3 / 29
- 3 -
しおりを挟む「ねぇ、リュシーは何処なの? 」
男の姿が視界から消えると同時に女の目からは狂気が消えた。
リュシエンヌの腕に爪を食い込ませるほどに強く握り締めた手がようやく解ける。
それでもまだ視点の定まらない目で室内を見渡し、うめくように呟いた。
「お嬢ちゃまなら子供部屋のベッドの中でお昼寝の最中ですよ、奥様。
大丈夫です。乳母がついていますから何も心配はいりません。
さ、奥様もお休みになってください。
こんなに大声を出されてはお嬢ちゃまが起きてしまいます」
後を追ってきたもののあまりの錯乱状態に声すら出せずに居た下働きの女がそっと歩み寄るとできるだけ穏かに声を掛ける。
「そうなさいな、ユージェニー。
リュシエンヌはお昼寝から起きたらわたくしがあなたの部屋に連れてゆきますから」
「本当? お母様? 」
その言葉に、焦点の定まらない瞳でぼんやりと老婦人の顔を見上げる。
「ええ、約束しますよ。
さ、早くベッドに戻りましょうね。
こんな格好で何時までもいたらまた熱が出てしまうわよ」
まるで小さな子供に言い聞かせるように老婦人はできるだけ穏かに優しく言い聞かせる。
そして促すようにその肩を抱いたまま室内を後にした。
「ありがとう、助かったわ」
その後ろ姿をぼんやりと見送りながらリュシエンヌは機転を利かせてくれた女に礼を言う。
先ほどのあの状態では祖母や自分が何を言っても母は耳を貸さなかったに違いない。
使用人の口から語られる、使用人らしい言葉だからこそ聞き入れたのだ。
「あの程度のことで済むのでしたら、いくらでも……
それよりお嬢様、大丈夫ですか? 」
女はリュシエンヌの腕に、視線を移すと遠慮がちに訊いて来た。
「え? ええ、わたしはなんとも…… 」
僅かに痛む腕を無意識にもう片手で被ったまま、リュシエンヌは虚ろに答える。
母の錯乱は今に始まったことではないが、今日は事の他酷かった。
あんなに取り乱した母を見るのは久しぶりだ。
「なんともじゃ、ありませんよ。
いらしてください、傷を洗って手当てをしませんと。
ここでは水も使えませんから」
「そんなの大げさよ」
何事もなかったことを強調しようと無意識に傷を押さえていた手を放すとぬるりとすべる。
同時に鉄錆臭を含んだ生臭い匂いがかすかに室内に拡散した。
「それにしても、奥様も、あんまりな話ですね。
ご自分の産んだ娘さえわからないなんて。
そのくせ、娘を守ろうと必至になっているのはどうしてなんでしょうね? 」
井戸を取り囲んだ中庭の傍ら雨の振り込まない庇の下で、リュシエンヌの傷口を洗いながら女は首を傾げた。
「……っ、仕方がないのよ。
お母様には時間の感覚がないって言うか、今も昔もごっちゃになってしまっていて判断がつかなくなっているってお医者様が言ってたわ」
桶から勢いよく掛けられた水が傷に染みる刺激に顔を顰めながらリュシエンヌは答える。
「今日はきっとあのときまで記憶が戻ってしまったのよね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
今日の母が探していたのはきっとあの時の小さなリュシエンヌだ。
あの夜、降りしきる雨の中父の館に突然男が押し入ってきた時の、まだ幼かった子供のままの娘の姿を母は探している。
その幼かった娘がこんなに成長していることに母は気付いてもいない。
「わたしは、ここに、いるのにね…… 」
そっと睫を伏せて唇を噛んだ。
「さ、いいですよ。お嬢様」
清潔な亜麻布を細く裂き傷を負った腕に巻きつけると、女はようやく顔をあげた。
「少しお休みになってくださいな。
一応膏薬は塗っておきましたけど、暫く痛むかもしれませんから」
「うん、そうするわ。
ありがとう」
礼を言って建物の中に戻ると、変わらぬ薄暗い闇が視界を覆う。
視界だけではない、心の中まで薄闇に覆われて泣き出したい気分だった。
わかってはいる。
母のあの状態は病のせいだと。
あの時の出来事が、その後の獄中暮らしと言う待遇が、母の心を壊してしまったのだと。
だけど、実の母親に自分が娘であると認めて受け入れてもらえないのは、情けないやら悔しいやらで涙が出てきそうになる。
それを助長するかのように腕の傷が痛んだ。
邸の二階の一室まで来てリュシエンヌは足を止めた。
「おばあさま?
あの…… わたしお部屋に引き取ってもいい? 」
できるだけそっとドアをノックして中の様子を伺い、中にいるはずの老婦人に許可を求めた。
「リュシーなの? 」
返ってきたのは祖母の声ではない明るい華やかな声だ。
「どうしたの?
入っていいわよ。顔を見せて」
先ほどとは打って変わったような穏かな母の声に安堵を覚えながらも、リュシエンヌはそのドアを開けるのを躊躇った。
もし母が先ほどのまま、自分の娘が小さな子供だと思っていたら今の姿のリュシエンヌを目にまた錯乱がぶり返すかも知れない。
ようやく落ち着いた母をこれ以上混乱させたくなくて、リュシエンヌは身震いする。
「構いませんよ。
落ち着きましたから」
促すように室内からするもう一つの声、祖母に言われリュシエンヌはおずおずとドアを開く。
途端に明るい光が目前に広がりリュシエンヌはその場に立ち尽くしたまま暫く目をしばたかせた。
邸の中で居心地のいい位置にあるこの部屋は、唯一窓に高価なガラスが入れられている。
そのため雨の降りしきる日でも鎧戸を閉める必要がなく、戸外の光が存分に入ってくる。
暫くして光に慣れた視界の先に、二つの人影が浮かび上がった。
部屋の壁際に置かれたベッドの傍らには、いつも一緒にいる祖母のもの。
そしてもう一つ。
ベッドの上にはやせ細ったナイトガウン姿の女。
美しかったその顔は見る影もなくそそけだち、蜂蜜色の光を放っていた巻き毛は真っ白に色を変えていた。
かつての母の美貌を知っている人間ならば、思わず目を背けるような信じられないほどの変わりようだ。
「どうしたの?
そんなところに突っ立って、こっちにいらっしゃいな」
日差しの差し込むベッドに横になった母が穏かな笑みを浮かべていた。
その目に先ほどの狂気の色はない。
それを確認してリュシエンヌは安堵の息をこぼした。
「お母様、お加減はいかが? 」
今日、初めて顔を合わせるかのような芝居をしてリュシエンヌはベッドに近付く。
「今日はね、気分がいいのよ。
だから皆でお茶をいただこうと思って、今お願いしたの。
あら、それどうしたの? 」
腕に巻かれた白い包帯を目に女は首を傾げた。
既にそのことを忘れ去っている、と言うよりも自分が娘を傷つけたこと自体が認識にないのだろう。
「これ?
その…… ちょっと馬に乗ってて失敗してしまったの。
大丈夫よ、ホンのかすり傷だから。
平気だって言ってるのに、乳母がこんなに大げさにしちゃったの」
無理に笑みを引っ張り出し、適当に言い繕う。
「仕方のない子ね。
幾つになっても子供なんだから。
もう乗馬の練習はおやめなさいな。
あなたはお父様に似て馬を操るのはもともと上手なんですから、もう練習しなくても充分よ」
薄らと浮かべる笑みはいつものままだ。
「奥様、お茶が入りましたよ」
程なく料理女がお茶と焼き菓子の乗った盆を運び入れてきた。
この古びた邸に不釣合いなガラス張りの窓や、優美な染付けの磁器のティーセットは少しの環境の変化にも敏感に反応してしまう愛娘の為に祖母が無理して買い揃えたものだ。
ただそれは設えだけで精一杯で、中身は実を伴わない。
味や香りどころか色さえ出ない粗悪なお茶に、味のほとんどしない形ばかりの焼き菓子が常だ。
ただその上品な皿の上に今日は、いつもなら見ることのない蜂蜜色の焼き菓子が乗っている。
先ほどの男の手土産なのはひとわかりだ。
「今日いらっしゃったお客様がお持ちくださったんですよ。
お嬢様このケーキ、お好きですもんね」
お茶の給仕をしながら料理女がリュシエンヌの耳もとで囁いた。
リュシエンヌはそっと睫を伏せる。
昔馴染みの男は、人目を避けてひっそりと暮らす自分達家族にずっと気を掛けてくれる。
こうして事あるごとに邸を訪れ、時に色々なものを贈ってくれる。
それもリュシエンヌの喜ぶものばかり。
それなのに今日は、この菓子のお礼も本のお礼すら言えなかった。
それどころか、追い返すような形になってしまって。
やはりお茶になど誘うのではなかった。
無理に引き止めてはいけなかったのかもしれない。
激しい後悔ばかりが頭を巡る。
もし気を悪くしていたらどうしようと、そればかりが気に掛かり、甘いはずの焼き菓子がほろ苦く感じた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
私たちの離婚幸福論
桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】
積み上がった伏線の回収目前!!
夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。
長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
歪で、完全な幸福――それとも、破滅。
“石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
半竜皇女〜父は竜人族の皇帝でした!?〜
侑子
恋愛
小さな村のはずれにあるボロ小屋で、母と二人、貧しく暮らすキアラ。
父がいなくても以前はそこそこ幸せに暮らしていたのだが、横暴な領主から愛人になれと迫られた美しい母がそれを拒否したため、仕事をクビになり、家も追い出されてしまったのだ。
まだ九歳だけれど、人一倍力持ちで頑丈なキアラは、体の弱い母を支えるために森で狩りや採集に励む中、不思議で可愛い魔獣に出会う。
クロと名付けてともに暮らしを良くするために奮闘するが、まるで言葉がわかるかのような行動を見せるクロには、なんだか秘密があるようだ。
その上キアラ自身にも、なにやら出生に秘密があったようで……?
※二章からは、十四歳になった皇女キアラのお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる