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接近

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 憧れの女子が今、目の前に居る。
 そして直冬に頼みごとをしているのだ。好機到来と、ガッツポーズしたっていいくらいだ。
 しかし、綾瀬の言葉は直冬の心に疑いをもたげさせた。
 いくら何だって唐突すぎる。直冬は綾瀬とまともに言葉を交わしたことすらない。それなのに彼女は打ち上げをキャンセルして、直冬を待っていたというのだ。
 いくらなんでも話ができすぎている。
 オナニーのしすぎで、頭がおかしくなって白昼夢でも見ているのだろうか。

 そもそも頼み事とはなんなのだ?
 綾瀬に頼まれて嫌という男子なんて、そうはいまい。他の男子にできなくて、直冬にできることでもあるのだろうか。いや、どう考えたってそんなことはありそうにない。

 ――わかった! これは俺をはめようとしている罠だ。

 ネガティブな考えが頭を占拠する。
 直冬は辺りを見回した。暑さでむっとする地下通路には人影はない。
 しかし、階段の影からクラスメイトたちが息を潜めて、直冬が綾瀬の頼みに食いつくのを待っているに違いない。

「どうしたの? 誰かと待ち合わせ?」
 直冬の挙動が不審なのをみて、綾瀬が言った。

「ごめん、今日はちょっと用事があるんだ」
 なんとか絞り出すような声で言った。
「そう、なら明日は?」
「明日もだめなんだ」
「いつならいいの?」
「わからない……だからもう行くね」

 直冬は歩き始めた。
 歩きながら、今、綾瀬はどんな表情で自分の後ろ姿を見送っているのだろうと思った。暗くて嫌な奴だと思うだろう。
 でももうこれ以上は傷つきたくなかった。彼女の前で皆の笑いものにはなりたくない。
 自分の臆病さに泣きたくなって足取りを早めた。

「じゃあ仕方ないな。あの写真は消去してもらおっかな」
 思わず振り返ると、両腕を組んで壁に凭れた綾瀬がイタズラっぽい笑顔を向けている。
「合格発表のとき、私のこと盗み撮りしたでしょ」
 心臓がピクンとした。
「知ってたの?」
「もちろん」
「ごめんなさい。その……あんまり綺麗だったものだから……つい」

 誤魔化すこともできず、つい本音を漏らしてしまった。
 でも自分が盗撮魔である事実に変わりはない。いくら罵られたって仕方ない。
 直冬はうなだれて、綾瀬の言葉を待った。

 死刑判決を待つ被告の気分だと直冬は思った。
 この学校に来て、たった一つだけ良かったと思えること、それは綾瀬に出会えたことだった。
 もちろん、向こうからすれば直冬の存在など空気にしか過ぎない。それでも一緒の教室で、時々彼女の姿を盗み見る、それだけで幸せだった。
 それも終わりだ。
 明日からは綾瀬も他の女子のように自分をバイ菌でも見るような目でみるのだろう。
 ――死んだほうがマシだな。
 直冬は唇を噛んだ。

「あのねぇ」
 綾瀬の声がした。
 おそるおそる顔を上げてみると、そこに顔を真っ赤にした綾瀬がいた。

「そういうこと本人の前で普通、言うかな。すごい恥ずかしいんですけど」
 綾瀬は俯いて拗ねたように口を尖らせた。
「ほんまごめんな。僕、どうしたらええ?」
 意外な反応に動揺した直冬の口から思わず方言だ出た。

 綾瀬はクスクスと笑い始めた。

「柏木って面白いね。別にいいよ。写真くらい」
「ほんと?」
「あっ、でも悪用とかしないでね」
 悪用という言葉に一瞬どきりとした。
「ほら、ネットとかにあげる人とかいるでしょ」
「そんなことしない。あれは僕の宝物だから、誰にも見せないよ」
 直冬は慌てて否定した。

「柏木って、ナンパとか得意? よくまあそんな言葉が次から次にでてくるわね」
 綾瀬があきれたように言った。
「そんなあ。ナンパなんてしたことないよ。女子と話したことすらないのに」
 綾瀬は自分が女子からバイ菌扱い方されていることを知らないのだろうかと、直冬は思った。
「ほんと? まあいいや。そんなに悪い気はしないから……じゃ行こう」
「行くってどこへ?」
「私の家」
 綾瀬はそう言うと、スタスタと歩き始めた。
 どうやら用事があるという嘘は最初から見破られていたらしい。

 颯爽とかっこよく歩いて行く綾瀬の後ろ姿を見ながら、もう覚悟を決めるしかないと直冬は思った。
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