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第四章 母の故国に暮らす

素敵な変装と遠乗り

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 柔らかく丁寧な手つきで髪を梳かれる度、頭部がじんわりとした熱に包まれていく。
 やがてその熱は、頭部と言わず梳いた髪全体へと伝播する。目を閉じてその温かさを感じていると、朝食を食べ終えたばかりだと言うのに、うっかり眠りへと誘われてしまいそうだった。

「さあ、できましたよ。リーテの愛し子」

 徐々に熱が引き始めた頃、いかにも楽しげにそう声を掛けられて、私はきつく瞑っていた目を恐る恐る開いた。
 まず見えてきたのは、テーブルに置かれた鏡に映る自分の胸元。そこからゆっくり視線を上げて顎が見えた時、同時に視界に入った色彩に、私は目を瞬いた。

「……っ」

 そのまま勢いよく視線を上げ、普段は見ることを避けている筈の自分の顔をまじまじと、それこそ食い入るように見つめる。
 そこに映っていたのは、癖のない真っ直ぐに伸びた金の髪。それが私の頭部を眩しく彩っている姿だった。
 確かに自分の筈なのにまるで自分だとは思えない姿に、私は思わず手を持ち上げる。鏡に私の手が映り込み、その手が髪に触れると同時、私の指先にも何かが触れる感覚が伝わって来た。指を動かせば、さらりと髪が指の間を踊る。鏡に映る私の手は同じ動きをして、触れる髪の動きも同じだ。鏡の中の手は私のもので、髪も私の髪であることは疑いようがない。けれどそれを見ても、本当にこれは私なのかと思わずにはいられなかった。

 信じられない気持ちのまま、一房掬い上げた髪を悪戯に指先から零してみる。さらりと流れるように落ちる金糸は、嘘のように美しい。何度手櫛で梳いてみても指が引っかかる様子もなければ、いつものように毛先に行くに従って空気を含み広がっていく様子もなく、滑らかな指通りのまま、すとんと真っ直ぐ落ちていく。

「ふあぁ……!」

 感動のあまり、思わずおかしな声が出てしまった。けれど、それくらい劇的に変化しているのだ。あまりに違い過ぎて、本当の本当にこれが自分の髪かと疑ってしまいたくなるくらいに。
 けれど、髪に指が触れる度に頭皮へ伝わってくる感覚は、確かにその金糸が私の髪だと知らせているのだから、ただただ驚くばかりだ。

「凄い……」

 ありきたりながら、私にはそれしか言葉が見つからなかった。

「どうです? お気に召していただけましたか、リーテの愛し子」

 鏡の中の私の隣にぬっと糸目が現れて、笑顔で問う。
 先端が尖った特徴的な耳に、鮮やかな薄水色の髪――私が初めて会った聖域の民、ウゥス・トゥウルである。
 茶会から四日を数えたこの日、ウゥスは朝の早い時刻にフェルディーン家へと呼ばれ、私達が朝食を終えるのを待っていたのだ。ややもすると非常識と言われかねない呼び出しにも拘らず、ウゥスは嫌な顔一つせず、それどころか朝食を終えてやって来た私達に対して上機嫌に微笑んで、呼び出しを喜んですらいた。
 そんな彼の手には現在、一見何の変哲もないブラシが握られている。それは先ほどまで、私の髪を梳いていたものだ。けれど、この至って普通に見えるブラシが、髪を梳いただけで、あっと言う間に私の緑の髪を見事な金髪へと変えてしまった。

 俄かには信じがたいけれど、その信じがたいことをこのブラシがやってのけたことは、紛れもない事実だ。何故なら、私の前にキリアンがそのブラシで髪を梳かれ、髪色を黒から鮮やかな明るい藍色へ、その髪質を癖のないものからレナートに似せて波打たせたものへと変える様を、私は実際に目にしたのだから。
 けれどまさか、私の緑の髪を全く色の違う煌めく金の真っ直ぐな髪へと、こんなにも見事に変えてしまうとは思わなかった。

「お……驚きました。本当に、綺麗にすっかり変えてしまえるんですね! こんな道具を作り出せてしまうなんて凄いです、ウゥスさん!」
「いえいえ、それほどでもありませんよ。ですが、これほど喜んでいただけるとは、私も張り切った甲斐があると言うものです」

 原理の詳しい説明はなかったものの、私とキリアンの髪をすっかり別物へと変えたブラシは、ウゥスが聖域の民の力を使って作り出した道具なのだ。昔、ウゥスがお遊びで作ったところ当時の王族の目に留まり、それ以後、主に王族のお忍びに際する変装に利用されているのだとか。
 当初は単純に、髪色を同系色の別の色へと変えるものだったそうだけれど、王族の要望で度々改良が重ねられ、現在のように髪色と髪質とを全く別物へも変えられる便利なものへと変わっていった。ただし、改良を重ね過ぎた結果ウゥスにしか扱えない道具となってしまった為、その点だけは不便になったと言えるかもしれない。

 そんなわけで、今日の遠乗りでもその道具を利用すべく、ウゥスはフェルディーン家へと呼び出されたのである。
 ちなみに私まで変装することになったのは、念の為の警戒と、遠乗りへ行く面々の誰かと兄妹に見えた方が面倒が少なくて済みそうだと言う理由から。そして、色が金なのは私がその色を指定したわけではなく、ウゥスですら「でしたら、騎士殿と同じお色で」と言うくらい、当然のようにレナートが私の兄役に指名されたからだ。
 私の意見が全く聞かれなかったことに思うところがないわけではないけれど、素晴らしいでき上がりを見せられては、文句など言える筈もない。むしろ、ひたすら感謝をする勢いだ。

「効果はおよそ半日です。とは言え、日が出ている間は確実に持続しますので、気兼ねなくお出掛けなさっていただいて構いません」

 飽きもせず鏡の中の自分の姿を見つめる私に、ウゥスが微笑ましげに顔を綻ばせつつも説明を続ける。そうしながら、失敬と一言断りを入れ、普段より格段に私の動きに素直な横髪を掬い上げた。

「風に靡いて邪魔になってはいけませんからね」

 言いながら、ウゥスは私の髪を手際よく櫛で梳いて整え、手早く編んで頭の後ろで留めてしまう。その手つきは実に慣れたもので、私は思わず鏡越しにウゥスの仕事振りに見入ってしまった。
 ウゥスがその見た目に寄らず随分と長生きであることを知ってはいても、どうしても見た目の印象に引っ張られて意外に思えてしまうのだ。お守り屋の店主としての姿しか見たことがなかった分、余計にこう言ったことに器用なウゥスの姿は私の意表をついて、実に新鮮だった。

「よくお似合いですよ、リーテの愛し子」

 髪の出来栄えを検めるように私の正面へと立ったウゥスが、自分の仕事に至極満足そうに頷く。私も改めて鏡の中の自分の姿を見つめ、ウゥスに結ってもらった髪を確かめ、やはり何度見ても自分とは思えないその姿に、頬を緩める。と言うより、勝手に頬が緩んでしまう。
 そんな浮かれた気持ちのまま私が飽きもせず鏡を見ていると、不意に鏡の端に私とは別の金髪が入り込んだ。視線を上げれば鏡越しに深い青の瞳と目が合い、どこか安堵が覗く笑みが向けられる。

「随分気に入ったんだな、ミリアム」
「はい! だって、全く違う色に変わったんですよ、レナートさん! 見てください、この髪! 別人じゃないですか! これはもう、変装じゃなくて変身ですよ!」

 見たこともない素敵なドレスを身に纏い、テレシアの手でそれに合う化粧を施された自分の姿にも舞い上がるほどの高揚感を感じたことはあったけれど、今日のこれはまた別格だ。着ている服は普段着だと言うのに、着飾った時とは比べ物にならないこの別人感たるや、いまだかつて経験したことがない。
 その気持ちのままに両拳に力を込め、私は頬を上気させる勢いで言い放つ。そうすれば、レナートはおかしそうに噴き出して、その手を私の頭に乗せた。

「そうやってはしゃぐと、いつものミリアムだけどな」
「流石の私も、人様の性格までブラシ一つで変えるすべは持ち合わせておりませんからね」

 そのままレナートにいつものように頭を撫でられ、ウゥスに至極もっともと言わんばかりに頷かれて、私は思わず頬を膨らませる。

「もうっ。人がせっかく素直に感動してるのに!」
「悪い、悪い。そうだな、普段のミリアムとは別人に見えるよ」

 私が頭を撫でるレナートの手をぺいっと叩き落とせば、レナートは苦笑しながら降参するように手を挙げ、肩を竦めた。けれど、明らかに私の反応を面白がるレナートの態度は、私の機嫌を直すどころか反対に眉を吊り上げさせるだけで。

「レナートさん、本当にそう思ってます?」
「勿論」

 訝しむ私に向かってレナートは大仰に頷き、その手を私の背に流れる髪へと伸ばした。そっと一房を掬い上げると、色艶を確かめるように指の腹で優しく撫でる。
 さらさらと、零れる砂のようにレナートの手の中から髪が落ちる様に目を引かれていれば、どこか感じ入った様子のレナートの声が、思ったよりも近くから聞こえてきた。

「……綺麗だよ。ミリアムに、よく似合っている」

 距離の近さ故に抑えられた声は普段よりもわずかに低く、さながら呟くような一言には吐息も混じり、意味もなく私の心臓が跳ねた。
 ウゥスと同じで、あくまで髪を褒めただけの一言なのに私の頬には勝手に熱が集まり、そんな反応をしてしまった自分に対して、たちまち羞恥が駆け上る。鏡越しにレナートがこちらを見ていることにも気付いて、私は礼も言わずに慌てて顔を逸らした。

 鏡越しとは言え、そこに映った私の顔は自分でも分かるくらいに赤らんで、レナートにだってはっきり知れたに違いないのだ。それこそ恥ずかしくて、いつまでも鏡の前にこの顔を晒してはおけない。
 そんな私の耳に一拍を置いて届いたのは、思わずと言った風にレナートの口から零れた小さく笑う音。それから、そのことを謝罪するように、また私を宥めるように頭に優しく触れた温かな手だった。
 先ほどまで私を揶揄っていたのに、まるでそれを忘れさせるようなレナートの態度は、私の体温を余計に上げた。今以上に熱を感じる頬に私は頑なに顔を逸らし、椅子の上で身を縮め、跳ねる心臓を落ち着かせることに必死になる。
 そしてそれは、侍女が昼食用にとしっかり包まれた軽食を持って来るまで、変わることはなかった。

「……今日は実に、よい風が吹きそうですね」

 やがて、すっかり椅子の上から動かなくなった私を尻目に、手早く道具を片付けたウゥスが窓の外の晴れ渡る空を見て、楽しげにそう呟いた。

 *

 穏やかな日差しの下を心地いい風が吹き、規則的な蹄の音がそれに彩りを添える。
 私とキリアンの髪色を変え終えると、用は済んだと早々に屋敷を辞すウゥスを見送り、私達は今、緑の中を進んでいた。
 遠乗りの目的地は、王都の南東方向にある都市ブラウネル、その外れにある森だ。キリアン達もこれまで度々訪れたことのある場所で、この時期にしか見られない景色があるのだと言う。

 フェルディーン家を出発して王都中心街の外れでオーレンと合流後――案の定、オーレンはしばらく私の髪色について不平を零し続けた――時折休憩を挟みながら、私達は時に街道を、時に道なき道を、森を目指して気ままに馬を走らせた。
 郊外の青々と茂る畑を通り過ぎ、小川を飛び越え、鹿の親子に遭遇し、小さな村をゆったりと眺めながら通り過ぎる。途中、大きな街道沿いを進んでいる際には、聖花祭へ向かっていると思しき人を乗せた馬車や荷馬車と、何台も擦れ違った。
 花の生育、開花状況によって開催日が多少前後する聖花祭は、今年は昨日、初日を迎えたのだ。

「ラッセさんは今頃、きっとお仕事の真っ最中ですね」

 多くの商人が訪れる花の祭典。それは、フェルディーン商会も例外ではない。私の旅行とは別に、ラッセも茶会の翌日には仕事の為に聖花祭へと向かっていた。
 その日の朝、屋敷に一泊した面々を含めた賑やかな朝食の席で、イーリスから聖花祭への旅行に誘われた際、仕事のついでに私のことを旅行に誘えばよかったんだと、全く思い付きもしなかったらしいラッセが盛大に落ち込んでいたことを思い出して、ふと彼のことを思う。
 仕事が終わり、都合が付けば私達と一緒に観光しようと約束をしてはいるけれど、その約束は無事に果たされるだろうか。

「そりゃ、仕事終わりのご褒美にミリアムちゃんとの観光があるんだ、張り切ってやってるだろ。……やっぱり俺もこっそり行くかなぁ、聖花祭」
「やめろ、オーレン。旅行先でまでイーリスを怒らせるな。俺の面倒が増えるだろうが」
「へいへい。分かってるっての」

 キリアンの一睨みに口を尖らせ肩を竦めたオーレンが、少しばかり馬の足を緩めて私に並ぶ。

「仕事もあるし、俺がこっそり行くのは冗談として。お土産はよろしくね、ミリアムちゃん! 超期待してるから!」
「はい、期待していてくださいね」

 片目を瞑るオーレンに笑顔で応じながら、私は明後日からの旅行へと思いを馳せた。
 観光旅行自体はこれまでの人生で何度か経験はあるけれど、友人が存在したためしのない私にとっては、友人と連れ立っての気軽な旅行は初めてのこと。イーリスに誘われた時には、とても嬉しく思った。保護者であるアレクシアに、行っておいでとその場で快諾してもらえたことにも感謝しかない。
 母の生家であるカルネアーデ家の屋敷が「救国の乙女の館」として残されており、今は神殿の管理する観光地の一つになっていると言う話には驚いたけれど、聖花祭と同じくらい、こちらを訪問することも旅行の楽しみの一つだ。
 もっとも、話を聞いた当初、私は久々に思い切り遠慮したのだけれど。

 何と言っても私は、ただカルネアーデ一族の血を継いでいると言うだけではなく、女神リーテに力を授かった泉の乙女なのだ。勿論、公にはそのことは伏せられているけれど、神殿には知られている。そんな私が神殿の管理する母の生家を訪れるなんて、いらぬ憶測を生み、新たな問題を発生させてしまいかねない。
 けれど、そんな不安と遠慮は直後に吹き飛ばされた。朝食の席にいる大人達全員によって。
 特にアレクシアには、子供が要らない心配をしているんじゃないと一蹴され、誘ってくれたイーリス本人には、私が足を踏み入れてはいけない場所なら誘う筈がないでしょうと呆れられてしまったものだ。

 おまけにオーレンからも、たまにはライサを見習って自分の思ったままに行動するのも大事だと言われてしまえば、遠慮もできなくなると言うもの。しかも、その意見に対しては、まさかのハラルドが同意を示して大きく頷いたものだから、私には行きます、行きたいですと返事をする以外に選択肢はなくて。
 最終的に、腹を括って観光旅行を思い切り楽しみ尽くすと決めてしまえば、あとにはただ旅行への期待と興奮が私の胸を満たして、勝手に私の頬を緩ませるのだった。

「レナートさん達にも、たくさんお土産を買ってきますね!」
「ああ、楽しみにしている。だが、ミリアムが旅行を楽しんできてくれれば、俺はそれだけで十分だからな?」
「勿論、目一杯楽しんできます!」

 私が力強く頷いたところで、不意に木漏れ日が途切れた。いつの間にか木々に囲まれた道を抜け、開けた場所に出ていたらしい。レイラの足を止めて見渡せば、下草の広がる先に、澄み切った水を湛えた湖が見えた。その色は、翠玉を敷き詰めたような、どこまでも深く澄んだ青緑色。
 今にも吸い込まれてしまいそうな神秘的な色彩に、私は呆然と言葉もなく見入った。
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