潮風のキャラメル

小雨鶲

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潮風のキャラメル

経始、休息…

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昨日一日休んだだけだと言うのに、よそよそしさが急激に悪化しているように感じたが、それは気の所為では無いようで、今まで関係を持ったことのないクラスメイトですら、コチラを気にはしていても、頑なに目を合わせようとしないのだ。
もしかしたら、昨日彼と一緒にいる所を誰かに見られたのかも知れない。
「学校サボって男と遊んでる」とでも噂されてこうなったとかだろうか。
それならなんだかこの態度にも納得が行く。
確かに紛うことなき事実だから、この仕打ちは我慢せざるを得ない。
不躾な視線を浴びせられ、そのくせ誰も話かけては来ず、数分が経った時、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。
先生が教室へとやって来て、教壇に立った。
彼は去年大学を卒業して教師になったばかりだと言うのに、水泳部の顧問兼コーチ、その上私のクラスの担任を立派に務め上げている。
先生は私に一瞥を投げた後、普通に出席をとり始めた。

ホームルームが終わり、先生が教科担任と入れ替わる為、退室してから暫く教室は騒がしくなった。
それから数分後に、物理の教科担任が入って来れば、水を打ったように一気に静まり返る。
そう、彼女はすぐ怒るし、怒ったところで怖くは無いが、面倒臭いのだ。
なので彼女が退室するまで、私語は一切無いだろう。
授業が始まってしまえば平和なもので、誰も私を気にしない。
彼女の授業は怒らせなければ、説明を聞きながら静かに板書をするだけでとても楽だ。
だが、次は体育で水泳である。
しかし私は泳げなくなったままなので、見学をさせて貰う事になっているが、絶対サボりだの何だのと言われるだろう。
それを想像しただけで腹が立ってくる。
いや、実際サボりでは無いと証明出来ないのだから、それは仕方がないが、泳げなくなったからと言って、泳ぐ事が嫌いになったりはせず、むしろ好きなままだからフラストレーション溜まりまくりである。
それに、移動はボッチ確定な上に、再び噂の的にされるのが安易に想像出来てしまうのが不快だ。
彼に会うか、家に帰るまでは愚痴を吐く事すらままなら無い。
これからほぼ毎日、先輩達が卒業するか皆が飽きるまで、コレを続けるのかと思ったら、いっその事辞めてしまった方がいい気がしてした。
しかし、あんな人達の為に学歴を汚すだなんて嫌だから、我慢できる限りは続ける。
しかし、今はもう相談できる相手がいるので、以前のように一人で抱え込むのに比べたら全然気が楽だ。
今日はガッツリ午後まで授業がある日だが、お弁当の生姜焼きが楽しみなのと、彼に良い報告をしたい気持ちで、帰りたいのを誤魔化して凌ごう。
そして今日こそは、なんか…こう、話しの流れで上手く、サラッと彼の名前くらい聞き出せたら…と目論んでいる。
普段は学校で、お互いに自己紹介を最初にするような出会いしか無く、今回の様に名乗り合いすらしない出会い方は、不慣れで勝手が分からない。
それでも、一緒に居たいし、色んな話をしたい。
探っていくのも楽しみだと思えてしまうくらいだ。
先刻までは、あれほど気分が沈んでいたと言うのに、彼のことを考えるだけで不思議と元気になれてしまう。
放課後の事を考えていたら、いつの間にか板書がかなり進んでいて、私は焦ってノートに書き写した。

どうにか写し終えた時、丁度授業が終わるチャイムが響いた。
どうにか間に合った達成感と、黒板にチョークが当たってけずれる音や、ノートにシャーペンなどが擦れる筆記音以外は聞こえてこないほど静まり返った、余分な身動きを許さないと言わんばかりな、息苦しい空気からの開放感で、私は思い切り伸びをした。
すると、背中や肩からバキボキと、同じ姿勢でいた為固まってしまった関節の伸びる音が聞こえて来る。
一度息をついて、机の上に出ていた教材をしまう。
さて、次は体育…水泳だ。
腹を括り、机に手を付いて椅子から腰を上げる。
足腰と気が、とても重い。
一人の教室移動は、心細くて落ち着かないから嫌だ。
見学の場合でも、制服のままでは居られないので、私はまた溜息をついて、鞄と共に机の横へ掛けておいた着替えの体育着を持ち、更衣室へと向かう。

着替えが終わり、プールサイドへ出てみると、今朝方までの好天は見る影も無くなって、どんよりと重たい色をした雲が一面に広がっていた。
とはいえ、雷は鳴っておらず、水温も気温も充分なほどあり、基準に達しているので降ったとしても、問題なく授業は始まるだろう。
それに、見学者の居るべきスペースは屋根があるし、他の人は水着だし、どうせプールに入って濡れるのだから雨が降ったところで問題は無いだろう…と、曇り空を見上げて文句を垂れている人達に向かって、心の中で軽く悪態を吐く。
とうとう雲が堪えられず、ポツリポツリと雨滴を零し始めた所で授業が始まった。
見学でやる事は、その授業中に先生の言った泳ぎのポイントをきちんと聞いて、授業開始前に渡されたプリントの空欄を埋めると言うもので、そんなの今更聞かなくたって分かる。
しかし、これは授業なのだ。
だから私は、屋根以外にベンチも机も、何一つ用意されていないこのスペースでちゃんと書けるようにと、予め持ってきて置いた他の教科のノートを下敷き代わりにして、渋々プリントと向き合う。
程なくして、天候が悪化した。
数メートル先が見えなくなるほど雨が酷い。
ゲリラ豪雨と言うやつだ。
屋根が雨漏りをしているのか、ぽたぽたと水が垂れてくる。
幸いにも風がほぼ無いので、雨の被害はそれだけで済んだが、プール内に居る人達が悲鳴に近い声を上げているのを聞いて、むしろ私は今日ついていると思い、少し嬉し気分になれた。
豪雨はなかなか去らず、遠くで雷が鳴り始めたので、急いでプールから上がるようにと先生から指示が出される。
我先にとプールサイドに詰め寄る姿は、波が岸辺に押し寄せる光景と少しだけ似ている気がした。
そんな事を考えたら、ふと彼の顔が頭に浮かんだ。
彼はちゃんと屋根のある場所に居るのだろうか、もし今あの場所に居たのなら、雨を遮ってくれる物が一切無い為、ずぶ濡れ間違いなしなので、心配だ…そこまで思考を巡らせた所で、私は彼を野良猫か何かと同じように思っているのだと気がついて、ニヤける口元をノートで隠した。
よくよく考えて見れば、確かに彼は猫っぽい。
見た目の雰囲気と行動の突飛さが、どことなく猫なのだ。
この一向に止む気配が感じられない土砂降りの中、彼はどこで何をしているのか、とても興味をそそられる。
あの場所の近くに住んでいると言っていたが、毎回別れの挨拶をした直後見失ってしまうので、どの方向なのかの見当すらつかない。
それに、昨日は朝早くからあそこに居たが、普段は何をしているのだろう。
ちゃんと登校したという事の報告のついでに聞けたらいいと思っている。
なんて考えていたら、雷が鳴り止まないので着替えて教室へ戻り自習にするようにとの指示が出た。
先程よりも雷は近づいて来ていて、確かにコレで水の中に居るのは危ないだろう。
一つ一つの雨粒が大きいからか、一歩屋根の無い所へと踏み出すと、まるで滝行だ。
放課後までに止んで居なかったら、あの場所は確実に冠水してしまう。
そうしたら、待ち合わせも何も出来ないなぁと、心がふさぐ。
周りは談笑している中、私は一人で着替えて教室まで戻るのだという事実を再認識して余計に落ち込む。

その後、暫くして雷は止んだが、雨の勢いは変わることなく、昼休みを迎えた。
お弁当を持ち、人気の無いところを探す。
雨さえ降っていなければ、中庭やら校舎裏で良かったと言うのに、どちらも屋根が無いので、ゆっくり生姜焼きを楽しむどころじゃない。
しばらく彷徨い続けたら、屋上へと続く階段を発見した。
ソレを上まで登る。
そこで現れた屋上への扉は、常に施錠されていて、誰もそれ以上進むことが出来ない。
私はその扉の前に腰を下ろす。
コンクリートに当たって砕け散る雨粒を、ガラス張りの扉越しに眺めながら、私はお弁当の包みを広げた。
コンビニのおにぎりよりも、二…三回り大きな塩むすびが、お弁当箱の上に鎮座している。
それを退けて蓋を開けてまず目に飛び込んできたのは、醤油で味付けされた卵焼き、黒胡麻を埋め込まれた、つぶらな瞳のタコさんウインナー。
オレンジ色と赤色のプチトマトに、ほうれん草のお浸し、それらがお弁当の三分の一程を埋めている。
そして、残りの隙間は全て生姜焼きだ。
ご察しの通り、私のお弁当箱は、普通の女子高生が持つには大きいサイズなのだが、これでもたまに物足りなく感じる。
朝のあの短時間で良くここまで凝った物を作れるものだと素直に尊敬した。
しかし、今日は完全に足りないだろう。
父の生姜焼きは別腹案件なので、無尽蔵に食べられるのだ。
「いただきます」
手を合わせ、普段よりも小さな声でそう呟いた。
外の雨音に掻き消されると思っていたのに、思いの外響いてしまい、少し驚いたが、気にせず生姜焼きに手をつける。
一人で食べるよりも、皆で食べた方が美味しいだなんて事は無く、父の生姜焼きは相も変わらず美味しい。
涙が出てくる程に、美味しかった。
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