4 / 29
- 4 -
しおりを挟む何処からか吹き込んでくるかすかな風に蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる。
その僅かなあかりを頼りにリュシエンヌはベッドの中をのぞき込んだ。
揺れる炎に枕に頭を預けた、その顔がかすかに白く浮かび上がる。
そそけだった頬に眼窩が落ち窪んだみすぼらしい顔だが、長い睫と通った鼻筋が、皆が口をそろえて言うかつての美しさの名残を止めている。
かすかな寝息を立てている母の顔は無垢そのものだ。
きっと昔の幸せだった頃の夢でも見ているのかも知れない。
暫くその顔を覗き込んだ後、リュシエンヌはできるだけ物音を立てないように気を配りながら、そっと立ち上がると部屋を出る。
すっかり暗くなってしまった廊下を燭台のちいさな灯りだけを頼りに歩き出す。
闇の中にかすかな靴音が響き渡った。
使用人達の使う裏階段の手前まで来ると、その音を聞きつけたかのように突然、灯りの漏れた部屋のドアが開いた。
「どうですか? 奥様の様子は」
昼間側にいて事の一部始終を知っていた料理女と下働きの女が首を揃えて訊いてくる。
「ありがとう。今日は落ち着いたみたい。
こんなに遅くまでごめんなさいね。
明日も早いんだから、休んでもらってよかったのに」
きっと心配で寝付けなかったのだろう二人の使用人にねぎらいの言葉をかけた。
「あたしらなら平気ですよ。
それより、おなか空いてませんか? お持ちくださいな」
下働きの女が、今日伯爵が届けてくれた本と共に小さな包みを差し出した。
清潔な麻の包みの中からは、今日お茶の時間に出てきた焼き菓子の香りがかすかに漂い鼻をくすぐる。
蜂蜜とバターをたっぷり練りこんで焼き上げたハニーケーキは大好物だ。
はしたないとわかっていながらも思わず咽が鳴りそうになったところをリュシエンヌはかろうじて押さえ込んだ。
「これ……
良かったら小母さん達でどうぞ。
わたしはお茶の時にいただいているから」
普段良くしてくれる女達をねぎらいたくて、少女は渡された包みを押し返した。
「あたし達は良いんですよ。
ちゃんとご相伴に預かっているんだから。
それよりお嬢様がきちんと食べてやってくださいよ。
あの伯爵様がお嬢様にってわざわざ持ってくるのに、いつでも奥様に差し上げてしまって、ご自分はほとんどお口になさらないじゃないですか」
「お母様には少しでも滋養のつく物を食べていただきたいもの」
リュシエンヌはかすかに笑みを浮かべた。
「そう言うお嬢様もですよ。
まだまだ育ち盛りなんですから、たまにはご自分のお口に入れてください。
それじゃ、伯爵様も気の毒じゃありませんか」
差し出された包みをもう一度リュシエンヌの手に押し込めると女はその背中を押し、手早くドアを閉めた。
これ以上ここにいると、せっかくリュシエンヌの為に取り分けておいた菓子が無駄になると踏んだのだろう。
「ありがとう。
じゃ、貰っていくね」
女の心遣いに感謝しドア越しに声を掛けると、リュシエンヌはその場所を離れた。
裏階段へ足を進めその狭い階段を登ると、屋根裏に出る。
階段と同じく、人一人ようやく通りぬけられるような細い通路の片側に、その昔この邸に使用人が溢れていた時に寝起きしていた粗末なしつらえの部屋がいくつか並んでいる。
今は使用人の数が極端に少なくなってしまったのと、何時発作を起こすかわからない病人の対応にと、階下の一室に寝泊りしてもらっているのでこのフロアはほぼ無人だ。
そんな人気のないフロアの一角にリュシエンヌの使う子供部屋はあった。
昔かたぎの祖母は十五才になるまでは子供は子供部屋を使うものだと決め付けて、未だに階下の部屋を用意してはくれなかった。
狭い通路の一番手前のドアの隙間からかすかに灯りがこぼれいるのを見つけリュシエンヌは思わず息を呑んだ。
普段ならありえない光景に途端に鼓動が早まる。
誰もいないこの階では自分が戻って灯を入れなければ灯りなど燈るはずがない。
逸る気持ちを押さえて足早に駆け寄ると、ドアを開いた。
天井が低く今にも押しつぶされそうな雰囲気の室内に置かれた小さなベッドの上に、ほっそりとした若い男の背中があった。
「ジュリアスお兄様! 」
それだけ言って後の言葉が出てこない。
「随分と今夜は遅かったね」
癖のない長い金色の髪が揺れると、年の頃二十歳そこそこの男がゆっくりと振り返る。
「何時の間にいらっしゃっていたの? 」
めったにない男の訪れに嬉しさを隠せずに、リュシエンヌの顔が綻んだ。
「まだ、ついさっきだよ。
リュシーはてっきりもう眠ってしまっていると思っていたのに、まだベッドにも入っていないなんて」
男は呆れたようにため息を漏らす。
「お母上の具合、そんなに悪い? 」
リュシエンヌの腕に巻かれた包帯を目にあったことをおおよそ察したのか、整った男の顔が気の毒そうに歪められた。
「ええ、今日は少し……
あ、気にしないで。
雨季にはいつものことだから。
いつも以上に悪くなったわけじゃないのよ」
うっかり頷いてしまい慌てて言い繕う。
「そう。なら、良かった。
僕にとっても大事な叔母君だからね、お見舞いには伺えないけど気にしているよ」
男の表情が少し緩む。
「ありがとう、お兄様」
誰よりも多忙なはずのこの男にそう言ってもらえることがリュシエンヌの一番の慰めになる。
「……おいで」
男はベッドの端に腰を降ろしたまま、手招きする。
「こっちにきて、よく顔を見せて」
言われるままにリュシエンヌは男の隣に腰を降ろした。
ベッドサイドに置いてあるチェストの上で焚かれた蝋燭の炎が少女の顔を明々と照らし出した。
「また綺麗になったね、僕の従姉妹姫は」
リュシエンヌの華奢な躯を抱きしめると、男は耳もとで囁いてその咲き初むる花弁のような唇に軽くキスする。
「嘘ばっかり」
それがお世辞だとわかっていても、この男の口から言われるとやっぱり嬉しくてリュシエンヌはかすかに頬を染めた。
「お兄様の周りには綺麗な女性が沢山いるはずだわ」
幼かった頃、まだ健在だった父に連れられて行ったこの男の住まいには華やかに着飾った女性が沢山いたことを今も覚えている。
それに対して自分は、ひそかに自信が持てる母親譲りの金色の巻き毛以外見るところがない。年齢の割に小さくてやせっぽちで目ばかりが大きい。
あの時見た女性達のように着飾れば少しは見られるものになるのかも知れないが、いかんせん着古して古びたドレスではどうにもならない。
「誰だい? 君にそんなことを教えたのは」
男が苦笑いを浮かべた。
「嘘は言ってないよ。
それに君はこれから、もっと綺麗になる。
あそこにいる女狐なんか足元にも及ばないほどにね。
僕が保証する。
何しろ君はあの叔母上の娘なんだし」
耳もとで呟いてジュリアスはもう一度顔を寄せるとリュシエンヌの唇を軽く啄ばむ。
その熱がくすぐったくて心地よくて、リュシエンヌは口をつぐんだ。
忘れるほど時折しか会えないけど、そのたびにこうして温もりをくれる優しくて美しい姿の従兄弟をこれ以上困らせて嫌われたくない。
「どうか、した? 」
急に押し黙ってしまった少女の顔を男が心配顔で覗き込んできた。
向けられたその整いすぎるほどに整った容姿から暫く目が放せない。
無意識に七つ年上だった長兄と同じ年のこの従兄弟の顔を照らし合わせる。
子供の頃から思っていたが、半分は同じ血を引いているはずなのに見事な蜂蜜色の髪以外、似通ったところが全くないのが不思議だった。
それが今でも全く変わらないと思う。
「なんて顔をしてるんだい? 」
男の顔が綻ぶ。
「夢じゃないのかなって、思って。
以前にお会いしてからもう八ヶ月も経つのだもの。
お兄様はわたしのことなんてもう忘れてしまったのかと思っていたの」
だけどそれを口に出すのは酷く申し訳ない気がして、少女は言い訳を別の方向から引っ張り出す。
「ごめん。
僕だって本当はもう少し頻繁にリュシーの顔を見たいと思っているよ。
ただ、ここじゃ少しどころかかなり遠い」
リュシエンヌはその言葉に黙って頷く。
ここリュシエンヌの暮らす祖母の館は国境沿いにあり、ジュリアスの暮らす王都とはかけ離れすぎていた。
「それで、リュシーは僕に忘れられたと思ったから、他の男に鞍替えしたわけだ」
ジュリアスは距離を詰めると、リュシエンヌが抱えたままになっていた腕の中の本を取り上げ、気に入らなさそうに返す返す眺める。
「これ、テニエ伯爵家の蔵書だろ?
そんなに大事に抱えて、この本面白かった?
それとも、好きな人からの贈り物だから大事なのかな? 」
嫌味たっぷりに訊いてくる。
貴族の私蔵本にはほとんどその家の紋章が入っている。
もしくはその凝った装丁から何処の蔵書かひとわかりだ。
リュシエンヌの抱えてきたその本が明らかにこの家の蔵書ではないことを察し、男の顔が不機嫌そうに歪む。
「今日、お借りしたの。
だからまだ読んでなくて……
少し勉強しようと思ったのだけど、おじいさまの蔵書はわたしには難しくてほとんどわからないから。
無理にお願いして貸していただいているの」
言い訳しても意味はないと知りつつも言い繕う。
これ以上この男の整った顔が不機嫌になるのは見たくない。
「……ふうん、そう言うこと。
でも、君が学ばなければいけないことは国史じゃなくて、他にあるんじゃないかな?
女性はね、普通こんなところまで知らなくていいんだよ」
いかにも気に入らないと言った口調で言うと、手にしていた本を乱暴に傍らのチェストの上に投げ置いた。
その拍子に傍らに置かれた蝋燭の炎が男の腕を照らし出す。
細身ながらも無駄な贅肉の全くない鍛え上げられた筋肉を覆う皮膚に無数の引っ掻き傷が浮かび上がった。
「お兄様! それ、どうなさったの? 」
「え? ああ、これ?
さっきそこの壁をよじ登るのに蔦に引っ掛けた。
ただのかすり傷だからね、心配しなくていいよ」
生々しい傷を少女の視線から隠そうともせずに男は言って、まだ血の滲んだ傷口に舌を這わせた。
「待っていて、今手当てを…… 」
「心配しなくていいって言ってるだろう! 」
傷口を洗う水を汲みにいくつもりで慌てて部屋を出ようとしたリュシエンヌの腕が男に捕えられ引きとめられた。
「あの蔦、昔はここまで登る足がかりに便利だったんだけどな。
少し伸びすぎたね。
……切ってしまおうか? 」
忌々しそうに男が呟く同時にその表情が歪む。
「お兄様? 」
見たことのないその顔にリュシエンヌは不気味なものを感じて、瞳を揺らした。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた
しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。
すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。
早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。
この案に王太子の返事は?
王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。
三年目の離婚から始まる二度目の人生
あい
恋愛
三年子ができなければ、無条件で離婚できる――王国の制度。
三年目の夜、オーレリアは自らその条文を使い、公爵ルートヴィッヒに離婚を告げた。
理由はただ一つ。
“飾り”として生きるのをやめ、自分の手で商いをしたいから。
女性が公の場で立てる服を作るため、彼女は屋敷を去り、仕立て屋〈オーレリア・テイラーズ〉を開く。
店は順調に軌道に乗り、ついに王女の式典衣装を任されることに。
だが、その夜――激しい雨の中、彼女は馬車事故に遭い命を落とす。
(あと少し早く始めていたら、もっと夢を叶えられたのに……)
そう思った瞬間、目を覚ますと――三年前、ルートヴィッヒと結婚する前の世界に戻っていた。
これは、“三年目の離婚”から始まる、二度目の人生。
今度こそ、自分の人生を選び取るために。
ーーー
不定期更新になります。
全45話前後で完結予定です、よろしくお願いします🙇
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる