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第一章:生贄
8.生贄儀礼②
しおりを挟むフェンリスは石碑の前で一度立ち止まり、私を見た。表情は面布のせいで見えないけれど、笑いかけてくれているのがなんとなく分かった。
「大丈夫だ」
その簡単なほんの一言が、とても心強かった。
「うん」
返事をすると、フェンリスは歩みを再開し石碑をくぐる。
すると、今まで見えていなかったものが途端に見えてきた。先ほどまで石碑の先はだだっ広い何もない土地が広がっているように見えたのに、目の前には石造りの大きな階段が高く聳えている。
「すごい……」
聞こえなかった音も聞こえてきた。ザワザワと、大勢の人間の声が聞こえてきた。
長い間数人の看守の会話しか聞いて来なかったので、久しぶりの大衆の声に心臓が勝手に怯えてしまい、無意識にフェンリスの服を掴む。
彼は階段を登るリズムに合わせて、私の胸をポン、ポン、と優しく叩きながら落ち着かせた。面布の向こうに優しい瞳を感じ、私はそのまま身を任せた。
階段を上り切ると、一層大きな歓声が響いた。
「と、土地神様だ……!」
「本当に土地神様がお見えになった…」
「生贄を抱えておられるぞ…!!」
「本当に黒い髪をしている」
「看守が生贄を逃したという噂もあったが、さすが土地神様だ、既にその手におさめておられたとは」
「これで俺たちの土地は滅びずに済む……!!」
「生贄が消えたと聞いた時はどうなるかと思ったが、よかった…本当によかった!」
自分へ向けられる、排他的でもあり依存的でもある、敵意ともどこか違う複雑な感情が恐ろしかった。
でも目の前の人間たちに憎いという気持ちは湧き起こらなかった。私だってそちら側にいればきっと同じ感情を向けていたからだ。
本当に、生贄を捧げないと土地が滅びると思っているんだ。そう思わざるを得なかったんだ。
みんな痩せてる。
大衆の中には子供もいる。
復讐心や憎悪が湧き起こればどれほど楽だったろう。自分の気持ちに決着が付かない。痛ましい現状に、哀れみややりきれなさが渦巻いて自分の立場が分からなくなる。
「アマネ」
「っ、」
私にしか聞こえないほどの小さな声で、フェンリスに名を呼ばれた。
「怖いか?」
吐息の混じった優しい声を聞いているだけで涙が出そうになる。
「大丈夫…」
彼はそのままの声で、目の前の人々を見渡しながら私だけに聞こえるように小さな声で話し始めた。
「……最初にこの地の土地神になったのは、豊穣の神だ」
「豊穣の? それって、土地を豊かにしてくれる神様?」
「ああ。昔は豊かだった。土地にも天候にも恵まれ、祈祷せずとも雨が降る。だがそれは全て神のみの力だった。豊穣の神は、人間へ偏った情を抱き神の恩寵を与えすぎた」
フェンリスの声からは痛ましい感情が流れている。
「人間への過剰な恩寵は大罪とされる。人間の生まれ持った力を衰退させるからだ」
「勝手に作物が育つから、人間は、開墾する術すら身につけることができなかった。そういうこと?」
「その通りだ。大罪を犯した豊穣の神は土地神の座を退き、裁きを下された。次いで土地神となったのは叡智の神だ。農耕の術を知らない人間に、叡智の神は知恵を授けた……が、これまで放っておいても勝手に育っていたモノにあれこれ工夫して丹精込めて世話をしろなんて、人間にとっては混乱でしかなかったのだろう。作物は次第に枯れていった」
まるで作り物の神話を読み聞かされているようだ。でも、フェンリスはまるで家族の生い立ちでも話すように心を痛めながら話している。紛れもない事実であることが彼の声色から読み取れる。
「叡智の神は力を尽くし、人間も長い歴史を積み重ねて少しずつ農耕の術を学んだが、一度不作になれば嘆くばかりで工夫をしなかった。人間は己で試行錯誤をする代わりに、神に対して祈り続けた」
「……」
「叡智の神はそんな人間のためにも根気強く知恵を授けた。だが知恵だけでは作物は育たない。人間は何度も、何度も祈りを重ねた。その間にも土地は痩せていくばかりだった。そしてただ祈るだけでは足りないのだと、生贄を捧げ始めた」
いつのまにか大衆の歓声が意識から遠のき、私はフェンリスの声に没頭していた。
「叡智の神は頭がいい。捧げられた生贄も俺と違ってうまいこと逃していたようだが、何度も何度も、いくつ世代が変わっても努力をせず祈るばかりの人間に絶望し、嫌悪を抱いた。神に嫌われた土地は天からも嫌われ、雨も降らなくなり、旱が続くようになった。それでもしばらく土地神を続けていたが、ついに人間に愛想を尽かし、叡智の神も土地神を退いた」
「叡智の神様の後に、フェンリスが土地神になったんだね」
「そうだ。叡智の神の尽力もあり人間は少しずつ小さな工夫することを覚えていったが、一度神に見限られた代償は大きい。旱はいまだに続き、贄は今でも捧げられる。状況はあまり良くなっていない」
豊かな土地で生まれ、不自由なく食べ物を手に入れることができ、身を粉にして創意工夫をせずとも生きていける。
この地が生まれた時の人間たちの状況は、私の育ってきた環境とほとんど似ている。
違うのは、その環境が豊穣の神により与えられたものではなく先祖たちの血と涙と苦労の結晶の上に成り立っている豊かさだと言うこと。
しかし豊かさの根源が神の力が先祖の努力かなど関係ない。もし私がいきなり痩せ細った不作の続く土壌に放り込まれたとしたら。己でできることなどたかが知れていると、彼らの先祖と同じく神に祈り出したかもしれない。
つくづく私はこの人たちと同じだ。
祭壇を見上げる大衆の中に私がいたって何も不思議じゃない。
もしあの老婆が私の祖母だったら。
もしあの青年が私の兄だったら。
私は途端に、この者達が愛おしくなった。
フェンリスもそうだ。この者達を愛している。
彼は人間の行いを嘆いたりしても、人間という存在そのものを責めたことは一度も無かった。彼が責めるのはただ一人、あの時生贄を救えなかった自分自身のみ。
「フェンリス」
彼の名を呼び見上げる。
「フェンリス、あなたが一番、辛そうだよ」
面布越しでも分かる。
神へ生贄を捧げ歓喜する人間を憎むことができず、一方で自分がどうすればいいのかもわからず、生まれては死に、死んでは生まれる人間を見守り続けてきた。長い時間をかけて、豊穣の神が犯した罪の産物を背負ってきた。
「アマネ……」
悲痛の声で名を呼ばれた途端、心臓でも破裂しそうなほどの鼓動が体に生まれた。
——ドク、ドク、
と、鼓動が体全体に響いた。
"俺はどうすれば良いのだろうな"と、そう問われているような気がした。
私がフェンリスのような偉大な神様の助けになれるはずなどない。けれど、胸に突き上げる大きな感情が私の思考を支配してそう考えるのだ。
彼を助けたい。彼のために何かしたい。与えられた長い命を彼のために使いたい。
考え始めたら止まらなかった。
「私、フェンリスのそばにずっといたい。あなたを一人にしたくない。悲しい気持ちにさせたくない」
「アマネ、しかし」
「私も一緒に考える。どうすれば良いのか、あなたの気が済むまで一緒に考えるから、側に置いて」
面布越しに彼をじっと見つめる。
しばらくそうしていた気がする。騒がしかった民衆の声はいつのまにか静まっていて、人間達は緊張の面持ちで祭壇を見上げていた。皆、自分たちの運命を願うように、無事に生贄が神の手に収まるよう、心の底から、体の芯から、涙を流して祈っていた。
この大勢の祈りを、フェンリスは長い間一人で背負ってきたんだ。
人々の涙につられるように私もまた、何年間も溜まっていたものが堰を切ったように、涙に乗って流れ出ていた。
涙を流すのは、いつぶりだろう。
実に久しい気がした。
そうだ。思い出した。
この世界に来てすぐの頃は、私は毎日涙を流していた。
見世物にされて怖くて怖くて、いつ殺されるかもわからない恐怖が全身を支配して、元の世界が恋しくて、ずっと泣いていた。
思い出した。
私が泣くと、村の人たちが発狂し、咽び泣くんだ。
——このままではいつまた町が消えるかわからない。
——忌々しい歴史を繰り返すのはもう御免だ。
だから私は牢に入れられた。
次第に、感情というのは外に出すべきではないと学んだ。いくら怖くても、恐ろしくても、感情を出せば殺されると言い聞かせるうち涙もでなくなった。
そしたら雨が降らなくなって、私は安心したのだ。
過去の記憶をよみがえらせていると、遠くで声が聞こえた。
私は自分の目からこぼれ落ちる涙に戸惑っていた。胸から込み上げてツンと鼻を通り目頭を熱くさせるこの液体は、なぜこんなに私の頬を濡らしているのだろう。次から次へ、涙は私の頬をあまりにも濡らす。拭っても拭っても、いつまで経っても治らない。
「……、ネ、…アマネ!!」
「!」
遠くで響いていた声が途端に耳に飛び込む。彼をみると、彼の髪の毛も装束も濡れていて、私の頬を濡らしていたのが単に流れる涙だけではないことに気がついた。
私たちの経つ石段に跳ね高い音を鳴らし、民衆の立つ地面に染み渡る雨は、私のことも、フェンリスのことも、集まった人間たちのことも、土地も、草も、空気も、何もかもを濡らした。
美しかった月いつのまにかぼんやりと雲に隠れていた。
「フェン、リス…」
——ワァァァァァァッ!!!!
やっと周りの状況を把握した私の耳に、民衆の大きな大きな、先ほどとは比べ物にならない地響きのような歓声が聞こえてきた。
「雨……雨だぁぁ!!」
「恵みの雨だ…雨が降ったぞ!!」
「言われなくてもわかってらぁ! 見てみろ、こんなに服が濡れてやがる」
「地面もこんなに濡れてやがる!!」
「本当に、本当に雨が降った…!」
「土地神様のおかげだ」
「土地神様ぁ……ありがとうございます! ありがとうございます!!」
みんな、泣いて喜んでいる。フェンリスに祈っている。雨で濡れた地面に膝をついて、汚れるのも厭わず頭を下げる。
この状況に混乱し、私はフェンリスを見つめるしかなかった。
『しずまりなさい』
フェンリスの低い声が辺りに響き渡り、あれほど歓喜して祈っていた人たちはピタ、声を止めた。
『贄は要らぬ』
「!? フェンリス……?」
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