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イズ
しおりを挟む初めて彼の存在を認識したのは入社式だった。
椎名司(しいな つかさ)の入った企業は大手ではないが老舗の文具メーカーで地に足ついた職場ゆえにそれなりの難関だったのでともに就職試験に挑んだ者同士は入社式の段階でわりと顔見知りになっている。
なので知ってる顔の者と話していても、その見慣れぬスーツ姿の男はすぐに目についたのだ。
「彼って見覚えある?」
椎名が試しに同期となる仲間に話をふると、そのなかのひとりはあからさまに嫌な顔をして声を潜めて皆に言った。
「噂だけどアイツはコネで無試験らしい。何でも、この会社の会長の親友が女遊びして出来た子供で問題の種になるから押し付けられたらしいよ」
「えー?今どき、そんなコネ入社あるの?」
疑わしそうに首をひねる同期達に話したそいつも、あくまで噂だけどと何とも嫌な顔で笑った。
こういう根拠ない悪質な噂はあくまで噂でもやり玉にあげられた者には有害である。
椎名は自分の好奇心でうっかり見知らぬ他人を貶めてしまったことを申し訳なく思い、噂を流した奴もあまり信用できない人間だなと密かに警戒した。
入社式は滞りなくすんで新入社員の自己紹介になるとずっと誰とも話さず下を向いていた、噂のコネ疑惑の男がすっと立ち上がり挨拶をした。
「左近伊鶴(さこん いず)です。よろしくお願いします」
最低限の挨拶をしている間も左近は瞳を伏せたままで背筋の感じからしなやかな雰囲気だが表情が伺いしれない。
そのまんま席に座る左近を同期の連中はすでに冷ややかな視線で見ていたが椎名は他の者が自己紹介している隙に偶然席が隣なのを幸いに小声で話しかけた。
「さっき自己紹介したけど俺は椎名司。伊鶴って面白い名前だな」
子供の話題のような言葉を何気なくふると、それまで黙って頭を垂れていた左近が不意に頭をあげて椎名をじっと見詰めた。
ずっと、うつ向いていたので顔が分からなかったが、左近伊鶴はつり目がちで瞳が大きく鼻梁の何とも艶のある美しい顔だちである。その大きな瞳で椎名を見たと思ったらおもむろにニヤリとして囁いた。
「イズ・・・いなくてもいいって意味で親父がつけた」
そう囁くと左近は再び瞳を伏せて黙ってしまったが椎名は左近の皮肉めいた笑みに何故か心臓がドキドキしてそのあとの出来事がついぞ頭に入ってこない有り様であった。
入社式ではそんな調子であったが研修期間が終わり各部署に配属されると皆の左近を見る目は大きく変わった。
慣れない社会人生活で戸惑う椎名達をしり目に左近はテキパキと先輩や上司の指示を的確にこなし全てにおいてそつがない。
無愛想かと思えばここぞという時は持ち前の美貌を駆使して笑顔を見せるので何だかんだ言って先輩達にも可愛がられている。
「ムカつく・・・アイツ、人に取り入るのだけはウマイよな」
入社式で左近の悪い噂を流していた者が悔し紛れに陰口を言っていたが、もう相手にする同期はひとりもいなかった。
「コネでも何でも実際に仕事できるんだから文句ないじゃん」
「左近くんって喋ってみると面白いよ」
「先輩に聞いたけど英語も堪能で電話でも流暢に応対するんだって凄いよね」
同期の特に女子は左近の恵まれた容姿もあり格段に高評価を出しているが左近は誰に何を言われても気にする風もなく淡々と仕事をこなしていた。
だから偶然にも昼休みに定食屋で相席になり質問された内容が衝撃的で椎名は思わず味噌汁を吹きそうになり必死でこらえた。
「俺さ矢野くんが好きなんだけど彼女いるかとかわかる?」
矢野とは左近の悪い噂を広めた同期でいまだに左近を嫌っている張本人である。
性別とかはとりあえずおいといて賢い左近が矢野の悪口に気づいてないはずはないのに何でそんな最悪な奴を好きになるのか謎過ぎて椎名は何とか水を飲んで落ち着くと左近に正直な意見を述べた。
「お前だって気づいてるだろ?矢野はお前のこと陰で散々に言ってる。彼女の有無以前にそんな奴に惚れる意味が分からん」
椎名の言葉に左近は少し考えるとポツリポツリと説明しだした。
「俺さ愛人の子で邪魔な存在で育ったけど皆、表向きは綺麗事で誤魔化して陰で悪意を全快に向けられてた。だから・・・矢野みたく分かりやすく悪意を向けてくれる奴がいると安心する。椎名だって入社式で見慣れない俺を異分子と見なしたけど罪悪感で話しかけてきたろ?俺さ・・・そうされるの一番ムカつくんだよね」
入社式で椎名がとった行動を見事に把握していたらしい左近に椎名が確かに軽率な行動だったと決まり悪くなったとき昼を食べ終えた左近が先に席を立ちそうになったので思わず口から出てしまった。
「矢野なんてやめとけよ・・・あと、入社式のことゴメン」
「椎名ってほんといい奴だよな。あれは俺の逆恨みだから気にすんな」
そう言って先に定食屋を出てしまった左近の背中を椎名は食事も忘れて見送っていた。
それからも左近は順調に仕事をこなし喋る機会もあまりなかったが気がつくと目が左近を追ってしまい、この度に何とも苦々しい気分に苛まれていたある日の夜、矢野が久しぶりに飲もうと誘うので正直嫌だったが左近のこともあり連れだって居酒屋に入った。
「お前に話があるんだけど誰にも言わないって約束してくれ」
開口一番に矢野に言われて椎名は面倒だなと思ったがビールを飲みながら頷いた。
「俺さ左近のこと散々悪く言ったじゃん。だから嫌われてるって思ってたんだけどよ・・・アイツ、俺が先輩に頼まれてた仕事を忘れて慌ててやってたら、退社時間なのに普通に手伝ってくれてさ・・・何とか先輩に叱られずに済んで礼を言ったら全然恩着せがましくなくて・・・それで俺、ずっと左近を悪く言ってたの何でか分かったんだよ」
「どう分かったんだよ」
何だか理由は分からないが物凄く胸くそ悪い気分を隠しながら椎名が問いかけると矢野が赤面して戸惑ったように答えた。
「最初はアイツに嫉妬してると勘違いしてたけど俺は左近の気を引きたくてガキみてーなことしてた」
照れながら告白する矢野を見ながら椎名は左近が矢野を想っていることを思いふと悪意が芽生えた。
「左近って前野係長とデキてるって噂あるよ。前野係長って左近のこと気に入ってるし、どうなんだろ」
勿論、嘘である。確かに係長の前野は優秀な左近を気に入っているが妻子ある常識的な男でそんな関係になるはずもない。
だが椎名からそれを聞かされた矢野は愕然とするとビールを飲み干し何故か席を立って出ていこうとしたので椎名がどこに行くのか訊くと毅然とした様子で言った。
「左近に今すぐ告って不倫なんてやめさせてやる!!」
そう言って出ていく矢野に慌てた椎名もあとを追いかけ会社に戻ると残業が終わったらしく帰るところだった左近と前野に鉢合わせたので椎名はヤバいと思ったが矢野は止まらない。
「前野係長!!俺が左近と付き合うので不倫はやめてください!!」
矢野の渾身の叫びに前野は何の事か分からぬ様子でポカーンとしていたが矢野のマジな様子を見て次第に笑いだし左近に言った。
「どうする左近?不倫疑惑はよく知らないが矢野に返事してやれ」
前野に促され左近は全ての企みを見抜いたように椎名を見るとニッコリ微笑み矢野の手をにぎった。
「俺は嫌われてると思ってた。でも・・・矢野がそんな風に想ってくれて嬉しい」
「えっ!?じゃあ・・・」
「俺で良ければ矢野の恋人になりたい」
その左近の返事に矢野は真っ赤になって何度も頷き左近の手をかたくにぎり返したのを椎名が何とも言えずほろ苦い思いで見ていると前野にポンポン背中を叩かれた。
「恋の邪魔するつもりが縁結びしたな・・・左近、矢野、俺は椎名と飲んでくから2人で仲良くしろ」
そう椎名を連れて前野が去ると矢野は左近に遠慮がちに訊いた。
「何で椎名じゃなくて、俺なんて選んだの?」
矢野は入社式で左近が椎名にだけ話したのを見ていて、それも面白くなく椎名が左近をずっと見ている事も感づいていた。
矢野のマジな視線を受けて左近は晴れやかな笑顔で矢野に抱きつき耳元で囁いた。
「俺を伊鶴って呼んでくれたら話す」
「伊鶴・・・」
名前を呼ばれ伊鶴は矢野に抱かれながらポツリと答えた。
「矢野の俺を見る顔が好きだったから・・・凄く悪い顔だけど好きだよ」
「なんだよ・・・そりゃ?」
思わず笑う矢野は伊鶴と唇を重ねると自分も伊鶴のどこか不遜な笑顔に惚れていたことに今さら気づいた。
伊鶴はイズ・・・いらない子として名づけられたが、矢野は伊鶴とそれからもずっと一緒にケンカしたり笑ったり仕事したり旅行したりWi-Fiを気にしたり離れず暮らしたという。
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