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第四章 母の故国に暮らす

湖散策、森の赤い実

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 まずは、改めて近くから湖を眺める。雪解け水によってできると言う性質上だろうか、水中を泳ぐ生物の姿はなく、湖はただただ静かに水を湛えていた。青緑色に美しく輝く水はどこまでも澄み渡り、私の目に湖底の様子をはっきりと見せる。

 湖岸から続くなだらかな傾斜が、やがて複雑な起伏と共に谷となって落ち窪み、濃い色の水の中へと沈んでいる。水が引いた後には緑が茂る場であることを示すように、湖底には緑の痕跡が点在し、流れ込む雪解け水と共にやって来たのか、命を終えた動物の骨が横たわって、まるで時が止まっているかのようだ。
 視線を左へ向ければ、少し先の湖岸が見える。そこには、水中から生えた木が水上で枝を伸ばして水面に影を落とし、野鳥が羽を休める姿があった。この近辺ではその場所が最も景色が美しい場所なのだろう、人の姿が他の場所より多く見受けられ、中には写生をしているのか、画架に掛けた画板を前に手を動かす人もいる。
 それは、実に長閑な光景だった。

 私達はそんな人々の前を湖岸に沿って横切り、更に奥へと道なき道を進む。いつからそこにあるものか、所々に苔を生やした巨岩を迂回し、少々きつい傾斜の斜面を上って小高くなった場所へと到達すれば、そこからは湖の様子が一望できた。

「わあっ!」
「その先は崖になっているから、気を付けろよ」

 勢いよく数歩を進んだところで、私の行動を予想していたらしいレナートからの鋭い一声に、私の足がぴたりと止まる。思わずレナートを振り返れば、彼は当然のように私へと歩み寄ってその手を握り、共に崖の縁まで進んでくれた。
 遮るもののない場所に、少し強めの風が吹く。髪を手で押さえながら恐る恐る足元を覗き込めば、レナートの言う通り下は切り立った崖で、その高さは私の身長の三倍は優に超えているように見えた。たとえ落ちたとしてもそれで死ぬことはなさそうだけれど、少し前に触れた水は思いの外冷たく、すぐに上がれそうな岸も近くには見当たらない為、落ちればただでは済みそうにない。

 何より、私にはろくに泳いだ経験がないのだ。平民に生まれた時には川に入って遊んだり、湖の岸辺の浅い場所に浸かったりしたことはあるけれど、果たしてその時泳げたかどうか。泳ぎを学んだ記憶自体も怪しいものだ。
 遥か下には変わらず美しさを湛えた水が陽光に煌めいているのに、足元から這い上がる、泳げないかもしれないと言う小さな恐怖に、私はわずかにレナートへと身を寄せた。そうしながら、顔を上げて景色へと意識を移す。

 自然の地形そのままに複雑な形を描く湖は、おおよそ湾曲した楕円を描いているようで、手前に張り出した岸に生える木々の向こうにも、梢の間から湛えられた水の煌めきが覗いている。
 そのまま、見える範囲の湖岸をぐるりと順に辿って行けば、対岸に近い場所に見覚えのある月毛色の馬の姿を捉えた。隣には、体格のがっしりした鹿毛もいる。鼻筋に一本すっと通った白斑は、フィンだろう。二頭仲よく湖面に顔を近付けて、水を飲んでいるようだった。もう一頭、アシェルの姿は近くには見えない。

「レナートさん! あそこにレイラとフィンがいますよ!」
「また随分な場所まで行ったな、あいつら」

 発見した喜びに声を弾ませる私とは対照的に、レナートはどこか呆れ気味だ。けれど、確かに言われて見れば、私達が最初に食事をした場所から現在レイラ達のいる場所は、随分と距離がある。それも対岸。幅こそ狭い湖の為にそこまで距離は離れていないように見えるけれど、湖を泳いで渡ったわけではないだろうし、移動距離はなかなかのものだ。
 それに、それだけの距離を二頭でずっと移動していたのだとしたら、随分と仲のいいことである。レイラは、レナートのことはあんなに嫌っているのに。

「俺は、アシェルにレイラを見ておくよう言ったつもりだったんだが……あいつはどこに行ったんだ?」
「アシェルは物静かな奴だし、張り切ってレイラにいいとこ見せようとはしゃいでるフィンとは、一緒に行動したくなかったんじゃねぇの?」

 二頭の周囲に目を向けながらキリアンが呟けば、その隣に立ったオーレンが軽く肩を竦めて口端を上げた。
 グーラ種の性格や行動は、本当に人間とよく似ているらしい。知らない人が聞けば、共通の友人の話をしているとでも思われそうなほど、交わされる会話は馬に対するものとは思えない。

「フィンとは違って、いくら自由行動を許しても無闇に主から遠く離れた場所へ行こうとはしない奴だしな、アシェルは」

 こちらもまた、その口から出るのは馬に対するものらしからぬ言葉。
 フィンの自由過ぎる振る舞いは頭痛の種だとばかりに顔を顰めたレナートが、仕方のない相棒だとぼやきながら、短く指笛を鳴らす。澄んだ音が響き渡り、その音が届いたのか、ややあってフィンの頭が上がるのが見えた。音の出所を探るように周囲を見回し、最後にくっと上った顔がこちらをはっきり認識する。
 試しに私が大きく手を振ってみれば隣のレイラも気付いたようで、こちらへと顔を向けるのがはっきりと分かった。そのことに嬉しくなって私が更に大きく手を振れば、レイラが同じように尻尾を左右に振って応えてくれる。その行動に、私は思わず破顔した。

「レイラもフィンも気付きましたね!」
「フィンの奴は罰が悪そうにしてるけどな」
「戻って来た時、どんな顔で誤魔化すか見ものだな、こりゃ」

 私達の現在地を知ったことで、彼らの方でも離れすぎたと理解したのだろう。私達が言葉を交わす間にレイラとフィンは移動を開始したのか、私が再び前方へ視線を戻した時にはその姿は湖畔から消えていた。
 吹く風に騒めく梢の音を耳に、私達も美しい景色に背を向けて、今度は森の中へと足を踏み入れる。

 そこまで木が密集して生い茂っているわけではない森の中は思ったよりも明るく、木漏れ日の中に様々な植物の鮮やかな緑が見えた。それに加えて、青い花や白の小花、黄に紫に薄紅と言った色とりどりの花の姿もある。
 そんな花々の間を素早く動くのは、栗鼠だろうか兎だろうか。もしかすると、針鼠もいたかもしれない。野鳥が頭上高く囀る声も静かな森の中で遠く近く響き、苔生した倒木に陽光が降り注ぐ景色は、まるで絵画のよう。王家の森とはまた違う森の姿に、私の視線は一所に留まることがなかった。
 やがて、あちらこちらを見る私の目が緑の中に明らかな人工物を見つけて、思わず足が止まる。

「レナートさん、あの奥に何かがありますよ」
「おっと。教える前に見つけられてしまったか」

 私が指差す方向に顔を向け、よく気付いたなとレナートが笑った。
 立ち止まった場所から少し歩いた先、細い倒木をいくつか越えた向こうに、開けた土地があるのだ。そしてその中央に、すっかり朽ち果てた小屋が一棟ぽつんと建っている。
 あった筈の屋根の大半は失われ、壁の多くも腐食の末に穴が空いて、小屋全体がすっかり植物に覆われている。以前は小屋の周囲を囲っていたと思しき柵も、ほんのわずかにその痕跡を残すばかりで、小屋が使われなくなってから相応の時が経過していることを知らせていた。

「レナートさんも気付いていたんですね」
「気付いた……と言うより、あそこが目的地なんだ」
「じゃあ、私達は、あの小屋を目指して歩いていたんですね。でも……どうしてですか?」

 見たところ、ただの朽ちた小屋があるだけの場所だ。小屋を建てる為に木をいくらか伐採したお陰で日当たりのいい場所になってはいるけれど、出発前にオーレンが口にしていたような「何か」が生っている様子はない。

「もう少し近付いたら分かると思うよ」
「あれは、猟師小屋でな。恐らく、禁猟区が定められてからは住む者がいなくなって打ち捨てられたんだろうが、住んでいた頃の名残が今もあるんだ」

 つまり、その名残が「何か」と言うことなのか。
 崖からずっと繋いだままのレナートの手に引かれ、私は足元に注意しながら小屋へと近付いて行く。
 小屋を左手に見ながら倒木を迂回して小屋の後ろへと回り込めば、そこにはまた別の景色が広がっていて、私ははっとレナートを見上げた。恐らくその時の私の目は、これでもかと輝いていたに違いない。顔を合わせたレナートが、思わずと言った様子で小さく噴き出す。

「ミリアムちゃん、好きでしょ。あれ」
「はいっ!」

 断定するオーレンに対して思わず力一杯返事をし、私は前方へと顔を戻した。
 朽ち果てた小屋の裏手には、地面を這うように茎を伸ばした植物が生い茂っている。そして、その青々とした葉の間に鈴生りに生って見えるのは、今が正に食べ頃と言わんばかりの真っ赤な実――苺だ。
 私は堪らずレナートの手を離して苺へと駆け寄り、その場にしゃがんだ。途端に甘い香りが鼻腔をくすぐり、勝手に頬が緩む。同時に、実を啄んでいた鳥や小動物が慌てて逃げる音もしたけれど、私の視線は目の前の赤い実に釘付けで、彼らに申し訳ないと思うことも忘れ、早速手近の実を摘まんで口の中へと入れていた。
 たちまち口の中に甘酸っぱさが広がり、その美味しさに顔がにやけてしまう。

「美味しい……っ」

 堪らず、木漏れ日に美味しそうに艶めく小粒の赤い実をもう一つ二つと摘んで手の平に乗せたところで、ようやくレナート達が追い付いた。

「豊作だなぁ、今年は!」
「リーテの恵みの雨のお陰だろう」
「これだけ実っているなら、籠を持って来ればよかったな」

 口々に言いながら、それぞれが思い思いの場所にしゃがんで、苺に手を伸ばす。
 私の隣へとやって来たレナートは、腰を落とすや否や、流れるような自然な動作で私の手の中の苺を摘まみ、止める間もなく口の中へと入れてしまった。

「あっ! 私の苺!」
「まだこんなにあるんだ。一つくらいいいだろう?」
「そう言う問題じゃありませんっ」
「うん、美味いな」

 一つになってしまった手の中の苺に、私は頬を膨らませてレナートを睨み付ける。けれど、レナートは全く気にすることなく目の前の熟れた苺をいくつか摘むと、口の中へと立て続けに入れてしまった。それも、私に見せつけるように。
 レナートが食べてしまった苺の中には、私が次に摘もうと思っていた一際真っ赤な一粒もあり、取られた悔しさが私の拳を握らせる。

「もう! レナートさんは別のところで摘んでください! 私の食べる分がなくなっちゃうじゃないですか!」
「俺に文句を言う暇があるなら、食べた方がいいんじゃないか? ほら」
「な――んぐっ」

 全く悪びれない態度に私が口を開けた瞬間、レナートが摘んだ苺を私の口の中へと放り込んだ。反射的に果肉を噛んで溢れた果汁の美味しさに、うっかり私は黙り込む。口中に広がる美味しさが私から一時苛立ちを掻き消し、思わず頬が緩んでしまう。
 正面のレナートは、そんな私の反応を実に楽しそうに窺っていた。にやけているようにも見える笑顔が、実に憎たらしい。

「美味しいか?」

 挙句、私が美味しくないとは言えないだろうことを見越して、そんなことまで聞いてくる始末だ。

(あああああ、もうっ!)

 何と意地悪な人だろう。けれど、口の中に入れられた苺は悔しいくらいに美味しくて、レナートの勝手な振る舞いに反して彼に対する怒りは萎んでいくばかり。それでも、素直に味の感想を言うのは負けた気分になるので、どうしても言いたくはなくて。
 結果、私はぷいっとそっぽを向いて苺を飲み込むことを選択した。更に、そのまま無言で苺を摘んでは食べ、摘んでは食べて、徹底的にレナートを無視する。ただし、その場だけは頑として動かずに。

「いやぁ、仲のいいご兄妹なことで」
「どこがですかっ。オーレンさんも見てましたよね? レナートさんは、私の摘んだ苺を勝手に取って食べたんですよっ? 私の! 苺を!」

 レナートから顔を背けた先にいるオーレンの揶揄のこもった一言に、私は顔をむくれさせながら、手だけでレナートを指差した。今、どんな顔をして私の隣で苺を食べているのかは知らないけれど、レナートのこと、どうせ反省なんてしていないに違いない。
 これがレナートの素なのだとしたら、私が王城で生活していた頃の彼は、私に対して随分と紳士の皮を被っていたことになる。もっとも、客人と騎士と言う立場があったので当然と言われてしまえばそれまでなのだけれど、それにしたって、私がフェルディーン家に来てからと言うもの、レナートは紳士の皮をすっかり脱ぎ去ってしまっているようで、嬉しいやら悲しいやら、少し複雑だ。

 現時点で王城生活の方が長い私にとっては、正直なところ、紳士的な騎士のレナートの印象の方がまだ強い。本来ならば、飾らない姿を見せてくれていることを喜ぶべきなのだろう。けれど、レナートの素を私が素直に受け入れるには、もう少し時間が欲しいところだ。
 そんなことを思いつつ、今しがたのレナートの行動を思い出したらまた腹が立ってきて、私は勢いのままに苺を複数一度に頬張った。その行動を後悔したのは――直後。

「そんなこと言ってー。お兄様からお詫びの苺を食べさせてもらってご満悦な顔してたの、見てたよ、俺は」
「ごふっ!?」

 オーレンからのとんでもない言葉を耳が捉えて、私は盛大に咽せた。それも、婦女にあるまじき汚い音を立てて。食べ掛けの果肉が口から飛んだような気がしたけれど、それには目を瞑って慌てて口を押さえ、私はオーレンをきっと睨んだ。

「もうっ! 何てこと言うんですか、オーレンさん! 私、そんな顔してません!」
「えぇー。反応するとこそっちなの、ミリアムちゃん?」
「オーレンさんが変なことを言うから、咽せちゃったんじゃないですか!」

 どうしてか呆れた顔をするオーレンの態度がどうにも腹立たしく、私はオーレンからも顔を背けて苺へ視線を落とす。まったく、誰も彼も私のことを子供だと思って、揶揄い過ぎではないだろうか。
 もっとも、レナート達から揶揄われて腹を立てはしても嫌な気がしないのは、そこに私に対する情があるからなのだとは思う。私も彼らのことは大好きで、だからこそ、こうして揶揄われたことに対する文句もはっきりと言える。そんな関係を誰かと築けていることが、何より私にとっては嬉しいことだった。
 そんな思いと共に、二人に揶揄われたことを目の前の鈴生りの苺達の存在に免じて、過去に流そうと思っていたのに。

「ごめん、ごめん。お詫びにこれあげるから機嫌直してよ、ミリアムちゃん」

 そんな言葉と共にオーレンが私の隣へ来る気配がして顔を上げた私は、再び意地悪な大人によって揶揄われることになるのだった。

「お詫びだなんて――」
「はい、あーん!」

 ……これは、学習しない私にも非はあるのだろうか。
 私の空いた口に、今度はオーレンの手によって苺が放り込まれ、私はたちまち閉口してしまった。口を閉じたことで噛んだ苺から溢れた甘酸っぱい果汁が、この状況にそぐわない大変な美味しさを口中に広げて、オーレンの行動に怒ればいいやら、苺の美味しさに喜べばいいやら、分からなくなる。

「オーレン、お前っ」
「えぇー? なーに怒ってんのさお兄様? いいだろ、別に。妹ちゃん気にしてないんだし」
「いいわけあるか!」
「おお怖っ。本当に過保護なお兄様だな、お前は」
「煩い! お前の所為でミリアムが変なことを覚えたら、どうしてくれるんだ!」
「はぁ? お前だって同じことしただろ、今!」
「お前と同じにするな!」
「うーわ、出たよ。過保護な奴の『自分は違う』発言!」

 私を挟んで、レナートとオーレンが何やら煩く言い合っている。その声にふつふつと怒りが沸いた私は無言で苺を咀嚼し飲み込んで、すくっとその場に立ち上がった。

「ミリアム?」
「ミリアムちゃん?」

 二人が同時に私の名を口にするけれど、私はそれすら無視してつんと顎を上げる。
 お兄様だの過保護だの、確かに今日はそう言う変装をしているのだから、レナートが私に対して世話を焼けば、傍からはそう見えるのも致し方のないことだろう。それを揶揄いの種にするのは理解できる。
 けれど、だからと言ってこうも立て続けに二人から同じことをされれば、流石に私だって我慢ならなくなると言うもの。これはもう、仕返しの一つもしてやらなければ気が済まない。

「お二人なんて、もう知りませんっ」

 そう言い捨て、私はこの事態を離れた場所から傍観していたキリアンの元を目指して、大股で歩いた。一瞬、キリアンが面倒事の気配に口元を引きつらせたような気がしたけれど、すっぱり無視して隣にしゃがみ込む。二人を止めることなく傍観を続けたキリアンも、私にとってはレナート達と同罪なのだから。
 そうして、私は真っ赤に熟した美味しそうな苺を一粒摘むと、隣のキリアンへとびきりの笑みを浮かべ、彼の口元へ向かって差し出した。

「キリアン様、召し上がれ」
「……ミリアム、まずは落ち着こうか。君が怒るのはもっともだとは思うが、一度落ち着いて――」
「キリアン様。さぁ、どうぞ!」

 私の脳裏を、いつかのテレシアが過る。あの時のことを思い出しながら私はずいと体を寄せ、顔を近付け、キリアンへと笑顔で迫った。テレシアの勢いに押されたキリアンが、私の勢いにも押されてくれるように。……もっとも、これが私の取れる行動の限界ではあるのだけれど。

 流石の私も、男性に対して恥ずかしげもなく「あーん」などとは、いくら仕返しの為とは言っても口にはできないし、仮に恥ずかしさをかなぐり捨てられたとしても、キリアンに対してそんな行動に出るのは、テレシアに対して大変申し訳ない。よくもまあ、オーレンは臆面もなく口に出せたものだ。
 仮にその言葉を言い慣れているのだとしたら、オーレンはこれまでに一体どれだけの女性に対して同様のことをしてきたのだろうか。それとも、オーレンにとって私は本当に子供としか思われていないのだろうか。子供と言っても、私だってもう十六なのに。アルグライスでは成人なのに。エリューガルだって二年も経てば成人と認められるのに。それなのにいつまでもそんな幼子のような扱いをされて、単純に喜んでいられるわけがないだろう。

 思えば、オーレンは顔を合わせれば二言目には可愛い可愛いと、まるで挨拶のようにその言葉を私に対して使っている。その軽薄さまで思い出されて、いつもならば気にならないオーレンの軽い言葉の数々が、今はやたらと私の気に障った。

(……あぁ。何だか凄く腹が立ってきた)

 その苛立ちのままに、私は今にも立ち上がって逃げそうになっているキリアンの腕をがしりと掴んで、苺をその口に押し付ける勢いで近付けた。一人だけ逃げようとしたって、そうはいくものか。
 私は怒っているのだ。レナート達にやられた仕返しとしてキリアンに苺を食べさせてやるまでは、絶対に止めてやらない。私の後ろでレナート達が何やら騒がしいけれど、気にするものか。

「キリアン様。苺……美味しいですよ?」

 とびきりの笑顔のまま小首を傾げ、掴んだキリアンの腕を引き寄せ、私からも体を寄せて、精一杯顔を背けているキリアンの口へと苺を押し付ける。
 少しでも口を開けばその勢いのままに口の中へ入ってしまうだろう苺を前に、キリアンは必死に口を引き結んで抵抗を見せていた。そうしながら、私をどうにかしろとでも訴えているのか、先ほどからちらちらと私とレナート達との間で視線を行き来させている。
 大人しく苺を食べさせられてくれればそれで終わるのに、あくまで苺を食べようとはしないその態度は、私を更に苛立たせるだけなのに。

「……テレシアさんに言いつけますよ」

 そっちがその気なら、こちらにだって考えはある。
 苛立ちに任せて私がぼそりと呟いた一言に、キリアンが目を見開いてはっきり顔を強張らせた。あることないこと言うつもりはないけれど、今日のことを私からテレシアへ告げれば、彼女がどんな反応を見せるかは、キリアンならば容易に想像できるだろう。
 キリアンの紅い瞳が私をじっと見つめるのを強く見つめ返して私の本気度を知らせ、無言の数秒が過ぎる。

 やがて観念するようにキリアンの口が開き、私の苺は無事、キリアンの口の中へと入っていった。せめてと私から顔を逸らして渋々苺を食べるキリアンの姿は、私の溜飲を下げるのに十分で。
 レナート達が大いに慌て嘆き、キリアンに対して文句を言う声が聞こえるけれどそれすら今は心地よく、私は一人、達成感に浸りながら清々しい気持ちで空を仰いだのだった。
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