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4章 われても末に

ふたりの決意

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神殿からの帰り道、宿屋に帰るまでの道のりの記憶はぼんやりとしていた。
ラミスカに心配をかけていることを頭では理解してはいても、その道中は安穏の神を助けるための手順を反芻することで頭がいっぱいだった。

ラミスカは「俺が側にいる」とだけ言い、無理にメルルーシェを追求することはなかった。不安を払拭しようとしてくれているラミスカの優しさはありがたく、同時に切なさの影を胸に落とす。


死の神が夢に現れたときも。きっと気まぐれな神のことだし私のことなんて忘れてくれるかも、とそこまで気にしていなかった。神が現れる話は沢山語り継がれていて、神と人の世界は時間の流れも異なる。
根拠はなくても、なんとかラミスカを探して過ごすくらいの時間は、運が良ければ歳を重ねて死ぬまでの時間は自分にはあるのだと、そう思い込んでいた。


その日は沈んだ気持ちとは裏腹にとてもよく眠れた。寝ている間に見た夢を憶えてはいなかったが、朝目覚めた時に温かく懐かしい気持ちの余韻が残っていた。


そのためか気持ちを少し前向きに切り替えることができた。
自分の置かれた状況を可笑しく感じてしまう。
これも心の防衛反応なのだろうか。間近に控える死への恐怖を鈍らせるための。


リエナータなら。幼馴染の気が強く面倒見の良い彼女なら、きっと私の代わりに怒ってくれたのかもしれない。
“そんな事情知りませんし、勝手に解決してちょうだい!”と、箒で掃くように神を追い払ってくれたかもしれない。そうして欲しいと願っている自分が心のどこかにいる。あまりにも不敬な考えを振り払って、隣でまだ眠っているラミスカを見やる。

窓から漏れる日に透けた長い睫毛がふるふると揺れている。夢でも見ているのだろうか。幼い頃の面影を残した輪郭に愛情が込み上げる。

(どう伝えるべきか。)

正直に“死んで宵の国から安穏の神を助けて来いと言われた”などと告げても、“はいそうですか。いってらっしゃい”とはならないだろう。かといってラミスカは嘘などすぐに見破ってしまうだろう。

しばらく寝顔を見つめていると、息を漏らして体を伸ばしながら数回瞬きをした。
微睡んではっきりしない焦点が、目線が混じり合って徐々に覚醒していく。

「…大丈夫か?」

質の悪い枕に顔を半分埋めたまま、掠れた声でつぶやいた。

「えぇ。昨日は心配かけてごめんなさい」

折った腕に頭を預けたまま、少し低い位置にあるラミスカの癖のついた毛に無性に触れたくなって手を伸ばす。指で遊ぶとぼーっとしていたラミスカが一瞬固まって、少し照れたように口を引き結ぶ。

(あぁ、本当に変わっていない。)

身体が大きくなって接し方に戸惑ってばかりだったが、目の前にいるラミスカの仕草が、表情が、自分のよく知るもので愛おしく感じる。

「も~ラミスカったら可愛いんだから」

衝動的に頭を抱え込むように引き寄せてぎゅーっと抱きしめると、抵抗とも言えないような弱い抵抗が返ってくる。

「めっ、メルルーシェ。やめてくれ」

そう言いつつも、しばらく頭を撫でていると、抵抗することをやめてちゃっかりと腰に手を回してきた。ぎゅっと力の入った手に微笑む。

「甘えん坊なのは変わらないわね」

「……心配だ」

ぼそっと胸に吐息がかかる。くすぐったさに少し体勢を変えようとするも、しっかりと抱きしめられていて動けない。


ぽつり、と昨日のことを言葉にしていく。まだ考えはまとまっていなかったが、ラミスカと話すことで考えもまとまるかもしれないと思えた。

「慈愛の神ルフェナンレーヴェ様が神の庭にいらっしゃったの」

神が自身を奉る神殿の庭に訪れる話は昔から語り継がれている。ラミスカもその類の話は知っているだろう。

戦争が間近に迫っていること、そして神の世界の事情。

戦神テオヴァーレが死の神イクフェスと結託して安穏の神テンシアを宵の国に閉じ込めたこと。安穏の神が眠ったままだと災の神ヴェレの封印が維持できないと、慈愛の神ルフェナンレーヴェが現れてメルルーシェに告げたこと。

「神の世界も大変だな」

完全に他人事といった様子でラミスカが感想を述べた。

「神の世界だけじゃないわ。災の神ヴェレが目覚めて一番被害を被るのは私たち人間よ。ルフェナンレーヴェ様はそれを案じていらっしゃった」

「だがなぜわざわざメルルーシェにそんなことを言いにきたんだ?」

もぞもぞと、胸の辺りでラミスカが話すたびに唇が触れてくすぐったい。

「私が、慈愛の神ルフェナンレーヴェ様の娘だと。母の名も知っていたわ」

ラミスカは力を緩めて埋めていた顔を離した。少し言葉を探しているようだった。突拍子もないことを言い出した自覚はあるので、ラミスカが話を飲み込めるのを、整った顔を見つめたまま待った。私に与えられた使命について話すためには必要なことだからだ。

「それが……突然父を名乗る神が現れたことが気落ちしている原因か?
別に神の子でも何ら不思議はないが……」

「いいえ、そうではないの……って、えっ?」

いや不思議でしょう。
突然“私神の子だったんです”と告白して“何ら不思議はない”なんて返事が返ってくるとは予想していなかった。

神妙な顔付きで頷くラミスカが「その方が納得がいく。メルルーシェは女神のようだし、」と真顔で語り出したものだから、あまりの気恥ずかしさに咳払いで遮ってまたラミスカの頭を胸に引き寄せて抱え込む。


幼い頃は同じ色だったはずなのに、自分よりも少し濃くなった色の髪に唇を寄せる。

「気を落としたのは…宵の国へ向かうように仰せつかったからよ」

ラミスカの身体が強張ったのを感じた。肘をついてゆっくりと上半身を持ち上げて深い藍色の瞳がメルルーシェを掴んだ。

「つまり死ねと、言われたのか?」

ラミスカから滲み出た静かな怒りは、メルルーシェを通り越した何かに向けられていた。

「なんと……答えたんだ?」

声が震えないように一度口を引き結ぶ。

「安穏の神がこのまま現れなければ、戦争は広がって人間はまた滅びへと向かう。死んでもあなたを見守ることができるのなら、と引き受けたわ」


「……他にも人間は沢山いる。何故娘だからと、メルルーシェが宵の国へ出向かなければならない?」

慈愛の神ルフェナンレーヴェの言葉が蘇る。

『レーシェはそのために君を身籠った』

「私はそのために母が苦しんで産んだ子。
人間であり、慈愛の神に近い癒しの魔力を持つのが私だけだからよ」

宵の国に入れるだけでは安穏の神を起こし連れ出すことは叶わない。
ラミスカを護るために、と力を身につけてきたのはルフェナンレーヴェの導きがあったのだろう。

慈愛の神が自分の父親であるという神官の妄想じみた創作話が、よもや自分の身に降りかかるとは思ってもみなかった。


****


目の前のメルルーシェは凛と言い放った。

死ぬことを目的に、神を救うために生み出されたと。

(何か言わなければ。)

メルルーシェの言葉の意味が分からない訳ではない。ただ理不尽へのむせ返るような怒りの矛先をメルルーシェに向けるべきではないと理解しているが故に、言葉を探しさまよった。

ふっと表情を緩めたメルルーシェが微笑んだ。

「泣きそうな顔をしないでラミスカ」

「けれど……」

「私はあなたを置いて早々に死ぬつもりはないわ。
今何か策がないか考えているの。あなたの力も貸して欲しい」

淡い紫色の瞳には光が反射して様々な色が写り込んでいる。
悲観した様子もなくメルルーシェは断言した。死ぬつもりはないと。


その決意の言葉は揺らぎなく、眩しかった。
やはり目の前に横たわる美しい女性は人間ではない、とそう思わされた。

神を憎しみ恨んで刃を突き立てた所で未来は変わらない。メルルーシェは暗にそう告げていた。心を侵蝕していた神への憎しみが雪が解けるように薄らぐ。

「分かった。考えよう。死なずに済む方法を。
もし見つからなければ俺も一緒に宵の国へ向かう」

彼女がいない世界で生きていても、虚しいだけだ。


ラミスカの言葉にメルルーシェが眉を下げる。

「それはダメよ。あなたはあなたの人生を生きなければいけないわ」

ラミスカの人生に自分は必要ない、と決めつけるようなメルルーシェの言葉に腹が立った。これだけ伝えていてもまだ分からないのか、と。

上体を起こそうとしたメルルーシェの腕を引っ張って組み敷いた。

宝石よりも美しい瞳と視線が交わって、戸惑ったように口を開いたメルルーシェの唇を奪う。乱暴にならないように、彼女が嫌なことを思い出さないように気をつけながら。

唖然と目を見開いて固まっていたメルルーシェが目を閉じて苦しそうに胸を叩く。

「これでも、まだ分からないか?
俺の人生に絶対に必要なものが」

一気に真っ赤に茹で上がったメルルーシェは、幼い少女のようだった。

「ラ、ラミスカ!!」

怒気を含んだ声で口元を拭いながら、押しのけようとラミスカの胸を叩くメルルーシェに、静かな声で続ける。

「メルルーシェ。俺は前の、混ざり者ニアハと呼ばれていた頃の人生で、神を恨んでいた。比較する対象もいない内は恨みという感情さえもなかった。
何故他の人間たちには当たり前に与えられている、母の愛に満ちた眼差しが自分には与えられないのか、何故溝鼠ドブネズミのように地下に閉じ込められて生きなければならないのかと憤った」

自分を見つめる瞳が揺らぐ。

「けれど偶然か否か、また赤子に戻されて機会を与えられた。
メルルーシェに拾われて沢山のことを学んだ。
出会いをもたらした神には心の底から感謝している。
だから俺からこれ以上奪わないで欲しいんだ。やっと与えられた宝物を」

メルルーシェの額に口付ける。
昔よく寝る前にメルルーシェがしてくれたように。
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