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18話 シャーロット、囚われる
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ドロリス邸で開催された仮面舞踏会から、半月が経過した。
窓の外では騎士たちが訓練に勤しんでいる。ジョナサンも参加しており、その横顔は、やつれていた。
以前の彼なら、シャーロットの視線に気が付くと、嬉しそうに笑顔を向けてきた。
それなのに、今ではシャーロットのいる部屋を、チラリとも振り返らない。
「奥様」
窓から室内へ目を戻すと、アネモネが菫色の封書を差し出していた。
ジョナサンからの文だ。
部屋の中央にある机には、似たような封書が幾重にも折り重なっている。
ジョナサンが何をしたためていても、受け入れられる心持ちではない。
シャーロットは手紙を一瞥し、
「破って頂戴」
「奥様……」
アネモネが躊躇う様子を見せたので、シャーロットは「貸しなさい」と急かした。
受け取るなり、真っ二つに引き裂く。
「――っ」
破った拍子に指先が切れた。
みるみる血が半円状に盛り上がる。
粛々と手当の準備をするアネモネを横目に、シャーロットは紙を破り続けた。
――結局、私は彼に利用されていたのね。
夜。
天蓋に覆われたベッドに横たわっていると、この世界にひとりぼっちになったような気分になる。
四方を布に包まれた柔らかな寝床。まるで王宮の縮図だ。
どこまでいってもシャーロットは籠の中の鳥なのである。
瞼を閉じても、眠気が襲ってこない。逆に目が冴える。
夢と現の狭間を、シャーロットは、たゆたい続けた。
「シャーロット先生、顔が真っ青だよ」
授業後。
ぼんやりしたまま学舎を出ると、ヨハネスに声を掛けられた。
少年はそばかすの浮いた顔を心配げに曇らせている。
シャーロットは彼に、微笑みかけた。
「大丈夫よ。少し寝不足なだけだから」
「眠れないの……ですか?」
「少しね」
「いーっぱい遊んで、いーっぱい食べると眠くなりますよ」
少年は両手の拳を握りしめ力説した。
シャーロットは彼の前にしゃがんで目線を合わせる。
「そうね。助言、感謝するわ」
シャーロットがヨハネスの髪を撫でた。少年は満足したように歯を見せ笑う。
「あ! そうだ」
ヨハネスは何かを思い出したように、ズボンのポケットに手を突っ込む。
「これ食べて元気出して」
彼の手のひらには、紙に包まれた丸く小さな塊が鎮座していた。
この辺りでは見かけない高級品菓子店の包み紙に包まれている品に、シャーロットは眉をひそめる。
辺境の地、それも貧民街の住人が手にできる代物ではない。
「誰に貰ったのかしら?」
できるだけ少年を怯えさせないよう、ゆっくり問いかける。
だが、緊張した面持ちのシャーロットから何かを察したのか、ヨハネスは「あの人……」と困惑した様子で、自身の背後を指さした。
「ご機嫌よう、シャーロット殿下……いや、ここでは先生とお呼びするのが、よろしいですかね?」
少年の真後ろに小柄な青年――クラウスがいた。
ねっとりとした声音に、背筋が粟立つ。
彼はにたりと下卑た笑みを浮かべた。
シャーロットは少年の手から包み紙を払い落とす。
丸い塊がコロリと地面を転がった。
「早く家にお帰りなさい」
シャーロットが刺々しく言い放つと、ヨハネスは目に涙を溜め、走り去った。
「第三王女ともあろうお方が、子どもの好意を無下に扱うとは……王家も地に落ちたものですね」
「私に何の用かしら」
シャーロットは背筋を伸ばし、クラウスに対峙する。
――アネモネはどこに行ったのかしら。
ジョナサンと気まずくなってから、シャーロットの送り迎えはアネモネが務めている。
そして、学舎にはハンスがいるはずだが、出てくる気配はない。
「殿下のお守り役には、少しの間、別のモノと遊んでいただいております。……邪魔者がいると話ができませんのでね。もうひとりの教師には眠ってもらっていますよ」
「随分とご丁寧なお誘いだこと」
二人の身が心配だ。
さっさとクラウスの話を終わらせたい。
――そう簡単に引き下がってくれるのかは、怪しいものだけれど。
シャーロットが黙ると、クラウスは満足した様子で、にんまりと唇を歪める。
「ああ、殿下。このような泥沼においても、美しさは一向に翳りを見せず、まぶしい限りで――」
「御託はいいから、さっさと用件を言いなさい」
「……では、ダンスにお付き合い願えますか」
グルルルル……。
「――っ!」
耳元で獣の唸り声がした。
振り返れば、間近に巨大な魔狼がいる。
「麗しの君には、狂犬をおびき出す餌になっていただきます」
魔狼の咆哮がシャーロットの耳をつんざく。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
寒い。
それなのに身体の奥が熱い。
「う……」
覚醒すると、辺りは闇に包まれていた。
鳥の鳴き声や獣の唸り声が四方八方から聞こえる。
――森の中……かしら?
全身に何かが巻き付いていて、身動きできない。
――落ち着くのよ、シャーロット・ヴェルデ・アマグスタニア。
暗闇に目が慣れてくると、己の置かれた状況がぼんやりと感じ取れた。
木の根元に座らされ、幹に蔦で括り付けられている。
身じろぐと、蔦がまるで意志を持っているように蠢き、全身に食い込んだ。
縛られた箇所が火照り、シャーロットは悩ましげなため息を落とした。
「ご気分はいかがですかな?」
クラウスがカンテラを揺らめかせながら、興味津々とばかりにシャーロットを矯めつ眇めつする。
彼の背後には、城塞を襲った魔狼とは比にならないほど巨大な魔狼が、数体控えていた。
「こんなことをして、何になるというの……?」
クラウスの父親――ロンディア侯爵は反国王派だ。
親に倣って、王族であるシャーロットを敵視するのは頷ける。
しかし今やシャーロットは降嫁する予定の身。王位継承権のない己を亡き者にしても、反国王派に利はない。
そして、ジョナサンは中立派だ。おまけに王国随一の戦力を誇る一族の次期当主である。
喧嘩を売るだけ損をするのは、火を見るよりも明らかだ。
身を滅ぼしかねない暴挙に出る意図が理解できない。
クラウスはシャーロットを見下し、薄ら笑う。
「ただの嫌がらせです」
「何ですって……?」
クラウスはシャーロットの太ももに手を這わせた。
嫌悪感に肌が粟立つ。手を避けようとして、身じろぐとドレスごと蔦でさらに締め上げられ、痛みにシャーロットは顔をしかめた。
「俺の誘いを断るだけでなく、恥までかかされた報復です」
「貴殿には、次期ロンディア侯爵としての、誇りはないの?」
「誇り? ……そんなものを後生大事にしているのは、王族や頭の固い国王派どもだけですよ」
クラウスは口角を引き攣らせ、拳を振り上げる。
「アマグスタニア内の伝統? 権力? そんなもの、何の価値もない」
「貴様、我が王家を愚弄する気か」
シャーロットは菫色の瞳に激情を滲ませた。
クラウスは幼子に言い聞かせるような猫なで声で、
「結局、世の中、金なのですよ。その証拠に、ロンディア侯爵家は領地内で特産品を生産、国内外へ流通させることで、潤っております。……のんきに権力の座にあぐらをかいている王族や国王派の古狸どもよりも、俺たちは、国の安寧を保つべく、領地経営に励んでいるのです」
それなのに、お前たちは俺を侮った。
許せるはずがないだろう。
クラウスは歯ぎしりし、恨み辛みを吐き出す。
「俺の話が理解できていないようですね。まあ、いいです。貴女に求めているのは餌としての役目ですから」
彼がカンテラを振ると、独特な甘い香りがした。
魔狼たちは鼻をひくつかせ、シャーロットを半円状に取り囲む。
「殿下の変わり果てた姿を目にしたら、ヴォルフガルトの狂犬は、どんな顔を見せてくれるのか楽しみです。ああ、その前に、この場へたどり着けるか、見物ですがね」
「彼に何をしたの……?」
「いえなに、森の至る所に魔獣を興奮させる薬を撒いただけのこと。今頃、荒ぶる魔獣どもが城下街に押し寄せ、阿鼻叫喚の嵐を巻き起こしていることでしょう」
――自分勝手な恨みを晴らすだけでは飽き足らず、無辜の民を巻き込むなど、貴族の風上にも置けなくてよ。
ジョナサンが魔獣の強襲に倒れることなどありえない。
わかってはいても、心臓が嫌な感じで早鐘を打つ。
歯噛みするシャーロットの視界から、クラウスが消え、代わりに、獣臭い吐息が間近に吹きつけた、その時――。
「貴族の誇りなど意味がない。……その意見には賛成だな」
凜とした声が響いた。
続いて、ズル……、ズル……と、何かを引きずる音が続く。
暗い森の中からジョナサンが現れた。
全身、どす黒い血にまみれている。本人はいたって平気な顔をしているので、魔獣の返り血なのだろう。
ジョナサンは手にした魔獣の首をその場に捨てた。
巨大な魔狼たちが牙をむくも、意に介することなく、シャーロットへ近づく。
唸り続ける魔狼たちに、ジョナサンは紅い瞳を見開き、一言。
「失せろ」
魔狼たちは怯む。そのうちの一体がジョナサンに噛みつこうとした。
しかし。
次の瞬間には、首が宙を舞い、鮮血が宙に弧を描く。
ドスンと鈍い音をたて、口を開いたままの魔狼の頭部が転がった。
ジョナサンはふたたび紅い瞳を魔狼たちに向ける。
瞳孔が細く収縮していた。
「失せろ」
魔狼たちは耳を伏せ、尻込みする。
一歩、二歩、ジョナサンから視線を外さず後退し、充分な距離を取ってから、一目散に森の奥へと逃げ去った。
「おい! 逃げるな、戻ってこい!」
クラウスが金切り声をあげ、必死にカンテラを振り回す。
しかし、魔狼が姿を現すことはなかった。
ジョナサンはシャーロットを拘束する蔦に、剣を一閃させる。
蔦が瞬時に切り刻まれた。
「無事でよかった……」
ジョナサンは、心底安堵したといわんばかりに、シャーロットを抱きしめた。
あたたかい体温と香りに包まれ、シャーロットは涙ぐむ。そして、血で汚れたジレに顔を埋めた。
「クラウス殿」
ジョナサンに名を呼ばれ、クラウスがびくりと肩を震わせるも、すぐさま、唇を歪め笑った。
「城下の民を犠牲に女を助けに来たのか? 魔獣まじりは野蛮でいただけないね」
「犠牲……? ああ、やんちゃな野犬どもは、父上ひとりで相手をしていたぞ」
「男爵が……馬鹿な不在のはずでは」
「野生の勘ってやつかな。急遽、領地の巡視を中止なさったんだよ」
ジョナサンは肩をすくめた。そしてシャーロットを抱えたまま、クラウスの顔をのぞき込む。
「俺に喧嘩を売るなら好きにしろ。いつでも受けて立つ……ただし、今後、殿下や城下の者たちに手を出したなら……判っているだろうな」
全身血まみれの狂騎士は、にっこりと笑った。
その瞳はどこまでも冷酷な光をたたえている。
クラウスは尻餅をつき、「は、はひ……」と、全身をガクガクと震わせた。
戦意を喪失したクラウスから、ジョナサンはシャーロットに視線を移す。
「殿下?」
シャーロットは両腕で自身を抱きしめ、身体の震えを押さえようと必死である。
蔦の拘束が解かれても、全身がだるく、息苦しい。
解放された反動で、熱が出たのかと疑うも、経験したことのない疼きが身体の奥でくすぶっている。
学舎前で魔狼に襲われてからの記憶が曖昧だ。
気を失っている間に、クラウスに何か飲まされたのかもしれない。
「殿下、もうしばし、ご辛抱を」
ジョナサンが優しくシャーロットへ囁いた。
シャーロットはこくこくと首を縦に振る。
ジョナサンが森の中を目にも止まらぬ速さで駆け抜ける間、シャーロットは己のなかに芽吹きつつある妖しい欲望と戦い続けた。
窓の外では騎士たちが訓練に勤しんでいる。ジョナサンも参加しており、その横顔は、やつれていた。
以前の彼なら、シャーロットの視線に気が付くと、嬉しそうに笑顔を向けてきた。
それなのに、今ではシャーロットのいる部屋を、チラリとも振り返らない。
「奥様」
窓から室内へ目を戻すと、アネモネが菫色の封書を差し出していた。
ジョナサンからの文だ。
部屋の中央にある机には、似たような封書が幾重にも折り重なっている。
ジョナサンが何をしたためていても、受け入れられる心持ちではない。
シャーロットは手紙を一瞥し、
「破って頂戴」
「奥様……」
アネモネが躊躇う様子を見せたので、シャーロットは「貸しなさい」と急かした。
受け取るなり、真っ二つに引き裂く。
「――っ」
破った拍子に指先が切れた。
みるみる血が半円状に盛り上がる。
粛々と手当の準備をするアネモネを横目に、シャーロットは紙を破り続けた。
――結局、私は彼に利用されていたのね。
夜。
天蓋に覆われたベッドに横たわっていると、この世界にひとりぼっちになったような気分になる。
四方を布に包まれた柔らかな寝床。まるで王宮の縮図だ。
どこまでいってもシャーロットは籠の中の鳥なのである。
瞼を閉じても、眠気が襲ってこない。逆に目が冴える。
夢と現の狭間を、シャーロットは、たゆたい続けた。
「シャーロット先生、顔が真っ青だよ」
授業後。
ぼんやりしたまま学舎を出ると、ヨハネスに声を掛けられた。
少年はそばかすの浮いた顔を心配げに曇らせている。
シャーロットは彼に、微笑みかけた。
「大丈夫よ。少し寝不足なだけだから」
「眠れないの……ですか?」
「少しね」
「いーっぱい遊んで、いーっぱい食べると眠くなりますよ」
少年は両手の拳を握りしめ力説した。
シャーロットは彼の前にしゃがんで目線を合わせる。
「そうね。助言、感謝するわ」
シャーロットがヨハネスの髪を撫でた。少年は満足したように歯を見せ笑う。
「あ! そうだ」
ヨハネスは何かを思い出したように、ズボンのポケットに手を突っ込む。
「これ食べて元気出して」
彼の手のひらには、紙に包まれた丸く小さな塊が鎮座していた。
この辺りでは見かけない高級品菓子店の包み紙に包まれている品に、シャーロットは眉をひそめる。
辺境の地、それも貧民街の住人が手にできる代物ではない。
「誰に貰ったのかしら?」
できるだけ少年を怯えさせないよう、ゆっくり問いかける。
だが、緊張した面持ちのシャーロットから何かを察したのか、ヨハネスは「あの人……」と困惑した様子で、自身の背後を指さした。
「ご機嫌よう、シャーロット殿下……いや、ここでは先生とお呼びするのが、よろしいですかね?」
少年の真後ろに小柄な青年――クラウスがいた。
ねっとりとした声音に、背筋が粟立つ。
彼はにたりと下卑た笑みを浮かべた。
シャーロットは少年の手から包み紙を払い落とす。
丸い塊がコロリと地面を転がった。
「早く家にお帰りなさい」
シャーロットが刺々しく言い放つと、ヨハネスは目に涙を溜め、走り去った。
「第三王女ともあろうお方が、子どもの好意を無下に扱うとは……王家も地に落ちたものですね」
「私に何の用かしら」
シャーロットは背筋を伸ばし、クラウスに対峙する。
――アネモネはどこに行ったのかしら。
ジョナサンと気まずくなってから、シャーロットの送り迎えはアネモネが務めている。
そして、学舎にはハンスがいるはずだが、出てくる気配はない。
「殿下のお守り役には、少しの間、別のモノと遊んでいただいております。……邪魔者がいると話ができませんのでね。もうひとりの教師には眠ってもらっていますよ」
「随分とご丁寧なお誘いだこと」
二人の身が心配だ。
さっさとクラウスの話を終わらせたい。
――そう簡単に引き下がってくれるのかは、怪しいものだけれど。
シャーロットが黙ると、クラウスは満足した様子で、にんまりと唇を歪める。
「ああ、殿下。このような泥沼においても、美しさは一向に翳りを見せず、まぶしい限りで――」
「御託はいいから、さっさと用件を言いなさい」
「……では、ダンスにお付き合い願えますか」
グルルルル……。
「――っ!」
耳元で獣の唸り声がした。
振り返れば、間近に巨大な魔狼がいる。
「麗しの君には、狂犬をおびき出す餌になっていただきます」
魔狼の咆哮がシャーロットの耳をつんざく。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
寒い。
それなのに身体の奥が熱い。
「う……」
覚醒すると、辺りは闇に包まれていた。
鳥の鳴き声や獣の唸り声が四方八方から聞こえる。
――森の中……かしら?
全身に何かが巻き付いていて、身動きできない。
――落ち着くのよ、シャーロット・ヴェルデ・アマグスタニア。
暗闇に目が慣れてくると、己の置かれた状況がぼんやりと感じ取れた。
木の根元に座らされ、幹に蔦で括り付けられている。
身じろぐと、蔦がまるで意志を持っているように蠢き、全身に食い込んだ。
縛られた箇所が火照り、シャーロットは悩ましげなため息を落とした。
「ご気分はいかがですかな?」
クラウスがカンテラを揺らめかせながら、興味津々とばかりにシャーロットを矯めつ眇めつする。
彼の背後には、城塞を襲った魔狼とは比にならないほど巨大な魔狼が、数体控えていた。
「こんなことをして、何になるというの……?」
クラウスの父親――ロンディア侯爵は反国王派だ。
親に倣って、王族であるシャーロットを敵視するのは頷ける。
しかし今やシャーロットは降嫁する予定の身。王位継承権のない己を亡き者にしても、反国王派に利はない。
そして、ジョナサンは中立派だ。おまけに王国随一の戦力を誇る一族の次期当主である。
喧嘩を売るだけ損をするのは、火を見るよりも明らかだ。
身を滅ぼしかねない暴挙に出る意図が理解できない。
クラウスはシャーロットを見下し、薄ら笑う。
「ただの嫌がらせです」
「何ですって……?」
クラウスはシャーロットの太ももに手を這わせた。
嫌悪感に肌が粟立つ。手を避けようとして、身じろぐとドレスごと蔦でさらに締め上げられ、痛みにシャーロットは顔をしかめた。
「俺の誘いを断るだけでなく、恥までかかされた報復です」
「貴殿には、次期ロンディア侯爵としての、誇りはないの?」
「誇り? ……そんなものを後生大事にしているのは、王族や頭の固い国王派どもだけですよ」
クラウスは口角を引き攣らせ、拳を振り上げる。
「アマグスタニア内の伝統? 権力? そんなもの、何の価値もない」
「貴様、我が王家を愚弄する気か」
シャーロットは菫色の瞳に激情を滲ませた。
クラウスは幼子に言い聞かせるような猫なで声で、
「結局、世の中、金なのですよ。その証拠に、ロンディア侯爵家は領地内で特産品を生産、国内外へ流通させることで、潤っております。……のんきに権力の座にあぐらをかいている王族や国王派の古狸どもよりも、俺たちは、国の安寧を保つべく、領地経営に励んでいるのです」
それなのに、お前たちは俺を侮った。
許せるはずがないだろう。
クラウスは歯ぎしりし、恨み辛みを吐き出す。
「俺の話が理解できていないようですね。まあ、いいです。貴女に求めているのは餌としての役目ですから」
彼がカンテラを振ると、独特な甘い香りがした。
魔狼たちは鼻をひくつかせ、シャーロットを半円状に取り囲む。
「殿下の変わり果てた姿を目にしたら、ヴォルフガルトの狂犬は、どんな顔を見せてくれるのか楽しみです。ああ、その前に、この場へたどり着けるか、見物ですがね」
「彼に何をしたの……?」
「いえなに、森の至る所に魔獣を興奮させる薬を撒いただけのこと。今頃、荒ぶる魔獣どもが城下街に押し寄せ、阿鼻叫喚の嵐を巻き起こしていることでしょう」
――自分勝手な恨みを晴らすだけでは飽き足らず、無辜の民を巻き込むなど、貴族の風上にも置けなくてよ。
ジョナサンが魔獣の強襲に倒れることなどありえない。
わかってはいても、心臓が嫌な感じで早鐘を打つ。
歯噛みするシャーロットの視界から、クラウスが消え、代わりに、獣臭い吐息が間近に吹きつけた、その時――。
「貴族の誇りなど意味がない。……その意見には賛成だな」
凜とした声が響いた。
続いて、ズル……、ズル……と、何かを引きずる音が続く。
暗い森の中からジョナサンが現れた。
全身、どす黒い血にまみれている。本人はいたって平気な顔をしているので、魔獣の返り血なのだろう。
ジョナサンは手にした魔獣の首をその場に捨てた。
巨大な魔狼たちが牙をむくも、意に介することなく、シャーロットへ近づく。
唸り続ける魔狼たちに、ジョナサンは紅い瞳を見開き、一言。
「失せろ」
魔狼たちは怯む。そのうちの一体がジョナサンに噛みつこうとした。
しかし。
次の瞬間には、首が宙を舞い、鮮血が宙に弧を描く。
ドスンと鈍い音をたて、口を開いたままの魔狼の頭部が転がった。
ジョナサンはふたたび紅い瞳を魔狼たちに向ける。
瞳孔が細く収縮していた。
「失せろ」
魔狼たちは耳を伏せ、尻込みする。
一歩、二歩、ジョナサンから視線を外さず後退し、充分な距離を取ってから、一目散に森の奥へと逃げ去った。
「おい! 逃げるな、戻ってこい!」
クラウスが金切り声をあげ、必死にカンテラを振り回す。
しかし、魔狼が姿を現すことはなかった。
ジョナサンはシャーロットを拘束する蔦に、剣を一閃させる。
蔦が瞬時に切り刻まれた。
「無事でよかった……」
ジョナサンは、心底安堵したといわんばかりに、シャーロットを抱きしめた。
あたたかい体温と香りに包まれ、シャーロットは涙ぐむ。そして、血で汚れたジレに顔を埋めた。
「クラウス殿」
ジョナサンに名を呼ばれ、クラウスがびくりと肩を震わせるも、すぐさま、唇を歪め笑った。
「城下の民を犠牲に女を助けに来たのか? 魔獣まじりは野蛮でいただけないね」
「犠牲……? ああ、やんちゃな野犬どもは、父上ひとりで相手をしていたぞ」
「男爵が……馬鹿な不在のはずでは」
「野生の勘ってやつかな。急遽、領地の巡視を中止なさったんだよ」
ジョナサンは肩をすくめた。そしてシャーロットを抱えたまま、クラウスの顔をのぞき込む。
「俺に喧嘩を売るなら好きにしろ。いつでも受けて立つ……ただし、今後、殿下や城下の者たちに手を出したなら……判っているだろうな」
全身血まみれの狂騎士は、にっこりと笑った。
その瞳はどこまでも冷酷な光をたたえている。
クラウスは尻餅をつき、「は、はひ……」と、全身をガクガクと震わせた。
戦意を喪失したクラウスから、ジョナサンはシャーロットに視線を移す。
「殿下?」
シャーロットは両腕で自身を抱きしめ、身体の震えを押さえようと必死である。
蔦の拘束が解かれても、全身がだるく、息苦しい。
解放された反動で、熱が出たのかと疑うも、経験したことのない疼きが身体の奥でくすぶっている。
学舎前で魔狼に襲われてからの記憶が曖昧だ。
気を失っている間に、クラウスに何か飲まされたのかもしれない。
「殿下、もうしばし、ご辛抱を」
ジョナサンが優しくシャーロットへ囁いた。
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