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#28 実行
#28ー1
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夜が更け、ミハイルは暗い自室にいた。
今夜は天気がいい。割れた窓からは冬の清冽な空気が部屋に入り込み、漆黒の夜空に輝く星たちの瞬きがくっきりと見えた。光が強いものもあれば、弱い星もある。それは個性か、決められている寿命か。
もしも寿命だとするなら、ミズキの命もあの弱々しく必死に輝く星のように違いない。
たった3日か4日そこらだというのに、もう何年もミズキに会っていない気がする。
早く彼をこの腕に取り戻さなければーーあせるほどに時間だけが過ぎてゆく。
夕方、ジュリアから電話があった。いつも通りの夕食の配達だが、今日は寮にはいない、外にいるから夕食はいらないと、義姉の心遣いを断った。
今のジュリアは気持ちが安定していない。老獪の駒になっている恐れが高いと判断したためだ。
部屋の時計が柔らかいメロディーを奏でる。午後9時だ。
「さて、ミズキを迎えに行きましょうかね」
ミハイルは愛用のハンドガンの弾数を確認し、腰のホルダーにしまった。
刺し違える覚悟で海軍のトップに歯向かうのだ。失敗すればミハイルは懲罰となるか、最悪その場で射殺されてしまう。
かつてミハイル自身が軍律を破った者を粛清してきたように。
そんな闇路に、かわいい弟を巻き込むわけにはいかない。
長兄が死に、自分もいなくなれば、ブライデンの名を継ぐ者がいなくなる。
グスタフは無茶が過ぎるが、もういい大人だから、きっと軍で名を上げていくだろう。
暗い部屋の中、ミハイルの目がベッドのあたりで止まった。
『もし戦犯でなかったら、ずっと僕のそばにいてくれる?』
布団から顔を少しだけ出してミハイルに訊いたミズキを思い出す。少し不安げで、でもどこか嬉しそうだった二色の瞳。ベッドの中が彼のセーフティゾーンだった。
そんなことを思いだし、ミハイルの口元がふっと緩む。
「今日でここも見納めかもしれませんね……」
戦犯を罰するべき側にいるはずなのに、その相手に会いたくてたまらない。
己の内に秘める想いが、感情が、ミズキを求めてしまっている。
「ミズキ……」
身体も繋げた。でもそれは互いに気持ちの通ったものではない。
ミハイル自身が、この腕に自分の感情を露わにしてミズキを抱けるのはこの部屋だけだ。
処刑されて冷たい骸となっては、もうこの手にミズキを抱くことはできない。
陸軍の上級大将の立場であるミハイルには、クラリスの血を持ちながら、クラリスに多大な損害を与えた、国家反逆罪にも等しい罪人を好きになることは許されない。
だから、この部屋で身体を繋げた。
錯乱したミズキの様子から察するに、男に抱かれることはおそらくミズキが一番嫌がることだと思っても、彼を確かに手に入れたという実感を得たかった。
ミズキが自分を嫌いになれば、その恋心は瓦解したも同然。それでこの恋は終わりだと何度も言い聞かせたのに、ミズキの身体の中へ自分の命を注いでみたかった。
だが、ミズキへの恋心は妄執を内に孕んで、彼を求めてさまよっている。
老獪はミズキが死んでもやむなしと考えているのだろうが、些かそのやり方が不審極まりない。どうしても浮かんでしまうのが、老獪がミズキを抱いているのではないかという不安だ。
こんな気持ちのまま、ミズキを失えない。
ミズキの記憶の最期に映る影も自分ではなくては――。
ドアを静かに開け、そっと閉じる。窓が割れているから外から侵入し放題だが、それでも一応音を立てないように気を付けて鍵をかける。
(さあ、行きましょう)
一歩踏み出した時だ。
「兄貴、約束が違うじゃん」
聞きなれた声にびくりとする。
ゆっくり後ろを振り返ると、グスタフがドアのすぐそばの壁に凭れ掛かっていた。
「グスタフ……あなた、いつからそこに?」
「ずっとここにいたさ。注意深く部屋から出てきた割にはぼんやりしてたみたいだな。こんな目立つところにいる俺に気付かないなんて」
彼は怒っていた。腕を組んで、無表情。憮然と物を言い放つ。
「部屋主がこんなのんびりしているんじゃ、老獪もここを攻めやすかっただろうさ。ミズキが奪われたのも納得だな」
「グスタフ……」
「俺も連れてってくれるって言ったよね? 兄貴。ミズキのところに行くんだろ」
ミハイルは黙って頷くと、グスタフの目を真っ直ぐに見据えた。
「……相手は老獪です。私は刺し違える覚悟で行くのです。海軍のトップに刃向かうのですから、失敗すれば私は銃殺されるでしょう。もちろん、私についてきた人間も」
「兄貴……」
「過去に私は軍律を破った者にそのような対処をしてきました。敵はもちろん、軍律のもと、味方を多く殺した。だから私は黒衣の悪魔と呼ばれた。私は、かつて私が粛清してきた者たちの仲間入りをしようとしているのです。そこにあなたを同道させるわけにいかない」
「兄貴、でも」
「わかったら戻りなさい。あなたはまだ若い。未来がある。罪人に心を奪われた私などに構う必要はありません」
「何カッコつけてんだよ」
グスタフは肩に反動をつけて、凭れた姿勢を正すと、ミハイルの肩を掴んだ。
「死ぬの覚悟で罪人取り戻す? それで俺だけ生き残れって? 兄貴がそんな風に命を落としたら、遺された俺はどうなる?」
「あなたなら一人でも生きていけます」
「死ぬよりつらい目に遭う俺のことは考えてくれないのかよ?」
グスタフの言わんとしていることはよくわかる。ミハイルが反逆者として粛清されれば、このあとの彼の人生が滅茶苦茶になる。そう言いたいのだ。
グスタフが騒動に加担しなかったとしても、他人はそうは思わない。
おそらく軍の中で、グスタフは陰口を叩かれるだろう。
『兄貴があんなことをしたのに、よくでかい顔で軍にいられるよな』
グスタフはきっと、そのことを気にしているのだ。
どのみち巻き添えになるであろう、大事な弟の顔をまともに見られない。自分の勝手で、彼の人生までも台無しにしようとしているのだ。
ミハイルは俯いて「すみません、グスタフ」と謝った。
――だが。
「謝るくらいなら、俺も連れていけよ」
「グスタフ……?」
「このまま兄貴を行かせて、結果、ミズキも兄貴も失くしたら、俺はこの瞬間のことをあとで一生後悔する」
「えっ……?」
その言葉にハッとして顔を上げる。
「あなた、軍における今後の自分のことを心配しているのではなかったのですか」
「そんなもん心配なんかしねー。軍を辞めたとしても他で働く。体力には自信あるしさ。俺はただ、今ここで兄貴を見送ることで、二人も大切な人を失くしたくないだけだ」
「グスタフ……」
「ジュリアだってそうだ。なんやかんや言ったって、ジュリアだってミズキのことを気に入ってる。俺たちはこの先もずっと一緒にいる。俺はそう決めたんだ!」
この先もずっと一緒にいる。その言葉がミハイルの心にすとんと落ちた。
それはかつて、ミズキが目を輝かせて、ミハイルに聞いた未来だ。ミズキにした約束すら守れないかもしれないのに、グスタフまで巻き込むことに激しい罪悪感を覚えてしまう。だから、グスタフを連れていけないのに。
「場所なんかどこだっていい。全員一緒なら、俺はどこにだって行く。もしも俺の行く先が処刑台でも、兄貴とミズキが助かるならそれでもいい。もういっそのこと、全員仲良く処刑台ってのも悪くない。俺たちはこの先、互いの手を絶対に離さないようにするんだ」
「グスタフ……」
「だから兄貴、俺も連れて行け」
「でも……」
「俺だけ仲間外れにすんなよ!!」
悲鳴にも似た、グスタフの感情が爆発する。
突然に強い力で引き寄せられたと思ったら、ミハイルはグスタフの腕の中にいた。
気がつけば、グスタフの背は自分のそれを超えている。大きくなったやんちゃな弟は、ミハイルをきつく抱きしめ、声を震わせていた。
「兄貴はいつもそうだ。なんにも言わないで、危ないことはいつも自分が先陣をきる。俺を危険な目に遭わせないようにしてくれる。嬉しいけど、もうイヤなんだよそんなの。肝心なときに俺だけ何もできないなんて……。俺だけ置いていくなよ、兄貴……」
「グスタフ、あなた……」
「俺も行く。ミズキ助けに俺も行かせろ。行くったら行くんだからなっ!」
「……死ぬかもしれませんよ」
「かまわねえ。どうせ俺は兄貴に一回殺されてる」
「どういうことです?」
グスタフを亡き者寸前までしばき倒した事は何度もあるが、亡き者にしたことはないはずだ。
「兄貴覚えてねえの? ミズキを初めて連れてきたとき、俺を裏切り者の死んだ人設定にしただろ」
「ああ、そんなこともありましたね……」
孤立無援だとミズキに印象づけるため、クラリスに手引きしたグスタフを殺して、遺体を犬の餌にしたと言った。
「でも今度は設定では済みません。本当に命を落とす危険がありますよ。グスタフ、あなたそれでいいんですね?」
念押しするようにグスタフに意思を確認する。
「もちろん。もとよりそのつもりだ」
「あなたは本当に……後先考えないやんちゃ坊主ですね」
ミハイルが苦笑すると、グスタフは漸く身体を離した。
「連れてってくれるのか!?」
「仕方ありません」
「やった!」
小躍りしそうなほどにグスタフは大喜びだ。
「静かになさいグスタフ。夜ですよ。さあ時間がない。ミズキのところに行かなければ」
「そうだな。あいつ元気にしてると良いけどな」
「本当に」
グスタフはミハイルの1歩前を歩き出す。
「でもね、グスタフ……」
ミハイルが歩みを止め、グスタフも何事かと振り返る。
「なに兄貴、なんか忘れ物?」
「ええ、大切なことを忘れました」
言うや否や、ミハイルはわずかに身構えると、右手で拳を作り、そのままグスタフに飛びかかる。
勢いごと固く握った拳をグスタフの腹に深く沈めた。
「兄貴………?」
グスタフの身体からふわっと力が抜け、足下から崩れるようにミハイルへと頽おれてくる。
「ごめんなさいね、グスタフ…」
意識をなくした弟の身体を受け止めると、ミハイルはグスタフの頭を優しく撫でる。
「やっぱり、あなたを連れていけない」
これは自分の勝手でやることだ。
「ミズキが来てから、あなたは頼もしい男に成長した。そんなあなたなら、私がいなくても大丈夫」
自分の中でどんどん枝葉を広げる、とめどない恋心。その代償になるものを考えれば、グスタフを連れていけない。
「グスタフ、ごめんなさい。バカな兄を許してくださいね」
グスタフの耳元で、何度も何度も謝罪を述べる。謝っても謝りきれないのはわかっている。
兄としてグスタフに残してやれる物なんか何もない。
ならせめて、その命を存分に輝かせてほしい。
今のミハイルに出来る、最大の思いやりはそれしかなかった。
******
そこに予感が何もなかったと言えば嘘になる。ミハイルは地下への道を慎重に進みながら、考えていた。
ヴィルヘルムと共に行かなかったのは、あまりにもそこまでの道のりが簡単すぎたからだった。
あの老獪が人払いまでしている割には、ヴィルヘルムがミハイル、グスタフという、ミズキに関連のある人間を先導していることにも違和感を感じたし、何より静かすぎた。
そのくせ、歩哨は重装備兵だった。
ヴィルヘルムは嘘をつくのがうまい男ではないが、わずかでも自分の心に違和感を感じたなら、その行動は一度立ち止まってみた方がいい。
かつて、アルベルトから言われたことだ。
そして、今までそうしてきて間違えたことはない。
相手が強大であればあるほど、心に生じる僅かな違和感を見過ごせない。
足元を掬われるときは本当に一瞬だ。しかも失敗すればやり直しもきかないし、失敗するときなんてのは、その環境、目にした現状、自らの気持ちの3つが不協和音を奏でている時だ。
作戦自体もコンパクトでなければならない。昼間の人数では多すぎる。
昼間は賑わう庁舎内も、夜遅くなると人もまばらだ。昼間では気づかない音が聞こえる。どこかの部屋のセキュリティパスの信号音、防犯カメラの作動音。
軍のセキュリティの全てがミズキを取り戻しに行く自分の肚を知って、目を向けている気がしてならない。
尋問室がある地下室へ行く道は一本通路だ。不当な方法で脱出すれば、隠れる場所もない通路を走り抜けるしかない。拷問込みの苛烈な取り調べが行われること前提の施設だから、地下はかなり深い。万が一の脱走対策として、エレベーターやエスカレーターもなく、上り下りは階段を使うしかない。
地下へと降りていく自らの足音がやけに響く。今までに築いてきたすべての物を壊す一歩が、この廊下の静謐を切り裂いていく。
クラウスが素直にミズキ返還に応じてくれればいいが、そうでない恐れの方が高い。
おかしなものだ。すべてを失っても、ミズキが欲しいと思うなんて。
尋問室が並ぶゲートをくぐる。さすがのクラウスもここまではセキュリティを変えてはいなかったようだ。そのままゆっくりと歩いて、突き当たりを右に曲がれば、この尋問室の最奥部だ。最奥部の造りはほかの部屋と違って、扉が二重になっている。そこは凶悪な罪人を取り調べる特別室だ。
昼間、ヴィルヘルムとともに来た、最奥の部屋に足を向ける。
そこにはやはり歩哨が一人立っている。しかし歩哨は、海軍の通常勤務服を着ていた。
昼間来たときに立っていたのは重装備兵だ。むしろ警備を強化するなら、人の多い昼間よりも夜間であろうと思うのに、ずいぶんと歩哨の装備に差がある。
重装備兵が相手なら、銃器を持ってきてもそう簡単には通してもらえない。昼間に襲撃を掛けたとしたなら、庁舎中が大騒ぎになっていたことだろう。
「まさか、私たちが来ることを老獪が知っていたとかないですよね……?」
考えたくはないが、ヴィルヘルムがミハイルに一計を案じたのかとすら思うほどだ。
呼吸を整え、突き当たりに向かって歩き出す。歩哨がミハイルの姿を見て、姿勢を正し敬礼をする。
「これはブライデン上級大将。お疲れ様であります!」
「こんばんは。この部屋に用があって来たのですが通してもらえませんか?」
「申し訳ありません大将。この部屋には猫の子1匹も通すなと、海軍大将から言われております。いくら陸軍のトップとはいえ、お通しできません」
「職務に忠実なのは良いことです。ここにいるのは件の異色光彩の狙撃手ですよね。私はその戦犯に関する証拠品を持ってきたのです」
言いながらミハイルは襟の隙間からボールチェーンに通されたキャラメルくらいの大きさの、薄く小さな板のようなものを取り出した。それはミズキの胸に埋められたクリスタライズのスイッチだ。
それを歩哨にちらつかせながら、ミハイルは大げさに溜息をついた。
「大変に重要な証拠品なので、こうして肌身離さず管理をしなければなりません。クラウス大将に渡して、ようやくその面倒な仕事から解放されると喜んでここに来たのに」
「重要な証拠品であるならば、私が責任をもって海軍大将にお渡し致します。さ、お預かりします」
「重要であるが故、クラウス大将に直に渡さなければならないのです。大変に重要なものですから」
「陸軍大将殿……」
歩哨の声のトーンが、何かを探るような低い声に変わった。
「重要な証拠品と言いますが、それはいったい何ですか?」
「答える必要はありません」
「失礼ながら、あなたは戦犯を捕らえておきながら、かなりの期間、尋問も何も実施をしなかったと聞いております。そのあなたがこんな夜更けにやってきて、戦犯を捕らえている部屋に入りたがっている。我々はどうしても、あなたが戦犯を逃がしに来た……そうとしか思えない」
この兵にもクラウスの息がかかっているか。ミハイルを疑ってかかっている。
「陸軍大将殿、それは何の証拠品ですか? お答えいただこう」
おそらくクラウスから『絶対にミハイルを通すな』と厳命されているのだろう。
だが、こんな抵抗は織り込み済みだ。
ミハイルは歩哨の顔を真っ直ぐ見据えた。
「貴殿の階級は? 仮にも私は陸軍上級大将です。言葉遣いに気をつけなさい」
切れ味鋭いミハイルの眼光を正面から受け、歩哨の兵士はばつが悪そうに視線をそらせた。
「しかし……」
「この証拠品が何か知りたがっていましたね? これはミズキ・ブランケンハイムが胸に抱えている爆薬のスイッチですよ」
「爆薬……?」
爆薬と聞いて、歩哨は驚愕に目を大きく開いた。
「クリスタライズ。聞いたことがあるでしょう。ディスタンシアの兵士が持っている、最後のプライドですよ」
「それは本当に本物なのですか?」
「ブラフだというのですか?」
「本物かどうかはわかりませんし……」
「間違いなく本物です。だからこそ、クラウス大将ご本人に確実に渡す必要があるのです。何かの間違いで爆発しても困りますからね」
それでも歩哨はまだ疑い深い目でミハイルが持っているスイッチを凝視している。
「試してみてもいいですよ。ただし、これを押せば戦犯の爆薬が爆発します。まちがいなくこの建物は崩壊するでしょう。あなたが疑ったばかりに、クラリス軍が壊滅する。中の戦犯が犯した罪よりも重くなるでしょうね」
「えっ……」
「未来永劫、子々孫々、あなたの一族がこの国にはいられなくなるような武勇伝が、永久に語り継がれることになるでしょう」
ミハイルがスイッチ部に親指を掛ける。
「スイッチを押せばおよそ1分後に爆発します。逃げるなら全速力で逃げなさい」
「ちょっとまってください、大将。自分はその……」
「本物であることを証明しろと要求したのはあなたですよ。さあ、覚悟はよろしいですか」
「――わかりました。こんなところでクリスタライズを起動されてはかなわない」
歩哨は降参し、両手を上げた。
「ただし、あなたの来訪を、海軍大将に報告させていただきます」
「ということは、彼は今、中にはいない?」
「すぐ戻るかとは思いますが……」
歩哨は時計をちらりと見た。
「戦犯の食事をとってくると言って出て行かれました」
「食事? 担当者が運んでくるのではないのですか?」
取り調べ中に部屋の中に罪人を一人だけにできないため、クラリス軍では尋問中に食事を提供する場合は、食事を担当する兵が運んでくる規則になっている。
独房に入っている場合は独房の受け取り口に食事が来る。罪人たちは受け取り口を介して外から差し入れられた食事を、室内で受け取って食事を摂るようになっている。
どちらの場合も、必ず監視がついている。少しでもあやしい動きをすれば、兵士がなだれ込んできて、わずかな量の食事をとりあげて身体検査ののち、懲罰が始まる。
だからミハイルも、自室でなるべくミズキをひとりにさせなかった。自分がいないときはグスタフに監視兼話し相手を頼んでいた。これもミハイルなりに規則に法ったからだが。
それなのにクラウスは、ミズキを部屋に一人残している……。
「中に戦犯を一人にして大丈夫なのですか? 規則と違うようですが」
「そのために私がいるのです。戦犯が仮に逃げ出しても、この入口を抜け出ることはできません。そもそもロック自体が外からしか外せませんし」
「ふうん……」
クラウスはずいぶんとミズキを自由にさせているようだ。そんなに寛容な男ではなかったはずだが、いったいどうして……
胸騒ぎばかりが打ち上げ花火のようにどんどん上がっては、疑問で彩られた花を咲かせる。
「クラウス大将は戦犯に何を与えていますか?」
「食事ですか」
「ええ。彼に何を食べさせているんです?」
「栄養剤ですよ」
「栄養剤?」
そんなにクラウスの尋問は苛烈なのか。口から食事を摂れないほど、ミズキは衰弱してしまっているのか。
もともとミズキは食が細い。
ディスタンシアにろくに食べ物がないのも理由の一つだが、これも隠密行動を強いられる狙撃手の宿命だ。普通に食事を摂った分は消化されて外に排出されることから、少ない量で作戦中もたせるような我慢が身についてしまっていた。
ジュリアが夕食を持ってきた際は、全部食べないとジュリアが「だからあんたはチビなんだよ」と怒るので、ミズキは時間を掛けてゆっくりと食事を完食させていたが、食べた後は「おいしかったけど、苦しいな」とベッドで横になっていることが多かった。
狙撃とは、最小限で最大の効果を出す隠密行動だ。狙撃手はその1発で敵を確実に殺害しなければならない。
狙撃手がそこにいたことを敵に知られては、狙撃銃を構える前に逆に殺されてしまう。
ひとたび作戦が始まれば、自分の痕跡を排泄物に至るまで一切残さず、音もなく敵に近づいて仕留めなければならない。狙撃手はその一撃のために、我慢しなければならないことが多いのだ。
ミズキは幸いなことに嫌いなものはあまりないが、狙撃手として生きてきた長年の癖で量を一度にとれないので、ミハイルはよくミズキにクッキーやチョコレートなど、一口で食べられて、舌もお腹も満足するような甘いおやつを食べさせていた。
甘いものはカロリーが高く、少ない量で気持ちも安らぐ。おやつはミズキの身体的、精神的な疲弊を和らげるためもあった。
ミハイルの部屋で暮らすようになってから、ミズキは平然を装って空腹を我慢していたが、よくお腹が切ない音を立てていた。
ディスタンシアで甘いものなどほとんど口にしなかったミズキは、たったひとかけのチョコレートを前歯で2つに割って、一つずつ口に含んでゆっくり時間を掛け、アメを舐めるように食べていた。
クラリスの小さい子供ですら、そんなチョコレートの食べ方をしない。
『ミズキ。まだチョコレートが欲しいならおかわりがありますよ』
呆れてミハイルが追加を出そうとすると、ミズキは首を横を振った。
『ううん。僕、これだけでいい。あまり食べると、すぐトイレに行きたくなるから』
『あなたはもうクラリス軍に捕まっているのです。狙撃手として出撃することはもうありませんよ。今のあなたがなすべきことは、体力の回復です。食べたいものがあるなら遠慮なくおっしゃい』
『うん……でも、こんなに甘くておいしいものは大事に食べないと……』
生まれて初めて口にしたであろう、褐色のかけら。クラリスでは当たり前にある安価なお菓子。ミズキが欲しがるなら、箱で買ってきたってその値段はしれている。
なのに、ミズキときたらその甘さに目を丸くし、笑みをこぼしてチョコレートを大切に食べていた。そんなことをふっと思い出す。
そのミズキに、栄養剤が投与されているなんて――。
「戦犯はそれほどまで疲弊が激しいのですか」
ミハイルが訊ねると、歩哨はニヤリと笑った。
「栄養剤ってのは麻薬ですよ、麻薬」
「麻薬ですって?」
「あれは眠気も来ないし、腹も減らない。身体は疲弊しているのに、眠ることができないのです。大将に言わせると、戦犯は素直でないうえに口が堅いので、自供させるためには仕方がない、と……。喋るまでは眠らせないと言っていました。ですが投与すると、戦犯は素直になり、何でもしゃべるらしいのです」
「普通の固形物は与えているのですか」
「パンや牛乳を持ち込んでいるようですから、食べてはいるんでしょう」
「そうですか……」
目の前の歩哨を殴り倒してやりたい気持ちを抑え、なんとか平静を装う。
やはりクラウスは薬を使っていたか。嫌な予感が的中してしまった。
もともと、ミハイルよりひどい手法で拷問をする男だと軍では知られている。
一日の調べが終わり、朝になって房を覗いてみると、罪人が冷たくなっていたなんて話は、海軍でよく聞く話だ。
ミハイルのように用件を聞きだしたのち、速やかに処刑なり懲罰なりするのではなく、丘に打ち上げられた魚が、酸素不足で徐々に弱って死んでいくようなやり方をクラウスは採る。
最後の最後まで苦しみ抜いて、命が限界を叫ぶ。クラウスと言う男は、罪人をゴミか何かにしか思っていない。ミズキもどうやら同じように扱われているようだ。
いったいいつから、またどれくらいの量の麻薬を投与されているのか。不安だけが大きくなる。
もしかしたら、もう真っ当な思考ができない程に、脳を壊されているのかもしれない。
「鍵を開けてもらえますか。中で大将を待たせてもらいましょう」
「戦犯を連れて逃げ出すつもりではありませんよね?」
「はい?」
「その際は、私にどうぞ一声おかけください」
歩哨がまた疑惑に満ちた視線をミハイルに投げ、腰にぶら下げていたハンドガンを取り出した。逃げだしたらわかっているだろうな――無言の圧力だ。
ミハイルははははと笑い、その目を据わらせた。
「言葉に気をつけなさい。あなたが手にした銃で、その顎を叩き割ってもいいのですよ。さすれば、あなたも少しは大人しくなるでしょうか?」
「……え」
「私は陸軍上級大将です。さっきからのその物言い、本来ならば不敬罪です。クラウス大将の株が下がりますよ。この件、海軍大将が来たら報告しておきましょう。軍を失職したくなければ、さっさと私の用件を通しなさい」
歩哨は冗談のつもりだったのだろうが、いささかエスプリの癖が強すぎたようだ。
「も、申し訳ありません!」
地味にミハイルを怒らせたことに気づき、あわてて最敬礼をとると、そのまま持っていたカードキーで尋問室のセキュリティを外す。
ピッと音がして、ドアのそばの装置のランプが赤から青に変わる。ドアの中でガシャンと重い金属音が静かな通路に響いた。
「ご苦労。では入らせてもらいますよ」
この部屋には二枚の扉がある。1つ目の重く厚い鉄の扉を押し開くと、すぐ前に強化防弾ガラスで作られた2枚目の扉が現れる。このガラスのドアはクリアガラスとすりガラスに切り替えができる仕掛けになっているが、今はすりガラスになっていて室内の様子は開けてみないとわからない。
「ミズキ……」
ミハイルは扉のノブに手をかけた。
この部屋の中にミズキがいると思うと、胸が高鳴る。
どんな姿でもいい。
ミズキが生きていてくれさえすれば。
今夜は天気がいい。割れた窓からは冬の清冽な空気が部屋に入り込み、漆黒の夜空に輝く星たちの瞬きがくっきりと見えた。光が強いものもあれば、弱い星もある。それは個性か、決められている寿命か。
もしも寿命だとするなら、ミズキの命もあの弱々しく必死に輝く星のように違いない。
たった3日か4日そこらだというのに、もう何年もミズキに会っていない気がする。
早く彼をこの腕に取り戻さなければーーあせるほどに時間だけが過ぎてゆく。
夕方、ジュリアから電話があった。いつも通りの夕食の配達だが、今日は寮にはいない、外にいるから夕食はいらないと、義姉の心遣いを断った。
今のジュリアは気持ちが安定していない。老獪の駒になっている恐れが高いと判断したためだ。
部屋の時計が柔らかいメロディーを奏でる。午後9時だ。
「さて、ミズキを迎えに行きましょうかね」
ミハイルは愛用のハンドガンの弾数を確認し、腰のホルダーにしまった。
刺し違える覚悟で海軍のトップに歯向かうのだ。失敗すればミハイルは懲罰となるか、最悪その場で射殺されてしまう。
かつてミハイル自身が軍律を破った者を粛清してきたように。
そんな闇路に、かわいい弟を巻き込むわけにはいかない。
長兄が死に、自分もいなくなれば、ブライデンの名を継ぐ者がいなくなる。
グスタフは無茶が過ぎるが、もういい大人だから、きっと軍で名を上げていくだろう。
暗い部屋の中、ミハイルの目がベッドのあたりで止まった。
『もし戦犯でなかったら、ずっと僕のそばにいてくれる?』
布団から顔を少しだけ出してミハイルに訊いたミズキを思い出す。少し不安げで、でもどこか嬉しそうだった二色の瞳。ベッドの中が彼のセーフティゾーンだった。
そんなことを思いだし、ミハイルの口元がふっと緩む。
「今日でここも見納めかもしれませんね……」
戦犯を罰するべき側にいるはずなのに、その相手に会いたくてたまらない。
己の内に秘める想いが、感情が、ミズキを求めてしまっている。
「ミズキ……」
身体も繋げた。でもそれは互いに気持ちの通ったものではない。
ミハイル自身が、この腕に自分の感情を露わにしてミズキを抱けるのはこの部屋だけだ。
処刑されて冷たい骸となっては、もうこの手にミズキを抱くことはできない。
陸軍の上級大将の立場であるミハイルには、クラリスの血を持ちながら、クラリスに多大な損害を与えた、国家反逆罪にも等しい罪人を好きになることは許されない。
だから、この部屋で身体を繋げた。
錯乱したミズキの様子から察するに、男に抱かれることはおそらくミズキが一番嫌がることだと思っても、彼を確かに手に入れたという実感を得たかった。
ミズキが自分を嫌いになれば、その恋心は瓦解したも同然。それでこの恋は終わりだと何度も言い聞かせたのに、ミズキの身体の中へ自分の命を注いでみたかった。
だが、ミズキへの恋心は妄執を内に孕んで、彼を求めてさまよっている。
老獪はミズキが死んでもやむなしと考えているのだろうが、些かそのやり方が不審極まりない。どうしても浮かんでしまうのが、老獪がミズキを抱いているのではないかという不安だ。
こんな気持ちのまま、ミズキを失えない。
ミズキの記憶の最期に映る影も自分ではなくては――。
ドアを静かに開け、そっと閉じる。窓が割れているから外から侵入し放題だが、それでも一応音を立てないように気を付けて鍵をかける。
(さあ、行きましょう)
一歩踏み出した時だ。
「兄貴、約束が違うじゃん」
聞きなれた声にびくりとする。
ゆっくり後ろを振り返ると、グスタフがドアのすぐそばの壁に凭れ掛かっていた。
「グスタフ……あなた、いつからそこに?」
「ずっとここにいたさ。注意深く部屋から出てきた割にはぼんやりしてたみたいだな。こんな目立つところにいる俺に気付かないなんて」
彼は怒っていた。腕を組んで、無表情。憮然と物を言い放つ。
「部屋主がこんなのんびりしているんじゃ、老獪もここを攻めやすかっただろうさ。ミズキが奪われたのも納得だな」
「グスタフ……」
「俺も連れてってくれるって言ったよね? 兄貴。ミズキのところに行くんだろ」
ミハイルは黙って頷くと、グスタフの目を真っ直ぐに見据えた。
「……相手は老獪です。私は刺し違える覚悟で行くのです。海軍のトップに刃向かうのですから、失敗すれば私は銃殺されるでしょう。もちろん、私についてきた人間も」
「兄貴……」
「過去に私は軍律を破った者にそのような対処をしてきました。敵はもちろん、軍律のもと、味方を多く殺した。だから私は黒衣の悪魔と呼ばれた。私は、かつて私が粛清してきた者たちの仲間入りをしようとしているのです。そこにあなたを同道させるわけにいかない」
「兄貴、でも」
「わかったら戻りなさい。あなたはまだ若い。未来がある。罪人に心を奪われた私などに構う必要はありません」
「何カッコつけてんだよ」
グスタフは肩に反動をつけて、凭れた姿勢を正すと、ミハイルの肩を掴んだ。
「死ぬの覚悟で罪人取り戻す? それで俺だけ生き残れって? 兄貴がそんな風に命を落としたら、遺された俺はどうなる?」
「あなたなら一人でも生きていけます」
「死ぬよりつらい目に遭う俺のことは考えてくれないのかよ?」
グスタフの言わんとしていることはよくわかる。ミハイルが反逆者として粛清されれば、このあとの彼の人生が滅茶苦茶になる。そう言いたいのだ。
グスタフが騒動に加担しなかったとしても、他人はそうは思わない。
おそらく軍の中で、グスタフは陰口を叩かれるだろう。
『兄貴があんなことをしたのに、よくでかい顔で軍にいられるよな』
グスタフはきっと、そのことを気にしているのだ。
どのみち巻き添えになるであろう、大事な弟の顔をまともに見られない。自分の勝手で、彼の人生までも台無しにしようとしているのだ。
ミハイルは俯いて「すみません、グスタフ」と謝った。
――だが。
「謝るくらいなら、俺も連れていけよ」
「グスタフ……?」
「このまま兄貴を行かせて、結果、ミズキも兄貴も失くしたら、俺はこの瞬間のことをあとで一生後悔する」
「えっ……?」
その言葉にハッとして顔を上げる。
「あなた、軍における今後の自分のことを心配しているのではなかったのですか」
「そんなもん心配なんかしねー。軍を辞めたとしても他で働く。体力には自信あるしさ。俺はただ、今ここで兄貴を見送ることで、二人も大切な人を失くしたくないだけだ」
「グスタフ……」
「ジュリアだってそうだ。なんやかんや言ったって、ジュリアだってミズキのことを気に入ってる。俺たちはこの先もずっと一緒にいる。俺はそう決めたんだ!」
この先もずっと一緒にいる。その言葉がミハイルの心にすとんと落ちた。
それはかつて、ミズキが目を輝かせて、ミハイルに聞いた未来だ。ミズキにした約束すら守れないかもしれないのに、グスタフまで巻き込むことに激しい罪悪感を覚えてしまう。だから、グスタフを連れていけないのに。
「場所なんかどこだっていい。全員一緒なら、俺はどこにだって行く。もしも俺の行く先が処刑台でも、兄貴とミズキが助かるならそれでもいい。もういっそのこと、全員仲良く処刑台ってのも悪くない。俺たちはこの先、互いの手を絶対に離さないようにするんだ」
「グスタフ……」
「だから兄貴、俺も連れて行け」
「でも……」
「俺だけ仲間外れにすんなよ!!」
悲鳴にも似た、グスタフの感情が爆発する。
突然に強い力で引き寄せられたと思ったら、ミハイルはグスタフの腕の中にいた。
気がつけば、グスタフの背は自分のそれを超えている。大きくなったやんちゃな弟は、ミハイルをきつく抱きしめ、声を震わせていた。
「兄貴はいつもそうだ。なんにも言わないで、危ないことはいつも自分が先陣をきる。俺を危険な目に遭わせないようにしてくれる。嬉しいけど、もうイヤなんだよそんなの。肝心なときに俺だけ何もできないなんて……。俺だけ置いていくなよ、兄貴……」
「グスタフ、あなた……」
「俺も行く。ミズキ助けに俺も行かせろ。行くったら行くんだからなっ!」
「……死ぬかもしれませんよ」
「かまわねえ。どうせ俺は兄貴に一回殺されてる」
「どういうことです?」
グスタフを亡き者寸前までしばき倒した事は何度もあるが、亡き者にしたことはないはずだ。
「兄貴覚えてねえの? ミズキを初めて連れてきたとき、俺を裏切り者の死んだ人設定にしただろ」
「ああ、そんなこともありましたね……」
孤立無援だとミズキに印象づけるため、クラリスに手引きしたグスタフを殺して、遺体を犬の餌にしたと言った。
「でも今度は設定では済みません。本当に命を落とす危険がありますよ。グスタフ、あなたそれでいいんですね?」
念押しするようにグスタフに意思を確認する。
「もちろん。もとよりそのつもりだ」
「あなたは本当に……後先考えないやんちゃ坊主ですね」
ミハイルが苦笑すると、グスタフは漸く身体を離した。
「連れてってくれるのか!?」
「仕方ありません」
「やった!」
小躍りしそうなほどにグスタフは大喜びだ。
「静かになさいグスタフ。夜ですよ。さあ時間がない。ミズキのところに行かなければ」
「そうだな。あいつ元気にしてると良いけどな」
「本当に」
グスタフはミハイルの1歩前を歩き出す。
「でもね、グスタフ……」
ミハイルが歩みを止め、グスタフも何事かと振り返る。
「なに兄貴、なんか忘れ物?」
「ええ、大切なことを忘れました」
言うや否や、ミハイルはわずかに身構えると、右手で拳を作り、そのままグスタフに飛びかかる。
勢いごと固く握った拳をグスタフの腹に深く沈めた。
「兄貴………?」
グスタフの身体からふわっと力が抜け、足下から崩れるようにミハイルへと頽おれてくる。
「ごめんなさいね、グスタフ…」
意識をなくした弟の身体を受け止めると、ミハイルはグスタフの頭を優しく撫でる。
「やっぱり、あなたを連れていけない」
これは自分の勝手でやることだ。
「ミズキが来てから、あなたは頼もしい男に成長した。そんなあなたなら、私がいなくても大丈夫」
自分の中でどんどん枝葉を広げる、とめどない恋心。その代償になるものを考えれば、グスタフを連れていけない。
「グスタフ、ごめんなさい。バカな兄を許してくださいね」
グスタフの耳元で、何度も何度も謝罪を述べる。謝っても謝りきれないのはわかっている。
兄としてグスタフに残してやれる物なんか何もない。
ならせめて、その命を存分に輝かせてほしい。
今のミハイルに出来る、最大の思いやりはそれしかなかった。
******
そこに予感が何もなかったと言えば嘘になる。ミハイルは地下への道を慎重に進みながら、考えていた。
ヴィルヘルムと共に行かなかったのは、あまりにもそこまでの道のりが簡単すぎたからだった。
あの老獪が人払いまでしている割には、ヴィルヘルムがミハイル、グスタフという、ミズキに関連のある人間を先導していることにも違和感を感じたし、何より静かすぎた。
そのくせ、歩哨は重装備兵だった。
ヴィルヘルムは嘘をつくのがうまい男ではないが、わずかでも自分の心に違和感を感じたなら、その行動は一度立ち止まってみた方がいい。
かつて、アルベルトから言われたことだ。
そして、今までそうしてきて間違えたことはない。
相手が強大であればあるほど、心に生じる僅かな違和感を見過ごせない。
足元を掬われるときは本当に一瞬だ。しかも失敗すればやり直しもきかないし、失敗するときなんてのは、その環境、目にした現状、自らの気持ちの3つが不協和音を奏でている時だ。
作戦自体もコンパクトでなければならない。昼間の人数では多すぎる。
昼間は賑わう庁舎内も、夜遅くなると人もまばらだ。昼間では気づかない音が聞こえる。どこかの部屋のセキュリティパスの信号音、防犯カメラの作動音。
軍のセキュリティの全てがミズキを取り戻しに行く自分の肚を知って、目を向けている気がしてならない。
尋問室がある地下室へ行く道は一本通路だ。不当な方法で脱出すれば、隠れる場所もない通路を走り抜けるしかない。拷問込みの苛烈な取り調べが行われること前提の施設だから、地下はかなり深い。万が一の脱走対策として、エレベーターやエスカレーターもなく、上り下りは階段を使うしかない。
地下へと降りていく自らの足音がやけに響く。今までに築いてきたすべての物を壊す一歩が、この廊下の静謐を切り裂いていく。
クラウスが素直にミズキ返還に応じてくれればいいが、そうでない恐れの方が高い。
おかしなものだ。すべてを失っても、ミズキが欲しいと思うなんて。
尋問室が並ぶゲートをくぐる。さすがのクラウスもここまではセキュリティを変えてはいなかったようだ。そのままゆっくりと歩いて、突き当たりを右に曲がれば、この尋問室の最奥部だ。最奥部の造りはほかの部屋と違って、扉が二重になっている。そこは凶悪な罪人を取り調べる特別室だ。
昼間、ヴィルヘルムとともに来た、最奥の部屋に足を向ける。
そこにはやはり歩哨が一人立っている。しかし歩哨は、海軍の通常勤務服を着ていた。
昼間来たときに立っていたのは重装備兵だ。むしろ警備を強化するなら、人の多い昼間よりも夜間であろうと思うのに、ずいぶんと歩哨の装備に差がある。
重装備兵が相手なら、銃器を持ってきてもそう簡単には通してもらえない。昼間に襲撃を掛けたとしたなら、庁舎中が大騒ぎになっていたことだろう。
「まさか、私たちが来ることを老獪が知っていたとかないですよね……?」
考えたくはないが、ヴィルヘルムがミハイルに一計を案じたのかとすら思うほどだ。
呼吸を整え、突き当たりに向かって歩き出す。歩哨がミハイルの姿を見て、姿勢を正し敬礼をする。
「これはブライデン上級大将。お疲れ様であります!」
「こんばんは。この部屋に用があって来たのですが通してもらえませんか?」
「申し訳ありません大将。この部屋には猫の子1匹も通すなと、海軍大将から言われております。いくら陸軍のトップとはいえ、お通しできません」
「職務に忠実なのは良いことです。ここにいるのは件の異色光彩の狙撃手ですよね。私はその戦犯に関する証拠品を持ってきたのです」
言いながらミハイルは襟の隙間からボールチェーンに通されたキャラメルくらいの大きさの、薄く小さな板のようなものを取り出した。それはミズキの胸に埋められたクリスタライズのスイッチだ。
それを歩哨にちらつかせながら、ミハイルは大げさに溜息をついた。
「大変に重要な証拠品なので、こうして肌身離さず管理をしなければなりません。クラウス大将に渡して、ようやくその面倒な仕事から解放されると喜んでここに来たのに」
「重要な証拠品であるならば、私が責任をもって海軍大将にお渡し致します。さ、お預かりします」
「重要であるが故、クラウス大将に直に渡さなければならないのです。大変に重要なものですから」
「陸軍大将殿……」
歩哨の声のトーンが、何かを探るような低い声に変わった。
「重要な証拠品と言いますが、それはいったい何ですか?」
「答える必要はありません」
「失礼ながら、あなたは戦犯を捕らえておきながら、かなりの期間、尋問も何も実施をしなかったと聞いております。そのあなたがこんな夜更けにやってきて、戦犯を捕らえている部屋に入りたがっている。我々はどうしても、あなたが戦犯を逃がしに来た……そうとしか思えない」
この兵にもクラウスの息がかかっているか。ミハイルを疑ってかかっている。
「陸軍大将殿、それは何の証拠品ですか? お答えいただこう」
おそらくクラウスから『絶対にミハイルを通すな』と厳命されているのだろう。
だが、こんな抵抗は織り込み済みだ。
ミハイルは歩哨の顔を真っ直ぐ見据えた。
「貴殿の階級は? 仮にも私は陸軍上級大将です。言葉遣いに気をつけなさい」
切れ味鋭いミハイルの眼光を正面から受け、歩哨の兵士はばつが悪そうに視線をそらせた。
「しかし……」
「この証拠品が何か知りたがっていましたね? これはミズキ・ブランケンハイムが胸に抱えている爆薬のスイッチですよ」
「爆薬……?」
爆薬と聞いて、歩哨は驚愕に目を大きく開いた。
「クリスタライズ。聞いたことがあるでしょう。ディスタンシアの兵士が持っている、最後のプライドですよ」
「それは本当に本物なのですか?」
「ブラフだというのですか?」
「本物かどうかはわかりませんし……」
「間違いなく本物です。だからこそ、クラウス大将ご本人に確実に渡す必要があるのです。何かの間違いで爆発しても困りますからね」
それでも歩哨はまだ疑い深い目でミハイルが持っているスイッチを凝視している。
「試してみてもいいですよ。ただし、これを押せば戦犯の爆薬が爆発します。まちがいなくこの建物は崩壊するでしょう。あなたが疑ったばかりに、クラリス軍が壊滅する。中の戦犯が犯した罪よりも重くなるでしょうね」
「えっ……」
「未来永劫、子々孫々、あなたの一族がこの国にはいられなくなるような武勇伝が、永久に語り継がれることになるでしょう」
ミハイルがスイッチ部に親指を掛ける。
「スイッチを押せばおよそ1分後に爆発します。逃げるなら全速力で逃げなさい」
「ちょっとまってください、大将。自分はその……」
「本物であることを証明しろと要求したのはあなたですよ。さあ、覚悟はよろしいですか」
「――わかりました。こんなところでクリスタライズを起動されてはかなわない」
歩哨は降参し、両手を上げた。
「ただし、あなたの来訪を、海軍大将に報告させていただきます」
「ということは、彼は今、中にはいない?」
「すぐ戻るかとは思いますが……」
歩哨は時計をちらりと見た。
「戦犯の食事をとってくると言って出て行かれました」
「食事? 担当者が運んでくるのではないのですか?」
取り調べ中に部屋の中に罪人を一人だけにできないため、クラリス軍では尋問中に食事を提供する場合は、食事を担当する兵が運んでくる規則になっている。
独房に入っている場合は独房の受け取り口に食事が来る。罪人たちは受け取り口を介して外から差し入れられた食事を、室内で受け取って食事を摂るようになっている。
どちらの場合も、必ず監視がついている。少しでもあやしい動きをすれば、兵士がなだれ込んできて、わずかな量の食事をとりあげて身体検査ののち、懲罰が始まる。
だからミハイルも、自室でなるべくミズキをひとりにさせなかった。自分がいないときはグスタフに監視兼話し相手を頼んでいた。これもミハイルなりに規則に法ったからだが。
それなのにクラウスは、ミズキを部屋に一人残している……。
「中に戦犯を一人にして大丈夫なのですか? 規則と違うようですが」
「そのために私がいるのです。戦犯が仮に逃げ出しても、この入口を抜け出ることはできません。そもそもロック自体が外からしか外せませんし」
「ふうん……」
クラウスはずいぶんとミズキを自由にさせているようだ。そんなに寛容な男ではなかったはずだが、いったいどうして……
胸騒ぎばかりが打ち上げ花火のようにどんどん上がっては、疑問で彩られた花を咲かせる。
「クラウス大将は戦犯に何を与えていますか?」
「食事ですか」
「ええ。彼に何を食べさせているんです?」
「栄養剤ですよ」
「栄養剤?」
そんなにクラウスの尋問は苛烈なのか。口から食事を摂れないほど、ミズキは衰弱してしまっているのか。
もともとミズキは食が細い。
ディスタンシアにろくに食べ物がないのも理由の一つだが、これも隠密行動を強いられる狙撃手の宿命だ。普通に食事を摂った分は消化されて外に排出されることから、少ない量で作戦中もたせるような我慢が身についてしまっていた。
ジュリアが夕食を持ってきた際は、全部食べないとジュリアが「だからあんたはチビなんだよ」と怒るので、ミズキは時間を掛けてゆっくりと食事を完食させていたが、食べた後は「おいしかったけど、苦しいな」とベッドで横になっていることが多かった。
狙撃とは、最小限で最大の効果を出す隠密行動だ。狙撃手はその1発で敵を確実に殺害しなければならない。
狙撃手がそこにいたことを敵に知られては、狙撃銃を構える前に逆に殺されてしまう。
ひとたび作戦が始まれば、自分の痕跡を排泄物に至るまで一切残さず、音もなく敵に近づいて仕留めなければならない。狙撃手はその一撃のために、我慢しなければならないことが多いのだ。
ミズキは幸いなことに嫌いなものはあまりないが、狙撃手として生きてきた長年の癖で量を一度にとれないので、ミハイルはよくミズキにクッキーやチョコレートなど、一口で食べられて、舌もお腹も満足するような甘いおやつを食べさせていた。
甘いものはカロリーが高く、少ない量で気持ちも安らぐ。おやつはミズキの身体的、精神的な疲弊を和らげるためもあった。
ミハイルの部屋で暮らすようになってから、ミズキは平然を装って空腹を我慢していたが、よくお腹が切ない音を立てていた。
ディスタンシアで甘いものなどほとんど口にしなかったミズキは、たったひとかけのチョコレートを前歯で2つに割って、一つずつ口に含んでゆっくり時間を掛け、アメを舐めるように食べていた。
クラリスの小さい子供ですら、そんなチョコレートの食べ方をしない。
『ミズキ。まだチョコレートが欲しいならおかわりがありますよ』
呆れてミハイルが追加を出そうとすると、ミズキは首を横を振った。
『ううん。僕、これだけでいい。あまり食べると、すぐトイレに行きたくなるから』
『あなたはもうクラリス軍に捕まっているのです。狙撃手として出撃することはもうありませんよ。今のあなたがなすべきことは、体力の回復です。食べたいものがあるなら遠慮なくおっしゃい』
『うん……でも、こんなに甘くておいしいものは大事に食べないと……』
生まれて初めて口にしたであろう、褐色のかけら。クラリスでは当たり前にある安価なお菓子。ミズキが欲しがるなら、箱で買ってきたってその値段はしれている。
なのに、ミズキときたらその甘さに目を丸くし、笑みをこぼしてチョコレートを大切に食べていた。そんなことをふっと思い出す。
そのミズキに、栄養剤が投与されているなんて――。
「戦犯はそれほどまで疲弊が激しいのですか」
ミハイルが訊ねると、歩哨はニヤリと笑った。
「栄養剤ってのは麻薬ですよ、麻薬」
「麻薬ですって?」
「あれは眠気も来ないし、腹も減らない。身体は疲弊しているのに、眠ることができないのです。大将に言わせると、戦犯は素直でないうえに口が堅いので、自供させるためには仕方がない、と……。喋るまでは眠らせないと言っていました。ですが投与すると、戦犯は素直になり、何でもしゃべるらしいのです」
「普通の固形物は与えているのですか」
「パンや牛乳を持ち込んでいるようですから、食べてはいるんでしょう」
「そうですか……」
目の前の歩哨を殴り倒してやりたい気持ちを抑え、なんとか平静を装う。
やはりクラウスは薬を使っていたか。嫌な予感が的中してしまった。
もともと、ミハイルよりひどい手法で拷問をする男だと軍では知られている。
一日の調べが終わり、朝になって房を覗いてみると、罪人が冷たくなっていたなんて話は、海軍でよく聞く話だ。
ミハイルのように用件を聞きだしたのち、速やかに処刑なり懲罰なりするのではなく、丘に打ち上げられた魚が、酸素不足で徐々に弱って死んでいくようなやり方をクラウスは採る。
最後の最後まで苦しみ抜いて、命が限界を叫ぶ。クラウスと言う男は、罪人をゴミか何かにしか思っていない。ミズキもどうやら同じように扱われているようだ。
いったいいつから、またどれくらいの量の麻薬を投与されているのか。不安だけが大きくなる。
もしかしたら、もう真っ当な思考ができない程に、脳を壊されているのかもしれない。
「鍵を開けてもらえますか。中で大将を待たせてもらいましょう」
「戦犯を連れて逃げ出すつもりではありませんよね?」
「はい?」
「その際は、私にどうぞ一声おかけください」
歩哨がまた疑惑に満ちた視線をミハイルに投げ、腰にぶら下げていたハンドガンを取り出した。逃げだしたらわかっているだろうな――無言の圧力だ。
ミハイルははははと笑い、その目を据わらせた。
「言葉に気をつけなさい。あなたが手にした銃で、その顎を叩き割ってもいいのですよ。さすれば、あなたも少しは大人しくなるでしょうか?」
「……え」
「私は陸軍上級大将です。さっきからのその物言い、本来ならば不敬罪です。クラウス大将の株が下がりますよ。この件、海軍大将が来たら報告しておきましょう。軍を失職したくなければ、さっさと私の用件を通しなさい」
歩哨は冗談のつもりだったのだろうが、いささかエスプリの癖が強すぎたようだ。
「も、申し訳ありません!」
地味にミハイルを怒らせたことに気づき、あわてて最敬礼をとると、そのまま持っていたカードキーで尋問室のセキュリティを外す。
ピッと音がして、ドアのそばの装置のランプが赤から青に変わる。ドアの中でガシャンと重い金属音が静かな通路に響いた。
「ご苦労。では入らせてもらいますよ」
この部屋には二枚の扉がある。1つ目の重く厚い鉄の扉を押し開くと、すぐ前に強化防弾ガラスで作られた2枚目の扉が現れる。このガラスのドアはクリアガラスとすりガラスに切り替えができる仕掛けになっているが、今はすりガラスになっていて室内の様子は開けてみないとわからない。
「ミズキ……」
ミハイルは扉のノブに手をかけた。
この部屋の中にミズキがいると思うと、胸が高鳴る。
どんな姿でもいい。
ミズキが生きていてくれさえすれば。
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