その溺愛は青ざめた月の見せる幻影のようで、

弥湖 夕來

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「ねぇ、リュシーは何処なの? 」
 男の姿が視界から消えると同時に女の目からは狂気が消えた。
 リュシエンヌの腕に爪を食い込ませるほどに強く握り締めた手がようやく解ける。
 それでもまだ視点の定まらない目で室内を見渡し、うめくように呟いた。
「お嬢ちゃまなら子供部屋のベッドの中でお昼寝の最中ですよ、奥様。
 大丈夫です。乳母がついていますから何も心配はいりません。
 さ、奥様もお休みになってください。
 こんなに大声を出されてはお嬢ちゃまが起きてしまいます」
 後を追ってきたもののあまりの錯乱状態に声すら出せずに居た下働きの女がそっと歩み寄るとできるだけ穏かに声を掛ける。
「そうなさいな、ユージェニー。
 リュシエンヌはお昼寝から起きたらわたくしがあなたの部屋に連れてゆきますから」
「本当? お母様? 」
 その言葉に、焦点の定まらない瞳でぼんやりと老婦人の顔を見上げる。
「ええ、約束しますよ。
 さ、早くベッドに戻りましょうね。
 こんな格好で何時までもいたらまた熱が出てしまうわよ」
 まるで小さな子供に言い聞かせるように老婦人はできるだけ穏かに優しく言い聞かせる。
 そして促すようにその肩を抱いたまま室内を後にした。
 
「ありがとう、助かったわ」
 その後ろ姿をぼんやりと見送りながらリュシエンヌは機転を利かせてくれた女に礼を言う。
 先ほどのあの状態では祖母や自分が何を言っても母は耳を貸さなかったに違いない。
 使用人の口から語られる、使用人らしい言葉だからこそ聞き入れたのだ。
「あの程度のことで済むのでしたら、いくらでも…… 
 それよりお嬢様、大丈夫ですか? 」
 女はリュシエンヌの腕に、視線を移すと遠慮がちに訊いて来た。
「え? ええ、わたしはなんとも…… 」
 僅かに痛む腕を無意識にもう片手で被ったまま、リュシエンヌは虚ろに答える。
 
 母の錯乱は今に始まったことではないが、今日は事の他酷かった。
 あんなに取り乱した母を見るのは久しぶりだ。
「なんともじゃ、ありませんよ。
 いらしてください、傷を洗って手当てをしませんと。
 ここでは水も使えませんから」
「そんなの大げさよ」
 何事もなかったことを強調しようと無意識に傷を押さえていた手を放すとぬるりとすべる。
 同時に鉄錆臭を含んだ生臭い匂いがかすかに室内に拡散した。
 
「それにしても、奥様も、あんまりな話ですね。
 ご自分の産んだ娘さえわからないなんて。
 そのくせ、娘を守ろうと必至になっているのはどうしてなんでしょうね? 」
 井戸を取り囲んだ中庭の傍ら雨の振り込まない庇の下で、リュシエンヌの傷口を洗いながら女は首を傾げた。
「……っ、仕方がないのよ。
 お母様には時間の感覚がないって言うか、今も昔もごっちゃになってしまっていて判断がつかなくなっているってお医者様が言ってたわ」
 桶から勢いよく掛けられた水が傷に染みる刺激に顔を顰めながらリュシエンヌは答える。
「今日はきっとあのときまで記憶が戻ってしまったのよね」
 自分に言い聞かせるように呟いた。
 
 今日の母が探していたのはきっとあの時の小さなリュシエンヌだ。
 あの夜、降りしきる雨の中父の館に突然男が押し入ってきた時の、まだ幼かった子供のままの娘の姿を母は探している。
 
 その幼かった娘がこんなに成長していることに母は気付いてもいない。
「わたしは、ここに、いるのにね…… 」
 そっと睫を伏せて唇を噛んだ。
「さ、いいですよ。お嬢様」
 清潔な亜麻布を細く裂き傷を負った腕に巻きつけると、女はようやく顔をあげた。
「少しお休みになってくださいな。
 一応膏薬は塗っておきましたけど、暫く痛むかもしれませんから」
「うん、そうするわ。
 ありがとう」
 礼を言って建物の中に戻ると、変わらぬ薄暗い闇が視界を覆う。
 視界だけではない、心の中まで薄闇に覆われて泣き出したい気分だった。
 
 わかってはいる。
 母のあの状態は病のせいだと。
 あの時の出来事が、その後の獄中暮らしと言う待遇が、母の心を壊してしまったのだと。
 だけど、実の母親に自分が娘であると認めて受け入れてもらえないのは、情けないやら悔しいやらで涙が出てきそうになる。
 それを助長するかのように腕の傷が痛んだ。
 
 邸の二階の一室まで来てリュシエンヌは足を止めた。
「おばあさま? 
 あの…… わたしお部屋に引き取ってもいい? 」
 できるだけそっとドアをノックして中の様子を伺い、中にいるはずの老婦人に許可を求めた。
「リュシーなの? 」
 返ってきたのは祖母の声ではない明るい華やかな声だ。
「どうしたの? 
 入っていいわよ。顔を見せて」
 先ほどとは打って変わったような穏かな母の声に安堵を覚えながらも、リュシエンヌはそのドアを開けるのを躊躇った。
 もし母が先ほどのまま、自分の娘が小さな子供だと思っていたら今の姿のリュシエンヌを目にまた錯乱がぶり返すかも知れない。
 ようやく落ち着いた母をこれ以上混乱させたくなくて、リュシエンヌは身震いする。
 
「構いませんよ。
 落ち着きましたから」
 促すように室内からするもう一つの声、祖母に言われリュシエンヌはおずおずとドアを開く。
 途端に明るい光が目前に広がりリュシエンヌはその場に立ち尽くしたまま暫く目をしばたかせた。
 邸の中で居心地のいい位置にあるこの部屋は、唯一窓に高価なガラスが入れられている。
 そのため雨の降りしきる日でも鎧戸を閉める必要がなく、戸外の光が存分に入ってくる。
 暫くして光に慣れた視界の先に、二つの人影が浮かび上がった。
 部屋の壁際に置かれたベッドの傍らには、いつも一緒にいる祖母のもの。
 そしてもう一つ。
 ベッドの上にはやせ細ったナイトガウン姿の女。
 美しかったその顔は見る影もなくそそけだち、蜂蜜色の光を放っていた巻き毛は真っ白に色を変えていた。
 かつての母の美貌を知っている人間ならば、思わず目を背けるような信じられないほどの変わりようだ。
「どうしたの? 
 そんなところに突っ立って、こっちにいらっしゃいな」
 日差しの差し込むベッドに横になった母が穏かな笑みを浮かべていた。
 その目に先ほどの狂気の色はない。
 それを確認してリュシエンヌは安堵の息をこぼした。
「お母様、お加減はいかが? 」
 今日、初めて顔を合わせるかのような芝居をしてリュシエンヌはベッドに近付く。
「今日はね、気分がいいのよ。
 だから皆でお茶をいただこうと思って、今お願いしたの。
 あら、それどうしたの? 」
 腕に巻かれた白い包帯を目に女は首を傾げた。
 既にそのことを忘れ去っている、と言うよりも自分が娘を傷つけたこと自体が認識にないのだろう。
「これ? 
 その…… ちょっと馬に乗ってて失敗してしまったの。
 大丈夫よ、ホンのかすり傷だから。
 平気だって言ってるのに、乳母がこんなに大げさにしちゃったの」
 無理に笑みを引っ張り出し、適当に言い繕う。
「仕方のない子ね。
 幾つになっても子供なんだから。
 もう乗馬の練習はおやめなさいな。
 あなたはお父様に似て馬を操るのはもともと上手なんですから、もう練習しなくても充分よ」
 薄らと浮かべる笑みはいつものままだ。
「奥様、お茶が入りましたよ」
 程なく料理女がお茶と焼き菓子の乗った盆を運び入れてきた。
 この古びた邸に不釣合いなガラス張りの窓や、優美な染付けの磁器のティーセットは少しの環境の変化にも敏感に反応してしまう愛娘の為に祖母が無理して買い揃えたものだ。
 ただそれは設えだけで精一杯で、中身は実を伴わない。
 味や香りどころか色さえ出ない粗悪なお茶に、味のほとんどしない形ばかりの焼き菓子が常だ。
 ただその上品な皿の上に今日は、いつもなら見ることのない蜂蜜色の焼き菓子が乗っている。
 先ほどの男の手土産なのはひとわかりだ。
 
「今日いらっしゃったお客様がお持ちくださったんですよ。
 お嬢様このケーキ、お好きですもんね」
 お茶の給仕をしながら料理女がリュシエンヌの耳もとで囁いた。
 リュシエンヌはそっと睫を伏せる。
 昔馴染みの男は、人目を避けてひっそりと暮らす自分達家族にずっと気を掛けてくれる。
 こうして事あるごとに邸を訪れ、時に色々なものを贈ってくれる。
 それもリュシエンヌの喜ぶものばかり。
 それなのに今日は、この菓子のお礼も本のお礼すら言えなかった。
 それどころか、追い返すような形になってしまって。
 やはりお茶になど誘うのではなかった。
 無理に引き止めてはいけなかったのかもしれない。
 激しい後悔ばかりが頭を巡る。
 もし気を悪くしていたらどうしようと、そればかりが気に掛かり、甘いはずの焼き菓子がほろ苦く感じた。
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