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第四章 母の故国に暮らす

湖畔のひととき

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「おー、久し振りだなぁ。今年は少し水量が多いか?」
「祈願祭後にだいぶ雨が降ったから、その所為かもな」

 目の前の景色に圧倒される私とは違い、来慣れているレナート達の反応は平坦なものだ。けれど、それがかえって、この国で生きる彼らの中に私も入れてもらえたと言う実感を強くさせた。

「素敵な場所ですね、キリアン様」
「雪解け水が溜まることで、この時期だけ現れる湖なんだ。この時期を逃せばまた来年まで待たなければならないから、ぜひ君にも見せたくて」
「私に、ですか?」

 まさかキリアンから出るとは思わなかった意外な言葉に、私は失礼ながら目を丸くする。
 これまでキリアンには、王子と言う立場からは礼も含めて様々によくしてもらったけれど、これは恐らく、そう言った立場を抜きにしたものだ。
 お忍びだからか親しい者ばかりであるからか、普段よりずっと砕けた物言いも、今のキリアンは、王子ではなくただのキリアンと言う名の一人の青年なのだと私に知らしめて、私の心が温かくなる。

「レナートの奴は面白くなさそうな顔をしたが、俺だって、個人的に君に礼くらいしたいさ。……と言っても、俺にできるのはせいぜいこれくらいな上、結局、君には不自由をさせてしまっているんだが」

 不自由、と言って私の髪を見つめるキリアンの表情には、わずかな後悔が滲んでいた。
 その表情の意味が分からず私が小さく首を傾げると、キリアンは、ふっと力を抜くように苦笑を浮かべる。それはまるで、私には敵わないと言っているようで、ますます私は首を倒してしまう。

「本当なら、君には君のままで外出をさせてやりたかったんだ。それが、俺の力不足で変装をさせることになってしまった」
「そんな。私は、凄く楽しいですよ?」
「ああ、分かっている。髪色を変えることに抵抗があるんじゃないかと心配していたから、まさか君があんなに喜んでくれるとは思わなくて、ほっとしているよ」

 そこまで言われて、私はようやくキリアン達が何を気にしていたかに気付いた。
 これまで私は、幾度となく髪を黒に染めてきた。いや、染めさせられてきた。それこそ、元の髪色の自分の姿を想像できなくなるくらいには、定期的に。徹底的に。
 今回の場合は染めることで色を変えているわけではないけれど、髪色が変わることは同じ。その為、髪色を変えることで、私がアルグライスでのことを思い出して辛い気持ちになることを懸念していたのだろう。

「心配、してくださっていたんですね」
「俺よりも、レナートの方がよほど心配していたがな。あいつはどうにも、君には過保護になりやすいらしい」
「過保護って……そんなことはないと思いますよ?」

 けれど、なるほど最初にレナートが私に声を掛けた時、彼が安堵しているように感じたのはその為か。私を揶揄ったのも、嫌なことを思い出させないようにと言う、レナートなりの配慮だったのかもしれない。
 もっとも、それにしては大袈裟に褒め過ぎだし、芝居がかった仕草もやりすぎだと思うのだけれど。あれでは、私がうっかり過剰に反応しても仕方がないと思いたい。
 ともあれ、私が嫌な気持ちにならずに遠乗りへ出掛けられているのは、そんなレナートの気遣いがあったお陰と言えなくもなさそうだ。

「だったら、あとでレナートさんにお礼を言わなくちゃいけませんね」
「君が楽しんでいる姿を見せてやれば、それだけで十分だろう」
「……じゃあ、キリアン様にはお礼をちゃんと言っておきます。こんな素敵な場所に連れて来てくださって、ありがとうございます」
「そう言ってもらえると素直に嬉しいよ、ミリアム」

 互いに笑顔で顔を見合わせ、私はキリアンに手伝ってもらいながら、レイラの背から降りた。
 少し先へ進んだところで同じく馬から降りたオーレンが手招きをするのを見て、私は一度、レイラを見上げる。
 ウゥスを見送ったその足で厩舎へ行った際には、私の髪色がレイラの嫌いなレナートと同じ色になっていたことに不機嫌を露わにしていた彼女も、今はすっかり機嫌を直して大人しい。むしろ、私同様初めて来た場所に対して興味津々で周囲を窺って、実に楽しそうだ。

「初めての場所だし、あんまり遠くへは行かないでね、レイラ」

 鼻面を撫でてそう言えばレイラは素直に首を縦に振って、行ってきますと言うように私に顔を寄せると、ご機嫌で森へと駆けて行く。

「大丈夫かな……」
「この辺りは、毎年できるこの湖が動物達の水場になっていることもあって、禁猟区域に指定されているんだ。森の奥にある柵から向こうは猟区になっているが、それさえ気を付ければ大丈夫だろう。それに、アシェルもフィンもここはよく知っている。レイラのことは、二頭がちゃんと見ていてくれるさ」

 キリアンも、いつの間にか城からフェルディーン家へやって来ていた、彼の愛馬であるアシェルの首を軽く叩いて労い、彼がレイラの後を追っていくのを見送った。
 ちなみに、当然ではあるのだけれど、警備兵団に所属する一兵士でしかないオーレンの馬は、グーラ種ではない。その為、彼の馬だけは勝手にいなくなってしまわないよう、木にしっかりと繋がれていた。

「俺達も、食事にしよう」
「はい」

 出発した頃にはまだ東の空をゆっくり昇っていた太陽は、今はすっかり真上から地上を照らしている。ここへの道中も、私が初めて訪れる場所と言うこともあって度々足を止めた為、随分と時間をかけてしまったらしい。
 食事と聞いて思い出したように空腹を主張し出した胃を押さえ、私はキリアンと並んでレナート達の元へと向かった。

 到着したその場所では、レナートとオーレンによって手際よく準備が整えられており、木陰に敷いた敷布の上に、屋敷で用意してもらった料理が綺麗に並べられていた。
 細く刻み、カリカリになるまで焼いたじゃがいもに、木苺のジャム。焼いた腸詰肉、干し肉にチーズ、酢漬けの野菜にパン。それに、オーレンが持参しその場で皮を剥いてくれた柑橘の果物……軽食と言いつつ三人もの男性がいる為か、胃をしっかり満たさないまでも、量はそれなりにある。更には、ちゃっかり道具を用意していたレナートが珈琲まで淹れてくれて、敷布の上は実に賑やかだ。

「紅茶はないのか、レナート」
「嫌なら飲むな」
「ちなみに今日の豆は?」
「これ……もしかして、この間私が好きだって言った珈琲ですか?」
「嘘だろ。ミリアムまで珈琲好きに……!?」
「ミリアムが何を好きになろうといいだろうが」
「ふふ。安心してください、キリアン様。私は紅茶も珈琲も両方好きですから」

 何てことだと大袈裟に天を仰ぐキリアンに私が笑い、オーレンが同情の眼差しを寄越し、レナートが不機嫌に口を曲げる。
 私達以外にも、この期間限定の湖の美しさを見に来たらしい人々がまばらにいる中、私達は珈琲一つとっても賑やかすぎるほど賑やかに、心地のいい木陰での食事を楽しんだ。
 そうして、綺麗な景色と共に食事を楽しむこと、しばらく。何の気なしに見た近くの草むらに、私はあるものを見つけて立ち上がった。

「どうしたんだ、ミリアム?」

 数歩進んだところでしゃがみ込んだ私のあとを、レナートが付いて来て首を傾げる。

「よく食べていた草を見つけて、懐かしくなってしまって……」
「草?」

 私の上から地面を覗き込むレナートへ、私は地面の一点を指差した。
 そこには、何の変哲もない雑草が生えている。羽のような深い切れ込みを持つ楕円形の葉がわさわさと茂って、存在感だけはそれなりにあるけれど、それ以外には大した特徴のない草だ。アルグライスでは、比較的ありふれたものだったと記憶している。

「この草です」
「それを……食べて?」

 声にすら怪訝を含ませるレナートに、私は思わず小さく笑う。何を言っているんだと思われても、それは仕方がないだろう。私でさえ、衣食住が過不足なく与えられた普通の暮らしをしていれば、わざわざ食べようとは思わないものなのだから。

「なになに? 雑草がどうかしたの、ミリアムちゃん?」
「リンドナー家にいた頃、よく食べていた草がここにも生えていたんです」
「……えー……と。この……雑草、を?」

 一瞬、どう反応すべきか迷うような間があって、オーレンが葉を一枚千切り取った。目の前へ持って行ってしげしげと眺めるけれど、どこからどう見てもただの草である。
 オーレンまでもがレナート同様に怪訝な顔つきで私を見るものだから、私は少しばかり慌てて手を振った。流石に、頻繁にこの草を食べていると思われては、私のリンドナー家での生活についていらぬ誤解を生みそうだ。

「あの、食べていたとは言っても、道端じゃなくてちゃんと庭に生えているものでしたし、食べる前には洗っていましたし、毎日食べていたわけでもないですからね? この草って、とっても――」

 私が言葉を続けるにつれてレナートが片手で顔を覆って俯く隣で、オーレンが徐に手の中の草を口に入れる。それを見て、私は反射的に「あっ」と声を上げていた。
 次の瞬間。

「――にっっっっが!! えっっっっぐ!! えっ!? 何これ、毒草!? 人間が食って大丈夫なもんっ!?」

 オーレンが思い切り顔を歪めて、口に入れたものを勢いよく吐き出した。それでも口の中に苦みが残っているのか、うへぇと顔を顰めて、残っていた果実を急いで口に放り込む。

「大丈夫か、オーレン?」
「無理。ミリアムちゃん、嘘だろっ! 本当にこれ食べてたの? 人が食べていい味じゃないんだけど! それとも、茹でたら実は美味くなるとか?」

 心配するキリアンの隣で、一瞬にしてげっそりとしてしまったオーレンの信じられないと言う顔に、私は苦笑しながら首肯した。

「食べていましたよ。屋敷では、私は火を扱わせてもらえなかったので、生で。凄く苦いんですよね、この草」

 そう。私が説明する前にオーレンが口に入れてしまった為に言いそびれてしまったのだけれど、とてつもなく苦いのだ、この雑草。
 恐らく、正式な名前はあるのだろう。けれど、それを知らない私は勝手に苦草と呼んでいるもので、初めて口に入れた時はオーレン同様、あまりの苦さに一度は吐き出してしまったくらいには、ほんのわずかな量でも猛烈な苦みが口中に広がる。

「そんなに苦いものを、君は食べていたのか?」
「げぇ。何その苦行」
「まさか、こんなものを食べて凌がなければならないほど、飢えさせられていたんじゃないだろうな、ミリアム?」

 驚き、萎え、怒り。三者三様の表情でこちらへ集まる視線に、私はひとまず笑って首を振る。特に、やはりリンドナー家は許し難いときつく拳を握るレナートに対しては、違いますとはっきり口にして、レナートの怒りを宥めた。
 もっとも、それは次に私が口にした言葉で、あっさりと無に帰してしまったのだけれど。

「紛れたんです、この草を食べると」
「紛れた?」
「はい。体中の痛みや、空腹……それに、母がいなくて辛い気持なんかが。この草を食べている間だけは苦いことしか考えられなくなるので、気を紛らわせるのにちょうどよくて」

 酷い折檻によってできた傷が痛みを発して熱を持ち、なかなか寝付けなかった夜。まともな残飯すら出ず、殆ど何も口にできなかった日。隙間風が女性の悲鳴のような音を立てて吹き込んで来る夜や、さめざめと泣くような雨が屋根裏を濡らす日を一人で耐えなければならなかった時。
 私は藁ベッドのシーツにくるまって、一口一口ちまちまと口に入れては、苦みに顔を顰めて気持ちを紛らわせた。そうしていればいつの間にか寝入ってしまい、気付けば朝を迎えていて。
 その頃には傷の痛みは寝る前よりましになったし、空腹はすっかり麻痺して感じなくなっていたし、新しい一日が始まったと思えば母の不在も気にならなくなった。

 そうやって耐えて来られたからこそ今があると思えば、懐かしさと共に改めて母への感謝の思いも溢れてくる。
 私に最初にこの草の存在を教えてくれたのは、母だったのだ。花の蜜をこっそり吸う過程で、葉にも甘いものがありはしないかと、母はあれこれ少量千切っては食べることを繰り返していた。その中で、母がこれだけはどれだけ空腹でも二度と食べないと誓ったのが、この苦草だった。
 甘いもの好きな母には、およそ耐えられない苦みだったのだろう。かく言う私も、教えてもらってすぐ、好奇心に負けて口にして感じた猛烈な苦みに、二度と口にしないと強く思ったものだ。
 けれどまさか、その体験が意外な形で役に立ち、私を助けることになるとは思いもしなかった。

 もっとも、回を重ねる毎にその苦みに慣れてしまった私は、いつしか苦草一種類では物足りなさを感じて、様々な苦みや辛み、えぐみを持つ草をまとめて口に入れるようになっていたのだけれど……これは、レナート達には言わない方がいいのだろう。
 私の予想に反して、とてもではないけれど恥ずかしくも懐かしい思い出として語り続けられる雰囲気ではなくなった三人の深刻な表情に、私は自分の失態に気付いて視線を泳がせた。

「あ、あの! 今は、そんなことしようとは思っていませんから、ねっ?」
「当然だ」

 場を和ませようと笑って付け加えれば、レナートに鋭い視線と共に即答されて、その勢いに私は思わず肩を竦める。
 そのまま二人からもお叱りの言葉が飛んで来るかと視線を下げて身構えたところで、予想に反して私の耳朶を打ったのは、レナートの盛大なため息だけだった。ただし、それは安堵ではなく呆れや苛立ちが感じられるもので、ああ、これは三人を代表してレナート一人から更に叱られる流れだと、私は瞬時に悟る。
 さて、彼の口からは一体どんな言葉が飛んで来るのか。

 私が心して言葉を待っていると、不意に視界が暗くなった。それがレナートの影によるものだと理解した瞬間、私の体が反射的に強張る。一瞬にも満たない刹那に脳裏を過ったのは、痛みの記憶。
 けれど、無意識に歯を食いしばり目を瞑ってしまっていた私を襲ったのは、温かな抱擁だった。はっと目を開いた私の視界に見えたのは、レナートの肩。先ほど淹れてくれた珈琲の微かな香りが鼻腔をくすぐり、慌てた私が浮かせた頭は、優しく撫でながらも肩口に押し付けられる。

「まったく……君はどうして……」

 続く言葉はため息に消えてしまったけれど、その声の調子からどうやらレナートは怒っているわけではないらしいと分かって、私はレナートの腕の中でほっと力を抜いた。
 私を抱き締める腕に身を委ねるように目を伏せながら、同時に、言葉より行動で示した方が伝わると言って、レナートが私を抱き締めてきた時のことを思い出す。あの時は混乱が強くて伝わるものも伝わらない状態だったけれど、今ならあの時のレナートの言葉の意味が分かる気がした。

 私の体に回された両腕の温もりからは、レナートの優しさが強く感じられる。私を心配する気持ちも、私の過去に対して抱いた痛ましい思いも、過去を笑って話したことへの安堵も、ここへ来たことへの少しの後悔も。今レナートが抱いている思いが、はっきりと私へ伝わってくる。
 触れた布越しにレナートの心音も感じるような気がして、私は自然と顔を綻ばせた。こんなにも心配してくれる人がいる私は、とても幸せ者だ。

「レナートさん。私は、大丈夫ですよ。今はこうして、私のそばに皆さんがいてくださるんですから。もちろん、レナートさんも」
「……ああ」
「はい」

 顔を上げた私の背を撫でてようやく腕を解いたレナートと間近で見合い、ほっとしたように笑うレナートと笑顔を交わし合う。最後にレナートの手が私の頭をぽんと撫でれば、その更に頭上からオーレンの笑い声が降って来た。

「いやぁ、ミリアムちゃんはお兄様を心配させる天才だねぇ」
「えぇっ。私、そんなつもりは……」
「言ったろう、過保護な奴だと」
「もう、キリアン様まで」

 先に立ち上がったレナートから差し出された手を取りながら、私は笑う二人を交互に見て頬を膨らませる。けれど、それ以上オーレンが揶揄うこともなければ、レナートが二人へ向かって文句を言うこともなく、穏やかな笑いの空気が私達の間に流れた。
 そうして、私とレナートがしゃがんでしまったことで付いた土汚れを払ったところで、オーレンが場を仕切り直すように、さて、とその手を一度軽く叩く。

「んじゃ、飯も食ったし、次は散策と行こうぜ。ミリアムちゃんが喜びそうなものも生ってると思うし」
「今年の出来はどうだろうな?」
「この辺りには、何かあるんですか?」
「行ってからのお楽しみだ」

 流石は、この場に来慣れているだけはある。三人は目を瞬く私を楽しげに見つめるだけでそれ以上は何も言わず、その場に広げていたものを手早く片付け始めた。その手際も実に慣れたもので、私が手伝う間もなくあっと言う間に荷物は一つにまとめられ、そばの木に繋いだオーレンの馬へと積まれてしまう。
 最後に三人が腰に剣を帯びれば、準備は完了。私達は、湖岸に沿ってこの美しい湖と森を楽しむ為に、揃って歩き出した。
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