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第2話 目覚めの王女
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絹の寝具が身体を包んでいた。頬に触れる空気が甘く、微かに花の香りがする。
瞼を持ち上げると、白い天蓋が視界いっぱいに広がった。柔らかな光が薄絹を透かして降りてくる。
(……どこだ、ここ)
天井が高い。石造りの壁に細い窓が嵌め込まれ、朝の光が差し込んでいる。白い天蓋に囲まれた寝台。病院のベッドではない。試合会場の控え室でもない。
起き上がろうとして、視界の端に銀色が流れた。
(……え? 何だこの髪。銀色?)
長い。肩を超え、腰の下まで流れる銀色の髪が、白い寝具の上に広がっている。凛の髪は黒く、肩までしかなかったはずだ。
その髪を掴もうとした手が、視界を横切った。テーピングの跡も、拳ダコも、関節の変形もない。白く、細く、たおやかな指先。凛が二十年以上かけて作り上げた格闘家の手ではなかった。
(……待って。この手、私の手じゃない)
寝台の脇の水差しに、自分の顔がぼんやりと映った。銀色の髪の下に、菫色の瞳。見覚えのある顔だった——ゲームの立ち絵で、何百回も見た顔。
寝台の縁に手をついて、身体を起こす。重心が違う。百九十センチの身体を動かす感覚が消えていた。骨格が小さく、軽く、しかし不思議なことに、筋肉の記憶だけは残っている。腹筋に力を入れる感覚、腰から回転を生む感覚、重心を落として踏ん張る感覚——格闘家としての二十年が、この知らない身体の奥に沈んでいた。
窓から差し込む光に視線が引かれた。石造りの回廊が中庭を囲んでいる。庭園には白い薔薇が咲き、その奥に円形の訓練場が見えた。さらに向こうには、淡く光る白灰色の城壁。朝日を受けて微かに発光している。
凛の心臓が、止まった。
(この部屋。この窓の景色。……これ、「アッシュ」の一章冒頭じゃないか)
約束の灰燼《アッシュ》。百回以上プレイした乙女ゲーム。その第一章の最初のシーン——リゼット王女が三日間の昏睡から目覚めた場面。白灰宮の聖女の間。天窓から光が差し込む構造。窓の向こうに見える薔薇の庭園と訓練場。
全部、見たことがある。ゲームの背景画像として、何百回も。
(嘘だろ。転生? 私が? リゼット・アルヴィナに?)
銀色の髪を掴んだ。本物だった。引っ張れば痛い。この髪は自分のものだ。
百九十センチの世界最強格闘家が、百五十八センチの亡国の姫に変わっている。
(……落ち着け。状況を把握しろ。格闘家は、リングの上で何が起きてもまず呼吸を整える)
深く吸って、吐く。肺が小さくなった分だけ、一息が浅い。それでも呼吸に意識を集中すると、心拍が落ち着いていった。格闘家としての二十年間が、この異常事態でもパニックを許さなかった。
―――――✧ ❀ ✧―――――
扉が静かに開いた。
「姫殿下、お目覚めですか」
栗色の髪を編み込みにまとめた若い女性が、寝台の傍に歩み寄ってきた。そばかすのある穏やかな顔立ち。しかし目だけが違った。淡い茶色の瞳が凛を見つめる視線は、観察者のそれだった。
(マリエル・フロス。リゼットの筆頭侍女。ゲームでは名前だけのモブだったはず。でも……この子の目、鋭いな)
「姫殿下、お加減はいかがでしょうか。……三日間、お目覚めになりませんでしたので」
(三日。ゲームでもリゼットは序盤に三日間昏睡する設定だった。つまり今はストーリー開始直後か)
「……ええ。大丈夫よ、マリエル。少し、ぼんやりしているけれど」
リゼットの声で答えた。自分の口から出る声が柔らかく、澄んでいることに驚く。格闘家の低い声ではない。王女の声だった。
マリエルが一瞬、首をかしげた。何かに気づいたような、微かな仕草。しかしすぐに表情を戻し、寝台の脇に水差しを置いた。
「お水をお持ちしました。お飲みになれますか」
「ありがとう」
水を受け取る。グラスを握る手つきが、自分でも分かるほど不自然だった。格闘家の手で握る癖が残っている。グラスを包むのではなく、握り込んでしまう。
マリエルの視線が、一瞬だけ凛の手元に落ちた。
(……気づいてる? 前のリゼットとの違いに?)
しかしマリエルは何も言わなかった。ただ静かに控え、凛が水を飲み終わるのを待っている。
その沈黙を破ったのは、廊下から響く軽やかな足音だった。
「姫殿下! お目覚めになられましたわ!」
金髪を巻いた若い侍女が、扉を弾き飛ばすように駆け込んできた。表情が忙しく動き、目がきらきら輝いている。
「ああ、姫殿下、よかった! 三日間もお眠りになっていたので、もう、もう心配で……! エルヴィン殿下にお知らせしなくては!」
言うなり、来た時と同じ勢いで廊下に飛び出していった。
(……あれがノエル・ティアスか。侍女の後輩。ゲームでは完全にモブだったけど、なんというか……元気だな)
マリエルが小さくため息をついた。
「申し訳ございません、姫殿下。ノエルは配属されて半年で、まだ……」
「いいのよ。元気があって、いいわ」
凛はリゼットの微笑みを作った。格闘家の顔ではなく、王女の顔を。百九十センチの時にはやったことのない表情筋の動かし方が、この身体には染みついていた。リゼットの身体が覚えている笑い方だ。
マリエルが、また一瞬だけ目を細めた。
(この子——何かに気づいてる。でも、訊かない。……いい侍女だな)
―――――✧ ❀ ✧―――――
足音が、廊下の向こうから近づいてきた。ノエルの駆け足とは違う、落ち着いた、しかし確かな歩調。
扉が開いた。
金髪碧眼の青年が、完璧な笑顔で部屋に入ってきた。
(エルヴィン・アルヴィナ。リゼットの異母兄。二十六歳。ゲームでは「王冠の孤独」ルートの攻略対象)
背が高く、端整な顔立ちだった。金色の髪が朝の光を受けて淡く光っている。微笑みは穏やかで、王子というよりも、慈悲深い聖職者のような柔らかさがあった。
しかし凛は、ゲームを百回以上プレイした人間だ。
目が、笑っていない。
碧い目の奥に、微笑みの温度がない。ゲームの立ち絵でもそうだった。エルヴィンは常に微笑んでいるが、その目は常にどこか遠くを見ている。初見プレイでは気づかない。二周目、三周目で「この人の目、笑ってないな」と気づく。それがエルヴィンというキャラクターだった。
「リゼット、目が覚めたか。心配したぞ」
声は穏やかだった。寝台の傍に立ち、凛の顔を覗き込む。
「……はい。ご心配をおかけしました、兄上」
凛はリゼットとしての呼び方を選んだ。ゲームの中で何度も聞いた台詞。エルヴィンは「お前」と呼び、リゼットは「兄上」と呼ぶ。
エルヴィンが頷いた。それから部屋にいる者たちに視線を向けた。
「少し二人にしてくれ」
マリエルが一礼し、ノエルの腕を引いて廊下に出る。騎士が一人、扉の外で控えていたが、エルヴィンの視線を受けて姿を消した。
扉が閉まる。
部屋に、二人きりになった。
空気が変わった。エルヴィンの纏う空気から、王子としての完璧さが、ほんの一瞬だけ剥がれた。
「……よかった」
小さな声だった。凛に向けた言葉なのか、独り言なのか分からないほど小さい。碧い目が、一瞬だけ揺れた。完璧な仮面の下から、何かが漏れた——そんな一瞬だった。
「え、兄上?」
凛が問い返す。
エルヴィンの表情が、瞬きひとつの間に元に戻った。完璧な微笑み。目が笑っていない、いつもの微笑み。
「いや……何でもない。回復に努めてください、リゼット」
敬語が混じった。兄として話していたはずが、王子としての言葉遣いに戻っている。さっきの「よかった」は凛に見せるべきものではなかったと、自分で気づいたのだろう。
エルヴィンは踵を返し、扉に向かって歩き出した。背筋が伸びた、隙のない歩き方。王族として仕込まれた所作が、一歩ごとに彼を「完璧な王子」に戻していく。
扉が閉まった。
凛は、エルヴィンが去った扉をしばらく見つめていた。
(何か言いたいことがあったのだろうか。ゲームのエルヴィンは、こんな顔をしなかった)
ゲームのエルヴィンは、序盤では「完璧な兄」としてしか描写されない。妹の目覚めを喜び、穏やかに微笑み、王子としての務めに戻っていく。それだけのキャラクターだった——「王冠の孤独」ルートに入るまでは。
(あの「よかった」は……何に対しての「よかった」なんだ?)
答えは出なかった。ゲームの知識にも、この一言の意味は書かれていない。
瞼を持ち上げると、白い天蓋が視界いっぱいに広がった。柔らかな光が薄絹を透かして降りてくる。
(……どこだ、ここ)
天井が高い。石造りの壁に細い窓が嵌め込まれ、朝の光が差し込んでいる。白い天蓋に囲まれた寝台。病院のベッドではない。試合会場の控え室でもない。
起き上がろうとして、視界の端に銀色が流れた。
(……え? 何だこの髪。銀色?)
長い。肩を超え、腰の下まで流れる銀色の髪が、白い寝具の上に広がっている。凛の髪は黒く、肩までしかなかったはずだ。
その髪を掴もうとした手が、視界を横切った。テーピングの跡も、拳ダコも、関節の変形もない。白く、細く、たおやかな指先。凛が二十年以上かけて作り上げた格闘家の手ではなかった。
(……待って。この手、私の手じゃない)
寝台の脇の水差しに、自分の顔がぼんやりと映った。銀色の髪の下に、菫色の瞳。見覚えのある顔だった——ゲームの立ち絵で、何百回も見た顔。
寝台の縁に手をついて、身体を起こす。重心が違う。百九十センチの身体を動かす感覚が消えていた。骨格が小さく、軽く、しかし不思議なことに、筋肉の記憶だけは残っている。腹筋に力を入れる感覚、腰から回転を生む感覚、重心を落として踏ん張る感覚——格闘家としての二十年が、この知らない身体の奥に沈んでいた。
窓から差し込む光に視線が引かれた。石造りの回廊が中庭を囲んでいる。庭園には白い薔薇が咲き、その奥に円形の訓練場が見えた。さらに向こうには、淡く光る白灰色の城壁。朝日を受けて微かに発光している。
凛の心臓が、止まった。
(この部屋。この窓の景色。……これ、「アッシュ」の一章冒頭じゃないか)
約束の灰燼《アッシュ》。百回以上プレイした乙女ゲーム。その第一章の最初のシーン——リゼット王女が三日間の昏睡から目覚めた場面。白灰宮の聖女の間。天窓から光が差し込む構造。窓の向こうに見える薔薇の庭園と訓練場。
全部、見たことがある。ゲームの背景画像として、何百回も。
(嘘だろ。転生? 私が? リゼット・アルヴィナに?)
銀色の髪を掴んだ。本物だった。引っ張れば痛い。この髪は自分のものだ。
百九十センチの世界最強格闘家が、百五十八センチの亡国の姫に変わっている。
(……落ち着け。状況を把握しろ。格闘家は、リングの上で何が起きてもまず呼吸を整える)
深く吸って、吐く。肺が小さくなった分だけ、一息が浅い。それでも呼吸に意識を集中すると、心拍が落ち着いていった。格闘家としての二十年間が、この異常事態でもパニックを許さなかった。
―――――✧ ❀ ✧―――――
扉が静かに開いた。
「姫殿下、お目覚めですか」
栗色の髪を編み込みにまとめた若い女性が、寝台の傍に歩み寄ってきた。そばかすのある穏やかな顔立ち。しかし目だけが違った。淡い茶色の瞳が凛を見つめる視線は、観察者のそれだった。
(マリエル・フロス。リゼットの筆頭侍女。ゲームでは名前だけのモブだったはず。でも……この子の目、鋭いな)
「姫殿下、お加減はいかがでしょうか。……三日間、お目覚めになりませんでしたので」
(三日。ゲームでもリゼットは序盤に三日間昏睡する設定だった。つまり今はストーリー開始直後か)
「……ええ。大丈夫よ、マリエル。少し、ぼんやりしているけれど」
リゼットの声で答えた。自分の口から出る声が柔らかく、澄んでいることに驚く。格闘家の低い声ではない。王女の声だった。
マリエルが一瞬、首をかしげた。何かに気づいたような、微かな仕草。しかしすぐに表情を戻し、寝台の脇に水差しを置いた。
「お水をお持ちしました。お飲みになれますか」
「ありがとう」
水を受け取る。グラスを握る手つきが、自分でも分かるほど不自然だった。格闘家の手で握る癖が残っている。グラスを包むのではなく、握り込んでしまう。
マリエルの視線が、一瞬だけ凛の手元に落ちた。
(……気づいてる? 前のリゼットとの違いに?)
しかしマリエルは何も言わなかった。ただ静かに控え、凛が水を飲み終わるのを待っている。
その沈黙を破ったのは、廊下から響く軽やかな足音だった。
「姫殿下! お目覚めになられましたわ!」
金髪を巻いた若い侍女が、扉を弾き飛ばすように駆け込んできた。表情が忙しく動き、目がきらきら輝いている。
「ああ、姫殿下、よかった! 三日間もお眠りになっていたので、もう、もう心配で……! エルヴィン殿下にお知らせしなくては!」
言うなり、来た時と同じ勢いで廊下に飛び出していった。
(……あれがノエル・ティアスか。侍女の後輩。ゲームでは完全にモブだったけど、なんというか……元気だな)
マリエルが小さくため息をついた。
「申し訳ございません、姫殿下。ノエルは配属されて半年で、まだ……」
「いいのよ。元気があって、いいわ」
凛はリゼットの微笑みを作った。格闘家の顔ではなく、王女の顔を。百九十センチの時にはやったことのない表情筋の動かし方が、この身体には染みついていた。リゼットの身体が覚えている笑い方だ。
マリエルが、また一瞬だけ目を細めた。
(この子——何かに気づいてる。でも、訊かない。……いい侍女だな)
―――――✧ ❀ ✧―――――
足音が、廊下の向こうから近づいてきた。ノエルの駆け足とは違う、落ち着いた、しかし確かな歩調。
扉が開いた。
金髪碧眼の青年が、完璧な笑顔で部屋に入ってきた。
(エルヴィン・アルヴィナ。リゼットの異母兄。二十六歳。ゲームでは「王冠の孤独」ルートの攻略対象)
背が高く、端整な顔立ちだった。金色の髪が朝の光を受けて淡く光っている。微笑みは穏やかで、王子というよりも、慈悲深い聖職者のような柔らかさがあった。
しかし凛は、ゲームを百回以上プレイした人間だ。
目が、笑っていない。
碧い目の奥に、微笑みの温度がない。ゲームの立ち絵でもそうだった。エルヴィンは常に微笑んでいるが、その目は常にどこか遠くを見ている。初見プレイでは気づかない。二周目、三周目で「この人の目、笑ってないな」と気づく。それがエルヴィンというキャラクターだった。
「リゼット、目が覚めたか。心配したぞ」
声は穏やかだった。寝台の傍に立ち、凛の顔を覗き込む。
「……はい。ご心配をおかけしました、兄上」
凛はリゼットとしての呼び方を選んだ。ゲームの中で何度も聞いた台詞。エルヴィンは「お前」と呼び、リゼットは「兄上」と呼ぶ。
エルヴィンが頷いた。それから部屋にいる者たちに視線を向けた。
「少し二人にしてくれ」
マリエルが一礼し、ノエルの腕を引いて廊下に出る。騎士が一人、扉の外で控えていたが、エルヴィンの視線を受けて姿を消した。
扉が閉まる。
部屋に、二人きりになった。
空気が変わった。エルヴィンの纏う空気から、王子としての完璧さが、ほんの一瞬だけ剥がれた。
「……よかった」
小さな声だった。凛に向けた言葉なのか、独り言なのか分からないほど小さい。碧い目が、一瞬だけ揺れた。完璧な仮面の下から、何かが漏れた——そんな一瞬だった。
「え、兄上?」
凛が問い返す。
エルヴィンの表情が、瞬きひとつの間に元に戻った。完璧な微笑み。目が笑っていない、いつもの微笑み。
「いや……何でもない。回復に努めてください、リゼット」
敬語が混じった。兄として話していたはずが、王子としての言葉遣いに戻っている。さっきの「よかった」は凛に見せるべきものではなかったと、自分で気づいたのだろう。
エルヴィンは踵を返し、扉に向かって歩き出した。背筋が伸びた、隙のない歩き方。王族として仕込まれた所作が、一歩ごとに彼を「完璧な王子」に戻していく。
扉が閉まった。
凛は、エルヴィンが去った扉をしばらく見つめていた。
(何か言いたいことがあったのだろうか。ゲームのエルヴィンは、こんな顔をしなかった)
ゲームのエルヴィンは、序盤では「完璧な兄」としてしか描写されない。妹の目覚めを喜び、穏やかに微笑み、王子としての務めに戻っていく。それだけのキャラクターだった——「王冠の孤独」ルートに入るまでは。
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