怪談

馬骨

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創作系怪談短編集

ぬらりさん

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 俺の家には俺が生まれる以前から、とある決まり事があった。

 自分の家は2LDKの平屋である。

 中へ入ると、両側に俺と兄の部屋。
 それから約5mの廊下。その丁度真ん中あたりにトイレ、少し先へ行くと左手に浴室と洗面所がある。

 個室は計四箇所あるが、部屋を空ける時は必ずトイレだろうが浴室だろうが、ドアを開けていなければならない。

 もし誰かがどこかの部屋を使っている時は、必ず鍵を閉めていなければならない。

 そういった決まりがある。

 これは今家の中で、誰が部屋を使っているのかを確かめるためである。

 何故、そんなことをするのか。

 俺の家には、"ぬらりさん"が居る。

 家族でも、親戚でもない、はたまた、友達でも知人でもない。

 というか、ぬらりさんを知っている俺の家族は誰もぬらりさんの顔や形を知らない。

 ぬらりさんという名前ですら、便宜上付けられた仮の名前に過ぎない。

 ぬらりさんは人のいないトイレ、俺の部屋、兄の部屋、風呂のどれかの中にいつのまにか入り込んで、五分ほど居座ると煙のように消えてしまう。それがいる部屋の辺りは、独特の異臭と、しゃっくりを小刻みにしたような音が聞こえてくるようになる。

 何が目的で、閉め切った部屋の中で何をしているのか。それらについて、未だ答えは出ていない。

 ひとつ言えるのは、人ではないということだけ。

 そんな存在だから、同じ部屋に鉢合わせたら何が起こるかわからない。だから、そうならないよう、こういった決まり事があるのだと、俺たちは共存するしかないのだと、幼い頃から両親に言って聞かされていた。

 昔、真夜中にぬらりさんのシルエットを見た事がある。

 夜中の二時頃、尿意に目を覚ました俺は、真夜中にもかかわらず風呂場の灯りが着いていることに気付いた。

 と、同時に、あの匂いと、異音がかすかに聞こえ始めた。

 風呂場の蛍光灯が廊下に映し出すシルエットは、真夏の道路に立つカゲロウのように、ゆらゆらと体をくゆらせていた。

 俺たち兄弟は幼い頃から、ぬらりさんがいずれかの部屋に入っている最中は、同じ部屋に入っては行けないと、両親から厳しくしつけられた。

 そのため、中三になるまで個室は持たせてもらえなかった。
 今ある俺と兄の部屋は、元は物置部屋だったのである。

 ともかく、幼少期より続く両親のそれに対する態度は、俺たちに得体の知れないぬらりさんに対する恐怖を掻き立て、刷り込むには十分な徹底ぶりだった。

 それでも、俺たち家族はよくやっていたと思う。
 そんな日々が決壊したのは、ある晩のことだった。

 金曜の遅い晩に、自室で勉強していると、父が帰ってくる音が聞こえた。やがてリビングのテーブルに座った父が、荷物を荒々しく置く音が聞こえた。

 不機嫌なのだろうか。
 なにか大きな声で母に文句を垂れている声が聞こえてくる。

 こういったことはこれが初めてではなかった。父は昔から、酒が入ると暴れやすい性質であり、大人しい母はそれを咎めることも出来ず、ただ宥めすかしているだけなのである。

 やがて父の罵声がより大きくなると共に、ガチャンと食器やらコップやらが割れる音がしてきた。

 これは行けないと勉強を切り上げリビングに向かう。一足先にリビングへ向かっていた兄は涼しい顔をしながら父をなだめ、母は疲れきった顔をしながら飛び散った皿の破片を一つ一つ拾い集めていた。

 父は真っ赤な顔で今度は兄に向かって罵声を浴びせている。怒りで紅潮したというよりは、大方は酒によるものだろうが、俺はこの顔を見るとトラウマからか心臓の辺りが潰れるように痛くなって何も出来なくなってしまう。

 その場に突っ立ってオロオロしていた俺に、兄が顎を床の方へ突き出した。母の小さく丸まった背中が見える。俺は無言で母の片付けに加わり、地べたに散らばる食器の残骸を手当り次第拾い集めた。

 しばらくして父が、
「便所だ…」
 と、宥める兄を振り切って、ドスドスとトイレに向かった。

 それを見て俺と兄は思わず真っ青になった。

 自室を出るタイミングこそ違えど、俺と兄はさきほどトイレを横切った時、閉まりきったトイレのドアを見ていたのである。

 つまり今トイレには、ぬらりさんが。

「おい父さん!待って!」

 涼しい顔が慌てふためき、急いで父を止めようとその背中に迫った途端、「痛い!」と小さな声がして兄がリビングに転がった。

 派手な音がして、次いで兄の呻く音が聞こえる。

 どうやら皿の破片を集めていた母の手を踏んずけてしまったようだ、傍らで母が右手を抱えて唇を噛んでいる。

 ダメだ、俺が行かないと。

 そう思い立ち上がったその時、父はもうトイレのドアノブに手をかけて、ドアを開け放ってしまった。

 途端に、父があの臭いにやられたのか、思わず顔を背けた。開けてから初めて気づいたのだろう。
 ここからは見えないが、恐らく父はぬらりさんの全体を視認している。

 俺は廊下の手前で呆然と立ち尽くしていた。

 父は一度は怯んだものの、酒の勢いがあるのだろうか、今度はぬらりさんに啖呵を切りだした。

 「貴様何様のつもりだ!!この家の家長は俺だぞ!!」

 そうして、トイレへ入ろうとすると。

 ぬっと何かがトイレから出てきた。

 肌色の、手だった。

 右手、左手、右手、左手、何本もの。細長い手。

 何本も、何本も、数え切れないほどの手が、生えるように伸びてきた。

 それらはあっという間に父を掴むと、トイレの中へ引きずり込んだ。

 うわぁと間抜けな声をあげた父は、吸い込まれるように体を消した。

 パタリ。

 淡い音がして、父が消えたトイレはドアを閉じた。

 あまりの出来事に、しばらく誰も何も出来ないままぼぉっと眺めていると。

 キィっと言う音と共に、父がそこから出てきた。
 猫背になって、魂でも抜かれたかのように無機質な顔をしていた。

 母が駆け寄って、ねぇあなたと尋ねるが、父は一言、寝るとだけ言って、寝室へと向かった。

 残された俺たちはノロノロとリビングを後にした。

 膝から崩れさりながら手で顔を覆い、しゃくり上げる母を置き去りにして。

 翌日、父は何事も無かったかのようにリビングに現れた。

 壁にかけてあるスーツの袖に手を通し、仕事に行く準備をしてから、ようやく朝食を食べるようだ。

 箸を持ち、ご飯のおわんを手に取り、豪快に中の飯をかき込む。

 なんだ、いつもの父だ。

 そう思って味噌汁を飲もうとすると、父の隣に座っている母の箸を握る手がカタカタと小刻みに震えているのに気付いた。

 それを見て、俺は父の違和感にようやく気づいた。

 箸を持つ手が、右手だった。

 父は、左利きである。

 父以外、誰も朝食に手をつけないまま、時間だけが経過していった。 
 いつもなら支度におわれてあっという間にすぎるはずの朝が、不気味なほど長く感じた。

 それまで横で沈黙を貫いていた兄が、不意に口を開いた。

 「そういえば、昨日は父さん大丈夫だった?」

 変な間が空いたあと、父は白米をかき込む手をピタリと止めた。
 「おう、心配かけたな。すまなかった」
 いつもの父の声を聞いた途端すごくほっとした。
 それは俺だけではなかったようで、兄も母も緊張がほぐれたせいか、堰を切ったように笑いだした。

 「あんたってば、あんなに酔って帰ってきて!」 
 母が父を軽く小突くと、父は参ったような顔をして、「いや、断りきれなくてな」と照れくさそうに答えた。

 嬉しくなって自分もなにか話そうと、
 「そうだよ!それに父さん、ぬらりさんが居るトイレの中にずかずか入ってっちゃうんだもん、びっくりしたよ」
 そう、なんとはなしに口に出した。

 俺はこの言葉を軽率に放ったことを、すぐに後悔することになる。

 ぬらりさんという単語を聞いた父の顔からは、スっと力が抜けるように、感情が失せた。
 それから、先程とはうってかわって機械的な声で、こう言った。

 「ん、ぬら りさん  って。だ れ   だぁ?」

 それから、ぬらりさんはパタリと家の中に出なくなった。

 それに伴って、鍵をかけることも、使っていない部屋のドアを開けっぱなしにすることも、次第に少なくなっていった。

 母も兄も、あの日の出来事を父に聞くことは無い。兄はいつも通り父の愚痴の相手をしているし、母は少し困ったという風な顔で、晩酌の相手をする。

 父も大半はいつも通りだった。

 朝起きて、スーツに袖を通し、不機嫌な顔で酒を飲み、怒鳴り疲れると死人のように眠る。

 だが。

 父は、明らかに依然とは違う。

 真夜中に、用もないのに家中をウロウロすることが多くなった。

「クヒッ クッ クヒッ クックッ クヒッ」

 時々、俺はこの音で眠りから目覚める。

 真っ黒な部屋の中、目を凝らすと部屋の隅に父がいる。直立不動でじっと俺を見据えている。

 独特な匂いを放ち、しゃっくりを小刻みにしたような声を響かせながら。
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