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子守歌は夜明けまで続く9
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「苑君ったら顔色が悪いわねぇ・・・」
開口一番、美恵子はそう言って困った顔をした。
「やだねぇ、死にかけのアタシよりよっぽど倒れそうな顔してるじゃないの」
豪快に笑い、八雲の背中をバシバシと叩く。"死にかけ”などという笑えないジョークに八雲は苦笑いを浮かべる他ない。
一目見て言われる程だとは思わなかったにしろ、顔色が優れない理由には心あたりがあった。ほとんど寝ていないからだ。
昨夜は日付が変わる少し前まで一臣を待っていたが、結局諦めて家に帰った。一人で過ごすにはあの家は広すぎて、時計の音ばかりが耳について・・・堪えられなかった。
その癖帰ってからも気になって仕方がなくて、一臣から連絡があるのではとずっと携帯を手元から離さなかった。枕元に携帯を置いて待つなんて、いったい何処の乙女なんだと我ながら呆れてしまった。
花那の写真に懺悔もした。一臣とは距離を置いて花那への償いのために生きていく・・・そうすべきだと思いながら、結局少しも実践できていないからだ。
一臣への気持ちが抑えられず、どう足掻いても離れられそうにない。昨夜鉢合わせたことでそれを強く実感する羽目になった。
別れれば、一臣にはきっとすぐに新しい恋人が出来るのだろう。八雲ではない他の誰かが一臣に触れるのだ。昨夜の見目麗しい青年のように。
「それは嫌だなぁ・・・」
「あら、何が? 粒あん嫌い?」
思わず声に出してしまい、美恵子に突っ込まれてしまった。
美恵子が勧めたどらやきが嫌だったのかと尋ねられ、慌てて否定する。
美恵子は相変わらず食欲旺盛なようだった。知り合いと言う知り合いに見舞い品としておやつを強請り、それをよく八雲にも分けてくれる。
元気そうに見えるのが常だが、時折激しい痛みに襲われ苦しんでいるというのは看護師から聞かされた。八雲を含め、誰かが見舞いに来ている時にはそんなことは臆面にも出さない。美恵子は何処までも強い人だと思った。
「さてと、そろそろ仕事に戻りますね。洗濯物はまた夕方にでも取りに来ますから」
美恵子の傍らにある時計を見やり、八雲は言った。休憩時間はそろそろ終わりだ。
院内にある託児所で勤めることになったことは、西浄から誘いがあった時に美恵子にもすぐに伝えた。初めは自分の為に無理をするのは駄目だと反対されたが、これが八雲のやりたいようにしている結果なのだと懇々と伝えて納得して貰えた。こうして美恵子の身の回りの世話をするのは、花那への償いのため以上に八雲自身が美恵子の傍にいたいからでもあるのだ。美恵子は八雲にとって本当の母親のような存在なのだから。
「ありがとう。仕事、しっかり頑張んなさいね」
美恵子は力強く八雲の背を叩いた。
仕事に戻る道すがら、八雲はポケットから携帯を取り出した。病棟から託児所までの間のちょっとした中庭。ここなら携帯を使っていいはずだ。
電源を入れると、着信の知らせがあった。一臣からだ。今日はこれで3度目になる。八雲はすぐに折り返すため一臣の番号を押した。
一度目は朝、一臣は仕事前だったのだろう。八雲は電車に乗っていて出られなかった。駅に着いてからかけ直したが、きっと既に仕事中だったであろう一臣には繋がらなかった。
病院に着いてからは八雲は携帯の電源を切っているので、一臣からの電話に出ることが出来ない。合間を縫って折り返しても、今度は一臣が出ない・・・ちょっとしたすれ違いになっていた。
一臣は面倒がってプライベートではあまりメールやLINEを使わないので、向こうからの連絡手段は電話がほとんどだ。八雲からメールをすれば返信がくるのだろうが、仕事のことも伝えておかなければならないし、出来れば直接声を聞いて話がしたい。・・・本音を言えば、昨夜のことをそれとなく聞きたいというのも理由の一つだ。
一臣はあの後、朝までずっとあの青年と過ごしたのだろうか。もしあっさり認められてしまったらどうしようか。浮気者と罵るような性分でもないし、平気な振りをして受け流すしかないんだろうか・・・。
(うーん・・・出ないか)
八雲は空を仰いでゆっくりと息を吸う。そしてようやく呼び出し音を鳴らし続けることを諦めるのだった。
(また行き違いか・・・)
靴を履きながら携帯電話の画面表示を見やり、一臣は舌打ちをした。着信1件・・・八雲からだ。
遅々として原稿の進まない担当作家の尻を叩きに来ていたのだが、その間携帯をサイレントにしていた所為で着信に気付けなかった。他の作家ならばただのマナーモードにするのだが、今日の相手はバイブの音にすら怯える、デリケートな小動物並の小心者だ。
「・・・」
一臣がドアノブに手をかけようとしたところで勝手に扉が開き、見覚えのある顔が現れた。確かこの家の隣人のはずだ。
何でもない振りを装おうとしているようだが、残念ながら一臣を見るなり顔が強張っていたのは見逃せなかった。
「あ・・えっと・・お仕事中ッスよね~。俺、出直して・・・」
青年は引き攣り切った作り笑顔で後ずさりしている。
(ったく、面倒臭ぇな・・・)
一臣は内心で舌打ちをした。
どういう理由で警戒されているのかは粗方予想がついているが、お門違いもいいところだ。作家自身の色恋沙汰など興味もないし、まして巻き込まれるなど御免被る。どうぞ好きにしてくれと言ったところだ。
「見ての通り、打ち合わせはとっくに終わって帰るところなんだが?」
愛想を振りまく必要性も感じないので素っ気なく言い、顎を杓って中に入るよう促した。
「あ、ハイ。お邪魔します・・・」
青年は苦い顔をして頭を下げる。何を萎縮しているのか、妙にぎこちない所作で一臣と入れ違いに玄関に足を踏み入れた。
「あぁ・・・良ければ手伝ってやってくれ。どうせ煮詰まってるだろうからな」
ふと思い立ち、去り際にそんなことを伝えてみる。
当然こちらの意図が掴めないであろう青年は狼狽えているが、一臣はそのまま知らん顔して外に出た。ちょっとした八つ当たりだが、このくらいは許されるだろう。
歩きながら携帯のマナーモードを解除して、八雲の番号を押す。
着信があった時刻はほんの数分前。ともすれば、今なら電話が繋がる可能性は高いはずだ。
こんなすれ違いに苛立つ羽目になるくらいなら、いっそ今夜顔を合わせた時に話せばいいだろうと自分でも思う。だが、直接話せばまたあのお決まりの笑顔で交わされてしまいそうな気がした。一臣の方もまた、八雲を目の前にして本音を言えるほど素直ではないし・・・。
もうあやふやなままにしておくのは堪え難く、ハッキリさせてしまいたい。あの男のことも、一臣とのこれからのことも。
どうしたいのか、八雲の気持ちを聞き出したい。
『はい、もしもし』
5コールほどしたところで、八雲の声に代わった。漸く繋がったことにまずは安堵した。
『すみませんでした。何度も電話出られなくて』
特段いつもと変わりない様子で八雲が詫びる。
「いや・・・」
それはお互い様だと一臣は答える。
世間話をしたい訳ではない。用件を切り出さなければと気が逸る。
その時だった。
『苑~、ちょっとこっち来いよ』
電話越しに、男の声が聞こえた。八雲を気安く呼ぶ声。
即座に、昨夜の記憶と繋がった。間違いなく、あの男の声だ。
今もまた、八雲はあの男の傍にいるのか。
『電話中だからあっち行ってて下さい。すみません三倉さん、邪魔が入ってしまって』
八雲の声に重なってあの男の話し声が聞こえてくる。電話に声が入ってしまうほど近い距離にいるのだろう。
『三倉さん? もしもし、聞こえてますか? 三倉さん?』
八雲が何度も呼び掛ける。
『もしもし、もしもし? 三倉さん? 三倉さ・・・』
一臣は答えることなく、ゆっくりと終話ボタンを押した。
(三倉さんはまだ帰ってきてない・・・か)
合い鍵を使って開けたドアの向こうにはまだ灯りが点っていない。携帯電話で時刻を確認すれば、一臣の帰宅時間には幾分か早いので当然だ。それでも八雲は溜息をつかずにはいられなかった。
一臣と電話が繋がらない。一度は繋がって、ようやく話が出来たと思ったら突然電話を切られてしまった。その後からは何度かけても自動音声が流れるばかりだ。
一臣が電波状況の良くないところにいて、だから突然電話が切れてしまって繋がらなくなった・・・という事情なら良いのだが、何となく違うような気がする。一臣は意図的に電話を切って、電源も切っている・・・そちらが正解のような気がする。
(一体どうしたんだろう・・・)
機嫌を損ねるような事をしてしまったのか、そもそもいつまでも電話が繋がらなかったことで怒っていたのだろうか。いや、けれど直前までは普通に話していたし、電話に出られなかったのはお互い様だと一臣にしては珍しくこちらを気遣うようなことまで言っていた。
(まぁ、帰ってくれば分かるか)
一人でくよくよ悩んでいても仕方がないと、八雲は腕まくりをした。いつも通りの家事に取りかからなくては。まずはシーツの取り替えからだ。
一臣が帰って来たらきちんと話をしようと決めていた。仕事のこと、美恵子のこと、そして花那のこと。一臣に対する気持ちと自分の中にある迷いも。
全てを話す事で、一臣がどう思うのか、どうするのかは分からない。
そもそも、八雲自身の問題なのだから、自分の中で消化するべきだと思う。なのに、自分ではどうしても決められないのだ。
花那を幸せに出来ないまま死なせてしまった自分は、もう誰にも愛されるべきではない。それなのに、一臣の傍にいることを願ってしまう。
花那と暮らしたあのアパートを出て、一臣との生活を始める・・・少しずつだが、そんな望みを抱くようになっていた。
決して花那を忘れていた訳ではない。けれど、もうそろそろ前に進んでも許されるのではないかという、甘い考えが過ぎっていた。
それを相談しようとした矢先に、美恵子の病状を知ったのだが。
(まさに天罰・・・か)
掃除機をかけ終えたところで、八雲は深い溜息を漏らした。
ぼんやりする暇もなく、今度は洗濯機が終了音を鳴らしたのでランドリールームに向かう。
いつも思うが、ここだけで八雲のアパートの部屋と同じくらいの広さなのではないだろうか。置いてある物は全てが上質で、必要かどうかは二の次でとりあえずは一揃えするという悪癖は、無駄な贅沢だとしか言いようがないと思う。
根本的にお坊ちゃま育ちの一臣と八雲とは感覚がまるで違う。共通の趣味があるわけでもないし、話が合うのかと言うとそうでもない。むしろ頻繁に言い争いになるくらいだ。
(なのに好きなんだよな・・・)
それも、どうしようもないほどに。
乾燥まで終えた洗濯物をリビングに運ぶ。一つ一つきっちりと畳んで、アイロンが必要な物は別に分けておく。ちらりと時計を見やり、また一つ溜息をついた。
一臣が帰ってこない。もうとっくに仕事は終わっている時間だ。時期によっては日が変わるほどまで残業をすることもざらにあるらしいが、今がそうなのだろうか。けれどそれなら、いくら一臣でも伝えておいてくれそうなものだが・・・。
(・・・いや、そんなに気の回る人じゃないか)
苦笑混じりに考え直す。仕事のことなら根回し手回し気遣いは完璧だが(真壁夫妻談)、プライベートではそんなことはない。寧ろ他人に対する配慮のかけらもないのが常だ。だから、連絡がなく遅くなっているのも一臣ならあり得る。
だが・・・今日はずっと電話が繋がらなかった所為なのか、突然電話を切られた所為なのか、漠然とした不安を感じる。
(電話・・かけてみようかな・・・)
畳んだ靴下を傍らに置き、携帯電話に手を伸ばす。だが、通話履歴を表示させたところで玄関から音がした。
一臣が帰ってきた。そう思い、急ぎ足で玄関に向かう。
「え・・・?」
どんなに不機嫌そうな顔が待ちかまえていても平気だという自信はあった。けれど八雲は言葉を失うこととなった。
一臣が一人ではなかったからだ。
「あ、ごめんなさい・・・お邪魔します」
八雲が何か言う前にこちらに気付いて頭を下げたのは、昨夜会ったあの青年だ。一臣は青年に寄りかかるようにして辛うじて立っている。
「二人で飲んでたんだけど、一臣飲み過ぎちゃって・・・。ほら、一臣、家着いたよ」
青年が申し訳なさそうに言って、一臣の髪に触れる。一臣は少し身じろいだだけで青年に凭れたままでいる。普段の一臣なら、すぐさま不機嫌全開で払いのけそうなものなのに。
「三倉さん、大丈夫ですか? そんなになるまで飲むなんて・・・」
目の前で寄り添う二人に動揺が隠せない。それでも何とかいつも通りの口調で一臣に声をかけた。八雲は一臣の体を支えようと手を伸ばし、青年も八雲に代わろうと身を引こうとしたが、
「うるせぇな」
一臣が振り払ったのは八雲の手だった。その拍子によろめいて、またも青年に寄りかかる。
「三倉さん・・?」
明らかな拒絶に戸惑う。
「ちょっ、一臣! 何てことするの?」
青年も困惑したのか、一臣を支えながらも窘めている。
「・・・うるせぇんだよ」
一臣は鬱陶しそうに髪をかきあげ、舌打ちをした。一瞬だけ鋭い視線を八雲に向けたかと思うと、すぐに逸らして青年の体を抱き寄せた。
「一臣? なに・・・んっ!?」
突然抱きしめられた事に驚く青年に、一臣はそのまま口付けた。
八雲の目の前で交わされる、深く絡み合うようなキス。
青年は八雲を気にするような素振りを見せるも、一臣が離そうとしない所為でされるがままになっている。
頭が回らず、八雲には何が起こっているのか理解できない。あまりに唐突過ぎて、現実感がまるでなかった。
「いつまでそこにいるつもりだ?」
「え・・・?」
呆然と立ち尽くしたままでいる八雲に、一臣が冷たく言った。
「邪魔だって言ってんだよ。もう家政夫は必要ない。さっさと出て行け」
「三倉・・・さん?」
一臣の言葉・・・その一言一句が不協和音のようになって頭の中に響く。
体が震えた。悲しいからなのか、悔しいからなのか、もはや分からないけれど。
「・・・分かり・・ました」
何とか声を出せた事が奇跡だと思った。
めまいすら覚える中、出来る限り手早く荷物を取って部屋を出る。
立ち止まったら途端に泣き出してしまいそうな気がして、八雲は息が切れるのも構わずに走り続けた。
目が覚めた時の気分はまさに最悪だった。
突き刺さるような日差しに目がくらんだと思えば、鈍器で殴られ続けているかのような頭痛に襲われ、極めつけに胃の奥底から凄まじい吐き気がこみ上げてくる。
視界に入ってきた時計の示す時間に一瞬肝を冷やしたが、今日は休みだったと気付いてひとまずは安堵した。
ここまでひどい二日酔いは久しぶりだ。
重たい体を引きずるようにしてベッドから抜け出ると、サイドテーブルにミネラルウォーターの入ったペットボトルが置いてあった。「一臣へ 起きて俺に謝る元気があったら電話してね」という置き手紙と共に。相変わらず手本のように整った字だなどと呑気な感想が浮かんだ後、じわじわと昨夜の記憶が舞い戻ってきて頭を抱えた。
暫くフリーズした後でミネラルウォーターを飲み干し、深い溜息をついてから携帯に手を伸ばした。
『反省してる?』
2、3コール目で繋がったと思ったら開口一番にそう問われた。
「・・・・あぁ・・・・面倒をかけた」
うなだれるようにしてベッドに腰掛けつつ、一臣は答えた。
素直に謝罪するなんて一臣にしては珍しいと軽口を叩かれたが、最早それに言い返す気力もない。
彼が本当に機嫌を損ねているわけではなく、わざと不機嫌然としているだけなのは長い付き合いから明白だ。それでも、流石に昨夜の醜態は反省してしかるべき。
(黒歴史の1ページを刻んだな)
一臣は酒臭い溜息を漏らした。
『彼にはもう連絡したの? 』
「いや・・・」
一頻り体調を心配された後で不意に尋ねられ、一臣は言葉を濁す。
彼というのは勿論八雲のことだ。
酔いの酷さに相まって記憶も飛んでいてくれれば良かったのに、生憎どんなに酔っていてもしっかり覚えている性質だ。自分が何をしたのか、何を言ったのか、八雲がどんな顔をしていたのか・・・全て明白に覚えている。ますます頭痛と吐き気がひどくなった。
『昨日のこと、ちゃんとフォローしなくちゃ・・・本当に駄目になっちゃうよ?』
やんわりとした口調で窘められ、一臣はまた頭を抱えた。
そういえば、昨夜は二人で飲んでいる時には、酔った勢いに任せて洗いざらい女々しい愚痴を吐いていたのだった。それもまた大きな黒歴史といえよう。
「・・・分かってる」
虚勢を張っても意地を張っても今更だと悟り、一臣は素直に頷いた。素直すぎて気持ち悪いと言われたが仕方ない。
「悪かったな。色々」
深い溜息と共に、改めて謝罪の言葉を口にする。
『気にしなくていいよ~。俺は久しぶりに一臣とキスできて役得だったから』
悪戯っぽく笑うその声に居心地の良さを感じつつ、一臣は電話を終えた。
それから暫く、その場から動くこともせずただぼんやりと考える。いつもの半分も働いてくれない頭に、酒に飲まれた後悔を改めて噛みしめた。
(ウダウダ悩んでる場合じゃねぇ)
意を決して立ち上がる。若干のめまいを感じたが何とかよろめかないように堪えた。
兎にも角にも、八雲と話をしなければ。昨日の今日で慌てて言い訳をするなど、何と情けないことか。普段ならば御免被りたいところだが、最早そんなことは言っていられない。どんなにみっともなくとも、例え自分らしからぬことだったとしても、何とかすがりついて足掻くしかないのだ。
八雲を手放したくないのだから。
「クソだせぇな」
独りごちて、自嘲気味に笑う。
八雲は今頃仕事だろうか。それとも、またあの男の傍に居るのだろうか。どっちだって構わない。一臣の気持ちは決まっている。
選ぶのは八雲だ。
(まだ16時か・・・)
アパートが見えてきたところで携帯の画面で時間を確認し、八雲はため息を漏らした。
今日は仕事だったのだが、普段に比べると数時間は早い帰宅だ。早退したので当然なのだが。ちなみに正確に言うなら、「早退させられた」である。
朝から幾度となく、顔を見られる度にギョッとされ、二の句には「大丈夫?」「具合悪い?」と聞かれた。顔色が悪いのか、目の下に濃い隈でも拵えているのかは分からないが、兎も角ひどい顔をしている自覚はある。
同僚に早退を勧められてもしばらくは遠慮していたが、結局は甘えさせてもらうことにした。子供達にまで心配され始めてしまったからだ。
(プライベートのことで仕事に支障が出るなんて・・・いい歳して何やってるんだろう)
自分の情けなさが嫌になる。
少しでも気を抜くと昨夜のことが思い返されて、胸が締め付けられるようだった。一臣にはっきりと拒絶された、あの瞬間の光景が脳裏に過ぎると今にも声を上げて泣き出してしまいそうになる。それこそ年甲斐もない。
(もう・・・忘れよう)
八雲は気を取り直すように、一瞬だけ目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。折角早く帰ってきたのだから、今日はうんと時間のかかる煮込み料理でも作ろうと頭の中で献立を考えてみる。何とかして気を紛らわせなければ果てしなく落ち込んでしまいそうだ。
(なんだろう・・賑やかだな)
アパートの階段を上っていると、ご近所のおばさま達であろう嬉々とした話し声が聞こえてきた。井戸端会議の真っ最中だろうか。出来れば今日はあまり捕まりたくない。
「・・・え」
階段を上り終えたところで八雲は自分の目を疑った。賑やかなのは予想通りの面々だったが、その輪の中に何とも信じ難い姿があったのだ。
「三倉さん・・・」
八雲の自宅の扉の前に一臣がいる。一瞬、考えすぎているが故の幻覚か、寝不足故の白昼夢かと思った。けれど、何度瞬きをしてみても、一臣がそこにいるのは確かな現実だ。
「あ・・」
八雲は、一臣がどうしてこんなところにいるのか問いかけようとした。こちらに気付いた一臣も、その口を開こうとした。
だが、
「あらぁ、八雲さん! やっと帰ってきた! 遅いじゃないのよ、ちょっと」
「この方ず~っと待ってて下さったのよぉ。ほら、早くこっち来て」
「うちでお待ちになってて何度も言ったんだけどねぇ。遠慮なさって外で待つって言うから」
「ホントにねぇ、遠慮しなくていいのに。せめて麦茶でもと思ってね、あたし達が交代で持ってきてたのよ」
「そうそう、見れば見るほど男前なもんだからサービスしがいがあったわよ」
おばさま達の話はまさにマシンガン級。口を挟む隙がなく、なんだか勢いを持って行かれた気分だ。
一臣を見てみれば、明らかに辟易した顔をしている。いつもながら不機嫌さを隠そうともしてないが、おばさま方にはとっては全く気にならないようだ。
(ずっと待ってた・・・って)
おばさまその2の言葉を反芻する。
もしや、ずっとこんな調子だったのだろうか。気の短い一臣が、この状況下でずっと耐えていたというのか。八雲の帰りを待つために。
「あ、あの、とにかく中に入りましょう。皆さんもありがとうございます。すみませんでした。失礼します。すみません」
八雲は意を決しておばさま達の間に割り込み、一臣の手を引いた。おばさま方にはひたすらに頭を下げながら、一臣を半ば押し込むようにして部屋の中に逃げ込む。扉を閉めてからも、まだまだ一臣を取り囲んでいたかったらしいおばさま達の残念がる声が聞こえた。
「帰ってくるのが遅ぇんだよ」
舌打ちと共に一臣が言う。眉間の皺がいつもの三倍はありそうだ。
「お待たせしてすみません」
咄嗟に謝罪の言葉が口をついて出たが、よくよく考えれば八雲が謝るのもおかしな話だ。八雲が待つように言っていた訳でもないし、たまたま早退したお陰で普段に比べれば早い帰宅だ。八雲が仕事中であろうことくらい、一臣だって分かっているはずではないのか。
「休業中、らしいな。初耳だが」
八雲が反論しようとする前に、一臣がスマートフォンの画面を示した。八雲がシッターを休業すると知らせているHPが表示されている。
帰宅時間も分からず闇雲に待つつもりはなく、八雲のスケジュールを調べるためにシッターの予約サイトを開けば休業になっていた、と一臣は言った。
「休業中の割に帰って来やがらねぇしな」
苦々しく吐き捨て、不機嫌度MAXというような表情で煙草を取り出す。
「・・・煙草を吸うなら外に出るか換気扇の下にしていただけますか?」
八雲が言うと、一臣は舌打ちをして煙草を仕舞った。いつもと何ら変わりないやり取りだが、八雲にはいつも通りの笑顔を浮かべる気力はなかった。
「不要になった家政夫に、一体何のご用ですか? 退職書類でも必要でしたか?」
我ながら随分といじけた物言いになったものだ。隠しきれない声の震えが何とも情けない。
一臣の眉間の皺は更に深くなった。
「てめぇなぁ! 人がわざわざ謝りに来てやってるってのに何なんだその態度は!? 」
一臣の怒号が響く。
「え・・・謝りに来たんですか?」
八雲は少し拍子抜けした。一臣は途端にばつの悪そうな顔になる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昨夜は・・・・・・・・・・・・・悪かった」
先ほどの怒鳴り声から一転し、聞き取るのがやっとなほど微かな声で言った。
(えーっと・・・どういうことなんだろう・・・?)
昨夜はっきりと拒絶され、もう終わりなのだと、忘れなければならないのだと思っていたのだが・・・。
「とにかく、昨夜俺が言ったこともしたことも酒の所為だ。全部忘れろ。いいな」
なんとも尊大な謝罪だ。一臣らしいといえば一臣らしいが。
さらに、
「・・・言っておくが、アイツはあの後すぐ帰ったからな」
ボソリと身の潔白まで訴えてくる。
あの一臣が、昨日の今日でわざわざ謝りに来て言い訳をしている。そのために何時間も待って、おばさま方のマシンガントークにも堪え忍んで。
「ぷっ、あははっ」
八雲は思わず笑ってしまった。
「笑ってんじゃねぇよ!」
一臣にまた怒鳴られたが、おかしいのだから仕方ない。体調を崩すまで思い悩んでいた自分がバカみたいだ。
「ここで立ち話してるのも変ですし、座ってて下さい。貴方の家じゃないので安物のコーヒーくらいしか出せませんけど」
まだ少し笑いが治まらないまま、八雲は一臣を部屋の奥へ促した。"奥”と言っても一臣の家の玄関先とさして変わらない広さしかないのだが。
一臣は言われるままに部屋に入り、少し部屋を見回した後で腰を下ろした。あまりの狭さに衝撃を受けているのかもしれない。
この部屋に一臣を迎えることなど想像もしたことがなかった。もの凄くミスマッチだ。
100円ショップで買ったやたらと重たいマグカップにインスタントコーヒーを入れて一臣の前に置くと、一臣が八雲の手を掴んだ。
「・・・俺は、疚しい事はない」
真っ直ぐに射抜くような眼差しで言う。
「それはさっき聞きましたけど・・・」
改めての弁解に八雲は少し戸惑った。「一臣のことを信じる」と言葉で伝えるべきなのかと思ったが、そうではなかった。
「お前はどうなんだ?」
一臣が問う。
「俺に話してない事が・・・あるんだろう?」
感情を押し殺したような声だ。一臣なりに、冷静に話を聞こうと努めているのが伝わってくる。
八雲は動揺した。一臣に話していない事は沢山ある。
休業の事、短期とは言え西浄の病院で働いている事、美恵子の入院の事、そして花那の事。
一臣との今後に、迷いが拭えないでいることも。
「あ、あの・・」
全てを話そうと決めていたはずなのに、いざとなると言葉が出ない。何せ昨夜でもう終わったのだと思っていたのだ。またこうして一臣と向き合うことになるなんて予想だにしていなかった。
思わず目を逸らすと、一臣が掴んだままの手をまた強く握った。
「お前が・・・例えば、過去のこと、とかで・・・考えてる事があるならちゃんと言え」
一臣の言葉に目を見開く。「過去のこと」と一臣は言った。八雲の迷いに、一臣は感づいていたのだろうか?
「どうして・・・どうして、分かったんですか?」
顔を上げて一臣を見つめる。今度は一臣の方が居たたまれないという表情で目を逸らした。苦々しく、「どうしてか、なんてどうでもいい」と呟く。
「・・・もしお前が、俺とのことを終わりにしたいと思ってるなら、」
「違います!」
八雲は慌てて一臣の言葉を遮った。離れていきそうになった手を、今度は八雲が強く握った。
もう一臣との別れを考えるのは嫌だった。昨夜から続いていたあの絶望感・・・あんな想いはもう二度としたくない。
「終わりになんて・・・したくありません」
一臣の目を見て、はっきりと伝える。
「でも・・・」
視界の隅で花那の写真を捉えれば、八雲はまた迷ってしまう。一臣の手を離し、堪えきれない涙を拭った。
「過去を忘れるなんてできないんです」
花那のことを忘れることも、乗り越えることもしてはいけない。自分だけが幸せになるなんて、そんなことは許されないのだから。
「心から愛してました。・・・だから・・」
嗚咽混じりに想いを紡ぐ。こんな風に、一臣の前で感情的になったのは初めてだった。
一臣はただじっと八雲を見ている。八雲に離された手もそのままだ。
「僕は、この先も・・っ・・ずっと・・」
花那に償うために生きていくべきだと、そう思っている。なのに、一臣と別れたくない気持ちが捨てられない。そんなものはただの我が侭なのに
。
「・・・もういい。話すな」
溜息と共に、一臣が吐き捨てるように言った。
もうこれで終止符を打たれるのだろうか。八雲は怯えた眼差しで一臣を見つめた。
「お前が、あの男のことをそこまで好きで、忘れられないってんなら・・・」
髪をグシャグシャにかき乱して、顔が見えないようにしながら一臣は言う。
「だって、彼女のことを忘れるなんて・・・」
八雲はまた嗚咽を漏らした。
・・・が、
「彼女?」
「あの男?」
ふと違和感に気付き、二人して顔を上げた。
「誰のことだ?」
「そっちこそ、誰のことです?」
目が点になる、という表現がこの時ほど相応しかったことはないだろう。
「ありえねぇ・・」
一臣は頭を抱えて呟いた。
事の顛末・・・つまりは、お互いの間に生じていた大きな認識の違いに、二人して呆れ果てる羽目となった。
「ありえないのはこっちですよ。まさか西浄さんとの事を誤解してたなんて・・・」
八雲としてはあまりにも予想だにしない相手だ。
「あの人、あんなですけどお子さん6人もいるんですよ!? 本当にあり得ない!」
西浄は八雲がシッターを始めたばかりの頃からの常連客だ。当時は若い男に自分の子供を預けようという人はなかなかいなかったので、次から次へと子供が産まれては仕事をくれる西浄はまさに上顧客だった。
「そんなモン知るか! あんなチャラい野郎と二人でゲイバーから出て来るお前が悪ぃだろうが! 紛らわしいんだよ!!」
一臣は不機嫌全開で怒鳴る。
「貴方こそ、人のこと言えないでしょう!? あんな綺麗な方とベタベタしながら帰って来ておいて、何も無かったーなんて本当だか怪しいもんですよ!!」
カチンと来たので八雲も怒鳴り返した。こうして怒鳴るのも初めてかもしれない。
一臣は一瞬面食らった顔をしたが、忽ち顔中に青筋を立てた。
胸倉を掴まれ、てっきり輪をかけた怒鳴り声をぶつけられるのかと思いきや、ぶつけられたのは頭だった。
「痛いじゃないですか!!」
まさか頭突きされるとは思わず、八雲は憮然として抗議する。やり返そうとしたが、一臣はまたすぐに顔を近付けてきた。
「もう黙れ」
尊大に言ってのけ、今度はそのままキスをする。
触れるだけのキスはまるで子供をあやすように優しい。久々に感じる一臣の体温に、悔しいかな怒りなど忽ちのうちに萎んでいった。
(・・・ずるい人)
押し倒されて、八雲も一臣の背に腕を回す。安堵からか、自然と涙がこぼれた。
「あ~あ・・・どうしてくれるんですか。このアパート、ものすごーく壁が薄いんですよ」
汗で額に張り付いた髪をどかしながら、八雲は掠れた声で不満を述べた。
何せちょっとした物音すら聞こえるレベルだ。テレビの音も、笑い声だって聞こえるのだから、当然八雲の声はご近所中に聞こえてしまっただろう。
「知るか。お前が勝手にデカい声出してただけだろうが」
不満をぶつけられた等の本人は、意に介すどころかふんぞり返って換気扇の下で煙草を吹かしている。
「おばさま方の噂話のネタにされるかと思うと居心地が悪すぎますよ」
八雲は深く溜息をついた。シャワーに向かうべく体を起こすが、腰に力が入らない所為でひどくのろのろとした動きになる。
「引っ越しの口実が出来て良かっただろうが」
一臣が吐き捨てるように言った。
「荷物まとめて、さっさと俺の所に越してくりゃいいんだよ」
ふん、と鼻を鳴らして煙草をくわえる。
「・・三倉さん・・・」
八雲はいささか驚いていた。今までも何となく感じ取ってはいたものの、こうしてハッキリと一臣の口から同居の意志を聞くのは初めてだ。
「欲しけりゃ、仏壇でも祭壇でも神棚でも買ってやる」
一臣が視線で部屋の片隅を示す。そこにあるのは花那の写真と位牌だ。
八雲の話した"彼女”のことに、一臣はいつ気付いたのだろう。
「でも・・」
「お前に考える猶予をやるとロクなことにならねぇってのが分かったからな」
迷いが拭えない八雲を遮り、一臣がわざとらしく大きな溜息をつく。吐き出された煙草の煙は逃れることなく真っ直ぐに換気扇に吸い込まれていった。
「もう観念して、俺に納まれ」
いつもと何ら変わりない尊大な物言いで、一臣は言う。全部まとめて引き受けてやるから、と。
「・・・仏壇も祭壇も神棚も要りませんよ。貴方、無駄に大仰なの買いそうですし」
八雲は呆れたように笑った。改めて、悩んでいた自分が馬鹿みたいだと思った。
「三倉さん、これからは自宅でも換気扇の下とベランダ以外では煙草吸えなくなりますね。これを期に禁煙したら如何です?」
よろめく足取りで一臣に歩み寄り、嫌味な口調で言い捨てる。
「なっ・・・おい、ちょっと待て! ざけんな!」
一臣が面食らった様子で怒鳴るが、八雲は素知らぬ顔で浴室に逃げ込んだ。
ーーー後日。
「なぁ苑、あの人はヤクザかなんかなワケ?」
西浄が沸き立つナース達の中心人物を見やり、どこか怯えたように尋ねた。
「いいえ、ただの一介の会社員のはずですけど」
八雲はにっこり笑顔で答える。
「いや、それにしちゃあ、なーんか俺を見る目がカタギじゃねぇ気ぃすんだけど」
西浄は八雲の肩に置いていた手を更に引き寄せるようにして、内緒話でもするように顔を近付けた。その瞬間、皮膚がビリビリするほどの殺気が飛んでくる。
「おい!」
ナース達の輪の中からよく通る声が八雲を呼んだ。
「はいはい」
八雲は西浄の手を乱雑に払い退けて声の方に向かう。
「無駄にベタベタ触られてんじゃねぇよ」
傍に行くと、一臣は不機嫌さを全身から滲ませて呟いた。西浄とのことは誤解だと分かってもからも、変わらず嫉妬はするらしい。
「あの人は誰に対してもベタベタするんですよ。そのうち慣れます」
妬いてくれる一臣が可笑しくて仕方ないのだが、笑ってしまうと怒られるので八雲は涼しい顔をした。
「ほら、そろそろ病室に行きましょう」
一臣の手を引き、名残惜しそうなナース達に頭を下げる。
少し挨拶に寄っただけのつもりだったのだが、西浄に掴まったのとナース達が予想以上に一臣に食いついたので長引いてしまった。
今日は一臣と二人で美恵子のお見舞いに来たのだ。
『お前の母親代わりなんだろうが』
一臣がそう言って、自分も美恵子の見舞いに行きたいと申し出た時には少し・・いや、かなり驚いた。
(もしかして、「親御さんに挨拶」的な気持ちなんですかね・・・)
病室が近付くにつれてどこか緊張しているような面持ちになる一臣を見やり、八雲はまた可笑しくなった。
「・・・笑ってんじゃねぇよ」
一臣が苦々しく呟く。我慢したつもりだったのだが、顔がにやけてしまっていたらしい。
「幸せだから笑っちゃうんですよ」
開き直って「仕方ないじゃないですか」と言い切ると、一臣も不機嫌そうにしながらも何処か満更でない顔をする。
「こんにちは~」
ノックをして顔を覗かせると、美恵子は満面の笑みで迎えてくれた。
開口一番、美恵子はそう言って困った顔をした。
「やだねぇ、死にかけのアタシよりよっぽど倒れそうな顔してるじゃないの」
豪快に笑い、八雲の背中をバシバシと叩く。"死にかけ”などという笑えないジョークに八雲は苦笑いを浮かべる他ない。
一目見て言われる程だとは思わなかったにしろ、顔色が優れない理由には心あたりがあった。ほとんど寝ていないからだ。
昨夜は日付が変わる少し前まで一臣を待っていたが、結局諦めて家に帰った。一人で過ごすにはあの家は広すぎて、時計の音ばかりが耳について・・・堪えられなかった。
その癖帰ってからも気になって仕方がなくて、一臣から連絡があるのではとずっと携帯を手元から離さなかった。枕元に携帯を置いて待つなんて、いったい何処の乙女なんだと我ながら呆れてしまった。
花那の写真に懺悔もした。一臣とは距離を置いて花那への償いのために生きていく・・・そうすべきだと思いながら、結局少しも実践できていないからだ。
一臣への気持ちが抑えられず、どう足掻いても離れられそうにない。昨夜鉢合わせたことでそれを強く実感する羽目になった。
別れれば、一臣にはきっとすぐに新しい恋人が出来るのだろう。八雲ではない他の誰かが一臣に触れるのだ。昨夜の見目麗しい青年のように。
「それは嫌だなぁ・・・」
「あら、何が? 粒あん嫌い?」
思わず声に出してしまい、美恵子に突っ込まれてしまった。
美恵子が勧めたどらやきが嫌だったのかと尋ねられ、慌てて否定する。
美恵子は相変わらず食欲旺盛なようだった。知り合いと言う知り合いに見舞い品としておやつを強請り、それをよく八雲にも分けてくれる。
元気そうに見えるのが常だが、時折激しい痛みに襲われ苦しんでいるというのは看護師から聞かされた。八雲を含め、誰かが見舞いに来ている時にはそんなことは臆面にも出さない。美恵子は何処までも強い人だと思った。
「さてと、そろそろ仕事に戻りますね。洗濯物はまた夕方にでも取りに来ますから」
美恵子の傍らにある時計を見やり、八雲は言った。休憩時間はそろそろ終わりだ。
院内にある託児所で勤めることになったことは、西浄から誘いがあった時に美恵子にもすぐに伝えた。初めは自分の為に無理をするのは駄目だと反対されたが、これが八雲のやりたいようにしている結果なのだと懇々と伝えて納得して貰えた。こうして美恵子の身の回りの世話をするのは、花那への償いのため以上に八雲自身が美恵子の傍にいたいからでもあるのだ。美恵子は八雲にとって本当の母親のような存在なのだから。
「ありがとう。仕事、しっかり頑張んなさいね」
美恵子は力強く八雲の背を叩いた。
仕事に戻る道すがら、八雲はポケットから携帯を取り出した。病棟から託児所までの間のちょっとした中庭。ここなら携帯を使っていいはずだ。
電源を入れると、着信の知らせがあった。一臣からだ。今日はこれで3度目になる。八雲はすぐに折り返すため一臣の番号を押した。
一度目は朝、一臣は仕事前だったのだろう。八雲は電車に乗っていて出られなかった。駅に着いてからかけ直したが、きっと既に仕事中だったであろう一臣には繋がらなかった。
病院に着いてからは八雲は携帯の電源を切っているので、一臣からの電話に出ることが出来ない。合間を縫って折り返しても、今度は一臣が出ない・・・ちょっとしたすれ違いになっていた。
一臣は面倒がってプライベートではあまりメールやLINEを使わないので、向こうからの連絡手段は電話がほとんどだ。八雲からメールをすれば返信がくるのだろうが、仕事のことも伝えておかなければならないし、出来れば直接声を聞いて話がしたい。・・・本音を言えば、昨夜のことをそれとなく聞きたいというのも理由の一つだ。
一臣はあの後、朝までずっとあの青年と過ごしたのだろうか。もしあっさり認められてしまったらどうしようか。浮気者と罵るような性分でもないし、平気な振りをして受け流すしかないんだろうか・・・。
(うーん・・・出ないか)
八雲は空を仰いでゆっくりと息を吸う。そしてようやく呼び出し音を鳴らし続けることを諦めるのだった。
(また行き違いか・・・)
靴を履きながら携帯電話の画面表示を見やり、一臣は舌打ちをした。着信1件・・・八雲からだ。
遅々として原稿の進まない担当作家の尻を叩きに来ていたのだが、その間携帯をサイレントにしていた所為で着信に気付けなかった。他の作家ならばただのマナーモードにするのだが、今日の相手はバイブの音にすら怯える、デリケートな小動物並の小心者だ。
「・・・」
一臣がドアノブに手をかけようとしたところで勝手に扉が開き、見覚えのある顔が現れた。確かこの家の隣人のはずだ。
何でもない振りを装おうとしているようだが、残念ながら一臣を見るなり顔が強張っていたのは見逃せなかった。
「あ・・えっと・・お仕事中ッスよね~。俺、出直して・・・」
青年は引き攣り切った作り笑顔で後ずさりしている。
(ったく、面倒臭ぇな・・・)
一臣は内心で舌打ちをした。
どういう理由で警戒されているのかは粗方予想がついているが、お門違いもいいところだ。作家自身の色恋沙汰など興味もないし、まして巻き込まれるなど御免被る。どうぞ好きにしてくれと言ったところだ。
「見ての通り、打ち合わせはとっくに終わって帰るところなんだが?」
愛想を振りまく必要性も感じないので素っ気なく言い、顎を杓って中に入るよう促した。
「あ、ハイ。お邪魔します・・・」
青年は苦い顔をして頭を下げる。何を萎縮しているのか、妙にぎこちない所作で一臣と入れ違いに玄関に足を踏み入れた。
「あぁ・・・良ければ手伝ってやってくれ。どうせ煮詰まってるだろうからな」
ふと思い立ち、去り際にそんなことを伝えてみる。
当然こちらの意図が掴めないであろう青年は狼狽えているが、一臣はそのまま知らん顔して外に出た。ちょっとした八つ当たりだが、このくらいは許されるだろう。
歩きながら携帯のマナーモードを解除して、八雲の番号を押す。
着信があった時刻はほんの数分前。ともすれば、今なら電話が繋がる可能性は高いはずだ。
こんなすれ違いに苛立つ羽目になるくらいなら、いっそ今夜顔を合わせた時に話せばいいだろうと自分でも思う。だが、直接話せばまたあのお決まりの笑顔で交わされてしまいそうな気がした。一臣の方もまた、八雲を目の前にして本音を言えるほど素直ではないし・・・。
もうあやふやなままにしておくのは堪え難く、ハッキリさせてしまいたい。あの男のことも、一臣とのこれからのことも。
どうしたいのか、八雲の気持ちを聞き出したい。
『はい、もしもし』
5コールほどしたところで、八雲の声に代わった。漸く繋がったことにまずは安堵した。
『すみませんでした。何度も電話出られなくて』
特段いつもと変わりない様子で八雲が詫びる。
「いや・・・」
それはお互い様だと一臣は答える。
世間話をしたい訳ではない。用件を切り出さなければと気が逸る。
その時だった。
『苑~、ちょっとこっち来いよ』
電話越しに、男の声が聞こえた。八雲を気安く呼ぶ声。
即座に、昨夜の記憶と繋がった。間違いなく、あの男の声だ。
今もまた、八雲はあの男の傍にいるのか。
『電話中だからあっち行ってて下さい。すみません三倉さん、邪魔が入ってしまって』
八雲の声に重なってあの男の話し声が聞こえてくる。電話に声が入ってしまうほど近い距離にいるのだろう。
『三倉さん? もしもし、聞こえてますか? 三倉さん?』
八雲が何度も呼び掛ける。
『もしもし、もしもし? 三倉さん? 三倉さ・・・』
一臣は答えることなく、ゆっくりと終話ボタンを押した。
(三倉さんはまだ帰ってきてない・・・か)
合い鍵を使って開けたドアの向こうにはまだ灯りが点っていない。携帯電話で時刻を確認すれば、一臣の帰宅時間には幾分か早いので当然だ。それでも八雲は溜息をつかずにはいられなかった。
一臣と電話が繋がらない。一度は繋がって、ようやく話が出来たと思ったら突然電話を切られてしまった。その後からは何度かけても自動音声が流れるばかりだ。
一臣が電波状況の良くないところにいて、だから突然電話が切れてしまって繋がらなくなった・・・という事情なら良いのだが、何となく違うような気がする。一臣は意図的に電話を切って、電源も切っている・・・そちらが正解のような気がする。
(一体どうしたんだろう・・・)
機嫌を損ねるような事をしてしまったのか、そもそもいつまでも電話が繋がらなかったことで怒っていたのだろうか。いや、けれど直前までは普通に話していたし、電話に出られなかったのはお互い様だと一臣にしては珍しくこちらを気遣うようなことまで言っていた。
(まぁ、帰ってくれば分かるか)
一人でくよくよ悩んでいても仕方がないと、八雲は腕まくりをした。いつも通りの家事に取りかからなくては。まずはシーツの取り替えからだ。
一臣が帰って来たらきちんと話をしようと決めていた。仕事のこと、美恵子のこと、そして花那のこと。一臣に対する気持ちと自分の中にある迷いも。
全てを話す事で、一臣がどう思うのか、どうするのかは分からない。
そもそも、八雲自身の問題なのだから、自分の中で消化するべきだと思う。なのに、自分ではどうしても決められないのだ。
花那を幸せに出来ないまま死なせてしまった自分は、もう誰にも愛されるべきではない。それなのに、一臣の傍にいることを願ってしまう。
花那と暮らしたあのアパートを出て、一臣との生活を始める・・・少しずつだが、そんな望みを抱くようになっていた。
決して花那を忘れていた訳ではない。けれど、もうそろそろ前に進んでも許されるのではないかという、甘い考えが過ぎっていた。
それを相談しようとした矢先に、美恵子の病状を知ったのだが。
(まさに天罰・・・か)
掃除機をかけ終えたところで、八雲は深い溜息を漏らした。
ぼんやりする暇もなく、今度は洗濯機が終了音を鳴らしたのでランドリールームに向かう。
いつも思うが、ここだけで八雲のアパートの部屋と同じくらいの広さなのではないだろうか。置いてある物は全てが上質で、必要かどうかは二の次でとりあえずは一揃えするという悪癖は、無駄な贅沢だとしか言いようがないと思う。
根本的にお坊ちゃま育ちの一臣と八雲とは感覚がまるで違う。共通の趣味があるわけでもないし、話が合うのかと言うとそうでもない。むしろ頻繁に言い争いになるくらいだ。
(なのに好きなんだよな・・・)
それも、どうしようもないほどに。
乾燥まで終えた洗濯物をリビングに運ぶ。一つ一つきっちりと畳んで、アイロンが必要な物は別に分けておく。ちらりと時計を見やり、また一つ溜息をついた。
一臣が帰ってこない。もうとっくに仕事は終わっている時間だ。時期によっては日が変わるほどまで残業をすることもざらにあるらしいが、今がそうなのだろうか。けれどそれなら、いくら一臣でも伝えておいてくれそうなものだが・・・。
(・・・いや、そんなに気の回る人じゃないか)
苦笑混じりに考え直す。仕事のことなら根回し手回し気遣いは完璧だが(真壁夫妻談)、プライベートではそんなことはない。寧ろ他人に対する配慮のかけらもないのが常だ。だから、連絡がなく遅くなっているのも一臣ならあり得る。
だが・・・今日はずっと電話が繋がらなかった所為なのか、突然電話を切られた所為なのか、漠然とした不安を感じる。
(電話・・かけてみようかな・・・)
畳んだ靴下を傍らに置き、携帯電話に手を伸ばす。だが、通話履歴を表示させたところで玄関から音がした。
一臣が帰ってきた。そう思い、急ぎ足で玄関に向かう。
「え・・・?」
どんなに不機嫌そうな顔が待ちかまえていても平気だという自信はあった。けれど八雲は言葉を失うこととなった。
一臣が一人ではなかったからだ。
「あ、ごめんなさい・・・お邪魔します」
八雲が何か言う前にこちらに気付いて頭を下げたのは、昨夜会ったあの青年だ。一臣は青年に寄りかかるようにして辛うじて立っている。
「二人で飲んでたんだけど、一臣飲み過ぎちゃって・・・。ほら、一臣、家着いたよ」
青年が申し訳なさそうに言って、一臣の髪に触れる。一臣は少し身じろいだだけで青年に凭れたままでいる。普段の一臣なら、すぐさま不機嫌全開で払いのけそうなものなのに。
「三倉さん、大丈夫ですか? そんなになるまで飲むなんて・・・」
目の前で寄り添う二人に動揺が隠せない。それでも何とかいつも通りの口調で一臣に声をかけた。八雲は一臣の体を支えようと手を伸ばし、青年も八雲に代わろうと身を引こうとしたが、
「うるせぇな」
一臣が振り払ったのは八雲の手だった。その拍子によろめいて、またも青年に寄りかかる。
「三倉さん・・?」
明らかな拒絶に戸惑う。
「ちょっ、一臣! 何てことするの?」
青年も困惑したのか、一臣を支えながらも窘めている。
「・・・うるせぇんだよ」
一臣は鬱陶しそうに髪をかきあげ、舌打ちをした。一瞬だけ鋭い視線を八雲に向けたかと思うと、すぐに逸らして青年の体を抱き寄せた。
「一臣? なに・・・んっ!?」
突然抱きしめられた事に驚く青年に、一臣はそのまま口付けた。
八雲の目の前で交わされる、深く絡み合うようなキス。
青年は八雲を気にするような素振りを見せるも、一臣が離そうとしない所為でされるがままになっている。
頭が回らず、八雲には何が起こっているのか理解できない。あまりに唐突過ぎて、現実感がまるでなかった。
「いつまでそこにいるつもりだ?」
「え・・・?」
呆然と立ち尽くしたままでいる八雲に、一臣が冷たく言った。
「邪魔だって言ってんだよ。もう家政夫は必要ない。さっさと出て行け」
「三倉・・・さん?」
一臣の言葉・・・その一言一句が不協和音のようになって頭の中に響く。
体が震えた。悲しいからなのか、悔しいからなのか、もはや分からないけれど。
「・・・分かり・・ました」
何とか声を出せた事が奇跡だと思った。
めまいすら覚える中、出来る限り手早く荷物を取って部屋を出る。
立ち止まったら途端に泣き出してしまいそうな気がして、八雲は息が切れるのも構わずに走り続けた。
目が覚めた時の気分はまさに最悪だった。
突き刺さるような日差しに目がくらんだと思えば、鈍器で殴られ続けているかのような頭痛に襲われ、極めつけに胃の奥底から凄まじい吐き気がこみ上げてくる。
視界に入ってきた時計の示す時間に一瞬肝を冷やしたが、今日は休みだったと気付いてひとまずは安堵した。
ここまでひどい二日酔いは久しぶりだ。
重たい体を引きずるようにしてベッドから抜け出ると、サイドテーブルにミネラルウォーターの入ったペットボトルが置いてあった。「一臣へ 起きて俺に謝る元気があったら電話してね」という置き手紙と共に。相変わらず手本のように整った字だなどと呑気な感想が浮かんだ後、じわじわと昨夜の記憶が舞い戻ってきて頭を抱えた。
暫くフリーズした後でミネラルウォーターを飲み干し、深い溜息をついてから携帯に手を伸ばした。
『反省してる?』
2、3コール目で繋がったと思ったら開口一番にそう問われた。
「・・・・あぁ・・・・面倒をかけた」
うなだれるようにしてベッドに腰掛けつつ、一臣は答えた。
素直に謝罪するなんて一臣にしては珍しいと軽口を叩かれたが、最早それに言い返す気力もない。
彼が本当に機嫌を損ねているわけではなく、わざと不機嫌然としているだけなのは長い付き合いから明白だ。それでも、流石に昨夜の醜態は反省してしかるべき。
(黒歴史の1ページを刻んだな)
一臣は酒臭い溜息を漏らした。
『彼にはもう連絡したの? 』
「いや・・・」
一頻り体調を心配された後で不意に尋ねられ、一臣は言葉を濁す。
彼というのは勿論八雲のことだ。
酔いの酷さに相まって記憶も飛んでいてくれれば良かったのに、生憎どんなに酔っていてもしっかり覚えている性質だ。自分が何をしたのか、何を言ったのか、八雲がどんな顔をしていたのか・・・全て明白に覚えている。ますます頭痛と吐き気がひどくなった。
『昨日のこと、ちゃんとフォローしなくちゃ・・・本当に駄目になっちゃうよ?』
やんわりとした口調で窘められ、一臣はまた頭を抱えた。
そういえば、昨夜は二人で飲んでいる時には、酔った勢いに任せて洗いざらい女々しい愚痴を吐いていたのだった。それもまた大きな黒歴史といえよう。
「・・・分かってる」
虚勢を張っても意地を張っても今更だと悟り、一臣は素直に頷いた。素直すぎて気持ち悪いと言われたが仕方ない。
「悪かったな。色々」
深い溜息と共に、改めて謝罪の言葉を口にする。
『気にしなくていいよ~。俺は久しぶりに一臣とキスできて役得だったから』
悪戯っぽく笑うその声に居心地の良さを感じつつ、一臣は電話を終えた。
それから暫く、その場から動くこともせずただぼんやりと考える。いつもの半分も働いてくれない頭に、酒に飲まれた後悔を改めて噛みしめた。
(ウダウダ悩んでる場合じゃねぇ)
意を決して立ち上がる。若干のめまいを感じたが何とかよろめかないように堪えた。
兎にも角にも、八雲と話をしなければ。昨日の今日で慌てて言い訳をするなど、何と情けないことか。普段ならば御免被りたいところだが、最早そんなことは言っていられない。どんなにみっともなくとも、例え自分らしからぬことだったとしても、何とかすがりついて足掻くしかないのだ。
八雲を手放したくないのだから。
「クソだせぇな」
独りごちて、自嘲気味に笑う。
八雲は今頃仕事だろうか。それとも、またあの男の傍に居るのだろうか。どっちだって構わない。一臣の気持ちは決まっている。
選ぶのは八雲だ。
(まだ16時か・・・)
アパートが見えてきたところで携帯の画面で時間を確認し、八雲はため息を漏らした。
今日は仕事だったのだが、普段に比べると数時間は早い帰宅だ。早退したので当然なのだが。ちなみに正確に言うなら、「早退させられた」である。
朝から幾度となく、顔を見られる度にギョッとされ、二の句には「大丈夫?」「具合悪い?」と聞かれた。顔色が悪いのか、目の下に濃い隈でも拵えているのかは分からないが、兎も角ひどい顔をしている自覚はある。
同僚に早退を勧められてもしばらくは遠慮していたが、結局は甘えさせてもらうことにした。子供達にまで心配され始めてしまったからだ。
(プライベートのことで仕事に支障が出るなんて・・・いい歳して何やってるんだろう)
自分の情けなさが嫌になる。
少しでも気を抜くと昨夜のことが思い返されて、胸が締め付けられるようだった。一臣にはっきりと拒絶された、あの瞬間の光景が脳裏に過ぎると今にも声を上げて泣き出してしまいそうになる。それこそ年甲斐もない。
(もう・・・忘れよう)
八雲は気を取り直すように、一瞬だけ目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。折角早く帰ってきたのだから、今日はうんと時間のかかる煮込み料理でも作ろうと頭の中で献立を考えてみる。何とかして気を紛らわせなければ果てしなく落ち込んでしまいそうだ。
(なんだろう・・賑やかだな)
アパートの階段を上っていると、ご近所のおばさま達であろう嬉々とした話し声が聞こえてきた。井戸端会議の真っ最中だろうか。出来れば今日はあまり捕まりたくない。
「・・・え」
階段を上り終えたところで八雲は自分の目を疑った。賑やかなのは予想通りの面々だったが、その輪の中に何とも信じ難い姿があったのだ。
「三倉さん・・・」
八雲の自宅の扉の前に一臣がいる。一瞬、考えすぎているが故の幻覚か、寝不足故の白昼夢かと思った。けれど、何度瞬きをしてみても、一臣がそこにいるのは確かな現実だ。
「あ・・」
八雲は、一臣がどうしてこんなところにいるのか問いかけようとした。こちらに気付いた一臣も、その口を開こうとした。
だが、
「あらぁ、八雲さん! やっと帰ってきた! 遅いじゃないのよ、ちょっと」
「この方ず~っと待ってて下さったのよぉ。ほら、早くこっち来て」
「うちでお待ちになってて何度も言ったんだけどねぇ。遠慮なさって外で待つって言うから」
「ホントにねぇ、遠慮しなくていいのに。せめて麦茶でもと思ってね、あたし達が交代で持ってきてたのよ」
「そうそう、見れば見るほど男前なもんだからサービスしがいがあったわよ」
おばさま達の話はまさにマシンガン級。口を挟む隙がなく、なんだか勢いを持って行かれた気分だ。
一臣を見てみれば、明らかに辟易した顔をしている。いつもながら不機嫌さを隠そうともしてないが、おばさま方にはとっては全く気にならないようだ。
(ずっと待ってた・・・って)
おばさまその2の言葉を反芻する。
もしや、ずっとこんな調子だったのだろうか。気の短い一臣が、この状況下でずっと耐えていたというのか。八雲の帰りを待つために。
「あ、あの、とにかく中に入りましょう。皆さんもありがとうございます。すみませんでした。失礼します。すみません」
八雲は意を決しておばさま達の間に割り込み、一臣の手を引いた。おばさま方にはひたすらに頭を下げながら、一臣を半ば押し込むようにして部屋の中に逃げ込む。扉を閉めてからも、まだまだ一臣を取り囲んでいたかったらしいおばさま達の残念がる声が聞こえた。
「帰ってくるのが遅ぇんだよ」
舌打ちと共に一臣が言う。眉間の皺がいつもの三倍はありそうだ。
「お待たせしてすみません」
咄嗟に謝罪の言葉が口をついて出たが、よくよく考えれば八雲が謝るのもおかしな話だ。八雲が待つように言っていた訳でもないし、たまたま早退したお陰で普段に比べれば早い帰宅だ。八雲が仕事中であろうことくらい、一臣だって分かっているはずではないのか。
「休業中、らしいな。初耳だが」
八雲が反論しようとする前に、一臣がスマートフォンの画面を示した。八雲がシッターを休業すると知らせているHPが表示されている。
帰宅時間も分からず闇雲に待つつもりはなく、八雲のスケジュールを調べるためにシッターの予約サイトを開けば休業になっていた、と一臣は言った。
「休業中の割に帰って来やがらねぇしな」
苦々しく吐き捨て、不機嫌度MAXというような表情で煙草を取り出す。
「・・・煙草を吸うなら外に出るか換気扇の下にしていただけますか?」
八雲が言うと、一臣は舌打ちをして煙草を仕舞った。いつもと何ら変わりないやり取りだが、八雲にはいつも通りの笑顔を浮かべる気力はなかった。
「不要になった家政夫に、一体何のご用ですか? 退職書類でも必要でしたか?」
我ながら随分といじけた物言いになったものだ。隠しきれない声の震えが何とも情けない。
一臣の眉間の皺は更に深くなった。
「てめぇなぁ! 人がわざわざ謝りに来てやってるってのに何なんだその態度は!? 」
一臣の怒号が響く。
「え・・・謝りに来たんですか?」
八雲は少し拍子抜けした。一臣は途端にばつの悪そうな顔になる。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昨夜は・・・・・・・・・・・・・悪かった」
先ほどの怒鳴り声から一転し、聞き取るのがやっとなほど微かな声で言った。
(えーっと・・・どういうことなんだろう・・・?)
昨夜はっきりと拒絶され、もう終わりなのだと、忘れなければならないのだと思っていたのだが・・・。
「とにかく、昨夜俺が言ったこともしたことも酒の所為だ。全部忘れろ。いいな」
なんとも尊大な謝罪だ。一臣らしいといえば一臣らしいが。
さらに、
「・・・言っておくが、アイツはあの後すぐ帰ったからな」
ボソリと身の潔白まで訴えてくる。
あの一臣が、昨日の今日でわざわざ謝りに来て言い訳をしている。そのために何時間も待って、おばさま方のマシンガントークにも堪え忍んで。
「ぷっ、あははっ」
八雲は思わず笑ってしまった。
「笑ってんじゃねぇよ!」
一臣にまた怒鳴られたが、おかしいのだから仕方ない。体調を崩すまで思い悩んでいた自分がバカみたいだ。
「ここで立ち話してるのも変ですし、座ってて下さい。貴方の家じゃないので安物のコーヒーくらいしか出せませんけど」
まだ少し笑いが治まらないまま、八雲は一臣を部屋の奥へ促した。"奥”と言っても一臣の家の玄関先とさして変わらない広さしかないのだが。
一臣は言われるままに部屋に入り、少し部屋を見回した後で腰を下ろした。あまりの狭さに衝撃を受けているのかもしれない。
この部屋に一臣を迎えることなど想像もしたことがなかった。もの凄くミスマッチだ。
100円ショップで買ったやたらと重たいマグカップにインスタントコーヒーを入れて一臣の前に置くと、一臣が八雲の手を掴んだ。
「・・・俺は、疚しい事はない」
真っ直ぐに射抜くような眼差しで言う。
「それはさっき聞きましたけど・・・」
改めての弁解に八雲は少し戸惑った。「一臣のことを信じる」と言葉で伝えるべきなのかと思ったが、そうではなかった。
「お前はどうなんだ?」
一臣が問う。
「俺に話してない事が・・・あるんだろう?」
感情を押し殺したような声だ。一臣なりに、冷静に話を聞こうと努めているのが伝わってくる。
八雲は動揺した。一臣に話していない事は沢山ある。
休業の事、短期とは言え西浄の病院で働いている事、美恵子の入院の事、そして花那の事。
一臣との今後に、迷いが拭えないでいることも。
「あ、あの・・」
全てを話そうと決めていたはずなのに、いざとなると言葉が出ない。何せ昨夜でもう終わったのだと思っていたのだ。またこうして一臣と向き合うことになるなんて予想だにしていなかった。
思わず目を逸らすと、一臣が掴んだままの手をまた強く握った。
「お前が・・・例えば、過去のこと、とかで・・・考えてる事があるならちゃんと言え」
一臣の言葉に目を見開く。「過去のこと」と一臣は言った。八雲の迷いに、一臣は感づいていたのだろうか?
「どうして・・・どうして、分かったんですか?」
顔を上げて一臣を見つめる。今度は一臣の方が居たたまれないという表情で目を逸らした。苦々しく、「どうしてか、なんてどうでもいい」と呟く。
「・・・もしお前が、俺とのことを終わりにしたいと思ってるなら、」
「違います!」
八雲は慌てて一臣の言葉を遮った。離れていきそうになった手を、今度は八雲が強く握った。
もう一臣との別れを考えるのは嫌だった。昨夜から続いていたあの絶望感・・・あんな想いはもう二度としたくない。
「終わりになんて・・・したくありません」
一臣の目を見て、はっきりと伝える。
「でも・・・」
視界の隅で花那の写真を捉えれば、八雲はまた迷ってしまう。一臣の手を離し、堪えきれない涙を拭った。
「過去を忘れるなんてできないんです」
花那のことを忘れることも、乗り越えることもしてはいけない。自分だけが幸せになるなんて、そんなことは許されないのだから。
「心から愛してました。・・・だから・・」
嗚咽混じりに想いを紡ぐ。こんな風に、一臣の前で感情的になったのは初めてだった。
一臣はただじっと八雲を見ている。八雲に離された手もそのままだ。
「僕は、この先も・・っ・・ずっと・・」
花那に償うために生きていくべきだと、そう思っている。なのに、一臣と別れたくない気持ちが捨てられない。そんなものはただの我が侭なのに
。
「・・・もういい。話すな」
溜息と共に、一臣が吐き捨てるように言った。
もうこれで終止符を打たれるのだろうか。八雲は怯えた眼差しで一臣を見つめた。
「お前が、あの男のことをそこまで好きで、忘れられないってんなら・・・」
髪をグシャグシャにかき乱して、顔が見えないようにしながら一臣は言う。
「だって、彼女のことを忘れるなんて・・・」
八雲はまた嗚咽を漏らした。
・・・が、
「彼女?」
「あの男?」
ふと違和感に気付き、二人して顔を上げた。
「誰のことだ?」
「そっちこそ、誰のことです?」
目が点になる、という表現がこの時ほど相応しかったことはないだろう。
「ありえねぇ・・」
一臣は頭を抱えて呟いた。
事の顛末・・・つまりは、お互いの間に生じていた大きな認識の違いに、二人して呆れ果てる羽目となった。
「ありえないのはこっちですよ。まさか西浄さんとの事を誤解してたなんて・・・」
八雲としてはあまりにも予想だにしない相手だ。
「あの人、あんなですけどお子さん6人もいるんですよ!? 本当にあり得ない!」
西浄は八雲がシッターを始めたばかりの頃からの常連客だ。当時は若い男に自分の子供を預けようという人はなかなかいなかったので、次から次へと子供が産まれては仕事をくれる西浄はまさに上顧客だった。
「そんなモン知るか! あんなチャラい野郎と二人でゲイバーから出て来るお前が悪ぃだろうが! 紛らわしいんだよ!!」
一臣は不機嫌全開で怒鳴る。
「貴方こそ、人のこと言えないでしょう!? あんな綺麗な方とベタベタしながら帰って来ておいて、何も無かったーなんて本当だか怪しいもんですよ!!」
カチンと来たので八雲も怒鳴り返した。こうして怒鳴るのも初めてかもしれない。
一臣は一瞬面食らった顔をしたが、忽ち顔中に青筋を立てた。
胸倉を掴まれ、てっきり輪をかけた怒鳴り声をぶつけられるのかと思いきや、ぶつけられたのは頭だった。
「痛いじゃないですか!!」
まさか頭突きされるとは思わず、八雲は憮然として抗議する。やり返そうとしたが、一臣はまたすぐに顔を近付けてきた。
「もう黙れ」
尊大に言ってのけ、今度はそのままキスをする。
触れるだけのキスはまるで子供をあやすように優しい。久々に感じる一臣の体温に、悔しいかな怒りなど忽ちのうちに萎んでいった。
(・・・ずるい人)
押し倒されて、八雲も一臣の背に腕を回す。安堵からか、自然と涙がこぼれた。
「あ~あ・・・どうしてくれるんですか。このアパート、ものすごーく壁が薄いんですよ」
汗で額に張り付いた髪をどかしながら、八雲は掠れた声で不満を述べた。
何せちょっとした物音すら聞こえるレベルだ。テレビの音も、笑い声だって聞こえるのだから、当然八雲の声はご近所中に聞こえてしまっただろう。
「知るか。お前が勝手にデカい声出してただけだろうが」
不満をぶつけられた等の本人は、意に介すどころかふんぞり返って換気扇の下で煙草を吹かしている。
「おばさま方の噂話のネタにされるかと思うと居心地が悪すぎますよ」
八雲は深く溜息をついた。シャワーに向かうべく体を起こすが、腰に力が入らない所為でひどくのろのろとした動きになる。
「引っ越しの口実が出来て良かっただろうが」
一臣が吐き捨てるように言った。
「荷物まとめて、さっさと俺の所に越してくりゃいいんだよ」
ふん、と鼻を鳴らして煙草をくわえる。
「・・三倉さん・・・」
八雲はいささか驚いていた。今までも何となく感じ取ってはいたものの、こうしてハッキリと一臣の口から同居の意志を聞くのは初めてだ。
「欲しけりゃ、仏壇でも祭壇でも神棚でも買ってやる」
一臣が視線で部屋の片隅を示す。そこにあるのは花那の写真と位牌だ。
八雲の話した"彼女”のことに、一臣はいつ気付いたのだろう。
「でも・・」
「お前に考える猶予をやるとロクなことにならねぇってのが分かったからな」
迷いが拭えない八雲を遮り、一臣がわざとらしく大きな溜息をつく。吐き出された煙草の煙は逃れることなく真っ直ぐに換気扇に吸い込まれていった。
「もう観念して、俺に納まれ」
いつもと何ら変わりない尊大な物言いで、一臣は言う。全部まとめて引き受けてやるから、と。
「・・・仏壇も祭壇も神棚も要りませんよ。貴方、無駄に大仰なの買いそうですし」
八雲は呆れたように笑った。改めて、悩んでいた自分が馬鹿みたいだと思った。
「三倉さん、これからは自宅でも換気扇の下とベランダ以外では煙草吸えなくなりますね。これを期に禁煙したら如何です?」
よろめく足取りで一臣に歩み寄り、嫌味な口調で言い捨てる。
「なっ・・・おい、ちょっと待て! ざけんな!」
一臣が面食らった様子で怒鳴るが、八雲は素知らぬ顔で浴室に逃げ込んだ。
ーーー後日。
「なぁ苑、あの人はヤクザかなんかなワケ?」
西浄が沸き立つナース達の中心人物を見やり、どこか怯えたように尋ねた。
「いいえ、ただの一介の会社員のはずですけど」
八雲はにっこり笑顔で答える。
「いや、それにしちゃあ、なーんか俺を見る目がカタギじゃねぇ気ぃすんだけど」
西浄は八雲の肩に置いていた手を更に引き寄せるようにして、内緒話でもするように顔を近付けた。その瞬間、皮膚がビリビリするほどの殺気が飛んでくる。
「おい!」
ナース達の輪の中からよく通る声が八雲を呼んだ。
「はいはい」
八雲は西浄の手を乱雑に払い退けて声の方に向かう。
「無駄にベタベタ触られてんじゃねぇよ」
傍に行くと、一臣は不機嫌さを全身から滲ませて呟いた。西浄とのことは誤解だと分かってもからも、変わらず嫉妬はするらしい。
「あの人は誰に対してもベタベタするんですよ。そのうち慣れます」
妬いてくれる一臣が可笑しくて仕方ないのだが、笑ってしまうと怒られるので八雲は涼しい顔をした。
「ほら、そろそろ病室に行きましょう」
一臣の手を引き、名残惜しそうなナース達に頭を下げる。
少し挨拶に寄っただけのつもりだったのだが、西浄に掴まったのとナース達が予想以上に一臣に食いついたので長引いてしまった。
今日は一臣と二人で美恵子のお見舞いに来たのだ。
『お前の母親代わりなんだろうが』
一臣がそう言って、自分も美恵子の見舞いに行きたいと申し出た時には少し・・いや、かなり驚いた。
(もしかして、「親御さんに挨拶」的な気持ちなんですかね・・・)
病室が近付くにつれてどこか緊張しているような面持ちになる一臣を見やり、八雲はまた可笑しくなった。
「・・・笑ってんじゃねぇよ」
一臣が苦々しく呟く。我慢したつもりだったのだが、顔がにやけてしまっていたらしい。
「幸せだから笑っちゃうんですよ」
開き直って「仕方ないじゃないですか」と言い切ると、一臣も不機嫌そうにしながらも何処か満更でない顔をする。
「こんにちは~」
ノックをして顔を覗かせると、美恵子は満面の笑みで迎えてくれた。
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