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sakaki

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4:精一杯のわがまま

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―― 精一杯のわがまま~Painless4~ ――


定時に帰宅できるのは実に3か月ぶりだ。
半ば神頼みでもするかのようにスマートフォンを握りしめていた立花憲剛(たちばな けんご)は、何事もなく定刻となったことを確認するとほっと息をついた。
そして、あらかじめ入力しておいた文章を確認し、メールの送信ボタンを押す。

『今から帰る』

送信先は勿論同棲中の恋人:雛山芙結(ひなやま ふゆ)。
美味しいご飯を作って待ってくれているであろう芙結なので、本来ならばもっと早くに“何時ごろ帰宅ができるのか”、“食事は必要なのか”を連絡した方が良いのは分かっているのだが・・・
刑事という職業柄、いつ何時忙しくなるかが分からない憲剛としては、こうして無事に定刻を迎えなければ帰宅できるかどうかの保証もないのだから仕方ない。
今日までの間、一体何度『今から帰る』というメールを『今日は帰れそうにない』に書き直したことか。
このところずっと仕事が立て込んでいた所為で帰りそびれることがザラだった。
午前様で帰れたところで当然先に寝てしまっている芙結とは会えず、朝は芙結の方が憲剛の眠っている間に仕事に出てしまったりと、すれ違いともいえる生活が続いていた。

(結局このパターンなんだよな・・・)
愛車に乗り込み、運転席のシートに倒れ込むように凭れてから深い息をつく。
刑事になってから今まで、同棲までしているのは芙結が初めてだが、恋人と呼べる間柄になった相手は何人かいた。
だが決まって、この憲剛の不規則な終業時間が原因で喧嘩になり、最終的に耐え切れなくなった相手の方から別れを告げられてきたのだ。
そのことに“理解がない”だとか“わがままだ”とか言うつもりは毛頭無い。
連絡しようとも一向につかまらず、約束をドタキャンすることも多い男など彼氏にしたくないと思うのは当然のことだと思う。
約束を破ってしまったことに対して“埋め合わせをする”という口約束も、実行できなければ逆効果なのだと痛感したのはたしか2年ほど前に付き合っていた彼女の時だっただろうか。

『お疲れ様。今日のごはんは憲剛の好きなからあげだよ。早く帰ってきてね。ただし安全運転で』
芙結からの返信メールを読むと、自然と口許が緩む。

付き合うようになってからも、同棲を始めてからも、芙結は一度も不満を漏らしたことがない。
二人で出かける約束などは果たせなかったことも多いし、せっかく作ってくれていた夕食を無駄してしまったことだって多い。
それでも文句の一つも言わずにやんわりと微笑んで許容してくれる。今まで喧嘩の一つすらしたこともなかった。
(我慢させてんのかな・・・やっぱ)
芙結の控え目な眼差しを思い浮かべ、憲剛の中にそんな思いが過る。

芙結は性格上、あまり自己主張の強い方ではない。
基本的には大人しいので、怒ったり率先して喧嘩を吹っ掛けるようなことはしない。
怒鳴っているところも想像がつかないし。
愚痴も言わずに自分に尽くしてくれる芙結に憲剛が不満を抱く訳もなく、当然ながら憲剛が腹を立てるようなことも一切ない。
だから喧嘩がないのも当たり前で、順調な証拠だともいえるのだが・・・
憲剛がここまで考えるのは、芙結の元カレの存在があるからだ。
憲剛が芙結と出会うきっかけともなった男だが、芙結はその男にひどい暴力を受けていた。
もしもそのことがトラウマになっていて、自分を抑えるようになってしまったのだとしたら?
不満も言えずにずっと我慢して、辛い思いをしているのだとしたら?


「ただいまー」
「おかえりなさい、憲剛」
寄り道もせずにまっすぐ帰宅すると、芙結が笑顔で出迎えてくれた。
起きている芙結の顔を見るのは本当に久しぶりな気がして、仕事の疲れなど一気に吹っ飛んだ。
芙結の出来立ての手料理を味わうのもかなりの久々。
同じ料理でも、自分でレンジで温めてかき込むようにして忙しなく食べるのとは全然違う。
芙結と二人の時間が過ごせることでこんなにも幸福感を覚えるのは、自分が如何に芙結にべた惚れなのかという証拠だろう。
芙結が何処となく機嫌が良さそうにしているのも自分と同じ理由なら嬉しいのだが。

(・・・ん?)
食事を終えて、“たまのことだから”と自ら皿洗いを買って出た憲剛は、芙結の姿がソファにないことに気付いた。
先に風呂にでも入ったのだろうかと探しに行くと、脱衣室で何だか難しい顔をしている芙結の姿があった。
風呂掃除をするわけでもなく、服を脱いで風呂に入ろうとしている訳でもなく、ただ一点を見つめて溜息なんかついている。
(なんかあったのか・・?)
即座に不安に駆られる憲剛。
芙結の不満、耐え忍んでいる辛い思いが今まさにここにあるのではないか・・・そんな気がして、衝動的に芙結のもとへ歩み寄った。
「芙結!」
思いのほか力の入った声で呼びかけると、芙結は一瞬ビクンと肩を揺らした。
「ど、どうしたの? あ、お風呂入る? すぐお湯ためるね」
取り繕うような笑顔を向けて、浴室の扉を開けようとする。何かを誤魔化そうとしているのは明らかで、憲剛は少し身構えた。
「ふ、芙結、何か・・・俺に言いたいことあるんじゃないのか?」
恐る恐るという風に尋ねる。

正直なところ、脱衣室で溜息を付かれる理由には思い当たるものが幾つもあった。
忙しくなるとどうしても洗濯物を溜め込んでから持ち帰ることも多いし、たまには自分でやらなければと思いながらも結局いつも芙結に洗濯を押し付けてしまっている節もある。
ついつい靴下を裏返しに脱いだままで洗濯機に入れてしまうことも多い。これは結構嫌がられるのだと既婚者の同僚が言っていた気がする。
細かいことを上げていけば、芙結に不満に思われているであろうことはかなり多い。
仕事で不規則なことには理解を示してくれていても、こういった気遣いの欠如も憲剛の悪いところなのかもしれない。

「・・・・・・」
黙ったまま、芙結の反応を待つ。
芙結は眉を八の字にして、泣きそうな、困ったような顔をした。
「な、何かあるなら、遠慮しないで言ってくれていいから。ホントに、何でも・・・俺、ちゃんと聞くし」
芙結に不満を零されたところで怒り出すようなことはしないのだと精一杯伝える。
憲剛の必死さが伝わったのか、芙結はおずおずと口を開いた。
「僕・・・憲剛に・・・」
「お、おう」
緊張のあまり背中に汗が流れるのを感じる。
芙結は真っ赤な顔で、消え去りそうな声で言った。
「い、一緒に・・・お風呂に入ってほしい」
「・・・へ?」
思い掛けない言葉に憲剛は脱力。
「あのね、お店の常連さんにお土産でいい香りの入浴剤をもらったの。ピンク色の泡風呂になるんだって。でも、憲剛そういう、なんていうか・・・乙女チックなの嫌いかなって思って、でもせっかくだから一人で使っちゃうの勿体ないし。でも、憲剛毎日お仕事大変ですっごく疲れてるし、一人でゆっくりお風呂入りたいんだろうなってわかってるんだけど・・・でも・・」
悪いことをしたときの言い訳のように、芙結はわたわたしながら必死に伝える。
先ほど芙結が見つめていた戸棚を開けると、確かに可愛らしいラッピングの施されたバスキューブが入っていた。
「ご、ごめんなさい。こんなのわがままだよね。やっぱり忘れていいよ。すぐお湯ためるね」
憲剛が手に取っていた包みを奪い取るようにして再び戸棚に仕舞い込み、芙結はまた誤魔化すように笑う。
憲剛はふっと溜息を付いた。
「そんなの別にわがままでもなんでもねーよ。それ、使おうぜ」
照れ臭さを隠すために少しぶっきら棒な口調になってしまったが、それでも芙結はパッと輝くような笑顔になった。


バスキューブを入れてお湯をためると、芙結の言葉通り、たちまちのうちにピンク色の泡があふれた。所々花びらまで浮いている。浴室は花の香りでいっぱいだ。
(確かに少女趣味・・・)
腕に張り付いた花びらをつまみながらほんの少し苦笑する。
自分には不似合だとは思うが、楽しそうに鼻歌を歌いながら泡に包まれている芙結にはピッタリだ。
嬉しそうにしている芙結をこうして間近で眺めていられるのも良い。
「なぁ・・・さっきみたいに、俺にしてほしいこととか色々言って良いんだからな。してほしくないこととかも。」
芙結の頬に付いた泡を拭いながら言う。“遠慮するなよ”と念押しすると、芙結は仄かに頬を染めた。
「じゃあ、もう一つわがまま言ってもいい?」
上目遣いで恥ずかしそうに尋ねる。
憲剛が頷くと、芙結は内緒話でもするように声を潜めて囁いた。
「ずっとしてなかったから・・・今日は、したいな・・・」
言い終わるなり、頬や耳どころか首まで真っ赤になってしまう。
「だから・・・そんなのわがままでもなんでもねーって」
憲剛は照れ臭さを誤魔化すように呟いて、芙結の身体を抱き寄せた。


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