灰燼に咲く聖女は鉄拳で運命を穿つ 〜「推しが実在するので、愛されても死ねない」格闘聖女と参謀令嬢、滅びの乙女ゲーを書き換えるまで〜

Hisaki_Himeka

文字の大きさ
1 / 10

第1話 推しのいる世界へ

しおりを挟む
 歓声が壁を震わせていた。

 控え室のコンクリートに反射した低い振動が、床から足の裏を伝って這い上がってくる。世界統一王座決定戦、メインカードの一つ前が終わったのだろう。観客のボルテージが上がっている。
 倉橋凛は、パイプ椅子に深く腰を下ろしていた。
 パーカーのフードを目深に被り、スウェットの膝を広げて座る姿は、百九十センチの長身と相まって威圧感がある。テーピングされた大きな手がスマートフォンを握っていた。画面に映っているのは――格闘技の試合映像でも対戦相手の分析でもない。
 乙女ゲーム「約束の灰燼《アッシュ》」のファンサイトだった。
 トップページのバナーには、灰色の短髪に頬の傷跡が精悍な男――騎士団長ガイウスの立ち絵が使われている。凛の口角が、わずかに上がった。

(参謀さんの新作の感想、試合終わったら書こ。あの人のセバスティアン解釈は毎回刺さるんだよな)

 画面をスクロールすると、コメント欄の上の方に見慣れたハンドルネームがあった。「静かな夜の参謀」――凛が最も信頼する書き手であり、顔も本名も知らない親友だ。
 さらに下へ。「星屑の剣姫さんの新作まだですか?」というコメントが目に入る。

(わかってるって。試合終わったら書くから待ってて)

 心の中で返事をして、凛はスマホを閉じた。
 立ち上がる。パーカーを脱ぐ。その下から現れたのは、鍛え抜かれた長身の体だった。百九十センチ、七十八キロ。女子総合格闘技、パウンド・フォー・パウンド最強。対戦相手がどんな戦略を立ててこようが、この体で叩き潰してきた。
 グローブを嵌める。指を一本ずつ通し、手首のベルクロを締める。流れるように美しい所作だった。何百回、何千回と繰り返してきた動作が、祈りのように指先に染みついている。

(さて、仕事だ)

 控え室のドアが開く。スタッフが呼びに来た。歓声が一気に膨らむ。
 倉橋凛は、笑って花道へ向かった。


―――――✧ ❀ ✧―――――


 リングの上で、空気が変わった。
 対戦相手は百八十センチのブラジル系の選手だった。金髪をポニーテールにまとめ、闘志を剥き出しにした目が凛を睨む。凛より十センチ低いが、筋肉の密度が高く、踏み込みに重さがある。世界統一王座決定戦の相手として不足はない。
 ゴングが鳴った。
 凛の左ジャブが相手の視界を塞いだ。反応する間もなく右ミドルキックが脇腹を抉る。相手が距離を取ろうとした瞬間、凛の重心が前に沈んだ。腰の回転が拳に乗る。ボディへのショートフック。肝臓を掠めた一撃に相手の膝が揺れた。
 会場が沸く。圧倒的だった。
 相手が組みに来る。凛はそれを切り、首相撲に移行した。膝を突き上げるフェイントで相手の意識を散らし、離れ際に肘。相手の目尻が切れ、血が飛んだ。

(あと一分。このまま――)

 見えなかった。
 相手の右フックが、凛の後頭部を捉えた。組みを切った直後の一瞬、重心が後ろに残ったタイミングだった。百八十センチの体から繰り出された拳が、凛の意識を断ち切る。
(あ、やられた。こいつの右、見えなかった。……ああ、まずい。意識が)
 百九十センチの体がリングに崩れ落ちる。レフェリーが駆け寄る。歓声が悲鳴に変わった。
 天井のライトが滲んでいく。白い光が灰色に変わる。


―――――✧ ❀ ✧―――――


 視界の中に、見慣れた画面が浮かんだ。
 灰色の背景に、白い花が一輪。
「約束の灰燼《アッシュ》」のタイトルロゴが、意識の底に浮かび上がる。凛が百回以上見たオープニング映像だった。
 画面が切り替わる。
 ガイウス。灰色の短髪、頬の古傷、剣の柄に置かれた手。遠くを見つめるあの横顔。凛が夢小説で最も多く書いた男の姿が、記憶の底から立ち上がった。
 セバスティアン。黒髪黒眼の宰相。表情の乏しい端正な顔。書類を手にペンを回す仕草。参謀さんが書く彼はいつも、この冷たい顔の裏に深い感情を隠している。
 エルヴィン。金髪碧眼の完璧な王子。微笑んでいる。けれどその目は笑っていなかった。ゲームの中でも、ずっとそうだった。
 リオン。茶髪に緑の瞳。真剣な眼差しで剣を構える少年騎士。
 そして――リゼット。銀灰色の長い髪。白いドレスに包まれた、たおやかで儚げな姫君。凛とは何もかもが正反対の、この世界のヒロイン。

(ガイウスが見える。相変わらずいい顔してる。……ああ、新作の締め切り、参謀さんに連絡しないと)

 ピアノの旋律が遠く聞こえた。「灰燼のワルツ」。このゲームで凛が最も好きなBGMだった。
 画面の隅に一瞬、テキストが流れた。凛が何度も読み飛ばした「灰燼のあとがき」の一節。

 ――あなたが新しい結末を書けるなら

 読み取る前に、視界が灰色に沈んでいく。

(視界が、灰色に……)

 意識が、落ちた。


―――――✧ ❀ ✧―――――


 蛍光灯の光が、白い天井を照らしていた。
 陸上幕僚監部、運用支援・情報部。午後十時を回った執務室に残っているのは、篠原真琴だけだった。
 ディスプレイが三台並ぶデスクの前で、真琴は報告書の最終チェックをしていた。黒のショートカットを耳にかけ、制服の襟元には三等陸佐の桜星。三十四歳。陸上自衛隊で最も若い三佐の一人であり、情報分析の精度では部内随一と評されている。
 キーボードを叩く手が止まった。
 報告書を保存し、スクリーンロックをかける。ディスプレイが暗転し、ロック画面が表示された。
 セバスティアン・ノワールの立ち絵が、画面いっぱいに映し出される。
 黒髪黒眼の宰相。書類とペン。微かな皮肉を含んだ目元。乙女ゲーム「約束の灰燼《アッシュ》」の攻略対象の中で、真琴が最も愛した男だった。

(……壁紙、変えた方がいいかな。いや、誰も見ないし。閣下の顔が綺麗だし)

 デスクの脇に置かれたペン立てには、一本だけ毛色の違う細いペンが刺さっている。夢小説の構想メモ用の私物だ。手帳を開けば、隙間に挟まれた「アッシュ」のミニカードが覗く。セバスティアンのレアカード。三年前のイベントで引いた。
 真琴は椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げた。

(剣姫さんの新作、今回のガイウスの独白がやばかった。感想書かないと……あ、でもこの報告書が先だ)

 星屑の剣姫。顔も本名も知らない、ファンサイトで唯一「この人のガイウスは本物だ」と思える書き手。真琴のハンドルネームは「静かな夜の参謀」。二人は互いの夢小説を読み合い、感想を送り合い、ときに解釈で三千字の議論を交わす仲だった。
 実際に会ったことは一度もない。声も知らない。ただ、この人だけは自分と同じ熱量で「アッシュ」を愛していると確信していた。


―――――✧ ❀ ✧―――――

 廊下に足音が響いた。

「篠原、まだいたのか。もう二十二時だぞ、帰れ」

 鶴見一佐が執務室の入口に立っていた。短髪に眼鏡、温和な顔。真琴の直属の上司だ。

「あと少しです」
「お前の分析は信頼している。だからこそ体を壊すな」
「はい。あと十分で終わります」

 鶴見がため息をついて立ち去った。真琴は苦笑して、ディスプレイに向き直る。
 その時、胸に痛みが走った。
 鋭く、深い痛み。心臓を握り潰されるような圧迫感が、胸の中心から放射状に広がった。

(胸が……痛い。これは……心筋梗塞? まさか、三十四で?)

 左手で胸を押さえた。右手がデスクの縁を掴もうとして、滑った。椅子が回転し、体が傾く。
 ディスプレイのスクリーンセーバーが起動した。暗転した画面に、セバスティアンの立ち絵がゆっくりと浮かび上がる。

(……画面に閣下の顔が映ってる。ああ、恥ずかしい、壁紙変えとくべきだった)

 床に膝をつく。視界がぼやけていく。蛍光灯の白い光が、灰色に変わっていく。

「篠原!」

 鶴見の声が遠くから聞こえた。足音が廊下を走ってくる。

(剣姫さんの新作の感想、まだ送ってなかった。……ごめん、参謀は先に落ちます)

 視界が、灰色に沈んでいく。
 ピアノの旋律が、どこか遠くから聞こえた気がした。


―――――✧ ❀ ✧―――――


 二つの意識が、同じ灰色の底に落ちていく。
 百九十センチの格闘家と、三十四歳の自衛官。リングの上と、蛍光灯の下。右フックと、心筋梗塞。何もかもが違う二人の女の意識が、同じピアノの旋律に導かれるように、同じ灰色に溶けていく。
 白い花が一輪、視界の端に咲いた。
 約束の灰燼《アッシュ》。全ルートがビターエンドで終わる、救いのない乙女ゲーム。

 同じゲームを愛した二人の女が、同じ世界に落ちていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

乙女ゲームの悪役令嬢、ですか

碧井 汐桜香
ファンタジー
王子様って、本当に平民のヒロインに惚れるのだろうか?

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?

おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました! 皆様ありがとうございます。 「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」 眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。 「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」 ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。 ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視 上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

メインをはれない私は、普通に令嬢やってます

かぜかおる
ファンタジー
ヒロインが引き取られてきたことで、自分がラノベの悪役令嬢だったことに気が付いたシルヴェール けど、メインをはれるだけの実力はないや・・・ だから、この世界での普通の令嬢になります! ↑本文と大分テンションの違う説明になってます・・・

ざまぁされるための努力とかしたくない

こうやさい
ファンタジー
 ある日あたしは自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生している事に気付いた。  けどなんか環境違いすぎるんだけど?  例のごとく深く考えないで下さい。ゲーム転生系で前世の記憶が戻った理由自体が強制力とかってあんまなくね? って思いつきから書いただけなので。けど知らないだけであるんだろうな。  作中で「身近な物で代用できますよってその身近がすでにないじゃん的な~」とありますが『俺の知識チートが始まらない』の方が書いたのは後です。これから連想して書きました。  ただいま諸事情で出すべきか否か微妙なので棚上げしてたのとか自サイトの方に上げるべきかどうか悩んでたのとか大昔のとかを放出中です。見直しもあまり出来ないのでいつも以上に誤字脱字等も多いです。ご了承下さい。  恐らく後で消す私信。電話機は通販なのでまだ来てないけどAndroidのBlackBerry買いました、中古の。  中古でもノーパソ買えるだけの値段するやんと思っただろうけど、ノーパソの場合は妥協しての機種だけど、BlackBerryは使ってみたかった機種なので(後で「こんなの使えない」とぶん投げる可能性はあるにしろ)。それに電話機は壊れなくても後二年も経たないうちに強制的に買い換え決まってたので、最低限の覚悟はしてたわけで……もうちょっと壊れるのが遅かったらそれに手をつけてた可能性はあるけど。それにタブレットの調子も最近悪いのでガラケー買ってそっちも別に買い換える可能性を考えると、妥協ノーパソより有意義かなと。妥協して惰性で使い続けるの苦痛だからね。  ……ちなみにパソの調子ですが……なんか無意識に「もう嫌だ」とエンドレスでつぶやいてたらしいくらいの速度です。これだって10動くっていわれてるの買ってハードディスクとか取り替えてもらったりしたんだけどなぁ。

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

ねえ、今どんな気持ち?

かぜかおる
ファンタジー
アンナという1人の少女によって、私は第三王子の婚約者という地位も聖女の称号も奪われた 彼女はこの世界がゲームの世界と知っていて、裏ルートの攻略のために第三王子とその側近達を落としたみたい。 でも、あなたは真実を知らないみたいね ふんわり設定、口調迷子は許してください・・・

腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。

灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。 彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。 タイトル通りのおっさんコメディーです。

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

処理中です...