クリスタライズ~ある狙撃手へのレクイエム~

浅倉優稀

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#7 罪と後悔

#7 罪と後悔

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「お腹がすいたらいつでもおいで。おいしいものをたらふく食べさせてあげるからさ。お金がない? かまわないよ、ミハイルにつけておくからね」
 帰り際、ジュリアは笑顔でミズキに手を振っていたが、やはりその目は笑っていなかった。
 こんなにも重苦しいごちそうは初めてだ。しかもそれは、ミズキの手がもたらした、恨みの晩餐。
 ジュリアの反応は、ごく当たり前だ。
 最初こそ物珍しさも手伝っておいしいと思っていたが、最後のほうは味なんか感じなかった。
 出された料理を機械的に腹に詰め込み、ミズキはミハイルの宿舎に戻った。
 お腹は満たされたが、心には冷たい風が吹き抜けていく。
 今さらながら、自分の犯したことがどのような結果を生んだのか、知ることになってしまった。
 ベッドにごろんと横になり、己の両手をじっと眺める。
 どんなミッションだってこなしてきた。いろんな人の命を奪った、罪深い両手。
「僕は……やっぱり汚い」
「あなたのせいではない」
 不意に頭上から声が降ってきた
 みれば、ミハイルが寝転がったミズキを見下ろしていた。
「あなたをそうさせた国家が問題なのです。疑問に思いませんか? ディスタンシアがなぜ滅亡の道をたどるのか。多数の国民を犠牲にしているのになお、その歩みを止めないのか」
「考えたこともない」
「どうして?」
「だって」
 ミズキはベッドの上に身体を起こした。
 ミズキが知るディスタンシアという国の景色は瓦礫と悲しみが溢れている。見慣れた灰色の景色と毎日の中で、ミズキ自身は与えられた任務をこなし、シュトラウスの庇護下にいる。そこに疑問など欠片もなかった。
「任務を全うすることが僕の義務であり、ディスタンシアに対する償いだし、国はそれを望んでる」
 ミズキはそれを直截に告げたが、言い終わった後でしまったと口を押さえた。
「償い」は余計だった。
「償い?」
 瞬間でミハイルの眉間に皺が寄る。
「あなた、ディスタンシアの軍人なのでしょう? 国のために働くのは当然。なのになぜ償いなのです?」
「それは軍人だから。僕はあの国にこの身を捧げ、忠誠を誓っている」
 償いの理由は言わなかった。もともと嘘をつくのが得意なほうではないから、このまま会話を続ければ、あの淫らな日々をさらけ出してしまいそうだ。
 もうこれ以上、聞かないでほしい。追及されるのなんて嫌だ。
 ミズキはミハイルからふいと顔を背ける。
「また『軍人』ですか」
 ミハイルは呆れたように吐き捨て、ベッドの端に腰を下ろした。ぎしりとマットレスが傾いで、ベッドの上に座っているミズキの身体が少しだけ跳ねる。
「あなたはことあるごとに、自分のことを軍人であると言いますね? 兵士ではなく」
「だって、それが僕の身分だから」
「違う。あなたの真意はそこじゃない」
「何が違う」
「あなたが『軍人である』という時、あなたの視線はこの世界を見ていない」
「……え」
「あなたは自分の内面で悲鳴を上げている『本当のあなた』を見つめて、自分は国に殉じる軍人であると暗示をかけている。私にはそのように見えるのですよ」
「……っ!」
 本来は人殺しなんて嫌だ。だけど、男娼として生きるくらいなら、せめてあの国を背負って戦う身分でいたい。
「僕……そんなこと思ってない……」
 ミハイルなんて、どうせ何もわからないのに、とやかく言われたくない。
「まるで全身がハリセンボンだ。誰も寄せ付けないようにしてるのに、あなたの心は助けてと叫んでいる」
 ふいにミズキの身体の下にミハイルの腕が滑り込んできて、反射的に身体を浮かせたミズキは、そのまま抱き起こされてしまう。
「こちらにいらっしゃい」
「え、なに……」
 身構える間もなく、彼の腕の中に引き込まれてしまった。
 抵抗するにも、なんだか居心地がいい。
 広くて暖かな胸の中、ミハイルの命の音が聴こえる。
「私の心臓の音、聞こえるでしょう?」
「……うん」
「これが生きている、ということです」
「どういうこと……?」
 顔を上げれば、涼し気なミハイルの視線とぶつかる。
「心臓が動いているなら、そりゃ生きてるってことでしょ……?」
「心臓の音は、ちょっとしたことで速さが変わります。楽しい時、悲しい時、緊張する時……人生はジェットコースターのようなものです。でも必ずこの鼓動はいつも同じリズムを刻むのです。今日も明日もあさっても、その先もずっと」
「何が言いたいんですか……」
 ミハイルは何を言おうとしている? 
「人は未来が途切れるなんて思わない。明日はかならず来るんです。この心臓が動く限り。ですが、人がたった一つしかない命を奪い、あなたはその人の未来を壊した」
 ーー今さらそんなこと、言われなくてもわかってる。どうせ非難されるだけなのだ。
 ひどい言葉をぶつけられると覚悟し、身体を固くしたミズキの頭を大きなミハイルの手がそっと撫でる。
「でもあなたはそれを嬉々としてやる殺人鬼ではない」
 ミハイルはミズキの頭を抱き込んだ。
「本来のあなたは、穏やかで優しい人」
「僕はそんなんじゃ……」
 張り詰めていた気持ちの鎖が弾け飛んだような気がした。優しい人だなんて言われたことなどない。
「僕は…ぼく、は……」
 優しくなどない。ただの殺人鬼なんだーー頭の中で否定しようとすればするほど、気持ちが高ぶって泣きたくなってしまう。
 どうしてしまったんだろう。
 こんな気持ち、初めてだ。
「離して。僕は男だ。しかも戦犯だろ」
「そうですね。しかしあなたを見ていると、とても哀れで胸が張り裂けそうになる」
 小さな抵抗すら受け流され、ミハイルはミズキの頭を優しくなでる。
 頭を撫でられたり、ぎゅっと抱きしめられたり……そんなことがとても心地良い。
 だが、ミズキの身分は捕虜だ。本来、ミズキが敵から与えられるものではない。こんなにもふわふわ揺れる気持ちを抱え続けるくらいなら、むしろ痛めつけられる方がずっといい。
 ここは敵地。さらに自分がいるところは敵の腕の中なのだから。
 戸惑いを胸の奥にぎゅっとしまいミズキはそっとミハイルの胸を押し戻すと、このまま手錠をかけてくれとばかりに、スッと両手を差し出した。
「……営倉に戻る。僕はクラリス軍の捕虜だ。早く尋問でも拷問でも始めては?」
「ならここで起動ブートアップさせればいかがです?」
 ミハイルの目が据わった。
「あなたの身体の中にあるクリスタライズを」
「え……」
「そうすればあなたは立派に戦死、しかもクラリス軍施設の爆破に成功するうえ、黒衣の悪魔と呼ばれる私をも消し去れる。ディスタンシアにとっては、間違いない大きな成果となるでしょう」
 ミハイルはとんでもないことを平然と言い放ったが、クリスタライズをこんなところで起爆できない。
「あなたの闇路に、私もおつきあいしましょう。さあ、起爆させなさい」
「え……」 
 ミズキとともに爆死する?
 この男は本気で言ってるのか。
 「じゃ、スイッチを返して」
 そもそもスイッチは持っているのはミハイルのはずだ。捕らえられたときに所持品はすべて取り上げられている。ミズキの手元にはクリスタライズ本体しかないのだ。
「あなたの希望通り、僕は今すぐ死ぬ。だから僕にスイッチを渡せよ」
「スイッチ? あなた、おかしなことを言いますね」
 何を言ってるんだとばかりに、ミハイルが鼻で笑い飛ばす。
「ディスタンシアのクリスタライズは、兵士そのものが起爆装置のはずです。スイッチなんかそもそも存在しない。本国からの起爆信号を受信するか、パスワードを口頭で唱えれば、その音声を認識し、爆発スタンバイ状態に入り、およそ1分後に爆発。少し時間を置くことで、人間に絶対に逃れられない狂わんばかりの恐怖を与え、周囲の人間を巻き添えにできるように設計されています。クリスタライズとはそういうものです」
「それがクリスタライズ……? 嘘だ。起爆はタイミングを見てスイッチを押すものじゃ」
「あなたディスタンシア軍の兵士なのでしょう? クリスタライズがどんなものか、まさか知らないとは言わせませんよ?」
「そんな……」
 ミズキが聞いた話と違う。
 ミズキの身体にクリスタライズを埋め込んだ張本人であるアルベルトは「敵に連行されそうになったら、スイッチを押しなさい」とだけ言った。ミズキは絶対に敵に捕まってはならないからと。
 クリスタライズは、敵に辱められることがないようにする、軍人の最後の矜持だと思っていた。
「何もご存じないのですか? クリスタライズは自決というよりは、戦略的爆弾兵器ストラテジックウェポンです。少し前に、砂漠の宗教の信者たちが、神の名のもとの聖戦でよく使った手の応用です。クリスタライズの運用方法、それすら知らないとは。本当にあなたが軍人かどうかも疑わしい」
「そうでなければ、好き好んで人を殺したりなんかしない」
「それはどうでしょうね?」
 言いくるめられ、ミズキは唇を噛んで俯いた。
 ミハイルは追及の手を緩めない。
「本当にあなた、ディスタンシアの『軍人』なのですか?」
「僕は……」
 ミハイルは何も知らないくせに。
 ミズキがどんな思いで今まで生きてきたのか。
『軍人であること』――それだけが心の拠り所だった。だからクラリスの軍人を暗殺しまくったのだ。
 本当は人殺しなんかしたくない。でもそれすらできない自分は、ただの男娼でしかない。
 男根を口で咥え、後孔に突き入れられ、身体中を舐められ愛撫され、身体を揺らされて喘ぐ、汚らわしくていやらしい、ただの性玩具だ。
 それを認めたくない。そうであることを否定したい。それだけのために狙撃手となったのに。
 ミハイルが――憎らしい。
 無知であるくせに、ミズキが歩んできた道をせせら笑う、その態度が。
 拳を固く握りしめ、わずかに視線を上げてミハイルを下から睨みつける。
「あなたに僕の何が……」
「同情してほしいのですか? 自分の歩いてきた道は平坦ではなかったと。だからといって、あなたがクラリス軍にした罪は軽くなりませんよ」
 言われてぐっと唇を噛む。
 同情? そんなものが欲しいんじゃない。
 でもどうしてほしいのかと問われても、答えを出せない。
 平和な街で生きている人々の笑顔の裏側、自分の砕いたものの大きさを初めて知った。
 だけどそれは軍人としての使命であって。
「僕は……」
「ちょうどいい。あなたの尋問を再開しましょうか。今、ここで」
 瞬間でミズキは両手をミハイルにつかまれ、ベッドに押し倒された。
「やっ……!」
 抵抗する間もなく、ミハイルは左手だけでミズキの両手首を頭の上で縫い付ける。
「離してっ」
「ほら、起爆させてごらんなさい。あなたの身体に埋められているクリスタライズを起動させてみたらいい。どうせあなたは銃殺刑になるのですから、私を道連れにすれば、あなたは故郷ディスタンシアでヒーローになれますよ?」
 ミハイルの唇がミズキの首筋をねっとりと這う。
「ひ、あっ……」
 官能の熱を秘めたその感触に、ミズキが身体が強張り、全身がぞくりと泡立った。
「や、やめっ……」
「抵抗する気があるのなら、全力でなさい」
 ミハイルはミズキのパーカーをまくり上げる。桃色の突起がすでに硬くなって、空気が触れるだけでもたまらない疼きを生む。
 白い滑らかな肌がミハイルの眼前に晒される。恥ずかしくて身を捩ろうとしたが、ミハイルががっちりと手首を掴んでいるため、そこから抜け出すことができない。
「白くてきれいな肌ですね。しかし」
 ミハイルがあいた手でミズキの胸に触れた。そこには手のひらくらいの白く大きな絆創膏が貼られている。
「この下も見せてもらいますよ」
「やめて、それを剥がさないで!」
「少し痛いですよ。我慢なさい」
 ミハイルは絆創膏を一気に引きはがす。べりっと耳障りな音がして、ミズキは顔をしかめた。
「痛っ……」
「この痕はなんです?」
「それは……」
 そこには、術後2週間の生々しい手術の傷。
 ろくに処置もしないで戦場に赴いたから、傷は治っておらず、塞がるどころか少しだけ開いてわずかに出血していた。
 その下にあるものは――。
「ちゃんと僕が軍人である証だ……」
 ディスタンシア国に殉じるという証。
「それがあれば、僕は胸を張れるんだ……」
「こんなものが軍人の証だと? あなたは本気で思っているのですか?」
「そうだよ。そこにあるのが僕の……」
 ――ミズキの唯一のプライドだ。
 ミハイルは呆れたように溜息をついた。
「美しい肌の下に、無粋なものを埋め込まれて。かわいそうに」
「でも僕は嬉しかったんだ」
「嬉しかった? それはなぜ」
「――それは……」
 ミズキは唇を噛んだ。足をひらいて男たちに手酷く抱かれる人形だなんて言えない。
 知らず瞳から涙が一筋頬を流れた。
「ごめんなさい」
 涙に震える声で謝罪すると、ミハイルが苛立ったように大きな溜息をついた。
「自分の命を兵器で管理されるこんなやり方……許されるものではない」
「でも僕は……自分で引導を渡せる装置を持っていることで、僕は本当の意味で償いができると思ったんだ」
 5歳のあの日が蘇る。泣きたいわけじゃないのに、ぽろぽろ涙がこぼれてとまらないミズキの頬にミハイルのキスが降ってくる。
「こんな風に国を守る兵士の命を軽んじている国、それがあなたをこのように仕立てた国・ディスタンシアです。こんな傷をあなたにつけて……」
 ミハイルはミズキの胸の傷に沿って、舌先で唾液のラインを引いていく。
「ひ、あっ……」
 思わず甘い声が漏れる。
「……」
 ミハイルは何も言わない。ただミズキの反応を見ながら、傷のそばの突起を捉え、舌先でつついている。敏感な乳首は弄ばれて更なる刺激を欲していた。
「あっ……胸、だめ……僕は、んっ……」
 ひとまとめにされた両手をきつく握りしめ、このわずかな、しかし大きな快楽を伴うしびれを逃がそうとする。
 こんなところで淫らになってちゃいけないと、自分の意識に暗示をかける。
 これはシュトラウスから与えられるような罰ではない。
 だけどもミハイルの熱が、ミズキの身体を色づかせていくのを感じている。
 ミハイルは尋問だといったけれど、その彼から、シュトラウスのような邪気は感じない。
「先ほどはあなたに平和を見せました。平和の裏側の犠牲も見せました。それをふまえて本日の尋問を始めます。あなたが嫌だといっても、今日はやめませんよ」
「僕は……どうなる」
「まだ殺しはしません。ですが、あなたにもうひとつ、知っておいてほしいことがあります。そしてあなたからいろいろ教えていただきましょう。殺すのはそれからです」
「殺してくれるんですか、やっと」
 不敵に笑ったつもりだが、か細い声はこれからされることに怯えきって震えた。
 ミハイルは暗い微笑で返してくる。
「死ぬほうがましだと、思うかもしれませんね」
 ミハイルはミズキの唇に自分をそれを重ねながら、低く囁いた。
「では、始めましょうか。あなたへの『罰』を」
 その言葉にミズキの全身が凍り付いた。


 *****


「なぜだ、なぜミズキは帰ってこない!?」
 ディスタンシア軍の地下指令室。ここの最奥の部屋でシュトラウスはミズキの帰りを待っていた。
 アルベルトの要請に応じ、ミズキを初めて単独ではなく、他人と一緒に外に出したものの、その彼らが連絡を絶って、すでに1週間ほどが経過しようとしていた。
 心配といら立ちが大きくなるのに、ミズキが捕らえられたのか、殺されたのか、その情報すら入ってこないことに、シュトラウスの怒りと苛立ちはむくむくと大きくなるばかりだった。
「アルベルト! 本当にミズキにクリスタライズを埋め込んだんだろうな?」
「ああ、埋めたさ。手術後の傷もみただろう?」
「それなのに! ミズキの行動がモニターできていないどころか、帰ってこないとはどういうことだ!」
「クリスタライズの成功率も最近では下がっているし、クリスタライズ本体も物資がないから作りが雑だ。通信設備にも影響がでているんだろう。それに対策をたてられたんじゃないか? クリスタライズを起動させる前に射殺しているとか」
「ミズキが射殺されたというのかっ!? そんなことがあってたまるか!! あれは並の兵士とは違う。その気になれば、一個小隊くらいは簡単に落とせる!」
 シュトラウスは。苛立ちをそのまま両の拳に込め、机を力いっぱい叩く。机の上の地図やシャープペンシルなどが衝撃で飛び跳ね、机の上の写真立てが床に落ちた。アルベルトがやれやれといった体で、その写真たてを拾い上げた。
「落ちたぞ、これは大事なものだろう?」
「勝手に触るな!」
 アルベルトの手から、シュトラウスは写真立てを奪い返す。
 そこに映るのは、かつてシュトラウスが愛し、そして、ミズキの手を使って殺した人。
「ミズキは私のものだ。今までだって、あいつは私の言うことを聞いて、ちゃんと帰ってきた!」
「だが戦場に出る以上は危険が常に付きまとう。死んだのでなければ、逃げたのかもしれないな」
「逃げた? 逃げただと? あれにそんな考えはないだろう。思いつきもしないはずだ。ミズキが余計な考えを持たぬよう、私はあれを完璧に教育した!」
 ミズキに課せられる罰は、シュトラウスの気分ひとつでどうにもなる。
 ミズキはそれをよく理解している。もともとハイネに似て聡明な子だ。
 だから、今までシュトラウスに反抗したことは一度もない。
「肉体に痛みを刻み込み、心には恐怖を刻み込んだ。ミズキは臆病者だ。私から逃げたとしても、どこにも安住の地がないことをあれは知っている! しかもクリスタライズを抱えたままではな。クリスタライズは、私のこの机から起動命令を出せる。兵士が起動しなくても、私がスイッチを入れることだってできる。クリスタライズに例外はない!」
「しかし、ミズキが消息を絶ってから、君はその起動命令を出してはいない。ミズキと一緒に出撃した私の部下・グスタフにも」
「ミズキは簡単には殺さない。ハイネの償いをさせなくてはならないのだからな」
「ハイネ……か」
 アルベルトは呆れたようにため息をついた。
「――君もミズキも、悲しいほど人の心を信じている。今は戦争中だというのに、君はミズキどころか、グスタフまでも信じている。そうまでしてミズキに執着する理由はなんだ? ハイネの償いどころか、私には君が後悔に咽び泣いているようにしか見えない」
「ハイネは裏切り者だ。一度裏切った男などにかける憐憫の情もないし、彼を粛清したことも後悔はない」
 ハイネ。その名前を口にするとき、いつも心に強い痛みが走る。
 その胸の奥に突き刺さる、ハイネへの残恋の欠片がシュトラウスを傷つけている。
 憎んでも憎んでも、この感情を捨て去れない。彼はシュトラウスにとって、自分の心を弄んだ裏切り者。
 そのハイネの忘れ形見のミズキを、狙撃手として育てたのは、シュトラウス自身だ。
 ハイネの子供なんかどうでもよかった。そう――どうでもよかったのだ。
 しかし、幼い子供を放り出すほど非情にはなれなかった。
 彼が成長して、シュトラウスの手を離れても生きていけるようにと、特化したスキルを習得させた。
 自分の知らぬところで、どうなろうが知ったことではないが、ひとりの男として、親無しにさせてしまった子どもが一人歩き出来るまで責任をとっただけだ。
 だが、日に日に顔も、そして声もハイネに似てくるミズキを見て、シュトラウスの心に残る、歪んだ思いがミズキの自由を奪った。
 シュトラウス自身にもわからない。ハイネにもう未練はないはずだ。
 どうしても、ハイネとうり二つのミズキを求めずにはいられない。
「ミズキまで私を捨てていくのか……そんなこと、あっていいものか」
 シュトラウスが手にする、はがきくらいの大きさの写真たて。その中の赤茶けた汚れたぼろぼろの写真。 
 そこにはまだ幼いミズキを抱いたハイネがいる。
 汚れは時が作ったものではない。これはハイネの血の跡だ。彼の心臓から流れ出た、命の雫の残り。
 写真の中のハイネは穏やかに笑っている。
 その笑顔はかつてシュトラウスだけが独占していた愛しい笑顔だ。
「ハイネ……」
 ハイネの姿を指でそっとなぞる。脳裏によみがえるのはセピア色の思い出ではなく、灰色のあの雪の日の決着。
 好きだった。本気で愛していたからーーーー彼が許せなかった。
 それなのに、まだハイネへの想いが心の中でくすぶり続けている。
 消えそうで消えない熾火のように、シュトラウスの心を罪と未練で炙りながら。
「君はどこまで私から奪っていくんだ……?」
 ――君が残した形見を、君だと思っていくことすら許されないのか。
 口には出さない、無意識の本音。
「ハイネ……」
 シュトラウスの胸にこみ上げるのは、泣きたくなるほどの切なさ。
「ミズキ……」
 今はいない、ハイネの形見。
 ハイネの血を引き、彼と同じ顔をしているからこそ、失くせない。
「どこにいる、ミズキ……」
 焦燥と不安と淋しさがシュトラウスの思考を雁字搦めにしていた。
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