その溺愛は青ざめた月の見せる幻影のようで、

弥湖 夕來

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「ごめんなさいね。
 飼葉どころか敷き藁も何にもなくて」
 人気どころか馬の姿も全くない厩の一角に男の乗ってきた馬を入れ、リュシエンヌは顔を曇らせた。
 この厩から馬の姿が消えて久しい。
 馬丁を解雇した時、老婦人は「女手だけで馬の面倒は見られないから」と馬も手放してしまった。
 故に降りしきる雨の中人間を乗せてここまで運んできてくれた馬をねぎらうものも何一つなかった。
 馬への謝罪とねぎらいを兼ねて、軽く首を叩いてやると馬は「わかっている」とでも言いたいように軽く鼻を鳴らした。
「じゃ、少しだけ待っていてね」
 かろうじて残っていた桶に水を汲み、馬の口の届くところにおいて、リュシエンヌはもう一度馬に声を掛けた。
 そして馬をその場に残し先ほどまで居た部屋に向かって駆け出した。
 
 もし祖母に見られたりしたらまたお小言を貰うのはわかっていたが、少しでも早くそして少しでも長く客人と会話をしたい。
 そう思うと優雅に歩いてなどいられなかった。
 来客は久しぶりだ。
 特にこれから雨季の間ほぼ一ヶ月、門戸を閉ざすこの館にとっては最後の客人だ。
 その思い出が少しでも残れば、長い退屈な雨季の間あの忌まわしい記憶が顔を出す頻度が多少は減るはずだ。
 エントランスホールを駆け抜け階段を駆け上がる。
 薄暗い廊下の先にある先ほどまで居た部屋のドアにたどり着くとノックをするのももどかしくノブに手を掛け軽く息を整える。
「……それで、奥方様、レディ・クローディオのご様子は? 」
「相変わらずですわ。
 お天気の良い日にはそれなりに正気を保っていますが、雨季に入るとどうしても…… 
 ……ええ。それでも悪くならないだけはいいと考えなければいけないかも知れませんね。一時のように私共家族の顔さえもわからなくなるようではないだけは」
「すみません。私の力が足りなかったばかりに…… 」
「いいえ。伯爵はとてもよくしていただいています。
 こうして今でもまだ世間に見捨てられたわたくし共を気にかけて下さって。本当に何とお礼を申したら良いか」
「私は当然のことをしているだけに過ぎませんよ」
「そう言って下さると、助かります。
 でも、どんなによくして頂いてもわたくし共にはもうお返しすべき力さえないことが口惜しいですが」
 細く開いていたドアの隙間から決まりきった会話と祖母の深いため息が漏れていた。
 このじっとりと湿り気を帯びた空気のせいなのか、それとも鎧戸を閉ざしたことによる暗闇のせいなのか、そのため息がまるで奈落の底から湧いてきた魔物がついたもののように感じられ、リュシエンヌは軽く身震いした。
 それでも、この場を立ち去る気にはなれなくて、リュシエンヌはその重苦しい空気を振り払うように勢いよくドアを開けた。
 今を逃したら、今度は何時この男とお茶のテーブルを囲むことができるかわからない。
 それだけで先ほど感じたかすかな恐怖など消え去ってしまう。
「まぁ、なんですかリュシエンヌ。
 ノックもしないで。
 無作法にも程がありますよ」
 途端に飛んでくる祖母の厳しい視線と声。
 こうなることはわかっていたはずなのに思わず弾んでしまった気持ちに忘れてしまった。
「ごめんなさい」
 リュシエンヌは首を竦めて小さく謝る。
 視線の先で老婦人はテーブルの片隅に置かれていた何かを慌てて袖の下にしまいこむのが目に入った。
 隠さなくてもわかっている、男がこうしてこの館に出向いてくる目的はこれなのだ。
 リュシエンヌは気付かぬ顔をして何気に視線を逸らせた。
 
「本当にもう、幾つになっても子供でお恥ずかしいですわ」
 老婦人は困惑気味に眉を顰める。
「叱らないであげてください。
 リュシエンヌはこれが待ちきれなかったんだと思いますよ」
 庇うように男は言って、目の前にあるテーブルの上に置かれたティーセットの隣から凝った装丁の本を取り上げた。
「どうぞ、姫君。
 先日お約束していた歴史書の続きです」
「ありがとう、伯爵様。
約束、忘れないでいてくれたのね」
 独特な青灰色に染められた革に侯爵家の紋章をエンボスされた豪華な本を目の前にしてリュシエンヌははしゃいだ声をあげた。
 焼き菓子も嬉しかったが、二・三年前からはこの方が嬉しい。
 先ほどの会話の流れでは以前顔を合わせた時にしたこの約束を男はてっきり忘れてしまっているのではと思いかけていたから嬉しさもひとしおだ。
 
「そんな高価な物を。
 また、この子はご無理なお願いをして! 
 本当に重ね重ね…… 」
 老婦人は困惑気味に眉根を寄せた。
「お気になさらないで下さい。
 我が家の書庫にしまいこまれているものをお貸しするだけなんですから。
 向学心の高いことは叱られることではないと思いますよ」
「伯爵がそう言って下さるのなら、仕方がありませんわね。
 本当にこの子は誰に似たのかしら。
 女だというのに、おとなしく座って針を動かすのは嫌いで、代わりに戸外を駆け回ったり馬を乗り回したり本を読むのに夢中になったり。
 少なくとも娘の血ではありませんわ」
 眉根を寄せたまま、老婦人は目の前の男に訴えるように呟いた。
「そうですね。
 どちらかというとクローディオ王家の血でしょうか? 
 ですがこの知識欲はかつて宰相として名を馳せたこともあるシャルタン家から受け継いだものだと思いますよ。
 このくらいの女性の方が私は好きですよ」
 男の目が穏かな色を浮かべて少女に向けられた。
 普段とは違う慈しむような表情に、リュシエンヌの胸がとくんと大きく高鳴った。
 おおらかで優しいこの顔を見ると、何時までも見ていたくなってしまう。
「ありがとう、伯爵様。
 大好きよ! 」
 祖母にはいつも眉を顰められる悪癖をそう言ってもらえるのが嬉しくて、少女は男に抱きついた。
「ですから、リュシエンヌ。
 もう、子供ではないのですからそのような言動はおよしなさいとあれほど言っているのに」
 老婦人の眉がまたあからさまに上がる。
「そうだね、さすがにそろそろ止めたほうが良くないか? 」
 戸惑った男の声に不安を感じリュシエンヌは男の躯に廻した腕を解いて恐る恐る見上げた。
 男の顔には声同様に戸惑いの表情が見て取れる。
「ごめんなさい…… 」
 何か凄く悪いことをしてしまったような気がして、リュシエンヌはうなだれた。
 
「ですから、奥様! 
 そちらのお部屋には今、誰も近付くなと大奥様からのご命令ですからっ! 」
 不意に廊下の向こう側から慌てた女の声が響く。
「そんなことがあるものですか。
 ここはわたくしの家ですもの。
 わたくしに隠すような秘密はなくってよ」
 どこか少女を思わせる明るく華やかな声がはしゃいでいる。
 その声にリュシエンヌと老婦人は引きつらせた表情で顔を見合わせた。
「本当に、お待ちください。
 わたしが先にお伺いしてきますから。
 でないとお言いつけをやぶってとわたしが叱られてしまいます」
 慌てふためく下働きの女の声に続く。
 一見もう一人の声の主を引き止めているように聞えるその言葉は明らかにこちらに向けられていた。
「まぁ、どうしましょう。
 この時間にはあの子は午睡のはずなのに、今日に限って…… 」
 青ざめた顔で老婦人がうろたえる。
 
「……そろそろ私は失礼したほうがよさそうだね」
 男は慌てて立ち上がると傍らに置いてあった革の手袋を取り上げながら周囲を見渡した。
 ただ、間の悪いことにその部屋には正面のドアがあるだけだ。
 身を隠せる続き間どころか大きな家具さえない。
 かといって二階のここから窓から出て欲しいとお願いすることもできず、リュシエンヌの顔も青ざめる。
 同時にさっきリュシエンヌがしたのと同じようにノックもなしにドアが開かれた。
「お母様、お客さまな……の……  」
 瞬時に室内の空気が凍りつき、誰もが一瞬動きを止めた。
「い…… いやぁああああああ! 」
 次いでそれを破るように上がる女の大きな悲鳴。
 壁に切り取られた出入り口の闇の中に浮かび上がる亡霊のような白い影があげる声は耳を劈くほどの音で邸の中全体の空気を震わせた。
「あ、なた。
 リュシーを連れに来たのねっ! 
 嫌よ! 
 娘は誰にも渡さないわ」
 白いナイトガウンにこぼれる白い髪を振り乱し、亡霊のような人影は怒りを隠そうともせずに視線を目の前に立ち尽くした男に向けた。
「何を言っているの、ユージェニー。
 伯爵様ですよ」
 既に錯乱をはじめている人影を混乱させまいとするかのように、老婦人ができるだけ穏かな声で話し掛けながら人影に近付いた。
 引き止められることを察知してだろう、影は部屋の中に駆け込んでくる。
 明り取りの窓から僅かに差し込む光に年嵩の女の姿が浮かび上がった。
「お願いよ。
 リュシーだけは連れて行かないでっ! 
 わたくしの娘よ、わたくしだけの。
 父親はいません、私だけの娘なの。
 リュシエンヌだけは渡さないわ」
 霜を置いたような白髪の巻き毛を振り乱し、女は半狂乱になって叫び声にも似た声で訴える。
「しっかりなさい、ユージェニー! 
 わからないの? 
 この方は伯爵様よ。
 リュシエンヌを連れて行ったりしないわ」
 今にも男に飛び掛りそうな様子の女の背中に回りその肩を抱き寄せて婦人が言い聞かせる。
「放して、お母様! 
 でないとリュシーを連れて行かれてしまうわ。
 お母様は孫娘が可愛くはないの? 」
 女は老婦人の腕から抜け出そうとその肩をよじり、今度はその顔を睨みつける。
「……そうよね。
 犯罪人の子供など、お母様にとっては孫でも何でもないのでしょう。
 でも、わたくしの娘なのっ! 
 お母様になんていわれたって、わたくしはっ…… 
 リュシー? 
 リュシエンヌ、何処にいるの? 」
 次いで女の視線は何かを探すように部屋の中を彷徨った。
 ただ目的の物を見出せなかったのか不意にその瞳が狂気の色を増す。
「ねぇ? リュシーは何処なの? 」
 焦点の定まらない目で肩を押さえつける老婦人の顔を見上げるとポツリと呟いた。
「お母様、わたしならここよ」
 リュシエンヌは慌てて女の傍らに駆け寄ると、できるだけ刺激しないように穏かに話し掛けた。

 ゆっくりと女の視線がリュシエンヌに注がれる。
 そして女は妙にいびつな笑みを浮かべた。
「……騙そうなんて思っても駄目よ。
 このメイド風情がっ!
 リュシーはまだ五歳になったばかりなの。
 あんたみたいな薄汚れた小娘がわたくしのリュシエンヌの筈がないわ。
 いいから早くリュシーを返しなさいっ! 」
 叫び声をあげながら女はリュシエンヌの腕に掴みかかる。
 女の爪が皮膚に食い込んだのはその直後だ。
 
「お願い、伯爵様。
 申し訳ありませんけど、今日はもうお帰りに、なって」
 腕に食い込む爪の痛さに顔を顰めながらリュシエンヌはなすすべもなくその場に立ち尽くした男に声を掛けた。
 目の前の少女に危害を加えている女を押さえ込むことなど、男の腕力を持ってすれば造作もないことだ。
 だが男は敢えてそれをしない。
 この半ば老婆のような容貌の女が自分の認知しない男に躯を押さえつけられたりしたら、それこそどうなるのかをわかりきっているからだ。
 
「大丈夫かい? 」
 男は確認するように老婦人とリュシエンヌに視線を送る。
 二人は黙って頷いた。
「じゃ、悪いけど…… 
 私は引き取らせていただくよ。
 見送りは結構。馬はいつもの場所だね? 」
 もう一度リュシエンヌに向き直ると男は確認するように言って部屋を出ていった。
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