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#2 拘束
#2 拘束
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12月某日。
この日は朝から断続的に雪が降っていた。
左目に蒼いカラーコンタクトを装着し、ミズキ・ブランケンハイムはスナイパーライフルを構えた。
これで見た目はクラリス人だ。任務を終えて、街の中に紛れても、怪しまれることはない。
「目標500メートル以上先だ。やれるか」
隣で双眼鏡を覗く観測手・グスタフの問いかけに、狙撃手であるミズキは無言で頷き、スコープを覗いた。
雪の上に腹ばいになって敵を狙う。必要最低限の防寒具は着ているものの、雪に触れている場所から寒さが染み込んでくる。身体の熱は徐々に失われていき、全身の感覚がゆっくりと麻痺していく。
さらにターゲットはかなり離れた場所にいるから、より正確な照準が必要になる。距離が伸びれば伸びるほど、わずかな動きで照準は大きく狂う。自分の呼吸ですら制御しなければならないほどだ。
ゆっくりと呼吸しながらミズキは狙撃のタイミングを計っていた。
息を殺して覗くスコープの先に見えるのは、人の背丈を余裕で越える高い鉄条網。
情報によると、そこはミズキたちの故郷・ディスタンシア国の敵であるクラリス帝国の大規模収容所だという。
長いこと睨みあいの冷戦が続いていたが、その危うい均衡が破られたのは今から3年前、クラリス国はディスタンシアに侵攻し、国の制御と国民全ての生殺与奪権を手中に収めた。
国土は徐々にクラリスに掌握され、いまやディスタンシア人が大手を振って歩ける場所などない。
いまミズキたちが狙いを定めているこの工場も、もともとはディスタンシア国でも大きな財閥が経営していた紡績工場だった。
だがクラリスは財閥解体令を出しこの工場を接収、広い敷地の中に多数のバラックを作り、そこに「異分子」であるディスタンシアの民間人や、スパイが疑われた外国人兵士などを抑留し、大規模収容所に作り変えた。
収容者の脱走防止のために、鉄条網には高圧電流が流れているが、強制労働に耐えられなくなった収容者たちが、人生の全てを諦観した末の自殺装置としても機能しているという。
古老たちが言うには、ディスタンシアの街は、かつては花が咲き乱れ、文化的で美しい近代的な街並みだったというが、ディスタンシアの第66代大統領の時代ーー今から数年前あたりから、軍国主義に舵を切り、国はおかしな方向へ向いたという。
そのおかげで、いまや連日の空襲とクラリス兵による人間狩りで、廃墟の国と化している。
そんな中、軍が立案したのが、クラリスの手に落ちた拠点を取り戻そうというものだった。
しかし大統領の生死はおろか、民衆も疲弊し、弾薬も尽きつつある国家情勢の中、クラリスの牙城を崩す決定打は依然としてなく、大軍を率いて逆襲することは事実上不可能だった。
こうなると作戦としての選択肢は、よりコンパクトで大きな打撃を与えられる隠密作戦となる。
その狼煙となるのが、ミズキとグスタフによる、この狙撃作戦だった。
作戦立案はグスタフで、すでに収容所の周囲には、グスタフが手配した外人傭兵特殊部隊が待機している。
金でしか動かない兵士など、クラリス軍はさしたる問題とは見ていないようだ。
そもそも周辺国ですら、クラリスの快進撃に、無視を決め込んでいるのが現状だ。それほどまでにクラリス軍は強大な力をつけていた。
とはいえ、ディスタンシアとしては、国土の制御権を何とかして取り戻さなければいけない。
ディスタンシア国内に点在しているクラリス軍の収容所をすべて襲撃し、捕虜となっている国民や軍人を全員解放する。
収容所はクラリス軍の重要な資金源にもなっているらしいが、収容者に強制労働をさせたところで「重要な」と付くほどの潤沢な資金が稼げるのかというのははなはだ疑問だ。
とはいえ、収容所にどうやらその秘密があるらしい話も聞いている。
ミズキたちの任務は、この収容所を監視している兵士を狙撃し、監視網に穴を開け、特殊部隊が突入する隙を作ること――そこから一気に収容所を制圧する。
最初のひとつは、クラリス側も事故だと片付けてしまうかもしれない。たまたま警備がゆるかったか、それとも他の理由か。そう、襲撃は偶発的な事件だと考えるはずだ。
しかし、この襲撃が二度、三度と続けば、クラリスは混乱するだろう。疲弊しきったディスタンシアのどこに、そんな力が残されているのか、と。
見えない場所から狙撃される恐怖は、人を混乱させ、冷静さを失わせることもある。
情報を漏らしている内通者の存在を疑って、仲間内で疑心暗鬼になってもらっても構わない。
できればそれで軍が内部分裂でもしてくれれば、余計に襲撃が容易になる。そんな精神的陽動作戦もこの任務には織り込まれていた。
おりしも大寒波がやってきており、この雪は当分の間は続きそうだ。雪のように白い偽装服はミズキたちの姿をうまく隠してくれるが、作戦は短時間で行わないとならない。
時折吹く風に舞い上げられた雪がダイヤモンドダストとなり視界を輝く白い世界に塗りつぶしていく。まるで天使が遊んでいるような幻想的なきらめき。
とはいえ、狙撃手が任務を失敗してはその行く先は死だ。向かう場所には、神すらいるかどうかも定かではない。
ボルトアクションのスナイパーライフルは貫通力こそあるが、もし外せば、弾を装填する間に、相手の軽機関銃がミズキを蜂の巣にするだろう。
ミズキはスナイパーライフルを構えなおし、大きく息を吐いた。
「ターゲット2名、見えるか。ミズキ」
「ああ、見える」
ミズキの視線の先には、黒いオーバーコートに身を包み、軽機関銃を持った兵士が2人いた。だが彼らは鉄条網の内側にいる。
「グスタフ、鉄条網の網の目、どれくらいの大きさがあるかわかる?」
「ちょっと待てよ。見てやる」
グスタフは双眼鏡に持ち替えた。
狙撃手が狙撃に専念できるよう、情報収集を行うのが観測手の仕事だが、時には狙撃手に近寄る敵を始末する役目も負う。
ミズキの狙撃の成功率は、観測手に左右されるといっても過言じゃない。グスタフとはこれまでに言葉を交わしたことすらないが、今回の計画で効果を最大限にするためだと、グスタフ自らがミズキを指名したらしく、初めてパートナーになる。
ミズキとしても意外な任務だった。常に任務はシュトラウスの指揮の下、単独行動だった。
それなのに、今回に限り「アルベルトの部下と同行しろ」と命が下ったのだ。
その準備のために、2週間前、ミズキは軍病院に一時入院をした。
『おまえが逃げたりしないように、アレを身体に埋め込ませてもらった』
『アレ……?』
『クリスタライズだ』
埋め込み手術が終わった後、麻酔から目覚めたミズキはアルベルトから小さなスイッチを渡された。
大きさはキャラメルくらいで、薄いリモコンのような長方形の小さなスイッチ。その角にボールチェーンが通されている。
『これはディスタンシアの兵士なら、みんなが体に埋め込んでいる自爆装置だ。人によって埋め込まれている場所は違うが、おまえのは心臓の近くに埋めている。言い換えれば、これを体内に抱いて戦場に出ることは、一人前のディスタンシア軍人の証といえる』
『心臓……』
どおりで左胸の奥に気になる熱感がある。それはクリスタライズが起動しているためだと、アルベルトは教えてくれた。
『敵に捕らえられ、連行されそうになった時に起動させなさい。絶対におまえは捕まってはならない。いいね、ミズキ』
アルベルトはミズキの頭を優しくなでながら「だが、できる限り生き延びなさい」と続けた。
そのおかげでミズキの胸には手術の傷ができ、そこが疼痛を引き起こしている。
狙撃任務にあたるのに、余計なことで気を取られたくないのだが、これも仕方ないと諦める。
『グスタフは私の部下だが、実に優秀な男だ。ミズキと年も近い。彼と仲良くやり、おまえの目で外の世界を見てきなさい。おまえにもそろそろ友達が必要だ』
アルベルトが「優秀」と評するだけあって、彼の観測は正確だった。
何もない雪原に隠されたトラップ、敵の配置などにも熟知していて、ここにくるまで恐ろしいほど平和的だった。このまま順調に行けば、早々に任務を完了できるだろう。
そんなグスタフはなにやら困惑気味に「んー……」と唸っていたが、ややあってミズキに「難しいぞ」と返してきた。
「難しい? グスタフ、どんな感じなの」
「鉄条網の隙間、かなり狭いぞ。タバコの箱よりも狭い。こんな細けえ柵、よく作ったもんだ。抜くしかないな。ついでにそばに監視カメラがある。カメラの向きにも気をつけないとバレるぞ」
「……精密射撃、か」
下手に撃って、柵に弾丸が弾かれでもしたら、即座に相手は狙撃を警戒し、周辺の警備を厳しくしてくるだろう。
「困ったな……」
「困った? マジか、ミズキ」
グスタフがおかしそうに笑う。
「珍しい、スーパースナイパーのミズキさんでも困ることあるんだ?」
「あるよ。僕は超人ではないんだから」
「だっておまえ、その目は両目が利き目だって聞いたぜ。正直、観測手いなくてもなんとかなるんじゃね?」
「誰がそんなことを。人を機械みたいに……」
からかうグスタフに、ミズキはぷうっと頬を膨らませた。
「両目マスターアイとかマンガの読み過ぎだよ。僕はグスタフがいなくちゃ、何にも出来ないんだから」
「ははは、言えてる。お前、末っ子って感じするもんな。兄弟は何人だ?」
「いないよ。僕はひとり」
グスタフが意外だと言いたげに目を丸くした。
「一人っ子か。どおりでのんびりしてるのか。そんなのでよく親が軍に入るのを許したな」
「グスタフはどうして軍人になったの?」
「俺はケンカばっかりしてたからな。そんなにケンカが好きなら、軍で思い切り暴れて来いって放り込まれたんだ」
「グスタフ、暴れん坊だったの?」
「おう!」
グスタフはそう言うと、ぐっと親指を立てた。
「言っとくけど、俺、強えぞ」
「そうなんだ」
「まあな。ただ俺は、軍に入ってからもずっと勝てない相手がいる」
「グスタフでも勝てない相手がいるの? 教官?」
「違う」
グスタフはそう言うと肩をすくめた。
「母ちゃんと姉貴。ガチで殴りにいっても、あの二人にはどうしても勝てないんだ。軍事教練とかすげえがんばって、身体を鍛えたのに、俺は未だに投げ飛ばされる。女は半端ねえぞ。ミズキも気をつけろ」
寒さでなく、グスタフにとっては本気で恐怖の対象であるようだ。しっかりしてそうなパートナーの意外な一面に、ミズキは声を殺してくすくす笑う。
「そんなに笑うなよ。姉貴ら本当に強いんだ。でもミズキだってすげえ成果あげたんだろ? それもひとりで」
「そりゃ軍人なんだもん。ちゃんと成果を上げて、自軍に貢献しないといけないだろ?」
「なんでひとりだったんだ?」
「僕に君のような仲間はいなかったし。それに……」
「それに? なんだよ」
「せめて僕は、あの国の『軍人』でいたいんだ」
押し殺した声で呻くようにこぼすと、グスタフが半ば呆れたようにため息をつく。
「お前、軍人であることにこだわるねえ。軍人は軍人以外、他のものにはなれないだろう? なんでそんなにこだわる? 地位か? 名誉か?」
「グスタフ、ほらそろそろ僕達の仕事をしよう?」
一方的に会話を遮断し、ミズキはまたライフルを構えなおした。
スコープの先、鉄条網の網の目の間に弾丸をくぐらせ、相手の頭にヒットさせなければならない。
狙撃の難易度が格段に上がってしまったなと、ミズキはチッと舌打ちをこぼす。
クラリスの兵士たちは、タバコを吸いながら談笑している。張り詰めた戦場における、わずかな安息、のんびり一服中と言ったところか。
しかし彼らはあと数秒の後、ミズキに頭を吹き飛ばされる。ミズキ自身は彼らに恨みなどないが、これも戦争、皮肉な運命のめぐりあわせと諦めてもらうほかない。
いちいち命の大切さなど意識していては任務をこなせない。自分は心などない、ただの殺戮機械だと言い聞かせる。
心がなければ、罪悪感など感じない。戦場では感情など邪魔だけだ。
一思いにあの世へ送ってやることが、ミズキのせめてもの情けだ。
「ミズキは右側を殺れ。俺は左側の男を殺る」
「オーケー」
幸いにして風はターゲットに向かってまっすぐ追い風だ。着弾地点までの距離は、グスタフの観測によると520メートルほど。
弾は風に乗って速度と飛距離を伸ばすだろう。その分も計算に入れ、ミズキはゆっくりと照準を合わせた。
息を合わせ、正確に――撃つ。
「ならばカウント3で同時に始末だ。いいねグスタフ」
「よし、スリー、ツー……ん?」
グスタフがスコープから目を離した。
「グスタフ?」
ミズキが怪訝そうな声を出すと、グスタフはチッと舌打ちした。
「予定外のゲストが現れたぞ」
「予定外? ひとりくらい増えたって変わらないさ。2人同時に殺って、最後があわくってる間に仕留めればいい」
「そう気色ばむな。まずは確認しよう」
グスタフが双眼鏡を覗き込む。
「……なんだあいつは」
「どうしたのグスタフ」
「……斥候が持ち帰った資料にない顔だ。いったいあれは誰なんだ。ミズキ、スコープであれを視認できるか」
グスタフに言われ、ミズキもスコープで予定外に現れた人物の姿を追う。背筋をきちんと伸ばし、すらりと背が高いが、ダイヤモンドダストが吹くこの状況ではそれ以外の確認が難しい。
その人物もまたオーバーコートに身を包んでいたが、一般の兵士と違い、こちらは黒い生地のコートに同じ素材のグローブをつけていた。光沢があるような気がする。素材はおそらくレザーか。
並の兵士と比べると、予定外の人物は明らかに上質なものを身につけている。左腕にキラリと光るものが見えた。クラリス軍の階級章の様にも見えるが、雪と光の反射でその階級まではよく見えなかった。
ミズキたちが狙っている雑兵より少し上の階級なのか、それともとんでもなく高い位の人物なのか。
それによってはこの収容所を制圧するためのみならず、敵の情報を得るという点で利用価値があるかもしれない。
が、ひとたび狙撃を外せばすべてが終わる。
一撃を失敗し、相手が警戒態勢に入れば、雪に慣れたクラリス軍は、この周辺をくまなく、そして素早く捜索してくるだろう。
この深い雪の中、グスタフが配置した味方部隊が逃げる時間をどこまで稼げるだろうか? ディスタンシアの人間ならともかく、国外のプライベートフォースの人間ならば、雪にはきっと不慣れだ。
クラリスの兵士は、戦闘能力もさることながら極限下においてのサバイバル能力も高いことでも有名だ。ホワイトアウト、雪崩……白い雪は時として短時間で人の命を奪う。その天候の変化を熟知しているクラリス軍は、猛吹雪の中でもクリアリングを行える。雪に気を取られている敵があっさり狩られたなんて話、この周辺では有名だ。
雪深いこのディスタンシアが侵攻された日も大寒波で大雪が降っていた。
国家公認のラジオ局「ディスタンシアタイムズ」によると、その日は市内中心部でも人の腰くらいの雪が一晩にして積もり、国境付近はさらなる積雪があったという。
クラリス軍はその雪の中を進軍し、底引き網のように横に陣形を作り、ディスタンシアに侵攻、精鋭部隊で結成された各所の国境警備隊をひとり残らず射殺し、進軍ルート上にある町や村で破壊と略奪、そして陵辱の限りを尽くしながら、二日で市内中心部に到達。
ラジオ局は最後まで情勢と避難を市民に伝え続けたが、このラジオ局を含め、政治機能は到達後、たった一日で奪われ、ディスタンシア陥落まではわずか三日……あまりにも早すぎる進軍だった。
クラリスを普通の国家、普通の兵士だと思うと痛い目を見る。それはディスタンシア侵攻で証明がなされている。
しかしここまで非人道的だと言われているクラリスの所業だが、不思議なことに周辺国はこれを許し、ディスタンシアに援助の手を差し伸べている国はひとつもない。
国民はみんな不思議がっている。
「もしかしたら、この国は世界地図から切り取られて、無かったことになっているんじゃないのか」と。
孤立無援状態におかれたディスタンシア国がなりふり構わずになっているのはそのせいだった。
この作戦は、敵に隙を作るために絶対失敗はできない。多少の予定外は織り込み済みだから、現れた兵士もろとも全員殺してしまえば問題はない。
収容所の見取り図、そして兵士の配置シフト、警備の手薄な場所、時間など、突入に必要な情報はすでに斥候が調査済みだ。
あとはミズキたちが実行に移せばいい。時はすでに来ているのだ。猶予などない。
「グスタフ、僕は先にあのゲストを殺るよ。そのあとすぐに右を殺る。グスタフ、左狙える?」
「任せろ。いくぞ」
「うん」
軽く息を吸い込み、グスタフとカウントを合わせる。
スコープを覗いて今度こそ照準を合わせる。
幸いにして、敵はミズキに背を向けていた。
(今度こそしとめてやる……)
狙撃カウントの最後、トリガーを引くその瞬間だった。
吹雪が一瞬やみ、背を向けていた予定外の兵士が振り返った。
その人物は、ミズキをまっすぐ見据えてニヤリと笑った。細く切れ長の冷たい視線。スコープ越しでもわかる、本能的な恐怖を感じた。
――気付かれている?
思わずぎょっとしてスコープから目を離す。
しかしここはターゲットから500メートル離れていて、天候は吹雪。スコープや双眼鏡越しならともかく、普通の人間がミズキの居場所を特定できるほどの視認性はないはずだ。
――これは偶然だ。
スナイパーライフルを再度構えなおす。
だが兵士はミズキをスコープごと貫くような視線で見つめていた。薄い雪のスクリーンに佇むその兵士から目を離せない。
(本当に見えているのか……いや、そんなはず、絶対にない)
装備も武器も何もかもきちんと選んだのだ。
綿密な計画を立て、正確な観測だってグスタフが行っている。しかし隣のグスタフはあの兵士の動きについて何も反応しない。
もしかして、あの兵士が見えているのはミズキだけなのかと不安になる。
兵士はこちらを見据えたまま、酷薄な笑みを浮かべている。
まるで「おまえたちが狙っている事はすべてお見通しだ」とでも言いたげに。
(その取り澄ました顔、今に血に染めてやる!)
相手の挑戦的な表情に心がざわめく。しかし狙撃手が動揺してはいけない。作戦の失敗は、自らの死。
吸った息をゆっくり吐く。
自らの呼吸ですら狂う照準、冷たく滑らかなカーブのトリガーに指を掛け直す。
パズルの最後のひとかけらを嵌めるその瞬間。
ミズキの後頭部に硬く冷たい感触が押し当てられた。
「動くな」
「――!」
まずい。
ミズキは反射的に振り向こうとしたが、相手はそれを見越していた。武器を取り上げられ、相手にそのまま両腕を拘束される。冷たい雪の地面に頭を押し付けられ、いくつもの銃口がぴたりとミズキに狙いを定めた。
視線を素早く周囲に走らせると、ミズキを拘束しているのはオーバーコートを着ている兵士達だった。
そのコートの色がダークグレーなのを見て、ミズキはチッと舌打ちを零した。
(クラリスの特殊部隊だ……)
よりによって、クラリス軍の中でも特に残酷さを極める精鋭部隊たちに捕らえられてしまった。
時には拷問で、時には国で待つ大切な人をちらつかせながら、矜持と情報を売るように仕向けることに長けた連中だ。
また人知れず暗殺なども行うという噂もある。
ここに来るまでに隠密行動を心がけた。排泄物に至るまで、自身の痕跡を残さぬように細心の注意を払ってきたのに、敵にいつの間にか囲まれていたなんて。
ミズキだけでなく、観測手であるグスタフも気付けなかった。
自分の近くまで来た敵の動きを微塵も察知できなかった狙撃手なんてこの世にいない。
あまりにも間抜けすぎると、ミズキは心の中で自嘲する。
「僕たちが狙っているのが見えたのか」
「いいや、君たちは最初からここに誘い込まれる手筈だった」
「――なに?」
低く威圧感を含むその声の主は、先ほどスコープで見た予想外の兵士だ。あの場所から移動してきたのだろう。降りしきる雪の中、さくさくと新雪を踏みながら歩いてくるその姿は凛とした美しさと畏怖を備えていた。
そこらへんの奴らとは違う、この男は容赦などしない危険な人物だと、本能的に感じる。
よく磨き込まれた軍靴が地面に這い蹲らされているミズキの前で足を止めた。
彼は膝をつき、優美な指先でミズキの華奢な顎をそっと撫でた。
「我が軍を混乱に陥れた狙撃手というから、どんなに屈強な男かと思っていたら……これはまた少女のように可憐な兵士だ」
「くっ…」
得体の知れない気味悪さに全身から血の気が引く。
「僕達を……どうする」
「僕達? ああ、あなた状況がわかっていないのですね?」
無造作に髪を掴まれ、そのまま強引に上を向かされる。
その男は黒髪を綺麗に撫で付け、細いフレームの眼鏡をかけていた。そのガラスの向こうの涼しげな双眸が冬の冷気など比較にならない冷厳さを湛えている。
「あなたはパートナーに裏切られたのですよ」
「どういう……ことだ……?」
「言葉通りです」
男はそう言うと、ミズキの髪を掴んだまま、にっこりと微笑む。
「こうして直にお目にかかれるとは光栄だ。ミズキ・ブランケンハイム殿」
「あなたは……」
「初めまして。私の名前はミハイル」
「ミハイル……この辺では聞かない名前だ」
「そうですか。なら黒衣の死神という名なら? こちらのほうがあなた方にはなじみ深いですか?」
「黒衣の……ああっ!」
驚愕にミズキは目を見開いた。
その名前は友軍全体に知れ渡っている恐怖の名だ。
音もなく影と同化するといわれるほど、黒衣の死神はそれと悟らせずにターゲットに近づいて目的を達成する。ターゲットはまさか自分が狙われている上、その周辺に罠を仕掛けられているなど、欠片ほど疑いも思いもしない。
気がついたときにはターゲットは黒衣の死神のマントに抱かれ息絶えている――その死神の罠に、まさか自分がかかっていたとは。しかもこんなふうに身体を拘束されていては、逃げ出すチャンスも、この男を巻き添えにして、クリスタライズを起動することもできない。
「とんでもない有名人に会ってしまった……」
「あなたも人のことは言えない。お噂はかねがね聞いている。ディスタンシアの異色光彩狙撃手殿」
「違う、僕はそんなんじゃ……」
「カラーコンタクトで隠してもわかりますよ」
ミハイルがミズキの後頭部に手刀を落とす。
「ぐうっ!」
不意にきた衝撃をそのまま受けてしまい、思わすうめき声が漏れ、同時に左側の視界がクリアになった。
クラリス人になりすます為のコンタクトレンズはちょっとした衝撃でよく外れるが、その加減など相手が考慮してくれるわけもなく、殴られた痛みと衝撃にミズキは軽い眩暈を覚えていた。
「……うまく化けたと思ったんだけどな」
「もともとあなたが持つ美しい黒い瞳はどんなにマスキングしたって隠せない。私は以前、あなたとお会いしているが、覚えていませんか?」
以前に会ってる? そんなはずはない。ミッション中は誰とも会わずに帰ってきているはずだし、ミハイルみたいな相手に会っていたら、絶対に覚えている。
隠密行動を旨とする暗殺者たるもの、たとえ街を歩く一市民が相手でも、自分の存在を覚えられては困るのだ。
「……悪いけど、僕の記憶にはない。あなたなんか知らない」
「あなたの左目に蒼いコンタクトをつけて化けても、その黒い瞳とあいまった深海のごとく深い蒼の瞳はクラリス人にはいない。右は間違いなくクラリス特有の蒼ですが、左は違う」
口調こそ慇懃だが、その態度は無礼だ。捕まれる髪の痛さに、ミズキは顔を顰めてミハイルを真っ向から睨みつけた。
「くっ……」
「あなたは覚えていなくても、私はあなたのそのきれいな瞳を忘れたことはない。1日たりとも」
「なんだそれ…」
いくつもの銃口が自分に向いている。抵抗したところで蜂の巣にされるが落ちに決まっている。
万事休す。もはやどうする事も出来ない。ミズキは悔しさに唇を噛んだ。
「……こうして捕まったのだから抵抗はしない」
悔しくて、そして。
「だけどなぜグスタフ、君は僕を裏切った?」
いつもはたったひとり。でも今回は仲間がいた。
冗談も家族のことも、道中いろんなことを話した。任務遂行も完璧に進んでいた。仲間と一緒にひとつのことを成し遂げるのがそれなりに楽しかったのに。
なのに、グスタフどうしてーー?
「君はディスタンシアのために、危険を承知でこの作戦を立案したんじゃないのか!」
「俺の命は俺のためにあるんだ。国のためなんかじゃない。あんな何もない薄汚い国に自分の命を懸けるなんて本気で思っていたのか?」
「君が配置した特殊部隊は!?」
「ちゃんといただろ。クラリスの特殊部隊がさ」
グスタフがせせら笑う。
「クラリス軍はミズキのことをかなり高く買っているようだぜ? 異色光彩の狙撃手はちょっとばかり有名になりすぎたのさ。まあおまえ、女が嫉妬するくらい綺麗な顔してるしな。せいぜい男どもに可愛がってもらえよ」
「……とんだプライベートフォースを呼んでくれたね、グスタフ」
クラリスの陣に最初から誘い込まれるように仕組まれていたなんて思いもしなかった。
狙撃手と観測手は信頼関係がないと成り立たない。
いや、昨日今日で組んだパートナーに信頼関係などあるかどうかも怪しい。
(バカだ、僕は。浮かれすぎていたんだ)
結局は、人を見る目がなかったことに尽きるが、それより何より初めて任務をともにした相手に裏切られ、ミズキの心は、怒りよりも悲しみに押し潰されていた。
ここで敵の慰み者扱いされるなら、選ぶ道はひとつ。
軍人として、潔く死を選ぶ。
「――さっさと殺せ。抵抗はしないが、貴様らのもとに投降する気もない。だから今すぐ僕を殺せ!」
ミズキはミハイルを睨みつけ、牙を剥く。だがミハイルは静かに首を横に振った。
「残念ながら、あなたを殺すのはまだまだ先です」
「……なに?」
「あなたは東洋の小国・リーベットと我がクラリスの混血だ」
「違う、僕はクラリス人……」
ミハイルはミズキに釈明などさせず、代わりに髪を掴む手に力を込める。髪の毛どころか、頭の皮を剥がされそうだ。みっともなく痛いなんて言えず、代わりにミズキは唇を噛んだ。
「その証拠にあなたの瞳は異色光彩だ。ディスタンシアの血など一滴もその身体に流れてはいないどころか、クラリスの瞳と血を受け継ぎながら、クラリスに銃を向けている。あなたの狙撃でどれだけの同胞を失ったか。あなたはご存じないのでしょう?」
「……っ」
「私が黒衣の死神なら、あなたは異色光彩の暗殺者だ。私はあなたのおかげでたくさんの部下を失った。その代償は高くつくと覚悟なさい」
大切な人を失う悲しみは誰だって同じだ。敵も味方も、国の違いなんかも関係ない。
だが、ミズキの放ったその凶弾が、この黒衣の死神を本気にさせる程度には、被害は大きかったのだろう。
「僕をどうする。今ここでおまえらの同胞の敵をとるならさっさと殺せよ」
「クラリスの血が流れているあなたは、いわば国家反逆罪に等しい大罪人。そんなあなたを簡単に殺すとお思いか?」
「なに……?」
「こんなところで話していては風邪をひいてしまいます。場所を変えましょうか。さあ」
「ぐっ……」
髪を鷲掴みにされたまま、立てとばかりに上に引っ張り上げられる。ミズキは痛みに顔を顰めながら立ち上がった。
「あっ」
後ろ手に拘束されているおかげでバランスを崩しかける。それを受け止めたのは雪ではなく、ミハイルだ。
「今年は特に雪が深い。足元にご注意いただかないと」
「ディスタンシアでもこの程度の雪は降る。僕はちゃんと歩ける。女みたいに扱うのはやめてもらおう」
「それは失礼。しかしクラリスにとってあなたは大きな収穫だ。異色光彩の狙撃手を確保できたのですから」
「……どうせすぐ、殺すくせに?」
「さあそれはどうでしょう。まずは営倉にご案内します。お話はそこでじっくり伺う」
「営倉か。最高級のスイートルームを希望するよ」
「いいでしょう。あなたに最高級のおもてなしを約束します。あなたが這い蹲って我々の靴先を舐め、心の底から殺してくださいと言えるようになるくらいのおもてなしを、ね」
「期待していいのかな」
「勿論。絶望をご用意して差し上げます」
黒衣の死神は意味ありげに言いながら、にこやかに笑う。その笑顔だけなら、死神どころか天使にも見えるが、ミズキを抱きとめながらも腹に硬く冷たい銃口を押し付けているのを感じ、ミズキは諦観の表情で溜息をついた。
この日は朝から断続的に雪が降っていた。
左目に蒼いカラーコンタクトを装着し、ミズキ・ブランケンハイムはスナイパーライフルを構えた。
これで見た目はクラリス人だ。任務を終えて、街の中に紛れても、怪しまれることはない。
「目標500メートル以上先だ。やれるか」
隣で双眼鏡を覗く観測手・グスタフの問いかけに、狙撃手であるミズキは無言で頷き、スコープを覗いた。
雪の上に腹ばいになって敵を狙う。必要最低限の防寒具は着ているものの、雪に触れている場所から寒さが染み込んでくる。身体の熱は徐々に失われていき、全身の感覚がゆっくりと麻痺していく。
さらにターゲットはかなり離れた場所にいるから、より正確な照準が必要になる。距離が伸びれば伸びるほど、わずかな動きで照準は大きく狂う。自分の呼吸ですら制御しなければならないほどだ。
ゆっくりと呼吸しながらミズキは狙撃のタイミングを計っていた。
息を殺して覗くスコープの先に見えるのは、人の背丈を余裕で越える高い鉄条網。
情報によると、そこはミズキたちの故郷・ディスタンシア国の敵であるクラリス帝国の大規模収容所だという。
長いこと睨みあいの冷戦が続いていたが、その危うい均衡が破られたのは今から3年前、クラリス国はディスタンシアに侵攻し、国の制御と国民全ての生殺与奪権を手中に収めた。
国土は徐々にクラリスに掌握され、いまやディスタンシア人が大手を振って歩ける場所などない。
いまミズキたちが狙いを定めているこの工場も、もともとはディスタンシア国でも大きな財閥が経営していた紡績工場だった。
だがクラリスは財閥解体令を出しこの工場を接収、広い敷地の中に多数のバラックを作り、そこに「異分子」であるディスタンシアの民間人や、スパイが疑われた外国人兵士などを抑留し、大規模収容所に作り変えた。
収容者の脱走防止のために、鉄条網には高圧電流が流れているが、強制労働に耐えられなくなった収容者たちが、人生の全てを諦観した末の自殺装置としても機能しているという。
古老たちが言うには、ディスタンシアの街は、かつては花が咲き乱れ、文化的で美しい近代的な街並みだったというが、ディスタンシアの第66代大統領の時代ーー今から数年前あたりから、軍国主義に舵を切り、国はおかしな方向へ向いたという。
そのおかげで、いまや連日の空襲とクラリス兵による人間狩りで、廃墟の国と化している。
そんな中、軍が立案したのが、クラリスの手に落ちた拠点を取り戻そうというものだった。
しかし大統領の生死はおろか、民衆も疲弊し、弾薬も尽きつつある国家情勢の中、クラリスの牙城を崩す決定打は依然としてなく、大軍を率いて逆襲することは事実上不可能だった。
こうなると作戦としての選択肢は、よりコンパクトで大きな打撃を与えられる隠密作戦となる。
その狼煙となるのが、ミズキとグスタフによる、この狙撃作戦だった。
作戦立案はグスタフで、すでに収容所の周囲には、グスタフが手配した外人傭兵特殊部隊が待機している。
金でしか動かない兵士など、クラリス軍はさしたる問題とは見ていないようだ。
そもそも周辺国ですら、クラリスの快進撃に、無視を決め込んでいるのが現状だ。それほどまでにクラリス軍は強大な力をつけていた。
とはいえ、ディスタンシアとしては、国土の制御権を何とかして取り戻さなければいけない。
ディスタンシア国内に点在しているクラリス軍の収容所をすべて襲撃し、捕虜となっている国民や軍人を全員解放する。
収容所はクラリス軍の重要な資金源にもなっているらしいが、収容者に強制労働をさせたところで「重要な」と付くほどの潤沢な資金が稼げるのかというのははなはだ疑問だ。
とはいえ、収容所にどうやらその秘密があるらしい話も聞いている。
ミズキたちの任務は、この収容所を監視している兵士を狙撃し、監視網に穴を開け、特殊部隊が突入する隙を作ること――そこから一気に収容所を制圧する。
最初のひとつは、クラリス側も事故だと片付けてしまうかもしれない。たまたま警備がゆるかったか、それとも他の理由か。そう、襲撃は偶発的な事件だと考えるはずだ。
しかし、この襲撃が二度、三度と続けば、クラリスは混乱するだろう。疲弊しきったディスタンシアのどこに、そんな力が残されているのか、と。
見えない場所から狙撃される恐怖は、人を混乱させ、冷静さを失わせることもある。
情報を漏らしている内通者の存在を疑って、仲間内で疑心暗鬼になってもらっても構わない。
できればそれで軍が内部分裂でもしてくれれば、余計に襲撃が容易になる。そんな精神的陽動作戦もこの任務には織り込まれていた。
おりしも大寒波がやってきており、この雪は当分の間は続きそうだ。雪のように白い偽装服はミズキたちの姿をうまく隠してくれるが、作戦は短時間で行わないとならない。
時折吹く風に舞い上げられた雪がダイヤモンドダストとなり視界を輝く白い世界に塗りつぶしていく。まるで天使が遊んでいるような幻想的なきらめき。
とはいえ、狙撃手が任務を失敗してはその行く先は死だ。向かう場所には、神すらいるかどうかも定かではない。
ボルトアクションのスナイパーライフルは貫通力こそあるが、もし外せば、弾を装填する間に、相手の軽機関銃がミズキを蜂の巣にするだろう。
ミズキはスナイパーライフルを構えなおし、大きく息を吐いた。
「ターゲット2名、見えるか。ミズキ」
「ああ、見える」
ミズキの視線の先には、黒いオーバーコートに身を包み、軽機関銃を持った兵士が2人いた。だが彼らは鉄条網の内側にいる。
「グスタフ、鉄条網の網の目、どれくらいの大きさがあるかわかる?」
「ちょっと待てよ。見てやる」
グスタフは双眼鏡に持ち替えた。
狙撃手が狙撃に専念できるよう、情報収集を行うのが観測手の仕事だが、時には狙撃手に近寄る敵を始末する役目も負う。
ミズキの狙撃の成功率は、観測手に左右されるといっても過言じゃない。グスタフとはこれまでに言葉を交わしたことすらないが、今回の計画で効果を最大限にするためだと、グスタフ自らがミズキを指名したらしく、初めてパートナーになる。
ミズキとしても意外な任務だった。常に任務はシュトラウスの指揮の下、単独行動だった。
それなのに、今回に限り「アルベルトの部下と同行しろ」と命が下ったのだ。
その準備のために、2週間前、ミズキは軍病院に一時入院をした。
『おまえが逃げたりしないように、アレを身体に埋め込ませてもらった』
『アレ……?』
『クリスタライズだ』
埋め込み手術が終わった後、麻酔から目覚めたミズキはアルベルトから小さなスイッチを渡された。
大きさはキャラメルくらいで、薄いリモコンのような長方形の小さなスイッチ。その角にボールチェーンが通されている。
『これはディスタンシアの兵士なら、みんなが体に埋め込んでいる自爆装置だ。人によって埋め込まれている場所は違うが、おまえのは心臓の近くに埋めている。言い換えれば、これを体内に抱いて戦場に出ることは、一人前のディスタンシア軍人の証といえる』
『心臓……』
どおりで左胸の奥に気になる熱感がある。それはクリスタライズが起動しているためだと、アルベルトは教えてくれた。
『敵に捕らえられ、連行されそうになった時に起動させなさい。絶対におまえは捕まってはならない。いいね、ミズキ』
アルベルトはミズキの頭を優しくなでながら「だが、できる限り生き延びなさい」と続けた。
そのおかげでミズキの胸には手術の傷ができ、そこが疼痛を引き起こしている。
狙撃任務にあたるのに、余計なことで気を取られたくないのだが、これも仕方ないと諦める。
『グスタフは私の部下だが、実に優秀な男だ。ミズキと年も近い。彼と仲良くやり、おまえの目で外の世界を見てきなさい。おまえにもそろそろ友達が必要だ』
アルベルトが「優秀」と評するだけあって、彼の観測は正確だった。
何もない雪原に隠されたトラップ、敵の配置などにも熟知していて、ここにくるまで恐ろしいほど平和的だった。このまま順調に行けば、早々に任務を完了できるだろう。
そんなグスタフはなにやら困惑気味に「んー……」と唸っていたが、ややあってミズキに「難しいぞ」と返してきた。
「難しい? グスタフ、どんな感じなの」
「鉄条網の隙間、かなり狭いぞ。タバコの箱よりも狭い。こんな細けえ柵、よく作ったもんだ。抜くしかないな。ついでにそばに監視カメラがある。カメラの向きにも気をつけないとバレるぞ」
「……精密射撃、か」
下手に撃って、柵に弾丸が弾かれでもしたら、即座に相手は狙撃を警戒し、周辺の警備を厳しくしてくるだろう。
「困ったな……」
「困った? マジか、ミズキ」
グスタフがおかしそうに笑う。
「珍しい、スーパースナイパーのミズキさんでも困ることあるんだ?」
「あるよ。僕は超人ではないんだから」
「だっておまえ、その目は両目が利き目だって聞いたぜ。正直、観測手いなくてもなんとかなるんじゃね?」
「誰がそんなことを。人を機械みたいに……」
からかうグスタフに、ミズキはぷうっと頬を膨らませた。
「両目マスターアイとかマンガの読み過ぎだよ。僕はグスタフがいなくちゃ、何にも出来ないんだから」
「ははは、言えてる。お前、末っ子って感じするもんな。兄弟は何人だ?」
「いないよ。僕はひとり」
グスタフが意外だと言いたげに目を丸くした。
「一人っ子か。どおりでのんびりしてるのか。そんなのでよく親が軍に入るのを許したな」
「グスタフはどうして軍人になったの?」
「俺はケンカばっかりしてたからな。そんなにケンカが好きなら、軍で思い切り暴れて来いって放り込まれたんだ」
「グスタフ、暴れん坊だったの?」
「おう!」
グスタフはそう言うと、ぐっと親指を立てた。
「言っとくけど、俺、強えぞ」
「そうなんだ」
「まあな。ただ俺は、軍に入ってからもずっと勝てない相手がいる」
「グスタフでも勝てない相手がいるの? 教官?」
「違う」
グスタフはそう言うと肩をすくめた。
「母ちゃんと姉貴。ガチで殴りにいっても、あの二人にはどうしても勝てないんだ。軍事教練とかすげえがんばって、身体を鍛えたのに、俺は未だに投げ飛ばされる。女は半端ねえぞ。ミズキも気をつけろ」
寒さでなく、グスタフにとっては本気で恐怖の対象であるようだ。しっかりしてそうなパートナーの意外な一面に、ミズキは声を殺してくすくす笑う。
「そんなに笑うなよ。姉貴ら本当に強いんだ。でもミズキだってすげえ成果あげたんだろ? それもひとりで」
「そりゃ軍人なんだもん。ちゃんと成果を上げて、自軍に貢献しないといけないだろ?」
「なんでひとりだったんだ?」
「僕に君のような仲間はいなかったし。それに……」
「それに? なんだよ」
「せめて僕は、あの国の『軍人』でいたいんだ」
押し殺した声で呻くようにこぼすと、グスタフが半ば呆れたようにため息をつく。
「お前、軍人であることにこだわるねえ。軍人は軍人以外、他のものにはなれないだろう? なんでそんなにこだわる? 地位か? 名誉か?」
「グスタフ、ほらそろそろ僕達の仕事をしよう?」
一方的に会話を遮断し、ミズキはまたライフルを構えなおした。
スコープの先、鉄条網の網の目の間に弾丸をくぐらせ、相手の頭にヒットさせなければならない。
狙撃の難易度が格段に上がってしまったなと、ミズキはチッと舌打ちをこぼす。
クラリスの兵士たちは、タバコを吸いながら談笑している。張り詰めた戦場における、わずかな安息、のんびり一服中と言ったところか。
しかし彼らはあと数秒の後、ミズキに頭を吹き飛ばされる。ミズキ自身は彼らに恨みなどないが、これも戦争、皮肉な運命のめぐりあわせと諦めてもらうほかない。
いちいち命の大切さなど意識していては任務をこなせない。自分は心などない、ただの殺戮機械だと言い聞かせる。
心がなければ、罪悪感など感じない。戦場では感情など邪魔だけだ。
一思いにあの世へ送ってやることが、ミズキのせめてもの情けだ。
「ミズキは右側を殺れ。俺は左側の男を殺る」
「オーケー」
幸いにして風はターゲットに向かってまっすぐ追い風だ。着弾地点までの距離は、グスタフの観測によると520メートルほど。
弾は風に乗って速度と飛距離を伸ばすだろう。その分も計算に入れ、ミズキはゆっくりと照準を合わせた。
息を合わせ、正確に――撃つ。
「ならばカウント3で同時に始末だ。いいねグスタフ」
「よし、スリー、ツー……ん?」
グスタフがスコープから目を離した。
「グスタフ?」
ミズキが怪訝そうな声を出すと、グスタフはチッと舌打ちした。
「予定外のゲストが現れたぞ」
「予定外? ひとりくらい増えたって変わらないさ。2人同時に殺って、最後があわくってる間に仕留めればいい」
「そう気色ばむな。まずは確認しよう」
グスタフが双眼鏡を覗き込む。
「……なんだあいつは」
「どうしたのグスタフ」
「……斥候が持ち帰った資料にない顔だ。いったいあれは誰なんだ。ミズキ、スコープであれを視認できるか」
グスタフに言われ、ミズキもスコープで予定外に現れた人物の姿を追う。背筋をきちんと伸ばし、すらりと背が高いが、ダイヤモンドダストが吹くこの状況ではそれ以外の確認が難しい。
その人物もまたオーバーコートに身を包んでいたが、一般の兵士と違い、こちらは黒い生地のコートに同じ素材のグローブをつけていた。光沢があるような気がする。素材はおそらくレザーか。
並の兵士と比べると、予定外の人物は明らかに上質なものを身につけている。左腕にキラリと光るものが見えた。クラリス軍の階級章の様にも見えるが、雪と光の反射でその階級まではよく見えなかった。
ミズキたちが狙っている雑兵より少し上の階級なのか、それともとんでもなく高い位の人物なのか。
それによってはこの収容所を制圧するためのみならず、敵の情報を得るという点で利用価値があるかもしれない。
が、ひとたび狙撃を外せばすべてが終わる。
一撃を失敗し、相手が警戒態勢に入れば、雪に慣れたクラリス軍は、この周辺をくまなく、そして素早く捜索してくるだろう。
この深い雪の中、グスタフが配置した味方部隊が逃げる時間をどこまで稼げるだろうか? ディスタンシアの人間ならともかく、国外のプライベートフォースの人間ならば、雪にはきっと不慣れだ。
クラリスの兵士は、戦闘能力もさることながら極限下においてのサバイバル能力も高いことでも有名だ。ホワイトアウト、雪崩……白い雪は時として短時間で人の命を奪う。その天候の変化を熟知しているクラリス軍は、猛吹雪の中でもクリアリングを行える。雪に気を取られている敵があっさり狩られたなんて話、この周辺では有名だ。
雪深いこのディスタンシアが侵攻された日も大寒波で大雪が降っていた。
国家公認のラジオ局「ディスタンシアタイムズ」によると、その日は市内中心部でも人の腰くらいの雪が一晩にして積もり、国境付近はさらなる積雪があったという。
クラリス軍はその雪の中を進軍し、底引き網のように横に陣形を作り、ディスタンシアに侵攻、精鋭部隊で結成された各所の国境警備隊をひとり残らず射殺し、進軍ルート上にある町や村で破壊と略奪、そして陵辱の限りを尽くしながら、二日で市内中心部に到達。
ラジオ局は最後まで情勢と避難を市民に伝え続けたが、このラジオ局を含め、政治機能は到達後、たった一日で奪われ、ディスタンシア陥落まではわずか三日……あまりにも早すぎる進軍だった。
クラリスを普通の国家、普通の兵士だと思うと痛い目を見る。それはディスタンシア侵攻で証明がなされている。
しかしここまで非人道的だと言われているクラリスの所業だが、不思議なことに周辺国はこれを許し、ディスタンシアに援助の手を差し伸べている国はひとつもない。
国民はみんな不思議がっている。
「もしかしたら、この国は世界地図から切り取られて、無かったことになっているんじゃないのか」と。
孤立無援状態におかれたディスタンシア国がなりふり構わずになっているのはそのせいだった。
この作戦は、敵に隙を作るために絶対失敗はできない。多少の予定外は織り込み済みだから、現れた兵士もろとも全員殺してしまえば問題はない。
収容所の見取り図、そして兵士の配置シフト、警備の手薄な場所、時間など、突入に必要な情報はすでに斥候が調査済みだ。
あとはミズキたちが実行に移せばいい。時はすでに来ているのだ。猶予などない。
「グスタフ、僕は先にあのゲストを殺るよ。そのあとすぐに右を殺る。グスタフ、左狙える?」
「任せろ。いくぞ」
「うん」
軽く息を吸い込み、グスタフとカウントを合わせる。
スコープを覗いて今度こそ照準を合わせる。
幸いにして、敵はミズキに背を向けていた。
(今度こそしとめてやる……)
狙撃カウントの最後、トリガーを引くその瞬間だった。
吹雪が一瞬やみ、背を向けていた予定外の兵士が振り返った。
その人物は、ミズキをまっすぐ見据えてニヤリと笑った。細く切れ長の冷たい視線。スコープ越しでもわかる、本能的な恐怖を感じた。
――気付かれている?
思わずぎょっとしてスコープから目を離す。
しかしここはターゲットから500メートル離れていて、天候は吹雪。スコープや双眼鏡越しならともかく、普通の人間がミズキの居場所を特定できるほどの視認性はないはずだ。
――これは偶然だ。
スナイパーライフルを再度構えなおす。
だが兵士はミズキをスコープごと貫くような視線で見つめていた。薄い雪のスクリーンに佇むその兵士から目を離せない。
(本当に見えているのか……いや、そんなはず、絶対にない)
装備も武器も何もかもきちんと選んだのだ。
綿密な計画を立て、正確な観測だってグスタフが行っている。しかし隣のグスタフはあの兵士の動きについて何も反応しない。
もしかして、あの兵士が見えているのはミズキだけなのかと不安になる。
兵士はこちらを見据えたまま、酷薄な笑みを浮かべている。
まるで「おまえたちが狙っている事はすべてお見通しだ」とでも言いたげに。
(その取り澄ました顔、今に血に染めてやる!)
相手の挑戦的な表情に心がざわめく。しかし狙撃手が動揺してはいけない。作戦の失敗は、自らの死。
吸った息をゆっくり吐く。
自らの呼吸ですら狂う照準、冷たく滑らかなカーブのトリガーに指を掛け直す。
パズルの最後のひとかけらを嵌めるその瞬間。
ミズキの後頭部に硬く冷たい感触が押し当てられた。
「動くな」
「――!」
まずい。
ミズキは反射的に振り向こうとしたが、相手はそれを見越していた。武器を取り上げられ、相手にそのまま両腕を拘束される。冷たい雪の地面に頭を押し付けられ、いくつもの銃口がぴたりとミズキに狙いを定めた。
視線を素早く周囲に走らせると、ミズキを拘束しているのはオーバーコートを着ている兵士達だった。
そのコートの色がダークグレーなのを見て、ミズキはチッと舌打ちを零した。
(クラリスの特殊部隊だ……)
よりによって、クラリス軍の中でも特に残酷さを極める精鋭部隊たちに捕らえられてしまった。
時には拷問で、時には国で待つ大切な人をちらつかせながら、矜持と情報を売るように仕向けることに長けた連中だ。
また人知れず暗殺なども行うという噂もある。
ここに来るまでに隠密行動を心がけた。排泄物に至るまで、自身の痕跡を残さぬように細心の注意を払ってきたのに、敵にいつの間にか囲まれていたなんて。
ミズキだけでなく、観測手であるグスタフも気付けなかった。
自分の近くまで来た敵の動きを微塵も察知できなかった狙撃手なんてこの世にいない。
あまりにも間抜けすぎると、ミズキは心の中で自嘲する。
「僕たちが狙っているのが見えたのか」
「いいや、君たちは最初からここに誘い込まれる手筈だった」
「――なに?」
低く威圧感を含むその声の主は、先ほどスコープで見た予想外の兵士だ。あの場所から移動してきたのだろう。降りしきる雪の中、さくさくと新雪を踏みながら歩いてくるその姿は凛とした美しさと畏怖を備えていた。
そこらへんの奴らとは違う、この男は容赦などしない危険な人物だと、本能的に感じる。
よく磨き込まれた軍靴が地面に這い蹲らされているミズキの前で足を止めた。
彼は膝をつき、優美な指先でミズキの華奢な顎をそっと撫でた。
「我が軍を混乱に陥れた狙撃手というから、どんなに屈強な男かと思っていたら……これはまた少女のように可憐な兵士だ」
「くっ…」
得体の知れない気味悪さに全身から血の気が引く。
「僕達を……どうする」
「僕達? ああ、あなた状況がわかっていないのですね?」
無造作に髪を掴まれ、そのまま強引に上を向かされる。
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「あなたはパートナーに裏切られたのですよ」
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男はそう言うと、ミズキの髪を掴んだまま、にっこりと微笑む。
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「あなたは……」
「初めまして。私の名前はミハイル」
「ミハイル……この辺では聞かない名前だ」
「そうですか。なら黒衣の死神という名なら? こちらのほうがあなた方にはなじみ深いですか?」
「黒衣の……ああっ!」
驚愕にミズキは目を見開いた。
その名前は友軍全体に知れ渡っている恐怖の名だ。
音もなく影と同化するといわれるほど、黒衣の死神はそれと悟らせずにターゲットに近づいて目的を達成する。ターゲットはまさか自分が狙われている上、その周辺に罠を仕掛けられているなど、欠片ほど疑いも思いもしない。
気がついたときにはターゲットは黒衣の死神のマントに抱かれ息絶えている――その死神の罠に、まさか自分がかかっていたとは。しかもこんなふうに身体を拘束されていては、逃げ出すチャンスも、この男を巻き添えにして、クリスタライズを起動することもできない。
「とんでもない有名人に会ってしまった……」
「あなたも人のことは言えない。お噂はかねがね聞いている。ディスタンシアの異色光彩狙撃手殿」
「違う、僕はそんなんじゃ……」
「カラーコンタクトで隠してもわかりますよ」
ミハイルがミズキの後頭部に手刀を落とす。
「ぐうっ!」
不意にきた衝撃をそのまま受けてしまい、思わすうめき声が漏れ、同時に左側の視界がクリアになった。
クラリス人になりすます為のコンタクトレンズはちょっとした衝撃でよく外れるが、その加減など相手が考慮してくれるわけもなく、殴られた痛みと衝撃にミズキは軽い眩暈を覚えていた。
「……うまく化けたと思ったんだけどな」
「もともとあなたが持つ美しい黒い瞳はどんなにマスキングしたって隠せない。私は以前、あなたとお会いしているが、覚えていませんか?」
以前に会ってる? そんなはずはない。ミッション中は誰とも会わずに帰ってきているはずだし、ミハイルみたいな相手に会っていたら、絶対に覚えている。
隠密行動を旨とする暗殺者たるもの、たとえ街を歩く一市民が相手でも、自分の存在を覚えられては困るのだ。
「……悪いけど、僕の記憶にはない。あなたなんか知らない」
「あなたの左目に蒼いコンタクトをつけて化けても、その黒い瞳とあいまった深海のごとく深い蒼の瞳はクラリス人にはいない。右は間違いなくクラリス特有の蒼ですが、左は違う」
口調こそ慇懃だが、その態度は無礼だ。捕まれる髪の痛さに、ミズキは顔を顰めてミハイルを真っ向から睨みつけた。
「くっ……」
「あなたは覚えていなくても、私はあなたのそのきれいな瞳を忘れたことはない。1日たりとも」
「なんだそれ…」
いくつもの銃口が自分に向いている。抵抗したところで蜂の巣にされるが落ちに決まっている。
万事休す。もはやどうする事も出来ない。ミズキは悔しさに唇を噛んだ。
「……こうして捕まったのだから抵抗はしない」
悔しくて、そして。
「だけどなぜグスタフ、君は僕を裏切った?」
いつもはたったひとり。でも今回は仲間がいた。
冗談も家族のことも、道中いろんなことを話した。任務遂行も完璧に進んでいた。仲間と一緒にひとつのことを成し遂げるのがそれなりに楽しかったのに。
なのに、グスタフどうしてーー?
「君はディスタンシアのために、危険を承知でこの作戦を立案したんじゃないのか!」
「俺の命は俺のためにあるんだ。国のためなんかじゃない。あんな何もない薄汚い国に自分の命を懸けるなんて本気で思っていたのか?」
「君が配置した特殊部隊は!?」
「ちゃんといただろ。クラリスの特殊部隊がさ」
グスタフがせせら笑う。
「クラリス軍はミズキのことをかなり高く買っているようだぜ? 異色光彩の狙撃手はちょっとばかり有名になりすぎたのさ。まあおまえ、女が嫉妬するくらい綺麗な顔してるしな。せいぜい男どもに可愛がってもらえよ」
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「あっ」
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「今年は特に雪が深い。足元にご注意いただかないと」
「ディスタンシアでもこの程度の雪は降る。僕はちゃんと歩ける。女みたいに扱うのはやめてもらおう」
「それは失礼。しかしクラリスにとってあなたは大きな収穫だ。異色光彩の狙撃手を確保できたのですから」
「……どうせすぐ、殺すくせに?」
「さあそれはどうでしょう。まずは営倉にご案内します。お話はそこでじっくり伺う」
「営倉か。最高級のスイートルームを希望するよ」
「いいでしょう。あなたに最高級のおもてなしを約束します。あなたが這い蹲って我々の靴先を舐め、心の底から殺してくださいと言えるようになるくらいのおもてなしを、ね」
「期待していいのかな」
「勿論。絶望をご用意して差し上げます」
黒衣の死神は意味ありげに言いながら、にこやかに笑う。その笑顔だけなら、死神どころか天使にも見えるが、ミズキを抱きとめながらも腹に硬く冷たい銃口を押し付けているのを感じ、ミズキは諦観の表情で溜息をついた。
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