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奇妙な同居生活1
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「タケちゃん?」
仕事に出かけようとしている武史に後ろから小さな声で呼びかけられる。飛び上がらんばかりに驚いた武史は、声の主を確かめる。
「っ!…千尋か。驚かすなや。まだ3時半やぞ?寝られんのか?」
「ん…。寝たけど、何か目が冴えちゃって」
「やからって、そんな薄着でおるな。朝方はまだ寒いやろ」
武史は自分の手に持っていた薄手の防水ジャンパーをかけようとする。
「すぐ布団に戻るから」
「それでも着とき」
少し強引にジャンパーを羽織らせた武史の行為に千尋は泣きそうな顔になる。
「…何時に帰ってくるの?」
何故千尋がそういう顔をしているか分からないまま、武史は答える。
「今日は特段やらんといかん作業はないからそんなに遅くならんと思うが。採れる量にもよるが、早くても1時過ぎやな。昼はトシと適当に食えや。あと、すぐ布団戻りや」
「ん…わかった。待ってるから、気をつけてね。
いってらっしゃい」
この家でそう見送られたのは何年ぶりだろうか。一瞬目を見開いた後、武史は柔和な笑顔で答えた。
「いってきます」
武史が出掛けた後もしばらく千尋は玄関に佇んでいた。羽織っているジャンパーから、武史が吸っているタバコの残り香が千尋の体を包み込む。
色々なことを忘れたくてこの町に来たはずだった。なのに、東京から離れた分忘れたい筈の記憶はより鮮明に思い出される。
「…同じ銘柄だもんなぁ」
忘れたい男、柳田と同じタバコを吸う武史。2年程、間近で嗅いでいた懐かしくも切ない匂い。
武史と柳田、2人のタイプは真逆だ。だからこそ、武史の言動に、仕草に柳田だったら…と思い出してしまう。
柳田だったら…。
千尋の作ったご飯を旨いと言いながら食べることはなかった。
千尋を気遣い、羽織るものを掛けてくれることもなかった。
こうして朝方に千尋の家を出ていく時に帰ってくる時間はもちろんのこと、次の会う約束すらしてくれなかった。
何より、あんなに優しい顔で笑わなかった。
千尋が覚えている柳田は片方の唇の端だけあげ、形ばかりに笑うだけだった。いつもつまらなそうな目をして千尋を見下ろしていた。
唯一彼の心を動かせる時は、千尋の書いた文章だけだった。
たまたま手が空いていた千尋がお茶を出した時に専門を聞かれ、答えたことがきっかけだった。
『産業翻訳しかしたことないらしいな?一度出版翻訳してみないか?』
その頃、既に柳田は人気の装丁家として名を馳せていた。その柳田からの指名に会社としても無下に断れなかったのだろう。
『金にはならんが、興味あるなら一度出版社の方へ推薦はしておく』
会社としての仕事ではなく、個人の依頼だから拒否権はあった。
プライベートの時間を削り、大して報酬もない仕事。当初は断る前提で渡された詩集を受け取った。
詩集を読むと、断ることなど頭から吹っ飛び、内容に夢中になった。
『俺の見込んだ通りだ。お前は独特のセンスがある』
熱っぽい声で千尋の文章を褒める彼に認められたくて、無我夢中だった。
その内、自分を指名して小さいが出版翻訳の仕事が来るようになった。そのタイミングで、会社との契約を業務委託に切り替えた。
会社では出版翻訳を単価が安いため殆ど受けていなかったからだ。
そして、会社の縛りがなくなった千尋が柳田と男女の関係になるまでそう時間はかからなかった。
フリーランスになったあとは、ツテで来る出版翻訳も可能な限り受けるようになった。
千尋の専門の翻訳者が少ないということと、元々理系で専門知識があったこと、タイミングもよかったのだろう。
26歳で会社を辞めて2年。自分一人だったら普通に生活出来るくらいの稼ぎの仕事が出来るのは柳田のおかげだ。
そう思い込み、柳田にのめり込んでいった。
にゃー
下から聞こえて来た声にはっとする。トラが尻尾を立て、千尋を見ていた。
足元にまとわりついてくるトラを抱き上げると、柔らかい毛に顔を当てる。
もう柳田とは会わない。そう決めている。
それでも…
「柳田さんに…会いたい…」
仕事に出かけようとしている武史に後ろから小さな声で呼びかけられる。飛び上がらんばかりに驚いた武史は、声の主を確かめる。
「っ!…千尋か。驚かすなや。まだ3時半やぞ?寝られんのか?」
「ん…。寝たけど、何か目が冴えちゃって」
「やからって、そんな薄着でおるな。朝方はまだ寒いやろ」
武史は自分の手に持っていた薄手の防水ジャンパーをかけようとする。
「すぐ布団に戻るから」
「それでも着とき」
少し強引にジャンパーを羽織らせた武史の行為に千尋は泣きそうな顔になる。
「…何時に帰ってくるの?」
何故千尋がそういう顔をしているか分からないまま、武史は答える。
「今日は特段やらんといかん作業はないからそんなに遅くならんと思うが。採れる量にもよるが、早くても1時過ぎやな。昼はトシと適当に食えや。あと、すぐ布団戻りや」
「ん…わかった。待ってるから、気をつけてね。
いってらっしゃい」
この家でそう見送られたのは何年ぶりだろうか。一瞬目を見開いた後、武史は柔和な笑顔で答えた。
「いってきます」
武史が出掛けた後もしばらく千尋は玄関に佇んでいた。羽織っているジャンパーから、武史が吸っているタバコの残り香が千尋の体を包み込む。
色々なことを忘れたくてこの町に来たはずだった。なのに、東京から離れた分忘れたい筈の記憶はより鮮明に思い出される。
「…同じ銘柄だもんなぁ」
忘れたい男、柳田と同じタバコを吸う武史。2年程、間近で嗅いでいた懐かしくも切ない匂い。
武史と柳田、2人のタイプは真逆だ。だからこそ、武史の言動に、仕草に柳田だったら…と思い出してしまう。
柳田だったら…。
千尋の作ったご飯を旨いと言いながら食べることはなかった。
千尋を気遣い、羽織るものを掛けてくれることもなかった。
こうして朝方に千尋の家を出ていく時に帰ってくる時間はもちろんのこと、次の会う約束すらしてくれなかった。
何より、あんなに優しい顔で笑わなかった。
千尋が覚えている柳田は片方の唇の端だけあげ、形ばかりに笑うだけだった。いつもつまらなそうな目をして千尋を見下ろしていた。
唯一彼の心を動かせる時は、千尋の書いた文章だけだった。
たまたま手が空いていた千尋がお茶を出した時に専門を聞かれ、答えたことがきっかけだった。
『産業翻訳しかしたことないらしいな?一度出版翻訳してみないか?』
その頃、既に柳田は人気の装丁家として名を馳せていた。その柳田からの指名に会社としても無下に断れなかったのだろう。
『金にはならんが、興味あるなら一度出版社の方へ推薦はしておく』
会社としての仕事ではなく、個人の依頼だから拒否権はあった。
プライベートの時間を削り、大して報酬もない仕事。当初は断る前提で渡された詩集を受け取った。
詩集を読むと、断ることなど頭から吹っ飛び、内容に夢中になった。
『俺の見込んだ通りだ。お前は独特のセンスがある』
熱っぽい声で千尋の文章を褒める彼に認められたくて、無我夢中だった。
その内、自分を指名して小さいが出版翻訳の仕事が来るようになった。そのタイミングで、会社との契約を業務委託に切り替えた。
会社では出版翻訳を単価が安いため殆ど受けていなかったからだ。
そして、会社の縛りがなくなった千尋が柳田と男女の関係になるまでそう時間はかからなかった。
フリーランスになったあとは、ツテで来る出版翻訳も可能な限り受けるようになった。
千尋の専門の翻訳者が少ないということと、元々理系で専門知識があったこと、タイミングもよかったのだろう。
26歳で会社を辞めて2年。自分一人だったら普通に生活出来るくらいの稼ぎの仕事が出来るのは柳田のおかげだ。
そう思い込み、柳田にのめり込んでいった。
にゃー
下から聞こえて来た声にはっとする。トラが尻尾を立て、千尋を見ていた。
足元にまとわりついてくるトラを抱き上げると、柔らかい毛に顔を当てる。
もう柳田とは会わない。そう決めている。
それでも…
「柳田さんに…会いたい…」
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