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#13 仁義なき戦い
#13 仁義なき戦い
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ミハイルの先導で入り口を抜け、ミズキはミハイルの部屋に戻った。もちろん、グスタフもお付き合いだ。
グスタフは「兄貴が来たから俺は職務に戻ります!」とミハイルに敬礼したのだが、その瞬間に、彼の頬を何かがかすめた。
見れば切り傷で、そこからたらりと血が流れている。
グスタフの後ろの壁には、少し大きめのナイフがビンビンと揺れながら刺さっていた。
「兄貴、かわいい弟を殺す気ですか!」
グスタフの抗議に返って来たのは、ミハイルの冷笑だった。
今の彼には冗談が通じない。
彼はグスタフに向かって左手にナイフをちらつかせながら、「聞こえませんでした。もう一度宜しいですか?」と、涼しい顔で問い返してきた。
全身からどす黒いオーラをドライアイスのように噴出させているミハイルの剣幕に、グスタフが逆らえるわけもなく、一緒についてくる羽目になったのだが、なぜかミズキは歩くのを許されず、横抱きにされて部屋まで移動することになってしまった。
「僕、歩けます。下ろして」と何度も訴えたのに、ミハイルは「脱走の危険があります」と下ろしてくれない。
すれ違う軍人たちが、ミズキとグスタフを興味深げに交互に見るのだが、どうもミハイルは先のとがったランスのごとく怜悧な視線で、それらを片っ端から刺殺しているようで、彼が歩く先にいる者はあわてて脇に避けて、最敬礼の姿勢を取るのだった。
その顔が一様に真っ青にひきつっている。中には「ひゃあっ」と化け物でも見たかのような悲鳴を上げ、その場にへたり込む者もいた。
ミズキはいえば、お姫様のように扱われ、恥ずかしくて仕方ない。
自分は男なのに。羞恥で頬がぽっぽっと火照っていくのを感じ、ミズキはミハイルの服を掴んで胸元に顔をうずめる。
こんな自分、誰にも見られたくないが、無理だ。
ならせめて、相手を見ずに済むように自ら顔を隠すしかない。
外から3階の部屋に戻るだけだから、移動の時間はそんなに長くない。だがこの扱いが恥ずかしくてたまらないミズキには、この時間が1時間にも2時間にも感じられた。
部屋に着くとミハイルは寝室に行き、ミズキをそっとベッドに下ろす。
「服を脱ぎなさい」
「…え」
硬い声で命令され、要求されているものの真意を考えていると、ミハイルがため息をついた。
「何をしたのかは後でゆっくり聞きますが、今はあなたとグスタフの手当てが先です。さあ服を脱いで」
言われてみれば、いろんなところに擦り傷ができている。ミハイルは「やんちゃですね」とさらに呆れ、後ろを振り返る。そこには腕の応急処置を始めたグスタフがいる。
「グスタフ、清浄綿を救急箱から持ってきて……グスタフ?」
「なんです兄上?」
ナイフを突き立てた血まみれの腕に、瓶入りの消毒液をそのままぶっかけようとしているグスタフに、ミハイルの激しい雷鳴が部屋中に轟いた。
「まず洗う! 消毒はあと!」
グスタフにとって、ミハイルという人はよほどおっかないのだろう。はいっと大きな声で返事すると、バスルームへ飛び込んでいた。
「……まったくあの子は。思考がいつまでたっても幼児並みで困る。だいたい消毒液を瓶ごと、しかも絨毯の上でかけようとするなんて……」
ミハイルは「あとの掃除を誰がすると思ってるんでしょうね」とため息をつき、ミズキを寝かせると、全身のチェックを始める。
「腕、指…脚……動きますね? 痛みは? ……でしょうね、痛いと思います。胸の傷は……ああ、少し開いている」
まるで本物の医者のように素早くチェックを終えたところで、グスタフが戻ってきた。
「兄上、きれいに洗いました」
ほらみてとばかりに腕を見せるグスタフに、ミハイルは鷹揚に頷いた。
「よろしい」
「あと兄上、バスタブに湯もためておきました。ミズキの身体、洗うでしょう?」
「ええ、全身傷だらけですからね」
「ミズキも歩けるようだし……ミズキ、おまえ風呂くらい自分で行けるよな?」
当たり前だ。ミズキが頷くと、ミハイルが首を横に振った。
「行かせられません。彼には脱走疑惑があります。一人にさせて何の工作をされるか分かったものじゃない。監視が必要なので私が彼を風呂に入れます」
「それならばバスルームのドアのそばで、兄上が歩哨していればよろしいのでは?」
「ミズキが溺れる危険があります」
「寮の狭いバスルームで、軍人が溺れるなんて話、聞いたことがありませんが?」
「ところであなたはなぜミズキと一緒に外にいたのです?」
「うへっ?」
急にミハイルに話を変えられ、グスタフが言葉を詰まらせる。
「ミズキもです。あなたはどうやって外に出た? グスタフに先導されて、ディスタンシアへ帰るつもりだったのですか?」
「違う、僕は……」
逃げるつもりなんかなかった。ただグスタフを見つけて驚いてしまった。なんといえばミハイルに通じるか、ミズキがどもっていると、グスタフが助け船を出した。
「兄上、ミズキは脱走なんかしていない。俺が悪いんだ。俺がうっかりミズキに姿を見られたから……」
「……ほう?」
ミハイルが目を細めた。
「続きをおっしゃい。場合によっては、ミズキよりも先に、あなたを処罰しなければなりません」
どっちにしろ、説明はちゃんとする必要がある。
グスタフはばつが悪そうに頭を掻いた。
「この寮の下で仕事の電話をしていたんだ。ミズキにとっては俺は死んだ人間設定だから、ミズキに近づくなっていう命令はちゃんと守ってた。ミズキはてっきり営倉にいると思ったし、まさかここの部屋にいるなんて思わなくて、うっかりミズキに見つかってしまった」
「……それで?」
「ミズキは俺の名前を呼んで、俺もその声に振り返ってしまった。やばいと思ってその場を離れようとしたんだけど、ミズキは俺を追いかけようとして、そこの窓から飛び降りた」
「窓……」
グスタフが指さした場所を見て、ミハイルは何かを言いかけたが、その口を閉じ、俯いて長い溜息をつく。
グスタフは続けた。
「それが事の顛末だ。ミズキは脱走を図ったわけじゃないし、俺も手引きなんかしていない。兄貴の嘘が崩壊しただけで、そう、俺たちは悪くない」
「何を開き直っているのです。だからといって、ミズキが逃げようとしなかったという保証はない」
「でもミズキなら機械的なセキュリティはともかく、警備はぶっ倒せる。重装備兵がかかってきても、こいつが本気で逃げようと思うなら、おそらく余裕でクリアリング突破できる。俺はこいつの兵士としての実力を知ってるし、クラリス軍が捕まえられなかったのがその証拠だろ。それに逃げるなら窓から飛び降りるような自殺行為には走らない。ここは3階。俺は絶対にやらない」
グスタフが言葉を切り、ちらりとミズキに鋭い視線を走らせた。
「無茶すぎる」
「確かに」
今度はミハイルにまで呆れられ、ミズキは恥ずかしさのあまり、もそもそと掛布をかぶる。
顔の上半分だけをひょこっと出すと、ミハイルとグスタフの視線が痛い。
考えなしのバカだといわれているような気がして、いたたまれない。
「だからミズキは無茶はしたけど、悪くないんだ。ちょっとアレだけどさ。だから兄貴、ミズキを罰しないでやってくれ。逃げようとしたわけじゃないんだから」
グスタフの懇願に、ミハイルの双眸がわずかに据わる。
「しかしあなた、やけにミズキをかばいますね」
「兄上こそ、やけにミズキを疑ってる」
兄弟の応酬の間で、布団にくるまるミズキはどうしていいかわからない。
ミズキがこの部屋から出たのが一番の原因なのだろうけど、だからこそ自分のせいで兄弟がいがみ合うのは心が痛い。
ミハイルとグスタフの間には、緊張が漂っていた。
互いに言葉を発さないが、一歩も引かない空気。先に手を出すとしたら、性格的にグスタフだろうか。
「兄貴はミズキを疑いすぎだ。こいつは刑の執行を恐れて逃亡を企てるような奴じゃない」
とグスタフが言えば、
「そうやってあなたが庇うと、こちらは逆に疑惑の追及と潔白の証明を要求しなければならない」
とミハイルが返す。
「もうやめてください!」
ついにミズキはベッドから飛び出し、両者の間に割って入った。
「おふたりは兄弟なんでしょう? ケンカなんてしないでください」
原因は軽はずみな行動をしたミズキなのだ。ミハイルもグスタフも悪くなんかない。
「追及でも尋問でも潔白の証明でも、なんでも命令に従います。だからグスタフも中将殿も退いてください!」
「ミズキ……」
「あなた……」
グスタフとミハイルがミズキに注目する。
「こんな戦争の真っただ中、いつ死ぬかわからないのに、兄弟同士で確執を作ることなんかないじゃないですか。僕が原因なら、気が済むようにどうとでもしたらいい。だからあなたたちでいがみ合わないで!」
「ミズキ、あなた……」
ミハイルの口元がふっと少しだけ緩んだ。見ればグスタフも表情をやわらげた。
ミズキの説得が功を奏したのだ。互いに振り上げた腕を下ろして、仲直りしてくれるはず。
ミズキがほっとした瞬間。
「すっこんでなさいミズキ。これは私とグスタフの戦争です」
「そうだ、これは兄貴とのガチバトルだ。部外者が口出しすんな」
「ここでひいては、グスタフの教育に悪い。歪んで育てば亡き長兄が悲しみます。こういう場で反抗心を徹底的に叩き潰しておかなければ」
「うっせえ、今日こそ連敗記録に終止符を打ってやる」
「7600回目の連敗記録が止まると? バカをおっしゃい。口でも腕でもあなたごときに後れを取る私ではありませんよ。もしそうなれば、軍に退職願を出します」
「言いやがったな、クソ兄貴……」
「私が退職届を出すのが早いか、あなたが医務室に運ばれるのが早いか、まあ後者でしょうけど」
ミハイルがくすくすとおかしそうに笑う。
「全身の骨を叩き折って差し上げます。さあグスタフ、向かってきなさい!」
******
いい大人が本気でケンカをすると、いろんなところに被害が出る。
冗談抜きで本気の取っ組み合いを始めたミハイルとグスタフのケンカは、わずか2分でケリがついた。
ケリがついた理由は、ミハイルがグスタフの身体を掴んで、床に投げ飛ばした瞬間、ドアが開き、まさかのジュリアが乱入してきたからだ。
「あんたたちは! いつまでもガキみたいなことしてるんじゃないよ!!」
ジュリアは迫力の大音声で、ふたりを一喝すると、持っていたハリセンでまずはミハイル、そのあと床で呻いているグスタフの頭を一発ずつ殴った。
「いたた、ジュリア。ジュリアカスタムで殴るのはやめてくださいと言ったじゃないですか……」
「うるさいよミハイル。あんた兄貴だろ、いい年こいて、グスタフをいじめてんじゃないよ」
「いじめてなんていませんよ。ケンカを売ってきたのは彼なんですから」
「言い訳かい。見苦しいね。ほらあんたも立ちなグスタフ」
ジュリアに手を貸されながらグスタフは起き上がる。腰を強打したようで、あたたたと顔をしかめながらさすっているその腰に、ジュリアのハリセンが飛んだ。
「痛ってえ! ジュリア、なにすんだ!」
「あんたも一回くらいミハイルを投げ飛ばしてやんな。ころころ転がされてばかりで情けない」
「てか俺たちのケンカの原因ってミズキだぞ。ミズキは殴らないのかよ」
壮絶な兄弟ゲンカを目の当たりにして、小さく縮こまっておろおろしているミズキを指さし、抗議するグスタフなどお構いなしに、ジュリアは腕を組んでふふんと勝ち誇ったように笑った
「あたしは騒ぎを起こしてないやつまで殴るような、理不尽な真似はしないのさ」
********
あとで聞いたら、そのハリセンは、ミハイルがリーベットに旅行に行った際、おみやげに買ってきたものだという。
リーベットでは、お笑い芸人がネタとして使う道具をジュリアが武器に転化し、強化した。
ただの紙に何やら薄い強化素材を貼り付けているため、下手したら叩かれた場所に切り傷を作る程度の攻撃力があるらしい。その名も「ジュリアカスタム」。
打撲や擦り傷の治療をしてくれながら、ミハイルがそう教えてくれたが、心なしか彼の表情が固まっていた。
「あれを手にしたジュリアに逆らうのなら、死ぬ覚悟がないといけません。本気を出したジュリアは強いですよ。なにせ、あれはクラリス軍のハノン大将の娘ですから。父親も顔負けの腕っぷしを持っている」
どうやらミハイルにとってジュリアの存在は、とんでもない鬼軍曹と同等のようだ。
レストランとはいえ、夜は荒くれ者が多くなるため、「か弱い女が携行できる唯一の武器」だとジュリアは言っていたが、『か弱い』のあたりで、仲良く、かつ激しくぶんぶんと首を横に振ったミハイルとグスタフは、またもや仲良く一発ずつお見舞いされていた。
「まったく、ミズキが怪我して寝てるっていうから、お見舞いにおいしいものをたくさん作ってきてみれば。おなじみの兄弟げんかとはね。あたしが来なきゃ、この寮はいまごろ床が抜けて大変なことになってるよ」
ジュリアはそういうと、テーブルの上にどんと大きなかごとスープ鍋を置いた。
「リーベットの料理を作ってきたんだ。あの国は、薄味が多いけれど、香りとかうまみとかをよぉく効かせる料理が多い。あっさりしてるけれど栄養もあって食べやすいんだ。病人の滋養にはもってこいだよ。ミハイル、スープカップ持ってきて。グスタフ、そこのテーブルの上、ミハイルの書類をどっか隅によけな。ミズキ、起きられるならこっちにおいで」
てきぱきとジュリアが指示を出し、男たちは全員それに従う。
統率の取れた無駄のない動き、まさにジュリアは司令官だ。
ミズキも手伝おうとミハイルの後ろにくっついていたら、「怪我人はじっと座ってな」と司令官の命令が飛び、ミズキは大人しく従った。
逆らえばどうなるか、つい先ほど見たばかりだ。大人しくしておくに限る。
「ミズキの口に合うといいけどな。あんた好き嫌いは?」
「あんまりないけど……すきじゃないものがひとつだけある」
「あんたが嫌いそうなものか。あててやろうか。にんじんだろ?」
「にんじん?」
「赤くて、根っこみたいに硬くて、食べると少し癖のある野菜だ。違う?」
「そう、そうだよ。なんでそれを?」
ミズキは目を丸くした。ここに来てからミズキはいろんなものを食べたけれど、食べ物の好みは誰にも言わなかった。
にんじんも出てきたけれど、厚意で出されているものだからと、ミズキは息を止めてかみ砕いていたのだが、ジュリアにはバレバレだったようだ。
「でもあんたはにんじんを食べられないわけじゃない。あたしはけっこうあんたにんじん料理を食べさせたからね。ちょっとまえにオレンジ色の甘いとろとろしたスープを飲んだだろう? あれはにんじんスープだし、お菓子やパンにも混ぜたりなんかもした。おいしかったろ?」
言われてはじめて、そんなににんじんを食べていたかと、ミズキは目を丸くする。にんじん本体が見えなかったから油断した。
しかし。
「おいしかった。あれならにんじん食べられる。……にんじん、好きかも」
「そう。なにがお気に入りだった?」
また作ってやるからさと言われ、ミズキは記憶を手繰る。
あれもこれもおいしいものがたくさんで、また食べたいものはたくさんあるのに、どう説明していいかわからない。
だけどひとつだけ、どうしてももう一度食べたいものがあった。そのメニューだけは、ミハイルから名前を聞いたのだ。
「あのね……」
それを言ってしまったら、ジュリアからも「子どもみたいだ」と笑われてしまうだろうか。だけど、またリクエストして食べたい逸品ではある。
ミズキは恥ずかしさを必死に隠し、ミハイルに聞かれないように注意しながら、ジュリアの耳元でそっと告げた。
「ケーキ……ケーキが好き。また食べたい」
「ケーキ? ああ、にんじんケーキだね? 気に入ってくれたんだ? でもなんでそんな縮こまって言うのさ」
「ケーキ好きって言ったら、子どもみたいって笑われるかなと思って……」
ディスタンシアでは甘いものなど、めったに口にはできなかった。たまにホットミルクのような白い液体に砂糖をほんの少し落としたものを飲むくらいで、チョコやケーキなどといったものは、クラリスでミハイルと生活を共にするようになってから、初めて食べたお菓子だ。
ふわふわのスポンジみたいなお菓子に白いクリームをつけながら食べたが、あまくてあとをひくおいしさに我を忘れてしまい、ミハイルから「口の周りにクリーム付けて、本当にあなたは子どもと同じだ」と笑われてしまった。
そのことを話すと、ジュリアは優しく微笑んで、ミズキの頭を撫でてくれた。
「ミハイルのことなんか気にしなくていいよ。あいつは落ち着いたエリート然としてるけど、中身はただのやんちゃ坊主だから。OK、また作るよ。ミズキだけのためにおいしいケーキをね」
「本当に?」
「ああ、期待してくれていいよ」
思わずミズキは身を乗り出し「絶対、絶対だよ?」と念押しする。
ジュリアは鼻歌を口ずさんで料理を皿によそっていく。かくてテーブルの上には、胃袋を刺激するたくさんの料理が並んだ。
全員がテーブルに着き、食事の前のお祈りを捧げ終わると、グスタフとミハイルのフォークが素早くおかずにとんだ。あまりの速さにミズキがぽかんとしていると、「ミハイルの家は男3人兄弟だったからね。食事の時は戦争だよ。食べたいものは自分自身で奪うしかないんだ」とジュリアが笑って教えてくれた。
ミズキも両手を合わせ、「いただきます」といい、まずはスープに手を伸ばしたが、その中身を見てミズキは「わあ!」と嬉しそうに声を上げた。
「これ、かきたまスープだ!」
「そうだよ。よく知ってるね」
「小さいころ、お母さんがよく作ってくれたんだ。家で飼ってたにわとりの卵で……また食べられるなんて思わなかった……」
一口すすると、ふんわりとしたたまごと、きのこのいい香りが口いっぱいに広がる。
「おいしいなぁ……」
グスタフに至ってはこのスープがえらく気に入ったようて、早くも「おかわりねぇの?」とジュリアを急かしている。
ミハイルも静かに食事をとっていたが、彼の皿にはおかずがこんもり載っている。どうやら彼は揚げ物が好きなようで、野菜や鶏肉にフリッターのようなふんわりとした衣がまとっているものを多めに取り分けていた。
ミズキももぐもぐと口を動かしながら、次は何を取ろうか、あれはおいしそうだと料理を吟味していたが、そうしている間にもミハイルとグスタフの仁義なき食事戦争が進み、あっという間にテーブルの料理はどんどんとなくなっていく。
なにせミハイルとグスタフは容赦がない。
人がフォークで取ったものまで、ぱしんとはたき落として奪い去っていくものだから、手を伸ばしていいものかどうか、ミズキは迷いに迷ってしまっていた。
だがミハイルは、時折空いている皿に適当に料理を取り分けて「ほら、ぼんやりしていると無くなりますよ」とミズキの分を確保してくれる。グスタフも「パン足りてるか? ほら」と丸いバターロールをいくつか分けてくれた。
ミハイルは兄の立場だし、グスタフにしてもミズキという弟ができたようなものなのだろう。
二人は何かとミズキの世話を焼いてくれるのだった。
「ミズキ、あなたに兄弟はいないのですか?」
ミハイルに問われ、ミズキは頷く。
「僕に兄弟はいない。一人っ子」
「そのせいですかねぇ……」
「なにがです?」
「ぼんやりのんびりしているところです。私はあなたのもう一つの顔を知っていますが、とても同一人物とは思えないくらい、今のあなたは無防備です」
「……」
もう一つの顔とは、「異色虹彩の狙撃手」のミズキだ。
「もう一つの顔ってなんだよ。こんな女の子みたいにのんびりしてる子が、何か違う一面を持ってるのかい?」
「ええ、本気のミズキはこんなにのんびりしていません。とても美しいのです」
「本気? へえ、何の本気を出したら化けるのさ?」
ジュリアが横から口をはさんでくる。彼女はミズキに興味津々のようだった。
だがミハイルがと唇に人差し指を立て「これは私だけの秘密なのです」と誤魔化す。
肉親をディスタンシアに暗殺されたジュリアが、ミズキの正体を知ったら、きっとひどく傷つくだろう。
これはミハイルの配慮なのだと、ミズキは直感したが、逆にジュリアの興味をさらにかきたててしまった。ジュリアはあれこれとミハイルにミズキのことを質問攻めにしていたが、ミハイルは首をゆっくりと横に振った。
「教えません。下手に教えて、ミズキを取られたくありませんからね」
「兄貴、本当にミズキのこと好きだよな」
グスタフがからかうと、ミハイルはにやりと意味ありげに笑った。
「ええ、好きですよ。ミズキは私のものなんです。だから誰にもミズキのことは教えない。本当なら、あなたたちにも見せたくないくらいだ」
ミハイルはそういってミズキを椅子ごと自分の方に引き、肩を抱き寄せた。
「彼は、私だけのもの」
「中将どの……?」
彼の身体の熱を感じ、心臓がとくんと切なく跳ねる。ふわりと抜けるフレグランス。彼の匂い。
脳裏を過るのは淫らな身体検査の夜。あの時彼は「自分を嫌いになれ」と言ったはずなのに。
なのになぜ、こうしてミズキに触れるのか。
どうしていいかわからなくなる。このまま身体を預けてもいいのか、それとも?
戸惑うミズキをよそに、グスタフとジュリアが大笑いする。
「ミズキ、あんた本気にしたらダメだよ。そういう男は人をだますことに長けてる。あんたが女の子だったら、もう騙されてるところだよ」
「兄貴、ミズキが恥ずかしがってるぜ。耐性のない奴をからかうなよ」
げらげらと笑う二人に、ミハイルは「まったく言ってくれますね」と呆れたようにため息をついていたが、ミズキを抱き寄せる腕の力は強かった。
「……私は本気なのに」
彼のつぶやきは、腹を抱えて笑っている二人には聞こえない。
だがミズキにははっきりと聞こえた。その声が獰猛さと情炎の熱を秘め、ミズキのすべてを捕らえている。
――動けない。
それでも勇気を出してミハイルを仰ぎ見る。彼の涼やかな瞳と真正面からぶつかるが、目をそらすこともできなかった。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
「あなたを逃がしませんよ、絶対に」
抱き寄せたミハイルの腕がミズキの頭を愛おしく撫でる。
とんでもない激情にも似たその静かな感情が何か、ミズキにはまだわからないでいた。
グスタフは「兄貴が来たから俺は職務に戻ります!」とミハイルに敬礼したのだが、その瞬間に、彼の頬を何かがかすめた。
見れば切り傷で、そこからたらりと血が流れている。
グスタフの後ろの壁には、少し大きめのナイフがビンビンと揺れながら刺さっていた。
「兄貴、かわいい弟を殺す気ですか!」
グスタフの抗議に返って来たのは、ミハイルの冷笑だった。
今の彼には冗談が通じない。
彼はグスタフに向かって左手にナイフをちらつかせながら、「聞こえませんでした。もう一度宜しいですか?」と、涼しい顔で問い返してきた。
全身からどす黒いオーラをドライアイスのように噴出させているミハイルの剣幕に、グスタフが逆らえるわけもなく、一緒についてくる羽目になったのだが、なぜかミズキは歩くのを許されず、横抱きにされて部屋まで移動することになってしまった。
「僕、歩けます。下ろして」と何度も訴えたのに、ミハイルは「脱走の危険があります」と下ろしてくれない。
すれ違う軍人たちが、ミズキとグスタフを興味深げに交互に見るのだが、どうもミハイルは先のとがったランスのごとく怜悧な視線で、それらを片っ端から刺殺しているようで、彼が歩く先にいる者はあわてて脇に避けて、最敬礼の姿勢を取るのだった。
その顔が一様に真っ青にひきつっている。中には「ひゃあっ」と化け物でも見たかのような悲鳴を上げ、その場にへたり込む者もいた。
ミズキはいえば、お姫様のように扱われ、恥ずかしくて仕方ない。
自分は男なのに。羞恥で頬がぽっぽっと火照っていくのを感じ、ミズキはミハイルの服を掴んで胸元に顔をうずめる。
こんな自分、誰にも見られたくないが、無理だ。
ならせめて、相手を見ずに済むように自ら顔を隠すしかない。
外から3階の部屋に戻るだけだから、移動の時間はそんなに長くない。だがこの扱いが恥ずかしくてたまらないミズキには、この時間が1時間にも2時間にも感じられた。
部屋に着くとミハイルは寝室に行き、ミズキをそっとベッドに下ろす。
「服を脱ぎなさい」
「…え」
硬い声で命令され、要求されているものの真意を考えていると、ミハイルがため息をついた。
「何をしたのかは後でゆっくり聞きますが、今はあなたとグスタフの手当てが先です。さあ服を脱いで」
言われてみれば、いろんなところに擦り傷ができている。ミハイルは「やんちゃですね」とさらに呆れ、後ろを振り返る。そこには腕の応急処置を始めたグスタフがいる。
「グスタフ、清浄綿を救急箱から持ってきて……グスタフ?」
「なんです兄上?」
ナイフを突き立てた血まみれの腕に、瓶入りの消毒液をそのままぶっかけようとしているグスタフに、ミハイルの激しい雷鳴が部屋中に轟いた。
「まず洗う! 消毒はあと!」
グスタフにとって、ミハイルという人はよほどおっかないのだろう。はいっと大きな声で返事すると、バスルームへ飛び込んでいた。
「……まったくあの子は。思考がいつまでたっても幼児並みで困る。だいたい消毒液を瓶ごと、しかも絨毯の上でかけようとするなんて……」
ミハイルは「あとの掃除を誰がすると思ってるんでしょうね」とため息をつき、ミズキを寝かせると、全身のチェックを始める。
「腕、指…脚……動きますね? 痛みは? ……でしょうね、痛いと思います。胸の傷は……ああ、少し開いている」
まるで本物の医者のように素早くチェックを終えたところで、グスタフが戻ってきた。
「兄上、きれいに洗いました」
ほらみてとばかりに腕を見せるグスタフに、ミハイルは鷹揚に頷いた。
「よろしい」
「あと兄上、バスタブに湯もためておきました。ミズキの身体、洗うでしょう?」
「ええ、全身傷だらけですからね」
「ミズキも歩けるようだし……ミズキ、おまえ風呂くらい自分で行けるよな?」
当たり前だ。ミズキが頷くと、ミハイルが首を横に振った。
「行かせられません。彼には脱走疑惑があります。一人にさせて何の工作をされるか分かったものじゃない。監視が必要なので私が彼を風呂に入れます」
「それならばバスルームのドアのそばで、兄上が歩哨していればよろしいのでは?」
「ミズキが溺れる危険があります」
「寮の狭いバスルームで、軍人が溺れるなんて話、聞いたことがありませんが?」
「ところであなたはなぜミズキと一緒に外にいたのです?」
「うへっ?」
急にミハイルに話を変えられ、グスタフが言葉を詰まらせる。
「ミズキもです。あなたはどうやって外に出た? グスタフに先導されて、ディスタンシアへ帰るつもりだったのですか?」
「違う、僕は……」
逃げるつもりなんかなかった。ただグスタフを見つけて驚いてしまった。なんといえばミハイルに通じるか、ミズキがどもっていると、グスタフが助け船を出した。
「兄上、ミズキは脱走なんかしていない。俺が悪いんだ。俺がうっかりミズキに姿を見られたから……」
「……ほう?」
ミハイルが目を細めた。
「続きをおっしゃい。場合によっては、ミズキよりも先に、あなたを処罰しなければなりません」
どっちにしろ、説明はちゃんとする必要がある。
グスタフはばつが悪そうに頭を掻いた。
「この寮の下で仕事の電話をしていたんだ。ミズキにとっては俺は死んだ人間設定だから、ミズキに近づくなっていう命令はちゃんと守ってた。ミズキはてっきり営倉にいると思ったし、まさかここの部屋にいるなんて思わなくて、うっかりミズキに見つかってしまった」
「……それで?」
「ミズキは俺の名前を呼んで、俺もその声に振り返ってしまった。やばいと思ってその場を離れようとしたんだけど、ミズキは俺を追いかけようとして、そこの窓から飛び降りた」
「窓……」
グスタフが指さした場所を見て、ミハイルは何かを言いかけたが、その口を閉じ、俯いて長い溜息をつく。
グスタフは続けた。
「それが事の顛末だ。ミズキは脱走を図ったわけじゃないし、俺も手引きなんかしていない。兄貴の嘘が崩壊しただけで、そう、俺たちは悪くない」
「何を開き直っているのです。だからといって、ミズキが逃げようとしなかったという保証はない」
「でもミズキなら機械的なセキュリティはともかく、警備はぶっ倒せる。重装備兵がかかってきても、こいつが本気で逃げようと思うなら、おそらく余裕でクリアリング突破できる。俺はこいつの兵士としての実力を知ってるし、クラリス軍が捕まえられなかったのがその証拠だろ。それに逃げるなら窓から飛び降りるような自殺行為には走らない。ここは3階。俺は絶対にやらない」
グスタフが言葉を切り、ちらりとミズキに鋭い視線を走らせた。
「無茶すぎる」
「確かに」
今度はミハイルにまで呆れられ、ミズキは恥ずかしさのあまり、もそもそと掛布をかぶる。
顔の上半分だけをひょこっと出すと、ミハイルとグスタフの視線が痛い。
考えなしのバカだといわれているような気がして、いたたまれない。
「だからミズキは無茶はしたけど、悪くないんだ。ちょっとアレだけどさ。だから兄貴、ミズキを罰しないでやってくれ。逃げようとしたわけじゃないんだから」
グスタフの懇願に、ミハイルの双眸がわずかに据わる。
「しかしあなた、やけにミズキをかばいますね」
「兄上こそ、やけにミズキを疑ってる」
兄弟の応酬の間で、布団にくるまるミズキはどうしていいかわからない。
ミズキがこの部屋から出たのが一番の原因なのだろうけど、だからこそ自分のせいで兄弟がいがみ合うのは心が痛い。
ミハイルとグスタフの間には、緊張が漂っていた。
互いに言葉を発さないが、一歩も引かない空気。先に手を出すとしたら、性格的にグスタフだろうか。
「兄貴はミズキを疑いすぎだ。こいつは刑の執行を恐れて逃亡を企てるような奴じゃない」
とグスタフが言えば、
「そうやってあなたが庇うと、こちらは逆に疑惑の追及と潔白の証明を要求しなければならない」
とミハイルが返す。
「もうやめてください!」
ついにミズキはベッドから飛び出し、両者の間に割って入った。
「おふたりは兄弟なんでしょう? ケンカなんてしないでください」
原因は軽はずみな行動をしたミズキなのだ。ミハイルもグスタフも悪くなんかない。
「追及でも尋問でも潔白の証明でも、なんでも命令に従います。だからグスタフも中将殿も退いてください!」
「ミズキ……」
「あなた……」
グスタフとミハイルがミズキに注目する。
「こんな戦争の真っただ中、いつ死ぬかわからないのに、兄弟同士で確執を作ることなんかないじゃないですか。僕が原因なら、気が済むようにどうとでもしたらいい。だからあなたたちでいがみ合わないで!」
「ミズキ、あなた……」
ミハイルの口元がふっと少しだけ緩んだ。見ればグスタフも表情をやわらげた。
ミズキの説得が功を奏したのだ。互いに振り上げた腕を下ろして、仲直りしてくれるはず。
ミズキがほっとした瞬間。
「すっこんでなさいミズキ。これは私とグスタフの戦争です」
「そうだ、これは兄貴とのガチバトルだ。部外者が口出しすんな」
「ここでひいては、グスタフの教育に悪い。歪んで育てば亡き長兄が悲しみます。こういう場で反抗心を徹底的に叩き潰しておかなければ」
「うっせえ、今日こそ連敗記録に終止符を打ってやる」
「7600回目の連敗記録が止まると? バカをおっしゃい。口でも腕でもあなたごときに後れを取る私ではありませんよ。もしそうなれば、軍に退職願を出します」
「言いやがったな、クソ兄貴……」
「私が退職届を出すのが早いか、あなたが医務室に運ばれるのが早いか、まあ後者でしょうけど」
ミハイルがくすくすとおかしそうに笑う。
「全身の骨を叩き折って差し上げます。さあグスタフ、向かってきなさい!」
******
いい大人が本気でケンカをすると、いろんなところに被害が出る。
冗談抜きで本気の取っ組み合いを始めたミハイルとグスタフのケンカは、わずか2分でケリがついた。
ケリがついた理由は、ミハイルがグスタフの身体を掴んで、床に投げ飛ばした瞬間、ドアが開き、まさかのジュリアが乱入してきたからだ。
「あんたたちは! いつまでもガキみたいなことしてるんじゃないよ!!」
ジュリアは迫力の大音声で、ふたりを一喝すると、持っていたハリセンでまずはミハイル、そのあと床で呻いているグスタフの頭を一発ずつ殴った。
「いたた、ジュリア。ジュリアカスタムで殴るのはやめてくださいと言ったじゃないですか……」
「うるさいよミハイル。あんた兄貴だろ、いい年こいて、グスタフをいじめてんじゃないよ」
「いじめてなんていませんよ。ケンカを売ってきたのは彼なんですから」
「言い訳かい。見苦しいね。ほらあんたも立ちなグスタフ」
ジュリアに手を貸されながらグスタフは起き上がる。腰を強打したようで、あたたたと顔をしかめながらさすっているその腰に、ジュリアのハリセンが飛んだ。
「痛ってえ! ジュリア、なにすんだ!」
「あんたも一回くらいミハイルを投げ飛ばしてやんな。ころころ転がされてばかりで情けない」
「てか俺たちのケンカの原因ってミズキだぞ。ミズキは殴らないのかよ」
壮絶な兄弟ゲンカを目の当たりにして、小さく縮こまっておろおろしているミズキを指さし、抗議するグスタフなどお構いなしに、ジュリアは腕を組んでふふんと勝ち誇ったように笑った
「あたしは騒ぎを起こしてないやつまで殴るような、理不尽な真似はしないのさ」
********
あとで聞いたら、そのハリセンは、ミハイルがリーベットに旅行に行った際、おみやげに買ってきたものだという。
リーベットでは、お笑い芸人がネタとして使う道具をジュリアが武器に転化し、強化した。
ただの紙に何やら薄い強化素材を貼り付けているため、下手したら叩かれた場所に切り傷を作る程度の攻撃力があるらしい。その名も「ジュリアカスタム」。
打撲や擦り傷の治療をしてくれながら、ミハイルがそう教えてくれたが、心なしか彼の表情が固まっていた。
「あれを手にしたジュリアに逆らうのなら、死ぬ覚悟がないといけません。本気を出したジュリアは強いですよ。なにせ、あれはクラリス軍のハノン大将の娘ですから。父親も顔負けの腕っぷしを持っている」
どうやらミハイルにとってジュリアの存在は、とんでもない鬼軍曹と同等のようだ。
レストランとはいえ、夜は荒くれ者が多くなるため、「か弱い女が携行できる唯一の武器」だとジュリアは言っていたが、『か弱い』のあたりで、仲良く、かつ激しくぶんぶんと首を横に振ったミハイルとグスタフは、またもや仲良く一発ずつお見舞いされていた。
「まったく、ミズキが怪我して寝てるっていうから、お見舞いにおいしいものをたくさん作ってきてみれば。おなじみの兄弟げんかとはね。あたしが来なきゃ、この寮はいまごろ床が抜けて大変なことになってるよ」
ジュリアはそういうと、テーブルの上にどんと大きなかごとスープ鍋を置いた。
「リーベットの料理を作ってきたんだ。あの国は、薄味が多いけれど、香りとかうまみとかをよぉく効かせる料理が多い。あっさりしてるけれど栄養もあって食べやすいんだ。病人の滋養にはもってこいだよ。ミハイル、スープカップ持ってきて。グスタフ、そこのテーブルの上、ミハイルの書類をどっか隅によけな。ミズキ、起きられるならこっちにおいで」
てきぱきとジュリアが指示を出し、男たちは全員それに従う。
統率の取れた無駄のない動き、まさにジュリアは司令官だ。
ミズキも手伝おうとミハイルの後ろにくっついていたら、「怪我人はじっと座ってな」と司令官の命令が飛び、ミズキは大人しく従った。
逆らえばどうなるか、つい先ほど見たばかりだ。大人しくしておくに限る。
「ミズキの口に合うといいけどな。あんた好き嫌いは?」
「あんまりないけど……すきじゃないものがひとつだけある」
「あんたが嫌いそうなものか。あててやろうか。にんじんだろ?」
「にんじん?」
「赤くて、根っこみたいに硬くて、食べると少し癖のある野菜だ。違う?」
「そう、そうだよ。なんでそれを?」
ミズキは目を丸くした。ここに来てからミズキはいろんなものを食べたけれど、食べ物の好みは誰にも言わなかった。
にんじんも出てきたけれど、厚意で出されているものだからと、ミズキは息を止めてかみ砕いていたのだが、ジュリアにはバレバレだったようだ。
「でもあんたはにんじんを食べられないわけじゃない。あたしはけっこうあんたにんじん料理を食べさせたからね。ちょっとまえにオレンジ色の甘いとろとろしたスープを飲んだだろう? あれはにんじんスープだし、お菓子やパンにも混ぜたりなんかもした。おいしかったろ?」
言われてはじめて、そんなににんじんを食べていたかと、ミズキは目を丸くする。にんじん本体が見えなかったから油断した。
しかし。
「おいしかった。あれならにんじん食べられる。……にんじん、好きかも」
「そう。なにがお気に入りだった?」
また作ってやるからさと言われ、ミズキは記憶を手繰る。
あれもこれもおいしいものがたくさんで、また食べたいものはたくさんあるのに、どう説明していいかわからない。
だけどひとつだけ、どうしてももう一度食べたいものがあった。そのメニューだけは、ミハイルから名前を聞いたのだ。
「あのね……」
それを言ってしまったら、ジュリアからも「子どもみたいだ」と笑われてしまうだろうか。だけど、またリクエストして食べたい逸品ではある。
ミズキは恥ずかしさを必死に隠し、ミハイルに聞かれないように注意しながら、ジュリアの耳元でそっと告げた。
「ケーキ……ケーキが好き。また食べたい」
「ケーキ? ああ、にんじんケーキだね? 気に入ってくれたんだ? でもなんでそんな縮こまって言うのさ」
「ケーキ好きって言ったら、子どもみたいって笑われるかなと思って……」
ディスタンシアでは甘いものなど、めったに口にはできなかった。たまにホットミルクのような白い液体に砂糖をほんの少し落としたものを飲むくらいで、チョコやケーキなどといったものは、クラリスでミハイルと生活を共にするようになってから、初めて食べたお菓子だ。
ふわふわのスポンジみたいなお菓子に白いクリームをつけながら食べたが、あまくてあとをひくおいしさに我を忘れてしまい、ミハイルから「口の周りにクリーム付けて、本当にあなたは子どもと同じだ」と笑われてしまった。
そのことを話すと、ジュリアは優しく微笑んで、ミズキの頭を撫でてくれた。
「ミハイルのことなんか気にしなくていいよ。あいつは落ち着いたエリート然としてるけど、中身はただのやんちゃ坊主だから。OK、また作るよ。ミズキだけのためにおいしいケーキをね」
「本当に?」
「ああ、期待してくれていいよ」
思わずミズキは身を乗り出し「絶対、絶対だよ?」と念押しする。
ジュリアは鼻歌を口ずさんで料理を皿によそっていく。かくてテーブルの上には、胃袋を刺激するたくさんの料理が並んだ。
全員がテーブルに着き、食事の前のお祈りを捧げ終わると、グスタフとミハイルのフォークが素早くおかずにとんだ。あまりの速さにミズキがぽかんとしていると、「ミハイルの家は男3人兄弟だったからね。食事の時は戦争だよ。食べたいものは自分自身で奪うしかないんだ」とジュリアが笑って教えてくれた。
ミズキも両手を合わせ、「いただきます」といい、まずはスープに手を伸ばしたが、その中身を見てミズキは「わあ!」と嬉しそうに声を上げた。
「これ、かきたまスープだ!」
「そうだよ。よく知ってるね」
「小さいころ、お母さんがよく作ってくれたんだ。家で飼ってたにわとりの卵で……また食べられるなんて思わなかった……」
一口すすると、ふんわりとしたたまごと、きのこのいい香りが口いっぱいに広がる。
「おいしいなぁ……」
グスタフに至ってはこのスープがえらく気に入ったようて、早くも「おかわりねぇの?」とジュリアを急かしている。
ミハイルも静かに食事をとっていたが、彼の皿にはおかずがこんもり載っている。どうやら彼は揚げ物が好きなようで、野菜や鶏肉にフリッターのようなふんわりとした衣がまとっているものを多めに取り分けていた。
ミズキももぐもぐと口を動かしながら、次は何を取ろうか、あれはおいしそうだと料理を吟味していたが、そうしている間にもミハイルとグスタフの仁義なき食事戦争が進み、あっという間にテーブルの料理はどんどんとなくなっていく。
なにせミハイルとグスタフは容赦がない。
人がフォークで取ったものまで、ぱしんとはたき落として奪い去っていくものだから、手を伸ばしていいものかどうか、ミズキは迷いに迷ってしまっていた。
だがミハイルは、時折空いている皿に適当に料理を取り分けて「ほら、ぼんやりしていると無くなりますよ」とミズキの分を確保してくれる。グスタフも「パン足りてるか? ほら」と丸いバターロールをいくつか分けてくれた。
ミハイルは兄の立場だし、グスタフにしてもミズキという弟ができたようなものなのだろう。
二人は何かとミズキの世話を焼いてくれるのだった。
「ミズキ、あなたに兄弟はいないのですか?」
ミハイルに問われ、ミズキは頷く。
「僕に兄弟はいない。一人っ子」
「そのせいですかねぇ……」
「なにがです?」
「ぼんやりのんびりしているところです。私はあなたのもう一つの顔を知っていますが、とても同一人物とは思えないくらい、今のあなたは無防備です」
「……」
もう一つの顔とは、「異色虹彩の狙撃手」のミズキだ。
「もう一つの顔ってなんだよ。こんな女の子みたいにのんびりしてる子が、何か違う一面を持ってるのかい?」
「ええ、本気のミズキはこんなにのんびりしていません。とても美しいのです」
「本気? へえ、何の本気を出したら化けるのさ?」
ジュリアが横から口をはさんでくる。彼女はミズキに興味津々のようだった。
だがミハイルがと唇に人差し指を立て「これは私だけの秘密なのです」と誤魔化す。
肉親をディスタンシアに暗殺されたジュリアが、ミズキの正体を知ったら、きっとひどく傷つくだろう。
これはミハイルの配慮なのだと、ミズキは直感したが、逆にジュリアの興味をさらにかきたててしまった。ジュリアはあれこれとミハイルにミズキのことを質問攻めにしていたが、ミハイルは首をゆっくりと横に振った。
「教えません。下手に教えて、ミズキを取られたくありませんからね」
「兄貴、本当にミズキのこと好きだよな」
グスタフがからかうと、ミハイルはにやりと意味ありげに笑った。
「ええ、好きですよ。ミズキは私のものなんです。だから誰にもミズキのことは教えない。本当なら、あなたたちにも見せたくないくらいだ」
ミハイルはそういってミズキを椅子ごと自分の方に引き、肩を抱き寄せた。
「彼は、私だけのもの」
「中将どの……?」
彼の身体の熱を感じ、心臓がとくんと切なく跳ねる。ふわりと抜けるフレグランス。彼の匂い。
脳裏を過るのは淫らな身体検査の夜。あの時彼は「自分を嫌いになれ」と言ったはずなのに。
なのになぜ、こうしてミズキに触れるのか。
どうしていいかわからなくなる。このまま身体を預けてもいいのか、それとも?
戸惑うミズキをよそに、グスタフとジュリアが大笑いする。
「ミズキ、あんた本気にしたらダメだよ。そういう男は人をだますことに長けてる。あんたが女の子だったら、もう騙されてるところだよ」
「兄貴、ミズキが恥ずかしがってるぜ。耐性のない奴をからかうなよ」
げらげらと笑う二人に、ミハイルは「まったく言ってくれますね」と呆れたようにため息をついていたが、ミズキを抱き寄せる腕の力は強かった。
「……私は本気なのに」
彼のつぶやきは、腹を抱えて笑っている二人には聞こえない。
だがミズキにははっきりと聞こえた。その声が獰猛さと情炎の熱を秘め、ミズキのすべてを捕らえている。
――動けない。
それでも勇気を出してミハイルを仰ぎ見る。彼の涼やかな瞳と真正面からぶつかるが、目をそらすこともできなかった。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
「あなたを逃がしませんよ、絶対に」
抱き寄せたミハイルの腕がミズキの頭を愛おしく撫でる。
とんでもない激情にも似たその静かな感情が何か、ミズキにはまだわからないでいた。
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