたいと思った。その反面、発情期の度に、あいつを思い出して自分を慰めている自分もいて。未練がましく思い続けても、もう戻れはしないのに。
好きだった。背筋をピンと伸ばし凛とした姿勢が。
大好きだった。強さの中に見え隠れする繊細な所が。
愛おしかった。俺の名前を呼んで、愛おしそうに見つめるあいつが。
「リディ…」
記憶の中の懐かしい声に重なるように、名前を呼ばれ現実に引き戻される。発情期が近いせいか、気を抜くとあいつとの思い出に浸っている。そんな自分の浅ましさに辟易していると、ベッドに横たわっている老人がジッと俺を見つめていた。
俺はベッドに腰掛けているので、老人は俺を見上げる形になる。その瞳には非難の色はなく、心配そうな色が浮かんでいた。俺は、彼の不安を和らげるために笑顔を顔を貼り付ける。
「そんな心配しなくても大丈夫ですよ。きっと良くなりますから!」
しわがれた手を両手で握り元気づけるように言う。こうは言ってみたものの、この部屋には他では感じない重苦しい雰囲気が漂っている。それは命の灯火がついえることの予兆のように老人、子爵の体調が悪化するたびに、どんどん重さを増していく。
「私の先行きが長くないのはもう分かっている。心配してるのは残されたお前の今後だ」
「俺のことは大丈夫ですよ。子爵に助けてもらうまで、なんだかんだ一人で生きてきたんですから。だから、なんとかなりますよ」
「そうか。でもリディ。もう一人で抱え込むのは辞めない。信頼できるお方が、お前の面倒を見るとお約束してくれた。だから」
もう頑張らなくていい。それが、子爵の最後の言葉になった。
子爵に朝の挨拶をしようと、ベッドに眠る子爵の顔を見た時、もう返事はもらえないのだと悟った。
穏やかに眠っているように見える子爵の顔は昨晩よりも青白く、ぬくもりは消えていたのだ。
まだまだたくさん話したいこともあった。最後だと知っていたらワガママを言ってでも子爵と一晩過ごしたのに。
* * *
「やめてっ…はなして」
俺の腕を引き大股で歩く男は俺の制止など聞く気がない様子だ。正面玄関に着くと男は外に向かって俺を投げ飛ばす。
「出ていけ!このあばずれが!」
子爵の面影を感じさせる顔を歪め、俺に罵詈雑言を浴びせる。
「出ていくのは構いません。ですが、どうか子爵の最後に立ち合わせてください」
「我が家の評判を地に落としたお前が参加できるはずがないだろ!身の程をわきまえろ!」
「そこをなんとかお願いします」
お世話になった子爵をせめて最後まで見送りたくて、頭を下げる。
「そんなこと言って、本当は我が家の財産を持ち出すことが目的なんだろう?親父を誑かした、あばずれオメガに我が家の財産をやる理由はない!分かったら、ささっと私の目の前から今すぐ消えろ!」
男は仕立てのいい服に身を包み整髪料で整えた髪には白髪が混じっている。瞳は血走り、俺への憎悪と嫌悪がありありと現れていた。子爵の葬儀の準備をしていた所に突如として現れたこの男は、子爵の長男。つまり、この家の後継者だ。子爵が病に伏せてから一度も顔を見せなかった癖に、亡くなったと知るやいなや戻ってきたのだ。
「そんなことは致しません。ただ子爵と最後のお別れをさせてください」
生前の子爵の不安は見事に的中し、俺は着の身着のまま子爵邸を追い出されるはめになった。それは予想していたから仕方ないと思えるが、せめて子爵を見送らせて欲しいと恥をかき捨て土下座で懇願する。
「お前の土下座に何の価値もないだろ?お前が親父と番っていなければ、オメガとして利用価値もあっただろうが。体を使えないあばずれなど、ゴミでしかない」
番のことを言われ、首筋の噛み跡がピリピリと痛んだ気がした。さらに長男は俺の頭を踏みつけ地面に擦りつけるように踏み締める。額が地面にこすれ痛みが走る。でもここで折れたら、後悔する。あの時みたいに、自分の無力さで泣き寝入りするなんて嫌なんだ。痛みに歯を食いしばり頭を下げ続けていると、背後で蹄と馬車の車輪の音が聞こえた。
「うわぁ。ど修羅場とかタイミング最悪だな」
馬車の扉が開く音がしてすぐ、この場に似つかわしくない陽気な声がした。
「ハルバー侯爵子息様!なぜ、こちらへ⁈」
長男が驚いたように声をあげ、俺の頭から足を上げる。俺も声のした方に顔を向ける。
そこには茶色の短髪に、がっちりとした体躯をした青年が人好きの笑顔を浮かべていた。
久々に見たその顔は記憶の中のものと変わっていなかった。そして俺は無意識に、あいつの姿を探すようにハルバー侯爵子息の周囲に目を向けていた。
「子爵の奥方のリディ殿を迎えにきたんだ。さっき、リディ殿を追い出そうとしてたから問題ないよな?」
「それはもちろんでございます。しかし.そのような者のためハルバー侯爵子息が自ら起こしになられるのか分かりません」
「それは子爵からリディ殿のことを頼まれたからな。息子達はリディを追い出すだろうからって」
「そ、そうですか。リディ。侯爵様にくれぐれも迷惑をかけるんじゃないぞ」
長男は手のひらを返したように、先程までとは正反対な態度になる。権力者に簡単に屈する様子に嫌悪感を覚えつつ、それに乗じ自分の望みを改めて口にする。
「はい。ただ、侯爵子息様に着いていく前に、子爵と最後のお別れをしてもいいですか?」
「それは…」
長男が伺うようにハルバーをみる
「俺は構わないぜ」
ハルバーの鶴の一言で俺の願いは聞き入れられたのだった。
権力を持つ者と、持たざる者の言葉の重みの違いをまざまざと見せつけられた。俺は非力なあの頃と何も変わっていないのだと思い知らされた。
子爵の葬儀は、参列する王侯貴族の関係で明後日の式になるため、参列は諦め棺に入った子爵にお別れを告げた。
俺を助けてくれてありがとう。そして、最後まで秘密を守ってくれてありがとう。と
* * *
揺れる車内で、何となく気まづい雰囲気の中、ハルバーが陽気に爆弾発言をした。
「リディ、でこ大丈夫か?王城に着いたら手当しなきゃな」
「王城⁈ハルバー邸じゃないの…ですか?」
昔の癖で砕けた口調になりかけたのを何とか丁寧に言うと、俺の様子がおかしかったのかハルバーは肩を震わせる。
「リディに敬語使われると変な感じがするから、昔と同じ口調で大丈夫だ」
「あ、ありがとう。それより何で王城に行くんだ?」
「え?それはシャロル…殿下から、そう命令されてるからな」
ハルバーが淡々と告げた名前に胸が高鳴り、甘いフェロモンの香りが記憶から呼び起こされる。首筋の噛み跡がツキツキと痛む。
シャロル…どうして今更?
心の中、声も出さず、密かにあいつに問いかけるが、もちろん答えなんか返ってこない。
何度も忘れたいと思った。その反面、発情期の度に、あいつを思い出して自分を慰めている自分もいて。未練がましく思い続けても、もう戻れはしないのに。
好きだった。背筋をピンと伸ばし凛とした姿勢が。
大好きだった。強さの中に見え隠れする繊細な所が。
愛おしかった。俺の名前を呼んで、愛おしそうに見つめるあいつが。
「リディ…」
記憶の中の懐かしい声に重なるように、名前を呼ばれ現実に引き戻される。発情期が近いせいか、気を抜くとあいつとの思い出に浸っている。そんな自分の浅ましさに辟易していると、ベッドに横たわっている老人がジッと俺を見つめていた。
俺はベッドに腰掛けているので、老人は俺を見上げる形になる。その瞳には非難の色はなく、心配そうな色が浮かんでいた。俺は、彼の不安を和らげるために笑顔を顔を貼り付ける。
「そんな心配しなくても大丈夫ですよ。きっと良くなりますから!」
しわがれた手を両手で握り元気づけるように言う。こうは言ってみたものの、この部屋には他では感じない重苦しい雰囲気が漂っている。それは命の灯火がついえることの予兆のように老人、子爵の体調が悪化するたびに、どんどん重さを増していく。
「私の先行きが長くないのはもう分かっている。心配してるのは残されたお前の今後だ」
「俺のことは大丈夫ですよ。子爵に助けてもらうまで、なんだかんだ一人で生きてきたんですから。だから、なんとかなりますよ」
「そうか。でもリディ。もう一人で抱え込むのは辞めない。信頼できるお方が、お前の面倒を見るとお約束してくれた。だから」
もう頑張らなくていい。それが、子爵の最後の言葉になった。
子爵に朝の挨拶をしようと、ベッドに眠る子爵の顔を見た時、もう返事はもらえないのだと悟った。
穏やかに眠っているように見える子爵の顔は昨晩よりも青白く、ぬくもりは消えていたのだ。
まだまだたくさん話したいこともあった。最後だと知っていたらワガママを言ってでも子爵と一晩過ごしたのに。
* * *
「やめてっ…はなして」
俺の腕を引き大股で歩く男は俺の制止など聞く気がない様子だ。正面玄関に着くと男は外に向かって俺を投げ飛ばす。
「出ていけ!このあばずれが!」
子爵の面影を感じさせる顔を歪め、俺に罵詈雑言を浴びせる。
「出ていくのは構いません。ですが、どうか子爵の最後に立ち合わせてください」
「我が家の評判を地に落としたお前が参加できるはずがないだろ!身の程をわきまえろ!」
「そこをなんとかお願いします」
お世話になった子爵をせめて最後まで見送りたくて、頭を下げる。
「そんなこと言って、本当は我が家の財産を持ち出すことが目的なんだろう?親父を誑かした、あばずれオメガに我が家の財産をやる理由はない!分かったら、ささっと私の目の前から今すぐ消えろ!」
男は仕立てのいい服に身を包み整髪料で整えた髪には白髪が混じっている。瞳は血走り、俺への憎悪と嫌悪がありありと現れていた。子爵の葬儀の準備をしていた所に突如として現れたこの男は、子爵の長男。つまり、この家の後継者だ。子爵が病に伏せてから一度も顔を見せなかった癖に、亡くなったと知るやいなや戻ってきたのだ。
「そんなことは致しません。ただ子爵と最後のお別れをさせてください」
生前の子爵の不安は見事に的中し、俺は着の身着のまま子爵邸を追い出されるはめになった。それは予想していたから仕方ないと思えるが、せめて子爵を見送らせて欲しいと恥をかき捨て土下座で懇願する。
「お前の土下座に何の価値もないだろ?お前が親父と番っていなければ、オメガとして利用価値もあっただろうが。体を使えないあばずれなど、ゴミでしかない」
番のことを言われ、首筋の噛み跡がピリピリと痛んだ気がした。さらに長男は俺の頭を踏みつけ地面に擦りつけるように踏み締める。額が地面にこすれ痛みが走る。でもここで折れたら、後悔する。あの時みたいに、自分の無力さで泣き寝入りするなんて嫌なんだ。痛みに歯を食いしばり頭を下げ続けていると、背後で蹄と馬車の車輪の音が聞こえた。
「うわぁ。ど修羅場とかタイミング最悪だな」
馬車の扉が開く音がしてすぐ、この場に似つかわしくない陽気な声がした。
「ハルバー侯爵子息様!なぜ、こちらへ⁈」
長男が驚いたように声をあげ、俺の頭から足を上げる。俺も声のした方に顔を向ける。
そこには茶色の短髪に、がっちりとした体躯をした青年が人好きの笑顔を浮かべていた。
久々に見たその顔は記憶の中のものと変わっていなかった。そして俺は無意識に、あいつの姿を探すようにハルバー侯爵子息の周囲に目を向けていた。
「子爵の奥方のリディ殿を迎えにきたんだ。さっき、リディ殿を追い出そうとしてたから問題ないよな?」
「それはもちろんでございます。しかし.そのような者のためハルバー侯爵子息が自ら起こしになられるのか分かりません」
「それは子爵からリディ殿のことを頼まれたからな。息子達はリディを追い出すだろうからって」
「そ、そうですか。リディ。侯爵様にくれぐれも迷惑をかけるんじゃないぞ」
長男は手のひらを返したように、先程までとは正反対な態度になる。権力者に簡単に屈する様子に嫌悪感を覚えつつ、それに乗じ自分の望みを改めて口にする。
「はい。ただ、侯爵子息様に着いていく前に、子爵と最後のお別れをしてもいいですか?」
「それは…」
長男が伺うようにハルバーをみる
「俺は構わないぜ」
ハルバーの鶴の一言で俺の願いは聞き入れられたのだった。
権力を持つ者と、持たざる者の言葉の重みの違いをまざまざと見せつけられた。俺は非力なあの頃と何も変わっていないのだと思い知らされた。
子爵の葬儀は、参列する王侯貴族の関係で明後日の式になるため、参列は諦め棺に入った子爵にお別れを告げた。
俺を助けてくれてありがとう。そして、最後まで秘密を守ってくれてありがとう。と
* * *
揺れる車内で、何となく気まづい雰囲気の中、ハルバーが陽気に爆弾発言をした。
「リディ、でこ大丈夫か?王城に着いたら手当しなきゃな」
「王城⁈ハルバー邸じゃないの…ですか?」
昔の癖で砕けた口調になりかけたのを何とか丁寧に言うと、俺の様子がおかしかったのかハルバーは肩を震わせる。
「リディに敬語使われると変な感じがするから、昔と同じ口調で大丈夫だ」
「あ、ありがとう。それより何で王城に行くんだ?」
「え?それはシャロル…殿下から、そう命令されてるからな」
ハルバーが淡々と告げた名前に胸が高鳴り、甘いフェロモンの香りが記憶から呼び起こされる。首筋の噛み跡がツキツキと痛む。
シャロル…どうして今更?
心の中、声も出さず、密かにあいつに問いかけるが、もちろん答えなんか返ってこない。
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