智識神の封印書庫

文月沙華

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少年と猫

10話

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 一歩一歩、お腹の痛みに耐えながら床を踏みしめる。

 積み上げられた木箱を支えに、迂回してアイツらのいる方へ。

 不思議と、あまり怖くはなかった。

 どのみち他に道はない。逃げられない以上、ここで踏みとどまるしかないのだから。
 言い争いの声が近づき、唐突に途切れた。代わりに品の無い笑い声が響く。

「まさか立ち上がれるとはな。クソガキが、わざわざ殺されにきたのか?」

 後から倉庫に入ってきた三人目の男——改めてみると、かなりの長身で細長い、蜘蛛を思わせるシルエットだった。引き攣ったような気味の悪い笑みを浮かべ、けれど細く鋭い眼は全く笑っていない。

 見たところ、武器は僕を刺すのに使った小振りのナイフだけ。もちろん、どんな魔術が使えるかわからないからそれだけを警戒するわけにもいかない。
 よほど舐めていたのだろう。幸いなことに、僕の剣は取り上げられず床に放置されたままだった。多分、今の状態では振れて一度きり。それでも、その一度で決着をつけるしかない。

 僕は大きく息を吸い、半ば引きずるようにして持ってきた剣を強く握りしめた。

 ……大丈夫、大丈夫だ。

「僕はアシェル。傭兵ギルドに所属する傭兵で、あんたたちが攫った猫の飼い主から正式に依頼を受けてここにいる」

 努めて事務的な口調で話した。なるべく余裕がある風を出さないと。
 長身の男はわざとらしく吹き出し、ニヤニヤと笑った。

「なら傭兵のタグを見せてみろよ。本物なら持ってんだろ」

 よし。
 こちらの思惑に乗ってきた。まずは成功だ。

 コイツら――いや、コイツは僕らのことを完全に舐めている。それを利用するんだ。
 僕のことを馬鹿にして笑う時間が伸びれば伸びるだけ、フェルのための時間を稼ぐことができる。

 言われた通り、不自然じゃない程度に余計な時間をかけながら首にかけたタグを取り出す。傭兵ギルドに所属している傭兵に配布されるもので、身分証であると共に死後の身元確認や、遺体が持ち帰れないような場合に代わりに持って帰るためのものだ。

 ほとんど実績はないけど、それでもこれは正真正銘の本物だ。

「……ふん、たしかに本物だな」

 男の笑みは消えない。僕が剣を持っている時点でその可能性は考慮していただろう。これが本物だったからといって、それで躊躇ったりはしないはずだ。
 ただ、僕が正式に依頼を受けたという部分に関しては説得力が増したはず。

「お、おい。傭兵ギルドを敵に回すのはまずいんじゃないか」

 長身の男に、フェルの〈爪〉で脅されていた男が意見する。殺しに反対しているのもこの男だ。
 もう一人は……いた。倉庫の壁際で頭を抑えて座り込んでいる。木箱から突き落とされた後、どうやら意識は戻ったみたいだけど、まだ動けないみたいだ。

「こいつを殺したらギルドが調査する可能性だってあるだろ。そうなったらさすがに誤魔化しきれな」

 男の言葉は途中で途切れた。長身の男の蹴りが腹に沈みこみ、膝をついたところで続けざまにこめかみを蹴り飛ばされる。鈍い音と共に空気が震えた。

 男は勢いよく横倒しになり、蹴られた場所を抑えて咳き込む。
 恐怖に歪み脂汗に濡れた顔で、蹴られた男は長身の男を見上げた。いつの間にか、あの気味の悪い笑みは消えており、ぞっとするほど冷たい眼で蹴り倒された男を見下ろしていた。

「俺を敵に回すのとどっちが怖いんだ?」

 冷たい、氷のような声。先ほどの眼はそのまま、僕のほうへと向けられる。
 ゆっくりと間を置いた溜息の後、長身の男の表情は再び気味の悪い笑みへと戻った。

「どいつもこいつも使えねぇ。お前のほうがよっぽど役に立ちそうだな、ガキ」
「……どうも」

 今ここで動かれたらかなりまずい。まだ引き延ばさないと。
 交渉をしなければならないと思わせるんだ。そして、今はそれに乗っておくのが一番マシだと。

「先に言っておくけど、依頼人は猫の身代金を払う気はない。あんたたちがこれ以上粘る意味はないはずだ」

 完全に交渉を成立させる必要はない。相手に考える余地があれば、それで時間稼ぎにはなる。

「手を引いてくれるなら僕も追わないし、他の傭兵にもあんたたちの情報は渡さない」

 これで……少しは迷うはずだ。
 殺人に抵抗がなくても、手に入らない身代金のために無駄に罪を重ねようとは思わないだろう。今手を引けば動物を連れ去っただけで済むのだ。

 しかし、長身の男はほんの一瞬だけ考え込む素振りを見せた後、こちらに視線を向け再び笑みを消した。

「傭兵ごっこのクソガキが。目的は時間稼ぎってとこか?」

 背筋が凍り、体が思わず硬直した。
 いま動かれたらまずい――と思ったけれど、長身の男が動くより先に今日一日で聞き慣れた声が聞こえた。

「準備完了だ」

 声の方向と気配から、フェルがすぐ隣に積まれた木箱の上に立ったのだとわかる。
 時間稼ぎは終わった。その安心感と、フェルが隣に並び立ってくれる頼もしさで体が軽くなる。

 しかし、フェルが行動を起こすより前に長身の男は動いていた。信じられない速度で迷いなく距離を詰め、その手に持ったナイフをフェルに目掛けて――、

* * *

「僕たちに勝機はあるの?」
「ある」

 アシェルは不安がっているが、オレははっきりと断言してやった。コイツからすると手も足も出ないとしか思えなかっただろうし、実際に一対一では手も足も出ないだろう。
 だが、あの時オレとコイツでタイミングを合わせられていれば勝機はあった。

 オレの〈爪〉ではヤツの〈盾〉を破ることはできない。元々、〈武器強化〉の魔術はある程度の質量がある物体に〈盾〉を破る性質を付与するものだ。
 〈爪〉はそこに改良を加えて、オレの爪の射程と威力を大幅に増幅させているが、それでも〈盾〉を破れるわけではない。だから、オレがヤツに傷を負わせるには〈盾〉を使えない隙を作らなければならない

 そのためにはアシェルとの連携が必須だった。
 ヤツがこちらに気付く前に仕掛けるべきと判断して先走ってしまったが、あれは明確にオレのミスだ。

 ……アシェルは自分が出遅れたせいとか思っていそうだが。
 だが、今は反省会をしている場合ではない。

「いいか。主とのリンクを繋ぎなおせばアイツを倒すのは容易い。だが、オレを経由した魔術が発動する前、どうしても一瞬だけ隙が出来てしまう」
「つまり、そこを僕が守ればいいってこと?」
「そうだ。奴はかなりの手練れだ。まず間違いなく、その隙を見逃さずに攻撃に移るだろう」

 アシェルの視線がオレから逸れる。
 不安なのだろう。さっき自分の剣をあっさり躱されたばかりだ。
 それでも、オレははっきりと断言した。

「お前なら出来る」

 アシェルの視線が戻り、オレの瞳を真っ直ぐに見つめ返してくる。
 オレはそのまま続けた。

「いいか、迷いを捨てるんだ。たった一つだけ、これだけをやるって目標を定めてその達成のためだけに動け。それ以外のことは一切考えるな」

 街でオレを追いかけていた時の、お前のあの集中力を思い出せ。あれを引き出せれば、一瞬であればヤツに対抗できるはずだ。

 迷いを捨てろ。

「さぁ、やるぞ」

 ほんの一瞬だけでいい。そこに全てを賭けてくれ。
 アシェルは額の汗を袖で拭い、再び顔を上げる。

 あの時と同じく意思と計算を宿した、力強く冷静な眼になっていた。

* * *

 ガキはただの時間稼ぎ要員。そこまでは予想がついた。

 使い魔の猫が出てきた時、こっちが本命であることはすぐにわかった。それを即座に止めに向かった俺の判断は間違っていないはずだった。

 こんな状況は今までいくらでもあった。考え得る限りの最速で距離を詰め、猫に目掛けて〈武器強化〉を付与したナイフを突き出す。それで俺の勝ちは確定だ。
 ガキが間に合うはずがない。
 そう思った判断こそが、致命的な誤りだった。

「……あ?」

 甲高い金属音が耳を貫く。

 俺は手元のナイフを地面に突き出し、前のめりの体勢で間抜けな声を出していた。
 状況を理解するために視線を彷徨わせ、ガキと目が合う――コイツ、こんな眼だったか?

「コイツが傭兵ごっこなら、お前は犯罪者ごっこだろう」

 上から勢いよく振り下ろされたガキの剣が俺のナイフを捉え、真下に叩きつけられた……と理解したのは、猫の声を聞いた後だった。
 猫から強大な魔力を感じる。先ほどまでとはまるで違う、明らかに高次元の魔術——しかし、弾かれた腕は痺れて動かない。

 空中に幾重もの魔法陣が展開し、猫の周りを取り囲む。間髪入れずにそれらから大量の水が勢いよく溢れ出し、倉庫の中にあるすべてを飲み込んだ。

 そう、猫とガキを除いて……。

 波に潰され、押し流された木箱や床に幾度も叩きつけられ方向感覚を失う。
 壁にぶつかってようやく止まった頃には体中が激しく痛み、どこを負傷し、どこが無事なのかすらまともに判別できないほどだった。

 腕で身体を支え、なんとか脚に力を入れようとするが、うまくいかない。追撃を警戒するものの、できたのはどうにか顔を上げることくらいだった。

 そして、俺の目に映ったのは空中で身体を捻る黒猫と、微かに光を帯びた爪。

「終わりだ」

 猫の声が耳に響く。振り下ろされた爪に引き裂かれた右腕に激痛が走り、叫び声が倉庫に響いた。

 自分の叫び声なんて聞いたのは、随分久しぶりのことだった。
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