怪談

馬骨

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1972年 夏シリーズ

第一章 『坂本幸代の回顧』

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夏のこの時期になると、私の胸は寂寞でも、郷愁でもあり、または忌避にも似た複雑な感情が入り混じることがあります。
それらは全て、私の身を持った体験が由来しています。

色褪せることの無い愛情と、薄れることの無い悲しみと。今も胸の内に潜む怖れの記憶。

思い出したい様で、一方ではそれに蓋をして閉じ込めてしまいたい自分がいて。

それでも、決して忘れてはいけない、忘れえもしない記憶があります。
遠い昔のようでいて、それでも時折間近に感じられるあの夏。

八月十五日の出来事でした。世間一般でいうところの、お盆の時期になります。

お盆は、先祖の霊をお迎えする日です。
そのための作法は、地域や宗派ごとに特色があり、それが皆様のお盆に対する通常の認識なのでしょうが。
私の住んでいた地方ではかなり異色というか、異質な文化が根付いていました。
三年に一度ある、とある儀式のことです。
その儀式を説明するためには、まず私の生い立ちと、私の故郷についてのお話をしなくてはなりません。

私が生まれ育った地域は、東西を山と海に囲まれた外界から隔絶された村でした。

私の家は、その村の中でもひときわ大きなお屋敷でした。東の山を背に、西の海を一望する小高い丘陵の上に建っていた、何世代も前からの、古いお屋敷です。

そこに住んでいた時分は、インターネットなどというものはありませんでしたから、人工五百人にも満たない小さな村が、幼い私の世界のすべてでした。

私たち一族、喜内家はそんな狭い村の中でかなり優遇されていました。というのも、喜内家の先祖は、古くは室町の時代からこの地に権力者として君臨し続けてきた、いわば地主のような立ち位置にあり、彼の村にとって、なくてはならない存在だったからです。

ひとたび、大きなお屋敷から外に出れば、村の大人たちからは「喜内のお嬢」と呼ばれ、身分不相応な扱いを受けていました。児童数が極端に少ない学校の同級生ですら、対等な立場で言葉を交わしたことのある子供はいませんでした。着る物一つにしても、扱いや境遇の差は歴然としていました。

ですが、そういった扱いはお屋敷を出た後の話で、お屋敷の中での私は必要以上に厳しく育てられていました。食事の作法から、ひどいときは部屋の歩き方まで。大人の目の届く範囲で、何かヘマをしようものなら、鉄拳か張り手が飛んできていました。

ですがそういった虐待まがいの躾を除けば、廃村寸前の村に在住しているにしては、不自然なほど不自由のない暮らしをしてきました。

また、喜内家は代々子宝に恵まれていました。私ですら、兄が二人と、弟が二人の五人兄弟でした。ほかの親戚は、全員が同じ村に住んでいるわけではありませんでしたが、山一つ越えれば皆が近場に住んでいました。

その親戚が、一挙にお屋敷に集まる日があり、それが、三年に一度ある儀式の時期でした。

私はこの時期が、物心ついた時から嫌いでした。

いつも厳しくしかめっ面ばかり浮かべていた母や、叔母の顔が、四六時中引き攣ったような不自然な笑顔になるためです。

宴会の場で笑っているのは男ばかりでした。
そのころはまだ、男尊女卑の考えが蔓延っていたため、三十人を越える親戚の相手は、少数派の女性たちが一手に引き受けていました。

九歳の頃でしょうか。遊んでいる最中、間違えて台所に飛び込んでしまったことがありましたが、そこにいたどの女性の顔も、全くの真顔でした。

機械のように冷たく、全く感情の通っていない眼差しで、誰も彼も淡々と作業をこなしているのです。それが、一度華やいだ広間に出ると、パッと表情を変えて、引き攣った笑顔でお酌をし、張り付けたような愛想笑いを浮かべながら、またいそいそと台所に戻っていくのです。すっかり血の気を失った鉄仮面のような形相とともに。

子供ながらに、女性達のその在り様が不気味に映ったことは言うまでもありません。それどころか、思春期に至った頃の私は、徐々に彼女らへ軽蔑に似た感情を抱いていました。
それは、後述するある女性の影響で、彼女らの振る舞いが奴隷のような扱いに甘んじている風に見えたからですが、今思えばそれは的外れであったというほかありません。

それ以上に私の嫌悪感を煽ったのは、男たちでした。

自分の愛した者たちを、馬車馬のようにこき使い、果ては別の親族の伴侶にすら下卑た視線を向ける始末でした。
私の父は、先の戦争で私が幼いころに命を落としていました。そのことがさらに私の男性に対する敵対心を増長させました。
いくら血のつながりがあろうが、どうしても他人に見えたのです。

ですが、そんな男たちの中には市議会議員や地元の名士など、一族の家計に大いに貢献している者がいましたから、どっちみち何も言えなかったのでしょう。昭和の男性社会の縮図が、あの家にはありました。

そんなお盆の時期でも、その年は私にとって一つの楽しみがありました。
それは、この地を離れ、東京の大学で助手として働いていた、年の離れた従姉に合うことでした。彼女は、詳しい説明は避けますが本家の血筋にあるようで、そういった女性は全員がこの地に骨を埋めていましたが、彼女だけは違いました。

若くしてこの地を飛び出し自由を勝ち取った彼女を、私は幼いながらに尊敬していました。どこか諦めたような家の女性達とは対照的な、彼女の大胆な生き方に感銘を受け、将来は彼女のように私もこの地を離れて生きたいとも思っていました。

ただそれ以上に、誰からも厳しく接せられていた私にとって彼女との触れ合いは、とても心地良いものでした。さっぱりとした彼女の性格と、同じような気質の私とはよく息が合うような気がしました。

日輪を纏い、涼やかな風と共に、その年も彼女はやってきました。

特に用のない日でも、長めの休暇に入るとその都度ここへ帰ってきていた彼女でしたが、ここ数年は何かと都合が合わず、久しぶりの再会までには、実に二年の月日がたっていました。
三十後半であったと思いますが、前の時よりもより若々しく見えました。

さびれた村にそぐわないパリッとした装いに袖を通し、遠路はるばるやってきた彼女を、親戚たちは冷ややかに扱い、宴会の場はおろか、調理場にすら立つことは許されませんでした。
私にとっては、その分彼女と話す時間が増えるので好都合でした。

昼下がりに、私と彼女は村のあぜ道をあてどなく歩きました。
西から吹いてくる潮風が、涼しく彼女の後ろ髪を撫でてゆく景色が、一段と鮮明に残っています。私に絵画の才能が有れば、その瞬間の風景を幾度なくキャンバスに描いたでしょう。
長くしなやかな彼女の背に延びる、黒く鮮やかな毛髪。この美しい後ろ姿を、私はあと何度この目に焼き付けることができるのだろう。そんなことを考えながら、歩みを進めていると、ふと彼女が振り返り言いました。

「また背が伸びたンだな」
「いっぱい牛乳飲んでるからね」

彼女は男のような力強い話し方をする女性でした。それも私が彼女を慕う要因の一つでした。

「今年で十二か、早いものだね」
「うん、もう最高学年だよ」
「そうか」
来年は中学生だなあと、彼女はため息交じりに話しました。

束の間の沈黙が訪れて、彼女はこれほどに寡黙な人だったかと、次の話題を探しつつ、ちょっとした違和感を覚えました。

「あんたは大きくなったらここを出るの」

不意に突拍子もないことを聞かれ、少し気が動転しました。出るつもりではありましたが、そのことはまだ誰にも話してはいなかったからです。

声の低い彼女と話しているとき、私は意識して声を低くしていました。根底に声の低い彼女への憧れがありました。それ故に、自分の声変わり前のあどけない高さが嫌いでしたし、何より閉鎖的な村の外に出ようと思ってもそれが叶わない、幼い子供で居続けるのが嫌だったとも言えます。

「うん、出てくよ」

その時だけは、飾らない本心が出たのでしょうか。私は素の甲高い調子で、そう答えました。彼女は歩みを進めながら、おだやかな笑みを崩さぬまま、「そうか」とだけ答えました。
その眼差しには、笑っているようでどこか悲しげな、矛盾した二つの感情が入り交ざった顔をしていました。

そのあとはどんな話をしたのか覚えていません。ただ、彼女の寡黙な様子と、まるで覇気のない寂しげな瞳だけが心に残り続けています。

お屋敷に帰る頃には、もう三時過ぎになっていたと思います。見上げたお屋敷の外からガチャガチャとした金属音が聞こえました。とある儀式の準備でした。

前述したとおり、喜内家は代々この地に権力者として居座っていましたが、代わりに、喜内家にはある役目がありました。

“御鈴会”と呼ばれていました。村中から集めた風鈴を、家の東側に面した軒先、玄関、その他東側の外部につながる窓、戸、扉のすべてに取り付けるのです。

なぜ、そのようなことをするのか。それはこの村に古くから伝わる、とある言い伝えが起因しています。

この地方では昔、お盆の時期になると、海からご先祖の霊が、山からは山に巣食う化け物がやってきていました。その化け物はやがて夜な夜な村にいる若い女を攫い、食べてしまうようになったそうです。そこにこの地に流れ着いた喜内のご先祖が家々の、山に面した戸の全てに、その当時“占風鐸”と呼ばれていた風鈴の元になったものを吊るすと、化け物はその音を嫌って、それ以来人里に化生の類が来ることはなくなったという伝承が元の伝統でした。

しかし、当たり前とはいえ、その当時この言い伝えを大真面目に受け取っている人など親戚の中でもごく僅かでしたし、御鈴会自体、お盆の帰省である程度人数が復活した村において、権力を誇示するだけのはた迷惑な行事となっていたと思います。
大昔は、毎年行っていたのが、いつのまにか三年刻みになっていたのも、伝統が形骸化した証拠でしょう。

夕方になり、日が暮れかかると女性たちはいっせいに台所に籠りきりになりました。
男たちの中には、もう顔が赤く、酒臭い息の者がちらほらいました。

私は同年代の子供たちや、兄弟たちと遊んでいました。

しばらくして、私は家に帰ってから従姉の姿を見かけていないことに気が付きました。彼女が周囲から疎まれていたのは、薄々感づいていたので、大人たちに所在を聞くのは無駄であると思い、広いお屋敷の中を虱潰しに探しました。

彼女は、お屋敷の一階の中、唯一山に面した部屋である仏間に、一人でいました。

この仏間というのは、普段お手洗いに行く時ぐらいしか通らない部屋でしたが、日中も常時日当たりが悪く、周りの部屋と比べ湿度も高いようなそんな気がするので、あまり近寄らない空間でした。
おまけに両隣は物置部屋として使われていたわけですから、幼い私にとっては、広いお屋敷の中で唯一得体のしれない空間で在り続けました。

そもそも仏間というぐらいですから、少々気味が悪いのは当たり前なのですが、そういった、"こちらの心象からくる恐れ"とは質がまた違った、夜中の神社のような厳かな不気味さが漂っていました。

東側の鴨居には、その時はまだ解像度が荒く、色も不鮮明であった遺影が、所狭しと並べられていました。

中には、出征前の私の父のものも含まれていました。その他は見覚えがないような人しか並んでおりませんでした。気の所為か、女性の数が多かった気がします。

そんな仏間の中で、彼女は一人本を読んでいました。

表紙が黒で覆いつくされていたので何の本かはわかりませんでしたが、ちらっと見た中身に難しい漢字がいくつも並んでいるのを見るに、大学関係の資料か何かだったのでしょう。

私が入ってくると、一瞬驚いたような、慌てたような顔になりましたが、すぐにいつもの調子で、どうしたと声をかけてきました。

「なんとなく。みこちゃんがいないなって」
「心配してくれたのかい、さっちゃんは優しいね」

そういって彼女は私の頭を撫でてくれました。照れながら声にならないだらしない笑い声をあげると、すぐ後ろの襖がすっと開きました。入ってきたのは、祖父の三男のお嫁さんである、和子さんでした。

この三男の清志郎という男がかなりの道楽者であったのと、彼女の出身地がこの辺りではなく隣県であったため、閉鎖的な考えが主であるこの家の中では、従姉の次に冷遇されていた人でした。にもかかわらず、久しぶりに会うと私にとても優しく対応してくれるこの人が、私は好きでした。

「これ、よかったら」

そういって和子さんは、おにぎりが三つほど並べてあるお皿を従姉に差し出しました。

「これはどうも、丁度お腹が空いていたンだ」

従姉は嬉しそうな笑顔で和子さんにそう言いました。和子さんは、それはよかったと微笑み返しました。

よく見ると、彼女の目の周りには赤く、泣き腫らしたような跡が残っていました。

きっと、男たちに何か酷い言葉をかけられたに違いないと青い義憤の精神から、私はそう推測しました。従姉は、時折鼻を啜り、涙交じりに世間話をする和子さんの様子には何も触れず、優しい感情をたたえた瞳で、うんうんと相槌を打っていました。

その後、すっかり落ち着いた様子の和子さんはかなりどぎまぎした調子で、「それじゃ、お手伝いがあるから」と、鼻を啜りながら台所に戻ってしまいました。泣くほどの辛いことがあったのなら、無理に戻らなければいいのにと思っていました。

しばらくして、私は尋ねました。

「なんでこんなところにいるの?一緒に遊ぼうよ」

一瞬、彼女の顔が強張ったような気がしました。無神経なことを聞いてしまったのではと思い、ごめんと謝罪の言葉が反射的に口を突いて出ました。

「謝ることはないよ」

彼女は、締まった顔を素の柔らかい笑顔に戻して言いました。

「私が昔ここに住んでいた時は、悪い事をするとよくここに放り込まれたンだ。」

彼女は、薄暗い仏間の空間を懐かしそうな面持ちでぐるりと見渡しました。

「最初は気味が悪かったものだけど、何時しか慣れてしまって居心地よく思えてきてね。それで、気づけば嫌なことがあると、ここにきて一人で本を読んで過ごすようになった」

彼女は「便所も近いしナ」と、冗談交じりに笑いました。

私は、そういえばここにきてから一度も厠を使う足音が聞こえないな。などと思いながらふと、「それじゃ。みこちゃんは何か悪いことをしたの?」と、何の気なしに尋ねました。

「そうなのかもしれないね」

彼女は少しはぐらかすような調子で答えました。

「どんな悪いこと?」
「いろいろだよ」
「なにそれ」
「さっちゃんに言うには、まだ早いよ」

その言葉に私は少しかちんときました。

「みこちゃんもわたしはまだ子供だっていうんだ」

口調にいくらか不機嫌さを混ぜたつもりでしたが、彼女にはそれが伝わっていないようでした。

「子供じゃなかったらなんだっていうんだい」

彼女は笑い交じりにそう言い放ちました。彼女からそんな心ない言葉を投げかけられたのは初めてのことで、かなり動揺していた気がします。
黙りこくった私の様子を、彼女はきれいで大きな瞳で、じっと見据えておりました。

「子供でいるのが嫌なのか」

私の心の内を見透かしたように、彼女はそう話しました。
何も言えないでいた私はこくりと頷きました。
彼女は目線を外すことなくさっきと変わらぬ眼差しで、まくしたてました。

「よくお聞き。ここより外の世界はこんな所よりずっといいとこだよ。」

此処を出たいと願った日から、幾度も想像し続けた、山を抜け、海を越えた外界の、その煌びやかなる景色が彼女の言葉と共に脳裏をよぎり、私は自然と首を縦に振りました。

「でもここを出るには成長しなくちゃならない。」

私を厳しく捉えた両の目が、ほんの少しの瞬きを帯びました。
「体も、心も。すべて成長しなくちゃ、ううん、それでも女が身一つで生きていくことなんて…」

彼女の声が心なしか、普段の低い声色よりずっと高く、透き通って聞こえました。それ以上に澄みきった彼女の両の瞳が眩しくて、私は呆気に取られていました。
彼女はなおも続けました。

「だから、成長したらあんたは必ずここを出て、自分が生きたいように生きなさい」

そうしたら、と彼女がまだ何か言いかけている最中に、すぐ近くの軒先に吊るしてある風鈴が一斉に鳴りだしました。
山からの鋭い風を受けたようで、風情とはかけ離れたやかましい音色が、耳をつんざくように突き抜けて行きました。続いて、ガラス張りの窓がガタガタと揺れました。

驚いた私は思わずびくっと肩を震わせましたがそれ以上に、その音に反応していたのは彼女のほうでした。

東側の山をじっと食い入るように見つめていた彼女の横顔はどこかおびえているようでもあり、また畏れているようでした。

「すごい風だね」

彼女はそれに返事をしませんでした。
暫く思いつめたような表情が不意にこちらを向き、「どうしたの」と私が言い終わるや否や、「用事があるから一人にしてくれ」と、私をさっさと仏間から追い出してしまいました。

わたしはしぶしぶ仏間を後にしました。
広間ではガヤガヤと男共の囃し立てる声が聞こえてきました。私はできるだけその音から離れたくて、二階にある自室へと足を進めました。
そこには、きつい顔をした実母が一人佇んでいました。

「どこへいっていたの」

母は私が何も答えないうちから、明らかに私を咎めるような口調で言いました。
曖昧な返事をしてはぐらかそうとすると、母の皺が寄った眉間にさらに力が込められました。

「美子さんとはかかわらないでおきなさい」

冷たく言い放った母の言葉に、嫌悪が募りました。
震える声で、「どうして」と尋ねました。

てっきり張り手が飛んでくるものかと、私はうつむき加減に母の両手を凝視していましたが、母はため息をついたっきり、「どうしてもよ」と零しました。

納得行かないことがあってそれを聞くと母からはいつもこんなような調子の言葉が返ってきていました。

それが子供だましの言い分であることは、その当時の私はとっくに知っていましたから、私はいつまでそんな言い分で諭され続けなくてはいけないのかと、苛立ちを覚えました。

反抗期のような憤りでもなく、八つ当たりのような無責任な鬱憤でもない。
正体不明の、それでも毅然とした怒りがふつふつと湧き上がってきました。

「子供扱いしないでください」

幼く見るなという意味ではありませんでした。

「馬鹿に、するな」

ぎょっとした顔で、母がこちらを向いたのが挙動でわかりました。

どうやら最初の一言は聞き取れていなかったようです。母の前に立つと、昔から無条件に委縮してしまっている自分が、情けなく感じていました。

私はゆっくりと顔を上げて、
「大人になったら、私はここから出ていきますから」と、はっきり言い放ちました。

大人になったら。これがどの程度の年齢を示しているのかは、言った私でさえわかりませんでした。ですが、出ていくという明確な目標は確固たるものとして、存在しました。

母親も、親戚の男共も、窮屈な村も、息苦しいお屋敷もない何処かへ。

続けざまにそう言おうとした最中で言葉が詰まりました。

見る見るうちに、紅潮していく母の頬。何か言おうとして、回っていない口元が一瞬への字に弱弱しく震えました。

「なんて…。」

なんてことを言うんだ。だろうか。
それとも、今なんて言ったの。なんて厭味ったらしく問うてくるのだろうか。
いずれにせよ、まともに取り合うつもりはなく、あきらめて自室を出ようとしたその時でした。

「…なんで?」

眼前の状況に、思わず素直な疑問が口を突いて出ました。

私と対面し、硬直した母の瞳から大粒の涙が零れていたからです。
先ほどの赤子のような紅潮は鳴りを潜め、その代わりに涙の筋が幾度となく走っていきました。

それを拭おうともせず母は静かに、しっかりと私の顔を見つめながら、泣いていました。

その顔に、なぜか先ほどの従姉の様子と重なるものを感じました。

あまりに唐突な出来事に、もはや気味が悪いとさえ思った私は、母の脇をすり抜けて自室を出ました。

すれ違い様、母が涙交じりに、「ごめんね」と言っていたように思いました。

板づくりの階段を大急ぎで駆け下ると、向かいの窓から親戚の初子という、つい先日還暦を迎えたばかりの女性が出てきました。

「しまった」と直感しましたが、それもつかの間、初子は私と顔を合わせるなり「さっちゃんこっちこっち」と。皺が積み重なった細い腕で、私の右腕を痛いほど握りしめ、広間の方に引きずり連れて行きました。

私はそのまま、親戚の顔合わせという名目で酒臭い初老の男の相手を小一時間させられました。むせ返るようなアルコール臭の中、覚えたての作り笑いを張り付けて過ごしました。

くだらない長話の応酬からようやく解放され、げんなりした気分でいつのまにか母のいなくなった自室に閉じ籠りました。

頭の片隅では、先ほどの従姉と母の明らかにおかしな様子が引っかかっていました。

母はともかくとして、従姉のいる仏間にもう一度向かおうかとも思いましたが、彼女の切羽詰まったような表情と、「一人にしてくれ」との言葉を思い出し、彼女から何か言ってくるまでは行かないでおこうと思いました

ですが、結局私は、その日従姉と言葉を交わすことはありませんでした。

その日の夜中でしょうか。

もしかしたらもう日をまたいでいたのかもしれませんが、とにかく真夜中でした。
私は尿意で、子供たちがぐっすり寝ている寝室で一人目が覚めました。
ここから厠へ行くには、従姉が寝ている仏間を通過するのが、最も短い道のりでしたが、こんな真夜中に起こしてしまうのは悪いと思い、山に面する渡り廊下を通ることにしました。

私が寝静まるころまで、あんなにうるさかった広間からは誰の声も聞こえてきませんでした。

普通この時期になると、鈴虫やマツムシなんかが夜毎、鳴き散らしているのですが、この夜だけは、水を打ったような静けさが、どこからも漂っていました。

まるで、お屋敷も森も、死んでしまったようでした。

真っ暗な中、手探りで伝わってくる情報を頼りに進みました。曲がり角を左に折れると、先ほどの暗闇よりはるかに濃い闇が広がっているような気がしました。

気のせいか、いつもとはなんだか雰囲気が違っていました。静けさはより深く、夜の闇がいつもより深く横たわっていました。私はそれらに吞み込まれるような気分になりつつ、歩みを進めました。

急いで用を足し、寝室へ戻るため再び渡り廊下を歩き始めました。夜中に用を足しにここを通ることは、特に珍しい事ではありませんでしたが、なぜかこの時は心音が痛いほど響いていて、呼吸が荒くなっていました。

得体のしれない恐怖もありましたが、それよりも少しだけ、空気が淀んでいた気がします。

渡り廊下の中ほどまで進んだ時に、何か甲高い鳴き声のようなものが聞こえました。

それに反応した体が、金縛りの様に歩みを止めてしまいました。その鳴き声は、徐々に大きく、不規則に鳴り響いていました。少し耳をすませると、正体は呆気なく判明しました。

風鈴の音でした。

ちりん、ちりん。
ちりん、ちりん。

最初は、軒先に吊るしてある風鈴の一つが鳴っているのだと思っていました。

ですがそれだとどう考えてもおかしいのです。

東側に吊るしてある風鈴の数は、両手で数えきれないほどで、誰かが意図的にしなければ、風鈴が一つだけ鳴ることなどありえないのです。窓ガラスを通して見えるその景色には、人っ子一人ありませんでしたし、連なっている数えきれないほどの風鈴はどれ一つとして、時間が止まってしまったように静止していました。

途中で私はあることに気づきました。

そもそも、風鈴の音は東側で無く、西側。つまり、私から見て右側の屋内から聞こえてきていました。そこには、従姉が寝ている仏間がありました。

あの風鈴の音は何なのだろう。ひょっとして彼女が鳴らしているのか、だとすればなぜ。そもそもなぜ屋内に風鈴を吊しているのか。

様々な疑問が頭の中をぐるぐると回りだしました。私は今でも一度考えだすと、満足いくまで熟考する癖がありますが、その時も先ほどまでのじっとりした恐怖を忘れ、一人考え込んでいました。

その間も、風鈴の音は仏間から鳴り続けていました。さきほどより、かなり大きな甲高い音で。さすがに、仏間に押し入ることははばかられました。

外の様子がおかしいことに気付いたのは、二分ほど経った頃でしょうか。

山に面している地形のため、夜、軒先から見える景色は一面草木の影が産む黒しかないのですが。

はてなと思いました。

お屋敷から木々までの距離が心なしかずっと縮まっているように思えたのです。まるで山全体がお屋敷を吞み込もうとしているような、不気味な威圧感が窓の外から伝わってきていました。

目を凝らす勇気はありませんでした。できるだけその方を見ないよう、目の前に広がる暗がりに意識を集中しました。

ですが、そのうち身体がわなわなと震えだしました。一歩、また一歩と繰り出す足が、重しをつけられたかのように鈍くなっていきます。
そして私は再度、訳の分からぬ恐怖に囚われる形でその場に立ち尽くしてしまいました。

木々の隙間から、夜の暗闇から、獲物を狙うような視線を次々に感じました。鼓動が早まり、喉の奥から途切れ途切れの呼吸が出てきました。

何も見えない森の奥から、何かが来る。
そんな不穏な予感が、胸を支配していました。

しばらくして、それは始まりました。

一番近くに立っていた中くらいの背丈の松の木が、ぐにゃりと体をしならせたような、そんなように見えました。

よく見えはしませんでしたが、松の木だと思っていたものは、少しずつ動いていました。

震えているようでした。

暗闇に目が慣れて、輪郭がはっきりしてきたころ。

全体の形が初めて見えて。

それが単なる木ではないことに気づきました。

湾曲して奇妙な形に分かれた影。
その間に見える虚。

一拍おいてから、ようやく気付きました。

人でした。

木のように背の高い人が、真っ暗な中、ゆらゆらと揺れていました。

だらりと垂れ下がった手が、揺れに合わせてふらふらとぎこちない動きを見せていました。

上部の膨らんだ顔に当たる箇所は、空を見ているような、それでいてこちらにはしっかりと目線を向けているような恰好をしていました。

よく見ると、それは、一人ではないようでした。

ほかにも数人の大きな人型が、木々に紛れて、細長く萎れたような体をくねらせていました。

相群れて、率いて、それらがじわりじわりと。

お屋敷の私のいる渡り廊下へと、向かってきているのです。

頭の中が真っ白になりました。

余りあるほどの恐怖を味わうと、人というのは石像のように固まってしまうのだと思います、その時の私がそうでしたから。
その後襲ってくるのは、不可思議な脱力と、尋常ではない震えでしょうか。

兎にも角にも、膝から力が抜けて、その場にへたり込んでしまいそうでした。

どうにか、目の前の景色に常識的な符号を照らし合わせて、逃げ出してしまいたかった。

でも、何度目を凝らしてみても暗闇に体をくゆらせている影共は、人のそれにしか見えませんでした。

早くここから立ち去らなければ、もう日の目を見ることはないかもしれない。

そんな確信がありました。

そうしている間に、それらはどんどん増えていっているようでした。
まるでお屋敷を囲い込むように、徐々に私がいる渡り廊下までの距離を着実に呑み込んで近づく異形。

ずず、ずず。

不気味な音でした。それらが近づくにつれ、引きずるような音とともに、わらべ歌のような民謡のような声が聞こえてきました。

かしらもらおか えいされや
わたをくらおか えいされや

本当に愉しそうに、皆口々に呟いていました。

地の底から響くような唸りで、怯える私を方々から見つめながら。

夜の闇の中で虫のように蠢いている影共が、私の視界を埋め尽くさんとしていました。

至近距離まで来たとき、私はそれらが初めて、笑っているのに気づきました。

歪み、ささくれ、土くれの様な肌の中、木々の表面の様に刻まれた深い皺の奥。

口が裂けそうなほど歪んだ笑顔が。

軒先のすぐそこに、いくつもいくつも、浮かんでいました。

かしらもらおか えいされや
わたをくらおか えいされや

いつからでしょうか。耳鳴りがしていました。

キ―ンと甲高い、いやに耳障りな音がずっと頭の奥で鳴っていました。

ああ、死ぬ間際になるとこんな音が聞こえるのかと、そして、この異音が止む時、同時に私は死に絶えるのかと、なんだかやけに冷静になった頭でそう考えていました。

ちりん、ちりん。
ちりん、ちりん。

すぐ後ろの仏間から聞こえてきた風鈴の音で、はっと我に帰りました。

ふと見ると、目の前で小枝のような細い指が、窓硝子挟んだ目と鼻の先、こちらに向かって何本も伸びていました。

入ろうとしている。

そう直感した瞬間、弾かれたようにその場から逃げ出しました。一度も振り返らず、一直線に兄弟たちが寝ている寝室へ飛び込みました。

自分の寝床にもぐりこんだ私は、布団を頭から被り外の気配をうかがっていました。

ぎ、ぎしり、ぎぎぎ。

きしんだ渡り廊下の古い木製の床板が、嫌な音色の悲鳴を上げていました。続いて、

ずず、ずず。

あの不気味な摩擦音が聞こえ始めました。

あいつらが、入ってきているのだ。
きっと、私を探しているに違いない。

そう考え始めると、もうたまりませんでした。抑えきれない恐怖が、涙となってボロボロ零れ落ちました。

兄弟たちはぐっすりと寝ていました。私は必死で寝息を殺し、暗闇の中、一人震えていました。夜明けが来るまでの間が、気の遠くなるほど長く感じました。頭の中で、あれらの不気味な歌声が離れませんでした。

あれはいったい何なのだろう、伝承にある化け物だろうか。あれを追い払うために風鈴を吊るしていたのだろうか。

脳裏にこびりついた恐怖でまみれながら、そんなことばかり考えていました。

もちろん、その中には、化け物が侵入しているであろう場所に、ほど近い場所で眠っている従姉の安否が気がかりとしてあり続けていました。

このままでは、従姉が危ない。

何をされるかはわからないし、あれらが何なのかはわからないけれども。少なくともご利益があるとか、ありがたい存在などでは決してない。もっと、禍々しい凶悪な何か。

早く、早く伝えなくては。

早くこの布団を跳ね除けて、仏間へと飛び込まなくては。

私は、恐怖を握り潰すように、拳を固く握りしめようと力を込めました。

でも、駄目でした。

一度恐怖にずたずたに切り裂かれた私の心身は、もう手の一振り、足の一歩も、動くことを許しませんでした。

ゆるゆると力が抜けていく拳を何度も握り直しては、自分の不甲斐なさを呪い、一方で得体のしれない恐怖に怯えながら。

気が付くと、寝室には朝の光が差し込んでいました。
炊き立てのご飯の匂いとみそ汁の香りが、何食わぬ顔で漂っていました。

おそらく夜の間中ずっと、無意識に体が強張っていたのでしょう。
節々に感じる痛みが、昨日の夜の出来事が夢ではないと、私に突き付けているようでした。

ひどい寝癖のままおずおずと居間に出ると、昨夜の宴会の片付けを、早く起きていた女性たちがいそいそと行っていました。中には兄弟たちの姿もあり、誰も彼も私を見るなりしきりに私の体調を案じてきました。

聞けば私は、明け方ひどくうなされていたとのことでした。男たちは、朝早くから墓参りに行ったとのことで、お屋敷の中は案外ひっそりとしていました。

従姉の安否を確かめようと渡り廊下に恐る恐る向かうと、そこから見える景色はいつもと変わらず、山々から連なる木々と窓硝子とは、三尺程の一定の距離がありました。

ほっとしたのも束の間、私は昨日の晩自分がへたり込んだ場所に、何かが落ちているのを見つけました。

息を呑んで近づいて、拾い上げたそれは、小指の爪ほどの木の根でした。
その瞬間、昨晩の出来事がまざまざと蘇りました。

お屋敷を取り囲む化け物。
それらが次々に口ずさんでいた唄に、痛いほど裂けて歪んだ口元。
私に向かって何本も伸びる、細長い小枝のような指。

小さく悲鳴を上げた私は慌ててそれを手の平から弾き飛ばし、その場を後にしました。

自室にて、拍動する心臓をたしなめつつ、私は再び自分の不甲斐なさに打ちのめされていました。ですが、手足の震えが止まり、ようやく腰から下へ力が流れるようになったころ、私の足は再び仏間へと向かっておりました。

従姉のいつも通りの優しい笑顔を見るまでは、もう決してくじけない心持でいました。

しかし。

仏間は既に、もぬけの殻でした。

彼女が持ってきていたトランクも、無造作に置かれていた古本も、何もかも姿を消していました。急いで周りの大人や、ひいては兄弟に聞きましたが、皆口を揃えて知らないと首を横に振るのです。

何かに襲われた後こそなかったことに安堵した、その少し後で、ようやく彼女が影すら残さずお屋敷から去ってしまったことがわかってくると、心をぎゅっと掴まれた様な気持になりました。

焦っている時の様な、悲しい時の様な。泣きたい様な、怒りたい様な。そんな、何とも言えない感情に囚われ、身動きが取れなくなっていました。

きっと、きっと私は彼女の心の逆鱗に触れてしまったのだ。恐らくは仏間で話したあの時。それも何度も。考えてみれば、彼女はこの家で相当に肩身の狭い思いをしているのだ。そんな中、私のような能天気な人間が傍にいるだけで、彼女はどれだけ腹立たしかったことだろう。だから彼女は、私にすら何も言わずに出て行ってしまったのだ。このお屋敷と、そして私に愛想を尽かして、出て行ってしまったのだ。

そんな自暴自棄ともいえる憶測と共にお屋敷を探し回り、気が付けば、私は元の仏間に戻ってきていました。広い屋内を無我夢中で進むうち、いつしか一周してここに戻ってきていたのでした。

茫然自失といった状態で立ち尽くしていると、仏間の扉が音もなく空きました。

「さっちゃん、ちょっといい?」

そこには、昨日よりもっと顔を赤く腫らした和子さんが、やはり鼻を啜りながら立っていました。

「どうしたの?何かひどいことされたの?」

本当は、気が気ではなかったのですが、それ以上に悲惨な顔をしている和子さんが来たことで、私は通り一遍の気遣いができるほどには冷静になりました。
彼女は首を横に振り、軽く咳払いをした後、少し淀みの残る声で言いました。

「違うの、ただ、美子さんのことで話が合って」

びくりと胸の辺りが跳ねました。和子さんの様子から、なんとなくそんな気はしていました。
彼女と従姉はかなり仲が良かったと聞いていたので、従姉の口から言いづらい別れの言葉を、和子さんが伝えに来たのだと、この時は思っていました。

ですが、和子さんの口から出たのは意外な一言でした。

「実は、美子さんから手紙を預かっているの。幸代ちゃんにどうしても渡して欲しいって」

そういって和子さんは真新しい茶封筒を私に手渡しました。中からは、真っ白な紙面に「喜内幸代サンヘ」と、仰々しく達筆な書き始めから成る、数枚の手紙が入っていました。

私と和子さんは、それを仏間の中で一緒に読み始めました。

━━━━コノ手紙ヲ書クコトニツイテ、トテモ躊躇ワレル思イガアリマシタガ、アナタダケニハ伝エテオキタイコトガアリマス。

分からない漢字を和子さんに聞きながら、熱心に読みました。
途中何度も、傍らで和子さんがしゃくりあげる声が聞こえました。

━━━━私ガコノヨウナ手紙ヲ書イタノニハ訳ガアリマス。ソレハ、アナタガコノ手紙ヲ読ム頃ニハ、ワタシハモウコノ世ニイナイデショウカラデス。

わたしはというと、やはり幾度となく、紙面が滲んで見えました。

それでも、一文字も読み漏らすまいと、必死に涙を拭い、鼻を啜り、肩を震わせながら読んでいました。
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