天蕾神記

馬骨

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神夢久羅の章

八千矛と口縄

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彼が目を覚ましたのは、それから三日ほど後の事である。

口縄は起きるなり、以前までの自身の肉体の大部分が潰え、構成部品とも呼ぶべき内腑が尽く変質していることを悟った。

又、彼の知覚器官までもが、著しい変化を遂げていた。
口縄は思わず息を呑んだ。

視覚、眼前に広がる視界において細微の限りを尽くした。
はるか上空にある木々にさざめく木の葉の葉脈、それら一筋一筋に宿る細胞。

聴覚、神樹の中流れる水脈のさざめきを知り、遠く走る獣の足音、その息遣いから、それを追う者の足音。

嗅覚、神夢久羅に巣食うあまねく獣の在処を伝えた。深き土壌に煙る封神核の残骸から、狩られた獣の流す涎と地の臭い。

表皮は鋭敏に研ぎ澄まされ、その下には五人分の膂力が漲っている。

それが、失った四人の兄弟の力であることを悟る口縄。

一人全身を抱き抱え、かそけき涙を流した。
縋る為、忘れぬ為、無くさぬ為。

然して、忌神を降ろし、正なる焔神を宿した事を記憶に起こした口縄は、少し離れた場所で獣を狩っていた八千矛の元へ飛び至り、この地にて行った無礼千万を詫びた。

「知らなかったとはいえ、主神の土を穢したこと、主神の矛に手を出してしまったこと。誠に申し訳ない。」

改まった態度を取る口縄に八千矛は戸惑った。

野生の命のやり取りの中で異種同士が出逢えば、そこには生死のやり取り以外の何も無い世界で生き残ってきたからである。

「あれしき、自然の中に身を置けば常時必然の事柄だ。戦いが終われば、受けた傷など勝手に癒える。」

狂い神と同期する彼の肉体、頭脳は以前のそれと異なっていた。
語らずとも喰らえば良かったこれ迄。
それが今や彼の口は、黙ろうとも言葉が口をついてでるほどの饒舌さと成っていた。

「なればなぜ、衰弱に伏せる俺を生かした?」

八千矛はしばし考えた後、あっさりと放った。

「使えると、思った。」
「……何に?」
八千矛の眼光が、ただならぬ殺気を帯びる。

「禍津陽討伐…赫母胎に達する武器として。」

口縄の表情が、瞬時に畏れに曇った。

「案ずるな。今のままでは赫母胎に手が届かぬことぐらい、学のない俺にもわかる。」

八千矛は夜刀神との邂逅による死を潜り抜けたことで、以前の無鉄砲にも似た激情は鳴りを潜めていた。

如何に彼が恨み深かろうが、地神による加護を受けていようが、余りある力の差は時として残酷である。

己を鍛え、相手を知り、攻撃ではなく、攻略する。

狡猾さにも似た、理知的な頭脳を、彼は誰に教わるでもなくこの三日の内に有していた。
これが、地神の同期による効果か、はたまたヤチホコ自身の進歩なのか。

だが、怒りが萎えたわけではなかった。赫母胎侵略への筋道は全て、忌むべき惨劇の記憶により支えられた憤怒が原動力である。

突発の感情よりも、洗練の理を重んじ。
滾る激情をして、静かに考ずる。

以前の彼よりも冷静に、しかし確実の狂気を内包していた。

「己が知っている赫母胎の理。聞かせてみ、口縄。」

「赫母胎は、幽世より来る魔界の核…魂渦に巣食いし死霊の螺旋を織り込まれた子宮である…らしい…。」

「海神は何故動かん。」

「特異な螺旋構造によりて神威を吸い込み、穢れへと変質するが故に、海神、天照の神威が届かないとのことだ…。」

八千矛は驚愕もせず、だが深く理解のできぬままそれを聞いた。
暫く顎を抑え軽く考えた後、「どうやらそういうものであるらしい」と呑み込むこととして、話題を切り替えた。

「誰からそれを聞いた。」
「遠方より来た新しき女神官、叉舞名さまなだ。」

口縄より聞かされた依太國の近況は、八千矛の想像にことの他外れるものであった。

七年前の天照消失により困窮を辿り、争いや諍いが起こる依太國。
それまでの泰平は瓦解し、貧困の狂気と、絶望の嘆きが依太國の土地にこだましていた。
その地獄を三年して、朽ちた珊瑚礁眠る水底からその神民は現れる。

海神神民、"叉舞名"遣陽神官である。

海神の深き神威を纏いし、桁違いたる神格の艶めかしい女人を、依太の民は救世の使徒と崇め奉った。

叉舞名は国政に参加すると、先ずその地にて祀られていた灼土神を排斥するに至った。

既に信仰は廃れていたとはいえ、形のみ遺されていた灼土神の祠、神宮、道祖神。
灼土神の神性に沿った、土に生きる獣を象る像の全てを、壊し、穿ち、水底に沈めた。
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