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#28 実行
#28ー2
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※※※※※※※※※※
ミズキは素裸でコンクリートの床に横たわっていた。
裸電球がゆらゆら揺れている。全身が軋むように痛くて、なにより吐き気がひどい。
ここに連れてこられてから時間がどれくらい経ったのかわからないが、クラウスが出て行ったので多分夕方か夜なのだろうと思った。
クラウスは1日2回ほど、この部屋を出ていく。戻ってくると手にはパンや水、そしてミズキに断続的に与えられる「栄養剤」を手にしている。
この部屋には簡易トイレはあるが、浴室がない。なのでクラウスは食事と一緒にバケツに温水をくんで持ってくることがある。それがだいたい夜だ。
クラウス自身が「夕食のあとは風呂だな」といい、裸のミズキにバケツの温水を浴びせかける。それが時計の代わりみたいになっていた。
ミハイルの部屋にいたときは、入浴後、ミハイル自身が必ずふかふかの大きなバスタオルで身体を拭いてくれていたが、クラウスはそんなことをしない。
だからお湯をかけられたところで濡れた身体がどんどん冷えるから、寒くて仕方ないのだが、歯をカチカチいわせて震えていると、「暖めてやろう」と言われ、激しく抱かれる。
(もう疲れた……)
ろくに食べてもいないし、もう抵抗する気力もない。衣服は全てはぎ取られているから、体温も冷たい床に奪われていくばかりだ。
何となく感じる。自分はもうそんなに長く生きていられないだろう、と。
心身ともにボロボロなのに、それでもディスタンシアで男たちに抱かれていたのを身体は良く覚えていて、自然と男をとろかし喜ばせる表情をクラウスに向けてしまう。
そうすれば終わることのない、爛れた儀式が始まるのだ。
外でガシャンと音が響いた。重く大きなその音は、ドアロックが解除された音だ。さっき出て行ったのに、クラウスが戻るのが今日は早い。
最近ではクラウスの膝に座って、彼のものを受け入れている事が多い。食事も水も快楽も苦痛も、すべてクラウスから与えられる。身体の中で蠢く凶悪な熱核を味わいながら、クラウスに身体を預けている。
クラウスはとにかく貪欲で、萎えることを知らない男だった。アルベルトとのことをかなり訊かれたが、その内容はアルベルトの消息より、彼がどうやってミズキを抱いていたのかということのほうが多かった気がする。
何と答えたかは良く覚えていないが、最近のクラウスは薬のほかに妙な器具まで使うようになり、自身が疲れるとミズキの前にも後ろにも性具を挿入して、その痴態を楽しんで見ている。
T字の形をした白い性具、真ん中の軸の部分がミズキの隘路に入り、Tの横棒の端がミズキの会陰に伸びて、くにくに当たって気持ち悪い。
それが今もミズキの尻に埋まっている。
その器具は、ミズキ自身がじっとしていても意志を持ったように暴れ出す。クラウス曰く、「その器具には何もない。吠えるほどの刺激は、おまえの身体が勝手に感じているだけだ」とせせら笑いながら、器具から延びる取っ手を激しく揺すられる。
ミズキはもはや我を忘れて獣のように咆哮しながら、その電流のような激痛に耐えるしかなかった。
いずれ天に昇るほどの快楽をもたらすというが、この器具はミズキにとって、痛みをもたらす以外のものではない。
クラウスが帰ってきたなら、この器具を抜いてもらうように頼まなくちゃ――そう言って痛む身体を無理やり起こす。
扉が開いた。
「ミズキ」
この声は――クラウスじゃない。
視界がぼんやりして、それが誰なのかよく見えない。背が高い黒い影。その姿をミズキは覚えている。
「……ハ……ル……?」
のどが貼りついてうまく声がでない。この声はあの人だ。ミズキにいろんなことを教えてくれた人の声。幻じゃなくて本物なのか。触れて確かめなくちゃ。
こんな、こんな掃き溜めみたいな場所にミハイルがくるなんて……ありえない。
赤ん坊がずりばいをするように黒い影に近づこうとしたが、それより早く影がミズキに駆け寄ってくる。
「ミズキ!」
ミズキの身体が抱き起こされる。
「ああミズキ、なんてこと……!」
冷たく冷え切った素肌に人の温もりを感じ、ミハイルのフレグランスがミズキの鼻腔をくすぐる。精液の匂い以外の清冽な香りが新鮮で心地いい。これは安心できる香りだ。
「ミズキ、ミズキ! 私がわかりますか?」
「……う、ん……」
かすれた声でやっと返事を返す。もっともっと話したいことがあるのに、吐き気と頭痛が襲いかかる。
「ミズキ、無理にしゃべらなくていい。ちょっと腕を見せなさい」
「注射、するの……? あれ、やだ……」
「そんなことしません。さあ見せて」
ミハイルが手際よくミズキの腕を確認するが、とある一点でミハイルの顔が硬直した。
「この痕は……。老獪め……!」
紫色に腫れ上がったミズキの腕を見て、ミハイルが悲壮な声を上げ、力無く首を横に振る。
「あの老獪はどれだけの薬を……」
「栄養剤だって……言ってた……」
「本当に栄養剤なら、老獪を蹴り飛ばせるくらいピンピンしてるはずです。こんなにあなたが衰弱するわけがない。ミズキ、あなた最近ちゃんと眠りましたか? 吐き気は? 頭痛はないですか?」
「寝てない……。それで気持ち悪い……お尻も……」
「お尻?」
ミズキはしきりに尻朶を床にこすりつけていた。身体の中で自分の意志とは無関係に牙を剥くこの器具を抜きたかった。
クラウスは「じきに気持ちよくなる」とは言っていたが、正直なところ快楽より激痛の方が先に来る。
その器具が地面に当たるとザリッザリッと音がする。その音にミハイルが気づいた。
「ミズキ、足をあげて。私に見せて」
そのまま腕を差し入れられ、ミズキの膝裏がすくわれる。
「少し我慢して」
「いや……」
子どもがおしめをかえるような格好にされて恥ずかしくてたまらない。ミズキは足を下ろそうとしたが、ミハイルがそれを許さなかった。
「ミズキ、これは?」
「わかんない。でもこれ、痛い、痛いんだ……」
ミズキが痛がるのをみて、ミハイルは眉根を寄せ、ミズキの尻から延びる器具の先端に指をかける。
「抜いて良いですか?」
「抜いて。これ、いや……」
「一気に抜きますよ」
「ん……」
腹に少し力を入れた瞬間、中の器具が暴れ出した。
「うああああ!!」
「ミズキっ?!」
「いやあっ! 痛い、痛いぃぃ!!」
激しい痛みにミズキの全身が波打つ。急に始まったこの状況にミハイルも驚き、ミズキをきつく抱きしめる。
「ミズキ!」
恐慌を退けるのは、いつだってこの方法だった。
「ミズキ、落ち着いて。どこが痛い!?」
「抜いて、ぬいてぇ、お願い……!」
「抜く……?」
「お尻の……お尻の、とってぇ!!」
ただでさえ拘束と性交の日々で身体はとっくに限界を迎えている。それなのに激しい刺激を予測なしに与えられ、ミズキは涙を流しながら、カッと目を開いてミハイルに縋る。ミズキの茎もきつく立ち上がり、先端が何かを吐き出そうとしてぱくぱくと動いている。
「も、もういや……これ、いやだぁぁぁ……」
のたうち回る体力もなく、ミズキは激痛を呼吸で逃がしながら、息も絶え絶えになってミハイルに懇願する。こんなことを続けられたら、気が狂ってしまいそうだ。
「ミズキ、抜きますよ。少し我慢して」
「ああっ!」
ズルンと粘膜ごと引きずり出されるような感覚とともに、中に隙間が出来たようだ。
全身から力が抜け、苦痛から解放されて、ミズキはやっと大きく息をはく。
ミハイルはミズキから抜いた器具をいろんな角度から眺めていたが、忌々しげにそれを背後に放り投げた。
「ミズキ、大丈夫ですか?」
「ありがと……抜いてくれて……」
「あれは使い方によっては、激痛しか与えないものです。あんなものをあなたに押し込んで、あの老獪はいったいあなたをどうしようというのか……理解に苦しむどころか、もはや怒りしかない」
「でも僕は、そうしないと……」
「誰があなたにそんな義務を課したのです?」
「ご主人さま……が」
「ミズキ、老獪がそう呼べとあなたに強要しているのですか?」
「……だって」
「聞こえませんよミズキ」
ミハイルはミズキを抱きしめたままで、彼の口元に耳を寄せた。
「ミズキ。さあ、私に教えて」
「だって言う事聞いたら……家に……あなたのもとに……帰してくれるって……」
「なんですって?」
ミハイルが驚いて聞き返し、ミズキを見る。
「私のもとに帰りたいから、老獪の言う事を聞いていたのですか?」
「うん……」
ミズキは腕を伸ばして、ミハイルにしがみついた。ミハイルにとってはミズキの存在など迷惑なだけかもしれない。だけど、今のミズキには、帰る場所はそこしかない。
生きるも死ぬも。その場所しか。
「……僕、どうせ死ぬなら…。その場所は…」
ミズキの中で感情が大きく揺すぶられた。胸の中で大きくうねるこの波が何なのか、ミズキにはわからなかった。
だが、知らずに涙があふれてくるほど、ミハイルのそばにいるこの瞬間がとても嬉しくて幸せで――苦しい。
「もう僕、ここでいい。今すぐあなたの手で僕を殺して……」
「ミズキ……」
「なんだかわからないけど、僕、あなたの腕の中ならなんにも怖くないんだ。ずっとこうしていてほしいって思う……頭がごっちゃになってよくわからない……けど。僕、あなたと離れるのは、もう嫌だ……」
「ミズキ、あなた……」
ミハイルが悲しそうに目を細めた。
「私のことを嫌いになりなさいと、私はあなたに言いませんでしたか」
「言った……」
「私はあなたにひどいことをしましたよ? 嫌がるあなたを抱いたりもした。なのにどうして?」
「わからない……」
「わからない?」
「でも僕、あなたとずっと一緒にいたいって……思うんだ。だからあなたのもとに帰りたい。帰れないなら、あなたの手で僕を……」
「ミズキ……っ!」
ミズキの細い身体が急に強い力で抱きしめられる。痩せ細った身体が折れてしまいそうなほどの強い力。呼吸が苦しくなるのに、この腕は温かくて――切ない。
「ミハイル……ごめんなさい」
「何がです?」
「僕、あなたを嫌いになれなかった……」
「ミズキ……」
「ごめんなさい。本当に……ごめん、な…さい」
許されないとわかっていても、ミハイルの体温をもっと感じていたくて、彼の背を抱き返そうとしても、身体に力が入らない。
こんなにぼろぼろで、薄汚れた自分。誰だって触れるのも嫌だろうに、ミハイルはただただミズキを抱きしめてくれる。
この腕が海なら、もうこのまま沈んでしまいたい。この腕の中で時も呼吸も止まればいい。
「ミハイル……」
この地下室に連れてこられてから、彼の名前をまた呼べる日が来るなんて、思ってもみなかった。ミズキをしっかり抱きしめてくれている人がいる――これは間違いなく現実だ。
「ごめ……なさい……。僕、あなたのそばにいたい……。初めてなんだ、こんな感情……なんだかおかしいんだ、僕……」
「ミズキ、私もあなたと同じです」
「え……?」
ミハイルはミズキを裁く人だ。それなのに、何が彼と「同じ」なのだろう。
「それって……?」
「初めての感情でよくわからないとあなたは言った。それを恋と言うのですよ」
「こ、い……?」
「今の疲弊したあなたでは、私の告白を理解するのは難しいでしょう。大丈夫、これは私の独り言。忘れてください」
ミハイルの声が、ミズキの頭の奥に鈍い痛みを発生させる。
「僕、ぼ、く、は……」
「そんなことよりミズキ、あなたが生きていて良かった……」
完全には壊されていないと、ミハイルは微かに笑った。
「薬の量が心配でしたが、まだ喋れるようで安心しましたよ。さ、ミズキ、ここから出ましょう」
「だめ……それ、出来ない……」
「どうして。歩けないなら私があなたを抱き上げて連れて行きます。心配しなくていい」
「ち、がう……」
ミハイルの腕から逃れようともぞもぞ動いていると、またも重い金属音が室内に響いた。ロック解除の音だ。
「かえって、きた……ごしゅじ、さま……」
「ミズキ? あなた何を言ってるのです?」
「僕、行けない……ミハイルといっしょ、いけ、な……」
「ミズキ? どうしたのです」
「逃げて、ミハイル……逃げて……っ!」
ミズキはいやいやと子どものように力なく首を振りながら、ミハイルから逃れようとする。
「ミズキ……?」
怪訝そうに首を傾げるミハイルの後ろで、かつんと靴音が響き、ミズキとミハイルの上を陰が覆う。
ミズキの目がミハイルの背後に飛び、その姿を見て全身が恐怖で震える。
「ごしゅじ……さ、ま……」
「ご主人様ですって?」
ミハイルも後ろを振り返った。
「海軍大将殿……」
二人の目の前にいたのは、美髯公と謳われる長く美しい髭を蓄えた海軍大将。
「ミズキ、おりこうにしていたか?」
ミズキを抱き起こしているミハイルには一瞥もくれずに、クラウスはミズキに向かって優しく笑いかけた。
「俺が帰ってきて嬉しいか?」
「はい……」
嬉しいと返事をしたくせに、ミズキの身体は本能的な恐怖を感じて、カタカタと震え出す。
「そうか」
ミズキが頷くと、クラウスが鷹揚に頷いたが、その声は堅く、感情がこもっていない。
「ようこそブライデン陸軍大将。なんでもミズキの証拠品を持ってきてくれたと部下から聞いた。ご苦労だったな」
クラウスはゆっくりとした足取りでミハイルの向かいに回ると、ミズキのそばに腰を落とし、ねめつけるようにミハイルを見る。
「しばしの再会は楽しめたか、ブライデン大将よ」
「……あなたはミズキをこんな姿にして、ここで何をなさっていたんですか」
「尋問に決まってるだろうが」
「脱走疑惑の取り調べにしては、ずいぶん趣向も方向も違う調べを行っているようですが?」
「建物の3階から飛び降りるような脱走の天才だぞ? 一糸纏わぬ姿にして、身体検査を行わないと、尋問中に逃げられては困る」
「妙な器具を使い、罪人にご主人様と呼ばせているなんて、一体どんな取り調べでしょうか。今すぐ釈明願おう。それが出来なければ、この戦犯は私の管理下にある人間。連れて帰ります」
「連れて帰るだと?」
クラウスの声が不気味に低さを増した。
「それはどこだ。貴様の褥か?」
クラウスの目が据わり、ギラリとした光を帯びる。
その視線は、暗闇からミズキを逃しまいと現れた数多の腕のようだ。
きっとミズキがミハイルと共に行くことを、クラウスは許さないだろう。
それでも、ミハイルがここから連れ出してくれるかもしれない、わずかな可能性を信じてもいいだろうか。
ミズキはミハイルの腕に頬をすり寄せた。
もう彼の腕を掴む力も残っていない。せめて彼の領域から引きずり出されないよう、ミハイルに少しでも寄り添っていたかった。
「ミズキ、おまえ、外に出たいのか?」
「だして……くれる……?」
「ミハイルと共に行きたいのか?」
「いき……たい……。いかせて……」
弱々しく尋ねるミズキの頭を、クラウスの大きな手が優しく撫でる。
「ではいかせてやろう」
言うや否や、クラウスはミハイルの腕からミズキを奪い去る。
「ミズキ!」
「ブライデン大将、貴様にいいものを見せてやる」
クラウスは無言のまま、ミズキを肩に担ぎ上げ、部屋の隅に置いてあるソファーに向かう。そこにミズキを放り投げると、そのまま覆い被さってくる。
「ふわっ……」
クラウスの体重が痩せた身体にかかり、身動きも出来ないまま、唇を彼のそれで塞がれる。
「ん、んん……」
こんなところをミハイルに見られたくなくて、クラウスを押し戻そうとするが、そんな抵抗は蚊が刺したほどにも効いてない。すぐに脚を拓かされ、クラウスの太い節くれた指がミズキの菊花の中心に入り込んできた。
すでに熟れて柔らかくなっている蕾は、くちゅと音を立てて、クラウスの指をおいしそうに舐めしゃぶっている。
「あっ、ああ、ん……」
入口をくにゅくにゅ弄られていると、身体の中にたまるのは欲求不満ばかりだ。
身体も精神も疲弊しきっていてミハイルを抱き返すことすらできないのに、本能は激しく重い快楽を求めて疼きだす。
「だめ……こんなの、いや……」
「いきたいと言っただろう。だからイカせてやる。大好きなミハイルに、おまえと言う人間の正体を見せてやるがいい」
「いや、やだぁっ……!」
「それはもっとやってくれと言う裏返しか? ん? ミズキ」
「違う、ちがぅぅ……」
「おまえはこの部屋で、俺に激しく抱いてくれと何度もねだっただろうが。気持ちいいことをしてくれ、と。さあミハイルにおまえのいやらしい姿を見せてやれ」
「いやだぁっ!」
浅い場所を動き回る指が、いきなり深くもぐりこんだ。
「あうぅ!」
とある場所をかするたび、ミズキの身体が弓なりにしなる。
白い器具でひっきりなしに刺激されていたその場所は、もはや痛みしか生み出さない。ミズキにとっては拷問に等しいものだ。
「痛いぃ! いや、やめて! そこは嫌だ……っ」
強い電流を浴びたような激痛が内臓の奥深くまで走る。ぎゅっと閉じた目じりから涙が溢れ、クラウスがもたらす激痛に耐えていた。
「助けて……。ミハイル……」
涙で歪んだ景色の中、黒い影がミズキをじっと見ていた。その影に向かって、ミズキは救いを求めて左手を伸ばす。
「ミハイル……僕を……撃って……」
「ミズキ……」
ミハイルが悲しそうにミズキの名を呼ぶ。
耐えられない。ミハイルの前で、こんな風に抱かれるのは。
「僕を殺して!!」
「うるさい口は塞がねばな」
叫んだ瞬間、クラウスに唇を塞がれる。
ミハイル以外の男に、この身体を好きにされ、あまつさえ大好きな人の前で凌辱されるくらいなら、死を選んだほうがましだ。
「いや、もういやぁぁ……!」
「ミズキっ!」
ミハイルは懐から銃を取り出した。狙いはクラウスの頭だ。
「海軍大将殿、ミズキから離れてください。さもなくば……」
「撃つというのか? 面白い、ならば撃ってみろ」
クラウスはミズキから指を抜くと、身体を起こした。そのまま腰のホルダーに手を伸ばし、自分のハンドガンを取り出すと、くったりと横たわるミズキの頭に銃口をごつりと突き付ける。
「ミズキは誰にも渡さん。おまえがその銃弾を俺に向かって撃った瞬間、俺はミズキを殺す」
「クラウス大将、いったいなぜ、そんなにミズキに執着するのですか。あなたが知りたかったのは、ハノン大将の消息でしょう」
「ああそうだ。俺の親友であるアルベルトの行方を知りたかった。生きてるのか、死んでいるのかそれすらも分からん。だがミズキが教えてくれた。アルベルトはディスタンシアの要人だと。そして……ミズキはあいつに抱かれていたと」
「それは……ミズキが正気を保っているときの答えですか」
「こいつは薬を打って激しく抱いてやれば、素直に何でもよくしゃべる」
薬で朦朧としているところに、核心的な質問を浴びせ、強引な繋がりでミズキから答えを引き出した――そんなものは自白でも何でもない。ミハイルは唇を噛む。
自白剤などと言うものは、自分からペラペラしゃべりたくなる類の薬ではない。薬によって、対象の意識と思考能力を麻痺させて行う誘導尋問のようなものだ。
たいていの場合、薬による取り調べは対象の脳に激しいダメージを与えてしまううえ、その答えの信憑性も薄くなる。
効果的に使える場合もあるが、それにはさじ加減と質問者の言葉選びが重要だ。『その物体の色は白かっただろう』と物事を決めつけて質問を投げかければ、対象は無意識に『そうだ』と答える。
対象は薬によって考える力を奪われているから、聞かれたとおりのことを肯定する方が楽なのだ。自白と言うよりは、火のないところに煙を立てて、あるはずのなかった罪を作り、なすりつけるようなことになってしまうこともある。
クラウスはこうした薬物にも明るい男だから、使えばどうなるか知っているはずなのに。
「その顔では、貴様もアルベルトが姿をくらました理由を知っているようだな?」
「残念ながら私は知りません。ただ、ハノン大将は終戦の数日前まで存命していたはずです」
「ほう……?」
くったりと人形のように全身から力が抜けてしまったミズキを、クラウスは無理やり抱き起こし、そのまま自分の胸の中に引きずり込んだ。
ミズキはもともと色白の肌だったのに、この部屋で行われた激しくも淫らな交合のせいで、全身にあざや内出血斑がいくつもあるうえ、あばらが浮いてしまっている。
「ミズキ……」
彼の命が残り少ないのがその身体から見て取れた。
唇を噛むミハイルをちらりと見やり、クラウスはミズキの顎を撫でながら耳元で囁いた。
「アルベルトが帰ってこない理由はこいつを抱いて分かった。この身体は極上だ。どうせ貴様も、ミズキに堕ちた一人なんだろう。だから傷ひとつつけずに特別扱いして、時間稼ぎをしていた――違うか」
クラウスは言いながらミズキの顎を掴んだ。涙やクラウスの体液でドロドロになったこの顔をよく見ろとばかりに、力任せにミハイルの方を向かせられる。もうミズキはクラウスにされるがままだ。
クラウスはミズキの耳朶をぺろりと舐めながら、耳元で囁いた。
「ミズキ、ほらミハイルがおまえを見ているぞ。さあ今のうちに奴をしっかり見ておけ」
「ミハ、イル……を?」
「おまえがアレを目にするのは、今夜が最後だ。その時は……」
銃口がミズキの胸の傷をそっとなぞる。
「この傷の中にあるおまえの心臓を引き裂いてやる」
もともとこの傷はちゃんと塞がってはいない。グスタフを見つけてミハイルの部屋から飛び降りたときに少し開いたままになっている。毎日ミハイルが消毒をしてくれ、傷は快方へと向かっていたが、クラウスに捕らえられて以来、開いた箇所から雑菌が入り込んだのだろう、皮膚が熱をもって少し腫れていた。
「う……」
銃口が敏感な傷口に触れ、胸の皮膚を薄く縦に切り裂かれるような疼痛を感じ、ミズキは身を捩る。
ミズキはぼんやりとミハイルの姿を見ていた。
「僕、どうなるの……」
「おまえはずっと俺と一緒だ。だが、ミハイルと話をしなければならない。おまえにとっても興味深いだろう。楽にして聞いているといい」
ミズキにとって興味深い話なんてないはずだと思いつつ、クラウスに身体を預けたまま、朦朧と成り行きを見守る。
クラウスはミズキのこめかみにゴリっと銃口を押し当て、「さて、続きを聞こうか」とミハイルを促した。
「アルベルトが終戦の数日前まで生きていたのを、なぜおまえが知っている。アルベルトが姿をくらましてかなりの年がたつ。俺は方々あいつを探した。ディスタンシアもリーベットも。あらゆる情報網を駆使したつもりだ。しかし、あいつの足取りがどこまであって、どこで途切れたのか、その痕跡すら俺は見つけられなかった。それなのに、なぜおまえが知っている」
「そのわりには、無二の親友がミズキとの情事に溺れて出奔したとお思いになっている。そんなあなたがまったく哀れで気の毒ですが、それでもまだ、あなたはハノン大将を信じていられるのですか? 私の話すことを、あなたは真実だと受け止められるのですか?」
クラウスは黙したまま、ミハイルを見据えていた。それは怒りなのか、それとも動揺なのか。彼の心の動揺は揺れる双眸に顕れていた。
「私はハノン大将とグリーンゾーンで時折会っていました。最後に会ったのは、終戦目前です」
「なんだと……?」
「グリーンゾーンはご存知の通り、非戦闘地域。ハノン大将はよくディスタンシアのシナモンティーをグリーンゾーンで買っていました。私は彼とそこで出会うことがあったので、軍の事や家族のこと、ミズキのことなどいろいろ話し、彼を説得もしました」
「説得だと? 何の説得だ」
「クラリスに戻る気はないのか、と」
「……っ!」
クラウスが絶句する。
自分はずっと親友の帰還を信じていた。戦争が終わってもなお、生きているか死んでいるかも定かではない深憂。それでも自分と可愛い娘を遺したままにはしないと、今も信じている。
「あいつは……何と答えたんだ。戻るのか、戻らないのか」
アルベルトはきっと、ディスタンシアで何か極秘の任務に当たっているだけだ。だから戻れないのだ。
何につけても仕事優先の男だったから――きっとそうだ。
「あいつは何と答えたんだ!!」
悲痛さが滲むクラウスの問いに、ミハイルは目をわずかに伏せ、ややあって重い口を開いた。
「クラリスには……戻らない、と」
「なぜだぁ!!」
クラウスはミズキを突き飛ばし、その場に立ち上がる。
「なぜあいつはあんな薄汚い国に留まる!? あんな国に何があるというんだ!」
「私にもわかりません」
「あんな瓦礫ばかりの国に、あいつの心を掴むものがあるというのか!? いや、そんなはずはない。あの国は、こんな風に人の心を惑わす魔物を生み出した国じゃないか!」
クラウスはまくしたてると、銃口を床に転がるミズキに向けた。
「こいつは化生だ。身体ひとつで人の心を操る魔物だ。ディスタンシアはそういう国だぞ」
「クラウス大将」
硬い声でクラウスを諫めると、ミハイルは先を続けた。
「ハノン大将は多くを話しませんでした。彼が何の経緯でディスタンシアにいるのかは知りませんが、彼はディスタンシアのサンドストーム部隊のシュトラウス隊長と懇意にしていたようです」
「ディスタンシアの……サンドストーム隊だと……?」
「クラウス大将ならよくご存じでしょう。ディスタンシアの暗殺部隊。そして……我が国の要人を次々と暗殺し、組織を混乱に陥れ、クラリス全軍を本気にさせたミズキ・ブランケンハイムを異色光彩の狙撃手へと育て上げた隊」
「だからといって、なぜアルベルトはディスタンシアに留まる?」
「ハノン大将は『自分はクラリスを裏切った反逆者』だと言っていました。だから本国に戻らないのだと」
「あいつが母国を裏切っただと?」
「しかし、私はそうは思いません。ハノン大将は、母国を裏切ったわけではない……と」
グリーンゾーンでのつかの間のひと時を思い出しながら、ミハイルは続けた。
「ハノン大将は地位や名誉、家族など、自分の全てを棄ててもかまわないほどの運命に出会ったのだと私は思っています」
グリーンゾーンはしばし戦闘を忘れられる場所だが、同時に平和をこの手で壊している自分の愚かさにも気づく場所だ。
戦禍の影も恐怖も苦しみもないのに、グリーンゾーンの空は透き通っていた。
美しすぎるその空の彼方では、嘆きと苦痛、憎しみと悲しみが渦を巻いて空を灰色にしているのに、グリーンゾーンの空は美しかった。いつだって。
そんな場所での、つかの間のひと時を思い出す。
アルベルトはよく『あいつにもここのカフェの紅茶を飲ませてやりたいんだがなぁ』と目を細めていた。
早く戻らないと、『あいつ』がうるさいと、苦笑していたが、その表情に悲壮感はなく、幸せに満ちていた。
戦争はディスタンシアにとって、確実に破滅へと向かっているのに、アルベルトの笑顔に諦めの色も影もなかった。
『あいつ』のことを話す時、アルベルトは慈愛深い笑みを浮かべていた。
仲間に向けるものでも、家族に向けるものでもない。自分の命を賭けても惜しくない、かけがえのない存在に向ける、あの優しい微笑みをミハイルはいつだって思い出せる。
ミハイルはその時にシュトラウスの名前と所属を知り、悟った。
「きっとハノン大将は、ディスタンシアで運命の相手と出会った――私はそう思っています」
「それが……それがまさか……っ」
「ハノン大将がシュトラウス隊長のことを話す時、彼の表情は、汚れも打算も何もなく、とても穏やかだった。人間の心からの優しさが溢れていたように思います。そして戦争は終わり、終戦の日に起きたディスタンシアでの謎の爆発。確かなことは闇の中です。何もわからない。けれど私は、ハノン大将もシュトラウス隊長も、もうこの世にいないと考えています」
「あいつがこの俺とジュリアを置いて……薄汚いディスタンシアの人間なんかと逝ったというのか!」
「ミズキから聞いたのでしょう? ハノン大将はもはやクラリスではなく、ディスタンシアの要人だったと。ならば、この戦争の責任を取る立場にあるはず。彼なら…いや」
ミハイルはいったん言葉を切り、そして続けた。
「彼らなら、おそらく潔く死を選ぶでしょう」
「そんなわけあるか! あいつはクラリスの軍人だぞ」
「でも、故郷を棄てた。愛した仕事も家族も。そして――あなたも」
空気が一瞬にして変わる。
今までクラウスを纏っていた、わずかばかりの余裕がそこから消し飛んだ。
怒りの矛先はミズキに突きつけている手に顕れていた。言葉に出来ない激しい怒りがその引き金にかかる指先に集中し、銃身が異常に震えている。これではクラウスがうっかり撃ってしまいそうだ。
ミハイルはその様子を冷静に見守りつつも、冷厳な態度を変えなかった。
クラウスという男は、熱しやすい。怒りで己が見えなくなったときが好機だと、その瞬間を伺っていた。
「そしてあなたは、親友のためだとか偉そうなことを言ってるが、所詮はミズキの身体に溺れただけ。男を抱く快楽を知ってしまって、セックスを初めて知った子ども……いや、盛りのついた犬のようになってしまった。だからミズキを離せなくなった。そうでしょう?」
「貴様……っ!」
「親友への思いを建前にして、自分の欲情を抑えきれなくなった……同じように同性に心惹かれたであろうハノン大将とあなたではまるで違う。もっともらしい戯れ言で、ミズキをただの性処理として扱うあなたが、ハノン大将と並び立てますか?」
クラウスにとって、親子ほども年が離れているミハイルの論破は、正論という弾丸をこめたマシンガンで全身をぼろぼろの蜂の巣にされる様な屈辱に違いなかった。
しかも反論の時間を与えず、淡々と畳みかけてくる。怒りがすでに沸点に達しているのか、クラウスはぶるぶると全身を震わせている。
「……なぜあいつは、おまえなどに陸軍を渡したんだろうな。まったく、貴様が海軍にいなくてよかった」
「私の地位に関することでしたら、ハノン大将に直接どうぞ。私は思ったことを正直に述べただけに過ぎない」
「正直すぎると、いいことはないぞ」
クラウスは静かに恫喝すると、持っていたハンドガンの撃鉄を下げた。
弾丸が装填されているシリンダーがゆっくりと回る。
「俺もおまえも、そしてあいつも、こんな化生に心を掴まれているから、どうかしているに違いない。ミズキをここで殺せば、俺たちは幻から覚めるかな?」
「――!」
勝手な言い分だが、クラウスにはどうも図星だったようだ。
ミズキを盾にするだろうと、ある程度は予測したものの、まさか本気でミズキを撃つつもりか。
本人の怒りのボルテージが高まって、激昂して無茶な行動に出る瞬間を狙っていたが、どうも彼は怒りが頂点に達すると頭がスッと冷えるようで、ミハイルの予想とは逆だった。
読みが外れてしまったが、もう後戻りはできない。成り行きのまま、天命を委ねるしかない。
「海軍大将、本気ですか」
「銃をこちらに向けておいて、俺にやめろとでも言うつもりか。説得力の欠片もないな」
ミハイルは対峙したまま、クラウスに説得を試みるが、本気で怒った彼には、もう何を言っても、言葉も気持ちも届かないだろう。
人間、激昂より冷静な場合の方が怖いのだ。すべてを理解して行動しているから、その動きにミスも隙も無い。
とりわけ、こんな命を賭けた局面では。
「陸軍大将よ、あいつは本当にもう帰ってこないのか?」
「……わかりません。消息は何も」
「今まで長いこと待った。あいつのことをずっと。待ちくたびれて、こんな子供の身体に溺れてしまって、俺は軍人としての誇りも忘れた。だがな陸軍大将よ」
「……なんですか」
「俺はミズキを手放す気はない。こいつだけは俺が天国へ連れて行く。誰の手も届かない場所で、俺はこいつと永遠に生きる」
「最後にもう一度聞きましょう。なぜそんなにミズキに固執するのです?」
クラウスからその答えをもらっていない。ミハイルはハンドガンを向けたままで訊ねた。
「こいつだけは、俺から離れなかった」
「――えっ?」
「あいつも戻らない。俺のそばにはもう、誰もいない。だけどミズキは違う。こいつはずっと俺のそばにいた。俺から離れることなく、俺を受け入れ、俺のことを求めた。こんな時代に見つけた俺だけの宝だ。だから渡さん」
(ミズキ……)
クラウスの足元に転がるミズキが、わずかに顔を上げた。
その瞳が、ミハイルを見つめている。
口元に穏やかな笑みを浮かべて。
だけどそれは、命の灯が消える間際の笑みではない。
ミズキはよろよろ起き上がりながら、顔をクラウスに向けた。
「ご主人様……僕を撃って」
「ミズキっ!?」
驚嘆の声を上げたのは、誰あろう、ミズキを殺すと宣言したクラウス自身だ。先ほどまでの冷ややかさが瞬時に消えた。
「なぜそんなことを言う? おまえは俺とずっと一緒にいるんだぞ?」
「……だから、僕はご主人様と一緒に逝く。どこまでも」
「ミズキ……」
「必ず、僕のあとについてきて。僕、待ってる、から……」
ミズキはクラウスの軍服のパンツやジャケットに捕まりながら立ち上がると、そのままクラウスの胸に飛び込んだ。
「ご主人様、大好き……」
彼の大きな身体に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「だから、僕とずっと一緒にいて?」
「ミズキ」
二人の仲を引き裂くようなミハイルの声に、クラウスが顔を向けた。
「だったら、これも必要でしょう? ミズキ」
ミズキが持っている、クリスタライズのスイッチ。ミハイルは細いネックレス用のチェーンを通して首にぶら下げたそれを揺らしながら、クラウスに見せた。
「ミズキの心臓を引き裂いてやるとあなたは言いましたよね。ミズキを殺すのなら、これこそがふさわしい。これは彼のプライド。身も心も、骨の髄までミズキと共に旅立てますよ」
ミハイルはそれを引っ張り、勢いよくチェーンを引きちぎった。
「押せば1分以内に爆発します。ミズキ、あなたもそれでいいのですね? 老獪にあなたの命の手綱を握らせても?」
ミズキはミハイルに顔を向け、無言で頷く。
「ブライデン大将、それをこちらによこせ」
クラウスが空いた方の手をミハイルに伸ばす。
ギラリとしたその目に宿る、狂気の輝きを見て、ミハイルは悟る。
ーー彼は、本気なのだと。
ミハイルは手にしたスイッチをクラウスに向けて放り投げた。
弧を描いて飛んでいくミズキの命のスイッチ。クラウスの視線と意識が完全にスイッチに向き、ミズキに向けた銃の向きがわずかに逸れた。
クラウスがそのスイッチを受け取った瞬間。
「ミハイル!!」
突然響いた空を切り裂くようなミズキの音声に、クラウスは一瞬硬直する。
その隙を見逃さず、いち早く反応したのはミズキとミハイルだ。ミズキはクラウスの身体を勢いよく突き飛ばし、バックステップで距離を取る。同時にガァンと思わず耳を塞ぎたくなるような轟音が室内に響き、ミハイルの銃がクラウスの腕を撃ち抜いた。
白い海軍の軍服がじわじわと赤く染まっていくのと同時に、弾みでクラウスの手から飛んだクリスタライズの起爆スイッチが対峙する二人の間に落下した。
「それはこちらのものだ!」
ミズキに対して狂気ともいえる執着を持っているクラウスの方が早く反応し、そのスイッチを拾い上げると、高々と掲げあげ、不気味な笑みを浮かべた。
「みんな仲良く黄泉路へ行こうじゃないか」
「クラウス大将……っ」
「だが、ミズキと共に逝くのは俺だけだ」
クラウスは起爆スイッチを強く押しこんだ。何度も何度も執拗に押し込んで、それを自分の後ろに放り投げた。
「ミズキは渡さん……誰にも。クリスタライズの爆破の瞬間を目にするのは俺たちだけだ」
彼のハンドガンがミハイルの心臓に狙いをつけ、その引鉄がじわりじわりと引かれる。
「俺からミズキを取り上げるような奴は死ね!」
クラウスが放つ凶弾のライン上にはミズキがいる。
「ミズキ! 頭を下げて!!」
轟音が響き、凶弾が放たれる。それはまっすぐ、ミハイルの胸に向かっていく。
瞬間――。
ミハイルとクラウスの目の前で、赤い飛沫を飛び散らせながら、奇妙なダンスを踊る人形が、あやふやなターンを決め、ゆっくりと頽れた。
「ぐっ……」
その凶弾に倒れたのは――ミズキだ。
「ミズキ!!」
クラウスとミハイルが同時にミズキの名を呼ぶ。ミズキの右手と顔が真っ赤に染まっている。ぼたぼたと勢いよく噴き出る赤い命の雫。
ミズキは膝をつき、血まみれの手で顔を覆って呻いていた。
「ミズキ!」
悲鳴にも似た声でミハイルはミズキの名前を叫びながら、苦し気に呻くミズキに駆けよった。
「どこを撃たれた? 傷を見せて!!」
「ぼ、くは……大丈夫……」
「いいから!」
ミハイルが手を真っ赤に染めたミズキの手を取った瞬間。
それは本当に一瞬の出来事だった
「ミズキ!?」
ミズキがミハイルの手から、ハンドガンを奪い取り、クラウスに向けて引き金を引いた。
「うああああっ!」
ミズキの咆哮と共に放たれた弾丸の一発目はクラウスの腹に。そして2発目を撃とうとしたとき――
「ミズキ、あなただけを地獄へは行かせない」
ミハイルがミズキの手に、自分のそれを重ねた。
「ど…して?」
ミズキが驚いてミハイルを振り返る。
「墜ちるときは共に墜ちればいい。以前、私はあなたに約束をした。ずっとそばにいると」
「この国では犯罪者ですよ、僕は……」
「これは私が撃つ弾です。あなたは何も心配しなくていい」
血で滑ってしまわないように、ミハイルはミズキの手を包むように銃を支えた。
「クラウス大将、ミズキをこのように扱ったのは、立派な軍務規定違反です。ミズキを嬲った罪をその身で贖いなさい」
手に手を重ね、2発目が放たれる。1発目の激痛か、それとも寸前でミズキが裏切ったことへの驚愕か、かっと目を開いたクラウスの眉間にぼつっと穴を開き、そのまま彼は後ろのソファーへと倒れ込んだ。同時にミズキも床にぺたんと座り込む。
「ミズキ……大丈夫ですか」
ミハイルがミズキの肩を抱いて、ハンドガンをきつく握ったミズキの指を一つずつ解いていく。傷の痛みも手伝っていたのか、あまりにもきつく握りしめていて、ミズキ自身もハンドガンを手放すことを忘れていたようだ。
「さあ、傷を見せて」
ミズキの出血が止まらない今、あまり時間を掛けられない。
だがミズキは子どものように「やだ」といい、傷を見せようとしない。
「ミズキ、応急処置だけでもしないと」
「痛いからやだ」
弱々しい抵抗が返ってくるが、ミハイルは構わずミズキの手を取った。
「見せないといつまでも痛いままですよ。さあ、みせて」
血まみれの右の手のひらにはなにやらくぼみのようなものがある。きれいに洗ってみないとわからないが、おそらくクラウスの銃弾はミズキの手のひらを貫通したのだろう。
痛みはもちろんのこと、手が動くかどうかも怪しいのに、よくミハイルからハンドガンを奪い取って撃てたものだと感心する。
ならば血に染まったミズキの顔は?
その手のひらを負傷した血がべったりとついたものか。
不意にミズキの身体から力が抜けるのを感じ、ミハイルはミズキの身体を支えながら、床に座らせた。
痛みで気を失ってしまったのだろう。ミズキのクリスタライズが起動していないことを祈りながら、ミズキの胸に手を当てたが、彼の胸は弱い鼓動を刻んでいるだけで、熱感は感じられない。
クリスタライズが起動すると、爆薬が埋められている場所がちりちりと炎に炙られるように熱くなるという。それは外から触ってもわかるようで、起動した爆薬を抱えた本人は恐怖と苦痛の1分間を過ごすことになるーー人づてに聞いた話ではあるが。
さっきクラウスがスイッチを押してしまった。
このままか、それともー?
「どのみち運命は数秒後ですか……」
運命のカウントダウンが始まっている。しばらく意識のないミズキを支えたまま、ミハイルはじっとしていたが、幸運にもクリスタライズが動いている様子もない。
「ふう……なんとか助かりましたね」
ミハイルはほっと安堵の息をついた。
ミハイルはミズキの頭を自分の肩にのせた。お腹いっぱいの赤ん坊にミルクを吐かせるような格好になり、ミハイルはミズキの背を優しく撫でる。
「ミズキ」
声をかけるが、ミズキから返事はない。
これだけの傷を負ったのだ。出血もひどい。早く軍医に見せなくては、このままではミズキが死んでしまう。意識がなくなったという事は、いよいよ猶予がない。
「とっさの判断とはいえ、やはりあなたは、戦局を見て風向きを変えられる。私が見初めた宝石は窮地に立たされた時ほど、その光で奇蹟を呼び起こす……流石です」
ミハイルはくったりと動かないミズキの頭をなでていたが、急速に肩口に広がってくる湿り気は衣服をぐっしょり濡らし、その感触が肌にまで到達した。
「ミズキ?」
不安を覚えてミズキを床に寝かせる。肩を見れば、自分の黒い衣服に赤いものが浮いている。ミズキの出血は手だけではなかったのか。
「ミズキ!」
ミハイルは血に濡れ、べっとりと額にくっついているミズキの 前髪をそっとどけた。
「――これは!」
手の出血など非ではないものが顔――ミズキの目からどくどくとあふれている。
「まさかミズキ!?」
血を流すミズキの右目に触れる。人間、目を閉じていれば瞼があるはずなのに、ミズキの右目に瞼の感触はなく、何か固いものが触れる。
そう言えば、ミズキの手のひらを貫通した弾丸を見ていない。
まさか、まさかー。
「冗談でしょう……っ?」
ミハイルは動揺する自分をなんとか抑え、尋問室の壁に走り、そこにあった内線をとる。
「尋問室に救護隊を派遣してください。負傷者2名! 早く!」
ミズキの命が尽きる前に。
早く、早く――。
ミズキは素裸でコンクリートの床に横たわっていた。
裸電球がゆらゆら揺れている。全身が軋むように痛くて、なにより吐き気がひどい。
ここに連れてこられてから時間がどれくらい経ったのかわからないが、クラウスが出て行ったので多分夕方か夜なのだろうと思った。
クラウスは1日2回ほど、この部屋を出ていく。戻ってくると手にはパンや水、そしてミズキに断続的に与えられる「栄養剤」を手にしている。
この部屋には簡易トイレはあるが、浴室がない。なのでクラウスは食事と一緒にバケツに温水をくんで持ってくることがある。それがだいたい夜だ。
クラウス自身が「夕食のあとは風呂だな」といい、裸のミズキにバケツの温水を浴びせかける。それが時計の代わりみたいになっていた。
ミハイルの部屋にいたときは、入浴後、ミハイル自身が必ずふかふかの大きなバスタオルで身体を拭いてくれていたが、クラウスはそんなことをしない。
だからお湯をかけられたところで濡れた身体がどんどん冷えるから、寒くて仕方ないのだが、歯をカチカチいわせて震えていると、「暖めてやろう」と言われ、激しく抱かれる。
(もう疲れた……)
ろくに食べてもいないし、もう抵抗する気力もない。衣服は全てはぎ取られているから、体温も冷たい床に奪われていくばかりだ。
何となく感じる。自分はもうそんなに長く生きていられないだろう、と。
心身ともにボロボロなのに、それでもディスタンシアで男たちに抱かれていたのを身体は良く覚えていて、自然と男をとろかし喜ばせる表情をクラウスに向けてしまう。
そうすれば終わることのない、爛れた儀式が始まるのだ。
外でガシャンと音が響いた。重く大きなその音は、ドアロックが解除された音だ。さっき出て行ったのに、クラウスが戻るのが今日は早い。
最近ではクラウスの膝に座って、彼のものを受け入れている事が多い。食事も水も快楽も苦痛も、すべてクラウスから与えられる。身体の中で蠢く凶悪な熱核を味わいながら、クラウスに身体を預けている。
クラウスはとにかく貪欲で、萎えることを知らない男だった。アルベルトとのことをかなり訊かれたが、その内容はアルベルトの消息より、彼がどうやってミズキを抱いていたのかということのほうが多かった気がする。
何と答えたかは良く覚えていないが、最近のクラウスは薬のほかに妙な器具まで使うようになり、自身が疲れるとミズキの前にも後ろにも性具を挿入して、その痴態を楽しんで見ている。
T字の形をした白い性具、真ん中の軸の部分がミズキの隘路に入り、Tの横棒の端がミズキの会陰に伸びて、くにくに当たって気持ち悪い。
それが今もミズキの尻に埋まっている。
その器具は、ミズキ自身がじっとしていても意志を持ったように暴れ出す。クラウス曰く、「その器具には何もない。吠えるほどの刺激は、おまえの身体が勝手に感じているだけだ」とせせら笑いながら、器具から延びる取っ手を激しく揺すられる。
ミズキはもはや我を忘れて獣のように咆哮しながら、その電流のような激痛に耐えるしかなかった。
いずれ天に昇るほどの快楽をもたらすというが、この器具はミズキにとって、痛みをもたらす以外のものではない。
クラウスが帰ってきたなら、この器具を抜いてもらうように頼まなくちゃ――そう言って痛む身体を無理やり起こす。
扉が開いた。
「ミズキ」
この声は――クラウスじゃない。
視界がぼんやりして、それが誰なのかよく見えない。背が高い黒い影。その姿をミズキは覚えている。
「……ハ……ル……?」
のどが貼りついてうまく声がでない。この声はあの人だ。ミズキにいろんなことを教えてくれた人の声。幻じゃなくて本物なのか。触れて確かめなくちゃ。
こんな、こんな掃き溜めみたいな場所にミハイルがくるなんて……ありえない。
赤ん坊がずりばいをするように黒い影に近づこうとしたが、それより早く影がミズキに駆け寄ってくる。
「ミズキ!」
ミズキの身体が抱き起こされる。
「ああミズキ、なんてこと……!」
冷たく冷え切った素肌に人の温もりを感じ、ミハイルのフレグランスがミズキの鼻腔をくすぐる。精液の匂い以外の清冽な香りが新鮮で心地いい。これは安心できる香りだ。
「ミズキ、ミズキ! 私がわかりますか?」
「……う、ん……」
かすれた声でやっと返事を返す。もっともっと話したいことがあるのに、吐き気と頭痛が襲いかかる。
「ミズキ、無理にしゃべらなくていい。ちょっと腕を見せなさい」
「注射、するの……? あれ、やだ……」
「そんなことしません。さあ見せて」
ミハイルが手際よくミズキの腕を確認するが、とある一点でミハイルの顔が硬直した。
「この痕は……。老獪め……!」
紫色に腫れ上がったミズキの腕を見て、ミハイルが悲壮な声を上げ、力無く首を横に振る。
「あの老獪はどれだけの薬を……」
「栄養剤だって……言ってた……」
「本当に栄養剤なら、老獪を蹴り飛ばせるくらいピンピンしてるはずです。こんなにあなたが衰弱するわけがない。ミズキ、あなた最近ちゃんと眠りましたか? 吐き気は? 頭痛はないですか?」
「寝てない……。それで気持ち悪い……お尻も……」
「お尻?」
ミズキはしきりに尻朶を床にこすりつけていた。身体の中で自分の意志とは無関係に牙を剥くこの器具を抜きたかった。
クラウスは「じきに気持ちよくなる」とは言っていたが、正直なところ快楽より激痛の方が先に来る。
その器具が地面に当たるとザリッザリッと音がする。その音にミハイルが気づいた。
「ミズキ、足をあげて。私に見せて」
そのまま腕を差し入れられ、ミズキの膝裏がすくわれる。
「少し我慢して」
「いや……」
子どもがおしめをかえるような格好にされて恥ずかしくてたまらない。ミズキは足を下ろそうとしたが、ミハイルがそれを許さなかった。
「ミズキ、これは?」
「わかんない。でもこれ、痛い、痛いんだ……」
ミズキが痛がるのをみて、ミハイルは眉根を寄せ、ミズキの尻から延びる器具の先端に指をかける。
「抜いて良いですか?」
「抜いて。これ、いや……」
「一気に抜きますよ」
「ん……」
腹に少し力を入れた瞬間、中の器具が暴れ出した。
「うああああ!!」
「ミズキっ?!」
「いやあっ! 痛い、痛いぃぃ!!」
激しい痛みにミズキの全身が波打つ。急に始まったこの状況にミハイルも驚き、ミズキをきつく抱きしめる。
「ミズキ!」
恐慌を退けるのは、いつだってこの方法だった。
「ミズキ、落ち着いて。どこが痛い!?」
「抜いて、ぬいてぇ、お願い……!」
「抜く……?」
「お尻の……お尻の、とってぇ!!」
ただでさえ拘束と性交の日々で身体はとっくに限界を迎えている。それなのに激しい刺激を予測なしに与えられ、ミズキは涙を流しながら、カッと目を開いてミハイルに縋る。ミズキの茎もきつく立ち上がり、先端が何かを吐き出そうとしてぱくぱくと動いている。
「も、もういや……これ、いやだぁぁぁ……」
のたうち回る体力もなく、ミズキは激痛を呼吸で逃がしながら、息も絶え絶えになってミハイルに懇願する。こんなことを続けられたら、気が狂ってしまいそうだ。
「ミズキ、抜きますよ。少し我慢して」
「ああっ!」
ズルンと粘膜ごと引きずり出されるような感覚とともに、中に隙間が出来たようだ。
全身から力が抜け、苦痛から解放されて、ミズキはやっと大きく息をはく。
ミハイルはミズキから抜いた器具をいろんな角度から眺めていたが、忌々しげにそれを背後に放り投げた。
「ミズキ、大丈夫ですか?」
「ありがと……抜いてくれて……」
「あれは使い方によっては、激痛しか与えないものです。あんなものをあなたに押し込んで、あの老獪はいったいあなたをどうしようというのか……理解に苦しむどころか、もはや怒りしかない」
「でも僕は、そうしないと……」
「誰があなたにそんな義務を課したのです?」
「ご主人さま……が」
「ミズキ、老獪がそう呼べとあなたに強要しているのですか?」
「……だって」
「聞こえませんよミズキ」
ミハイルはミズキを抱きしめたままで、彼の口元に耳を寄せた。
「ミズキ。さあ、私に教えて」
「だって言う事聞いたら……家に……あなたのもとに……帰してくれるって……」
「なんですって?」
ミハイルが驚いて聞き返し、ミズキを見る。
「私のもとに帰りたいから、老獪の言う事を聞いていたのですか?」
「うん……」
ミズキは腕を伸ばして、ミハイルにしがみついた。ミハイルにとってはミズキの存在など迷惑なだけかもしれない。だけど、今のミズキには、帰る場所はそこしかない。
生きるも死ぬも。その場所しか。
「……僕、どうせ死ぬなら…。その場所は…」
ミズキの中で感情が大きく揺すぶられた。胸の中で大きくうねるこの波が何なのか、ミズキにはわからなかった。
だが、知らずに涙があふれてくるほど、ミハイルのそばにいるこの瞬間がとても嬉しくて幸せで――苦しい。
「もう僕、ここでいい。今すぐあなたの手で僕を殺して……」
「ミズキ……」
「なんだかわからないけど、僕、あなたの腕の中ならなんにも怖くないんだ。ずっとこうしていてほしいって思う……頭がごっちゃになってよくわからない……けど。僕、あなたと離れるのは、もう嫌だ……」
「ミズキ、あなた……」
ミハイルが悲しそうに目を細めた。
「私のことを嫌いになりなさいと、私はあなたに言いませんでしたか」
「言った……」
「私はあなたにひどいことをしましたよ? 嫌がるあなたを抱いたりもした。なのにどうして?」
「わからない……」
「わからない?」
「でも僕、あなたとずっと一緒にいたいって……思うんだ。だからあなたのもとに帰りたい。帰れないなら、あなたの手で僕を……」
「ミズキ……っ!」
ミズキの細い身体が急に強い力で抱きしめられる。痩せ細った身体が折れてしまいそうなほどの強い力。呼吸が苦しくなるのに、この腕は温かくて――切ない。
「ミハイル……ごめんなさい」
「何がです?」
「僕、あなたを嫌いになれなかった……」
「ミズキ……」
「ごめんなさい。本当に……ごめん、な…さい」
許されないとわかっていても、ミハイルの体温をもっと感じていたくて、彼の背を抱き返そうとしても、身体に力が入らない。
こんなにぼろぼろで、薄汚れた自分。誰だって触れるのも嫌だろうに、ミハイルはただただミズキを抱きしめてくれる。
この腕が海なら、もうこのまま沈んでしまいたい。この腕の中で時も呼吸も止まればいい。
「ミハイル……」
この地下室に連れてこられてから、彼の名前をまた呼べる日が来るなんて、思ってもみなかった。ミズキをしっかり抱きしめてくれている人がいる――これは間違いなく現実だ。
「ごめ……なさい……。僕、あなたのそばにいたい……。初めてなんだ、こんな感情……なんだかおかしいんだ、僕……」
「ミズキ、私もあなたと同じです」
「え……?」
ミハイルはミズキを裁く人だ。それなのに、何が彼と「同じ」なのだろう。
「それって……?」
「初めての感情でよくわからないとあなたは言った。それを恋と言うのですよ」
「こ、い……?」
「今の疲弊したあなたでは、私の告白を理解するのは難しいでしょう。大丈夫、これは私の独り言。忘れてください」
ミハイルの声が、ミズキの頭の奥に鈍い痛みを発生させる。
「僕、ぼ、く、は……」
「そんなことよりミズキ、あなたが生きていて良かった……」
完全には壊されていないと、ミハイルは微かに笑った。
「薬の量が心配でしたが、まだ喋れるようで安心しましたよ。さ、ミズキ、ここから出ましょう」
「だめ……それ、出来ない……」
「どうして。歩けないなら私があなたを抱き上げて連れて行きます。心配しなくていい」
「ち、がう……」
ミハイルの腕から逃れようともぞもぞ動いていると、またも重い金属音が室内に響いた。ロック解除の音だ。
「かえって、きた……ごしゅじ、さま……」
「ミズキ? あなた何を言ってるのです?」
「僕、行けない……ミハイルといっしょ、いけ、な……」
「ミズキ? どうしたのです」
「逃げて、ミハイル……逃げて……っ!」
ミズキはいやいやと子どものように力なく首を振りながら、ミハイルから逃れようとする。
「ミズキ……?」
怪訝そうに首を傾げるミハイルの後ろで、かつんと靴音が響き、ミズキとミハイルの上を陰が覆う。
ミズキの目がミハイルの背後に飛び、その姿を見て全身が恐怖で震える。
「ごしゅじ……さ、ま……」
「ご主人様ですって?」
ミハイルも後ろを振り返った。
「海軍大将殿……」
二人の目の前にいたのは、美髯公と謳われる長く美しい髭を蓄えた海軍大将。
「ミズキ、おりこうにしていたか?」
ミズキを抱き起こしているミハイルには一瞥もくれずに、クラウスはミズキに向かって優しく笑いかけた。
「俺が帰ってきて嬉しいか?」
「はい……」
嬉しいと返事をしたくせに、ミズキの身体は本能的な恐怖を感じて、カタカタと震え出す。
「そうか」
ミズキが頷くと、クラウスが鷹揚に頷いたが、その声は堅く、感情がこもっていない。
「ようこそブライデン陸軍大将。なんでもミズキの証拠品を持ってきてくれたと部下から聞いた。ご苦労だったな」
クラウスはゆっくりとした足取りでミハイルの向かいに回ると、ミズキのそばに腰を落とし、ねめつけるようにミハイルを見る。
「しばしの再会は楽しめたか、ブライデン大将よ」
「……あなたはミズキをこんな姿にして、ここで何をなさっていたんですか」
「尋問に決まってるだろうが」
「脱走疑惑の取り調べにしては、ずいぶん趣向も方向も違う調べを行っているようですが?」
「建物の3階から飛び降りるような脱走の天才だぞ? 一糸纏わぬ姿にして、身体検査を行わないと、尋問中に逃げられては困る」
「妙な器具を使い、罪人にご主人様と呼ばせているなんて、一体どんな取り調べでしょうか。今すぐ釈明願おう。それが出来なければ、この戦犯は私の管理下にある人間。連れて帰ります」
「連れて帰るだと?」
クラウスの声が不気味に低さを増した。
「それはどこだ。貴様の褥か?」
クラウスの目が据わり、ギラリとした光を帯びる。
その視線は、暗闇からミズキを逃しまいと現れた数多の腕のようだ。
きっとミズキがミハイルと共に行くことを、クラウスは許さないだろう。
それでも、ミハイルがここから連れ出してくれるかもしれない、わずかな可能性を信じてもいいだろうか。
ミズキはミハイルの腕に頬をすり寄せた。
もう彼の腕を掴む力も残っていない。せめて彼の領域から引きずり出されないよう、ミハイルに少しでも寄り添っていたかった。
「ミズキ、おまえ、外に出たいのか?」
「だして……くれる……?」
「ミハイルと共に行きたいのか?」
「いき……たい……。いかせて……」
弱々しく尋ねるミズキの頭を、クラウスの大きな手が優しく撫でる。
「ではいかせてやろう」
言うや否や、クラウスはミハイルの腕からミズキを奪い去る。
「ミズキ!」
「ブライデン大将、貴様にいいものを見せてやる」
クラウスは無言のまま、ミズキを肩に担ぎ上げ、部屋の隅に置いてあるソファーに向かう。そこにミズキを放り投げると、そのまま覆い被さってくる。
「ふわっ……」
クラウスの体重が痩せた身体にかかり、身動きも出来ないまま、唇を彼のそれで塞がれる。
「ん、んん……」
こんなところをミハイルに見られたくなくて、クラウスを押し戻そうとするが、そんな抵抗は蚊が刺したほどにも効いてない。すぐに脚を拓かされ、クラウスの太い節くれた指がミズキの菊花の中心に入り込んできた。
すでに熟れて柔らかくなっている蕾は、くちゅと音を立てて、クラウスの指をおいしそうに舐めしゃぶっている。
「あっ、ああ、ん……」
入口をくにゅくにゅ弄られていると、身体の中にたまるのは欲求不満ばかりだ。
身体も精神も疲弊しきっていてミハイルを抱き返すことすらできないのに、本能は激しく重い快楽を求めて疼きだす。
「だめ……こんなの、いや……」
「いきたいと言っただろう。だからイカせてやる。大好きなミハイルに、おまえと言う人間の正体を見せてやるがいい」
「いや、やだぁっ……!」
「それはもっとやってくれと言う裏返しか? ん? ミズキ」
「違う、ちがぅぅ……」
「おまえはこの部屋で、俺に激しく抱いてくれと何度もねだっただろうが。気持ちいいことをしてくれ、と。さあミハイルにおまえのいやらしい姿を見せてやれ」
「いやだぁっ!」
浅い場所を動き回る指が、いきなり深くもぐりこんだ。
「あうぅ!」
とある場所をかするたび、ミズキの身体が弓なりにしなる。
白い器具でひっきりなしに刺激されていたその場所は、もはや痛みしか生み出さない。ミズキにとっては拷問に等しいものだ。
「痛いぃ! いや、やめて! そこは嫌だ……っ」
強い電流を浴びたような激痛が内臓の奥深くまで走る。ぎゅっと閉じた目じりから涙が溢れ、クラウスがもたらす激痛に耐えていた。
「助けて……。ミハイル……」
涙で歪んだ景色の中、黒い影がミズキをじっと見ていた。その影に向かって、ミズキは救いを求めて左手を伸ばす。
「ミハイル……僕を……撃って……」
「ミズキ……」
ミハイルが悲しそうにミズキの名を呼ぶ。
耐えられない。ミハイルの前で、こんな風に抱かれるのは。
「僕を殺して!!」
「うるさい口は塞がねばな」
叫んだ瞬間、クラウスに唇を塞がれる。
ミハイル以外の男に、この身体を好きにされ、あまつさえ大好きな人の前で凌辱されるくらいなら、死を選んだほうがましだ。
「いや、もういやぁぁ……!」
「ミズキっ!」
ミハイルは懐から銃を取り出した。狙いはクラウスの頭だ。
「海軍大将殿、ミズキから離れてください。さもなくば……」
「撃つというのか? 面白い、ならば撃ってみろ」
クラウスはミズキから指を抜くと、身体を起こした。そのまま腰のホルダーに手を伸ばし、自分のハンドガンを取り出すと、くったりと横たわるミズキの頭に銃口をごつりと突き付ける。
「ミズキは誰にも渡さん。おまえがその銃弾を俺に向かって撃った瞬間、俺はミズキを殺す」
「クラウス大将、いったいなぜ、そんなにミズキに執着するのですか。あなたが知りたかったのは、ハノン大将の消息でしょう」
「ああそうだ。俺の親友であるアルベルトの行方を知りたかった。生きてるのか、死んでいるのかそれすらも分からん。だがミズキが教えてくれた。アルベルトはディスタンシアの要人だと。そして……ミズキはあいつに抱かれていたと」
「それは……ミズキが正気を保っているときの答えですか」
「こいつは薬を打って激しく抱いてやれば、素直に何でもよくしゃべる」
薬で朦朧としているところに、核心的な質問を浴びせ、強引な繋がりでミズキから答えを引き出した――そんなものは自白でも何でもない。ミハイルは唇を噛む。
自白剤などと言うものは、自分からペラペラしゃべりたくなる類の薬ではない。薬によって、対象の意識と思考能力を麻痺させて行う誘導尋問のようなものだ。
たいていの場合、薬による取り調べは対象の脳に激しいダメージを与えてしまううえ、その答えの信憑性も薄くなる。
効果的に使える場合もあるが、それにはさじ加減と質問者の言葉選びが重要だ。『その物体の色は白かっただろう』と物事を決めつけて質問を投げかければ、対象は無意識に『そうだ』と答える。
対象は薬によって考える力を奪われているから、聞かれたとおりのことを肯定する方が楽なのだ。自白と言うよりは、火のないところに煙を立てて、あるはずのなかった罪を作り、なすりつけるようなことになってしまうこともある。
クラウスはこうした薬物にも明るい男だから、使えばどうなるか知っているはずなのに。
「その顔では、貴様もアルベルトが姿をくらました理由を知っているようだな?」
「残念ながら私は知りません。ただ、ハノン大将は終戦の数日前まで存命していたはずです」
「ほう……?」
くったりと人形のように全身から力が抜けてしまったミズキを、クラウスは無理やり抱き起こし、そのまま自分の胸の中に引きずり込んだ。
ミズキはもともと色白の肌だったのに、この部屋で行われた激しくも淫らな交合のせいで、全身にあざや内出血斑がいくつもあるうえ、あばらが浮いてしまっている。
「ミズキ……」
彼の命が残り少ないのがその身体から見て取れた。
唇を噛むミハイルをちらりと見やり、クラウスはミズキの顎を撫でながら耳元で囁いた。
「アルベルトが帰ってこない理由はこいつを抱いて分かった。この身体は極上だ。どうせ貴様も、ミズキに堕ちた一人なんだろう。だから傷ひとつつけずに特別扱いして、時間稼ぎをしていた――違うか」
クラウスは言いながらミズキの顎を掴んだ。涙やクラウスの体液でドロドロになったこの顔をよく見ろとばかりに、力任せにミハイルの方を向かせられる。もうミズキはクラウスにされるがままだ。
クラウスはミズキの耳朶をぺろりと舐めながら、耳元で囁いた。
「ミズキ、ほらミハイルがおまえを見ているぞ。さあ今のうちに奴をしっかり見ておけ」
「ミハ、イル……を?」
「おまえがアレを目にするのは、今夜が最後だ。その時は……」
銃口がミズキの胸の傷をそっとなぞる。
「この傷の中にあるおまえの心臓を引き裂いてやる」
もともとこの傷はちゃんと塞がってはいない。グスタフを見つけてミハイルの部屋から飛び降りたときに少し開いたままになっている。毎日ミハイルが消毒をしてくれ、傷は快方へと向かっていたが、クラウスに捕らえられて以来、開いた箇所から雑菌が入り込んだのだろう、皮膚が熱をもって少し腫れていた。
「う……」
銃口が敏感な傷口に触れ、胸の皮膚を薄く縦に切り裂かれるような疼痛を感じ、ミズキは身を捩る。
ミズキはぼんやりとミハイルの姿を見ていた。
「僕、どうなるの……」
「おまえはずっと俺と一緒だ。だが、ミハイルと話をしなければならない。おまえにとっても興味深いだろう。楽にして聞いているといい」
ミズキにとって興味深い話なんてないはずだと思いつつ、クラウスに身体を預けたまま、朦朧と成り行きを見守る。
クラウスはミズキのこめかみにゴリっと銃口を押し当て、「さて、続きを聞こうか」とミハイルを促した。
「アルベルトが終戦の数日前まで生きていたのを、なぜおまえが知っている。アルベルトが姿をくらましてかなりの年がたつ。俺は方々あいつを探した。ディスタンシアもリーベットも。あらゆる情報網を駆使したつもりだ。しかし、あいつの足取りがどこまであって、どこで途切れたのか、その痕跡すら俺は見つけられなかった。それなのに、なぜおまえが知っている」
「そのわりには、無二の親友がミズキとの情事に溺れて出奔したとお思いになっている。そんなあなたがまったく哀れで気の毒ですが、それでもまだ、あなたはハノン大将を信じていられるのですか? 私の話すことを、あなたは真実だと受け止められるのですか?」
クラウスは黙したまま、ミハイルを見据えていた。それは怒りなのか、それとも動揺なのか。彼の心の動揺は揺れる双眸に顕れていた。
「私はハノン大将とグリーンゾーンで時折会っていました。最後に会ったのは、終戦目前です」
「なんだと……?」
「グリーンゾーンはご存知の通り、非戦闘地域。ハノン大将はよくディスタンシアのシナモンティーをグリーンゾーンで買っていました。私は彼とそこで出会うことがあったので、軍の事や家族のこと、ミズキのことなどいろいろ話し、彼を説得もしました」
「説得だと? 何の説得だ」
「クラリスに戻る気はないのか、と」
「……っ!」
クラウスが絶句する。
自分はずっと親友の帰還を信じていた。戦争が終わってもなお、生きているか死んでいるかも定かではない深憂。それでも自分と可愛い娘を遺したままにはしないと、今も信じている。
「あいつは……何と答えたんだ。戻るのか、戻らないのか」
アルベルトはきっと、ディスタンシアで何か極秘の任務に当たっているだけだ。だから戻れないのだ。
何につけても仕事優先の男だったから――きっとそうだ。
「あいつは何と答えたんだ!!」
悲痛さが滲むクラウスの問いに、ミハイルは目をわずかに伏せ、ややあって重い口を開いた。
「クラリスには……戻らない、と」
「なぜだぁ!!」
クラウスはミズキを突き飛ばし、その場に立ち上がる。
「なぜあいつはあんな薄汚い国に留まる!? あんな国に何があるというんだ!」
「私にもわかりません」
「あんな瓦礫ばかりの国に、あいつの心を掴むものがあるというのか!? いや、そんなはずはない。あの国は、こんな風に人の心を惑わす魔物を生み出した国じゃないか!」
クラウスはまくしたてると、銃口を床に転がるミズキに向けた。
「こいつは化生だ。身体ひとつで人の心を操る魔物だ。ディスタンシアはそういう国だぞ」
「クラウス大将」
硬い声でクラウスを諫めると、ミハイルは先を続けた。
「ハノン大将は多くを話しませんでした。彼が何の経緯でディスタンシアにいるのかは知りませんが、彼はディスタンシアのサンドストーム部隊のシュトラウス隊長と懇意にしていたようです」
「ディスタンシアの……サンドストーム隊だと……?」
「クラウス大将ならよくご存じでしょう。ディスタンシアの暗殺部隊。そして……我が国の要人を次々と暗殺し、組織を混乱に陥れ、クラリス全軍を本気にさせたミズキ・ブランケンハイムを異色光彩の狙撃手へと育て上げた隊」
「だからといって、なぜアルベルトはディスタンシアに留まる?」
「ハノン大将は『自分はクラリスを裏切った反逆者』だと言っていました。だから本国に戻らないのだと」
「あいつが母国を裏切っただと?」
「しかし、私はそうは思いません。ハノン大将は、母国を裏切ったわけではない……と」
グリーンゾーンでのつかの間のひと時を思い出しながら、ミハイルは続けた。
「ハノン大将は地位や名誉、家族など、自分の全てを棄ててもかまわないほどの運命に出会ったのだと私は思っています」
グリーンゾーンはしばし戦闘を忘れられる場所だが、同時に平和をこの手で壊している自分の愚かさにも気づく場所だ。
戦禍の影も恐怖も苦しみもないのに、グリーンゾーンの空は透き通っていた。
美しすぎるその空の彼方では、嘆きと苦痛、憎しみと悲しみが渦を巻いて空を灰色にしているのに、グリーンゾーンの空は美しかった。いつだって。
そんな場所での、つかの間のひと時を思い出す。
アルベルトはよく『あいつにもここのカフェの紅茶を飲ませてやりたいんだがなぁ』と目を細めていた。
早く戻らないと、『あいつ』がうるさいと、苦笑していたが、その表情に悲壮感はなく、幸せに満ちていた。
戦争はディスタンシアにとって、確実に破滅へと向かっているのに、アルベルトの笑顔に諦めの色も影もなかった。
『あいつ』のことを話す時、アルベルトは慈愛深い笑みを浮かべていた。
仲間に向けるものでも、家族に向けるものでもない。自分の命を賭けても惜しくない、かけがえのない存在に向ける、あの優しい微笑みをミハイルはいつだって思い出せる。
ミハイルはその時にシュトラウスの名前と所属を知り、悟った。
「きっとハノン大将は、ディスタンシアで運命の相手と出会った――私はそう思っています」
「それが……それがまさか……っ」
「ハノン大将がシュトラウス隊長のことを話す時、彼の表情は、汚れも打算も何もなく、とても穏やかだった。人間の心からの優しさが溢れていたように思います。そして戦争は終わり、終戦の日に起きたディスタンシアでの謎の爆発。確かなことは闇の中です。何もわからない。けれど私は、ハノン大将もシュトラウス隊長も、もうこの世にいないと考えています」
「あいつがこの俺とジュリアを置いて……薄汚いディスタンシアの人間なんかと逝ったというのか!」
「ミズキから聞いたのでしょう? ハノン大将はもはやクラリスではなく、ディスタンシアの要人だったと。ならば、この戦争の責任を取る立場にあるはず。彼なら…いや」
ミハイルはいったん言葉を切り、そして続けた。
「彼らなら、おそらく潔く死を選ぶでしょう」
「そんなわけあるか! あいつはクラリスの軍人だぞ」
「でも、故郷を棄てた。愛した仕事も家族も。そして――あなたも」
空気が一瞬にして変わる。
今までクラウスを纏っていた、わずかばかりの余裕がそこから消し飛んだ。
怒りの矛先はミズキに突きつけている手に顕れていた。言葉に出来ない激しい怒りがその引き金にかかる指先に集中し、銃身が異常に震えている。これではクラウスがうっかり撃ってしまいそうだ。
ミハイルはその様子を冷静に見守りつつも、冷厳な態度を変えなかった。
クラウスという男は、熱しやすい。怒りで己が見えなくなったときが好機だと、その瞬間を伺っていた。
「そしてあなたは、親友のためだとか偉そうなことを言ってるが、所詮はミズキの身体に溺れただけ。男を抱く快楽を知ってしまって、セックスを初めて知った子ども……いや、盛りのついた犬のようになってしまった。だからミズキを離せなくなった。そうでしょう?」
「貴様……っ!」
「親友への思いを建前にして、自分の欲情を抑えきれなくなった……同じように同性に心惹かれたであろうハノン大将とあなたではまるで違う。もっともらしい戯れ言で、ミズキをただの性処理として扱うあなたが、ハノン大将と並び立てますか?」
クラウスにとって、親子ほども年が離れているミハイルの論破は、正論という弾丸をこめたマシンガンで全身をぼろぼろの蜂の巣にされる様な屈辱に違いなかった。
しかも反論の時間を与えず、淡々と畳みかけてくる。怒りがすでに沸点に達しているのか、クラウスはぶるぶると全身を震わせている。
「……なぜあいつは、おまえなどに陸軍を渡したんだろうな。まったく、貴様が海軍にいなくてよかった」
「私の地位に関することでしたら、ハノン大将に直接どうぞ。私は思ったことを正直に述べただけに過ぎない」
「正直すぎると、いいことはないぞ」
クラウスは静かに恫喝すると、持っていたハンドガンの撃鉄を下げた。
弾丸が装填されているシリンダーがゆっくりと回る。
「俺もおまえも、そしてあいつも、こんな化生に心を掴まれているから、どうかしているに違いない。ミズキをここで殺せば、俺たちは幻から覚めるかな?」
「――!」
勝手な言い分だが、クラウスにはどうも図星だったようだ。
ミズキを盾にするだろうと、ある程度は予測したものの、まさか本気でミズキを撃つつもりか。
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「銃をこちらに向けておいて、俺にやめろとでも言うつもりか。説得力の欠片もないな」
ミハイルは対峙したまま、クラウスに説得を試みるが、本気で怒った彼には、もう何を言っても、言葉も気持ちも届かないだろう。
人間、激昂より冷静な場合の方が怖いのだ。すべてを理解して行動しているから、その動きにミスも隙も無い。
とりわけ、こんな命を賭けた局面では。
「陸軍大将よ、あいつは本当にもう帰ってこないのか?」
「……わかりません。消息は何も」
「今まで長いこと待った。あいつのことをずっと。待ちくたびれて、こんな子供の身体に溺れてしまって、俺は軍人としての誇りも忘れた。だがな陸軍大将よ」
「……なんですか」
「俺はミズキを手放す気はない。こいつだけは俺が天国へ連れて行く。誰の手も届かない場所で、俺はこいつと永遠に生きる」
「最後にもう一度聞きましょう。なぜそんなにミズキに固執するのです?」
クラウスからその答えをもらっていない。ミハイルはハンドガンを向けたままで訊ねた。
「こいつだけは、俺から離れなかった」
「――えっ?」
「あいつも戻らない。俺のそばにはもう、誰もいない。だけどミズキは違う。こいつはずっと俺のそばにいた。俺から離れることなく、俺を受け入れ、俺のことを求めた。こんな時代に見つけた俺だけの宝だ。だから渡さん」
(ミズキ……)
クラウスの足元に転がるミズキが、わずかに顔を上げた。
その瞳が、ミハイルを見つめている。
口元に穏やかな笑みを浮かべて。
だけどそれは、命の灯が消える間際の笑みではない。
ミズキはよろよろ起き上がりながら、顔をクラウスに向けた。
「ご主人様……僕を撃って」
「ミズキっ!?」
驚嘆の声を上げたのは、誰あろう、ミズキを殺すと宣言したクラウス自身だ。先ほどまでの冷ややかさが瞬時に消えた。
「なぜそんなことを言う? おまえは俺とずっと一緒にいるんだぞ?」
「……だから、僕はご主人様と一緒に逝く。どこまでも」
「ミズキ……」
「必ず、僕のあとについてきて。僕、待ってる、から……」
ミズキはクラウスの軍服のパンツやジャケットに捕まりながら立ち上がると、そのままクラウスの胸に飛び込んだ。
「ご主人様、大好き……」
彼の大きな身体に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
「だから、僕とずっと一緒にいて?」
「ミズキ」
二人の仲を引き裂くようなミハイルの声に、クラウスが顔を向けた。
「だったら、これも必要でしょう? ミズキ」
ミズキが持っている、クリスタライズのスイッチ。ミハイルは細いネックレス用のチェーンを通して首にぶら下げたそれを揺らしながら、クラウスに見せた。
「ミズキの心臓を引き裂いてやるとあなたは言いましたよね。ミズキを殺すのなら、これこそがふさわしい。これは彼のプライド。身も心も、骨の髄までミズキと共に旅立てますよ」
ミハイルはそれを引っ張り、勢いよくチェーンを引きちぎった。
「押せば1分以内に爆発します。ミズキ、あなたもそれでいいのですね? 老獪にあなたの命の手綱を握らせても?」
ミズキはミハイルに顔を向け、無言で頷く。
「ブライデン大将、それをこちらによこせ」
クラウスが空いた方の手をミハイルに伸ばす。
ギラリとしたその目に宿る、狂気の輝きを見て、ミハイルは悟る。
ーー彼は、本気なのだと。
ミハイルは手にしたスイッチをクラウスに向けて放り投げた。
弧を描いて飛んでいくミズキの命のスイッチ。クラウスの視線と意識が完全にスイッチに向き、ミズキに向けた銃の向きがわずかに逸れた。
クラウスがそのスイッチを受け取った瞬間。
「ミハイル!!」
突然響いた空を切り裂くようなミズキの音声に、クラウスは一瞬硬直する。
その隙を見逃さず、いち早く反応したのはミズキとミハイルだ。ミズキはクラウスの身体を勢いよく突き飛ばし、バックステップで距離を取る。同時にガァンと思わず耳を塞ぎたくなるような轟音が室内に響き、ミハイルの銃がクラウスの腕を撃ち抜いた。
白い海軍の軍服がじわじわと赤く染まっていくのと同時に、弾みでクラウスの手から飛んだクリスタライズの起爆スイッチが対峙する二人の間に落下した。
「それはこちらのものだ!」
ミズキに対して狂気ともいえる執着を持っているクラウスの方が早く反応し、そのスイッチを拾い上げると、高々と掲げあげ、不気味な笑みを浮かべた。
「みんな仲良く黄泉路へ行こうじゃないか」
「クラウス大将……っ」
「だが、ミズキと共に逝くのは俺だけだ」
クラウスは起爆スイッチを強く押しこんだ。何度も何度も執拗に押し込んで、それを自分の後ろに放り投げた。
「ミズキは渡さん……誰にも。クリスタライズの爆破の瞬間を目にするのは俺たちだけだ」
彼のハンドガンがミハイルの心臓に狙いをつけ、その引鉄がじわりじわりと引かれる。
「俺からミズキを取り上げるような奴は死ね!」
クラウスが放つ凶弾のライン上にはミズキがいる。
「ミズキ! 頭を下げて!!」
轟音が響き、凶弾が放たれる。それはまっすぐ、ミハイルの胸に向かっていく。
瞬間――。
ミハイルとクラウスの目の前で、赤い飛沫を飛び散らせながら、奇妙なダンスを踊る人形が、あやふやなターンを決め、ゆっくりと頽れた。
「ぐっ……」
その凶弾に倒れたのは――ミズキだ。
「ミズキ!!」
クラウスとミハイルが同時にミズキの名を呼ぶ。ミズキの右手と顔が真っ赤に染まっている。ぼたぼたと勢いよく噴き出る赤い命の雫。
ミズキは膝をつき、血まみれの手で顔を覆って呻いていた。
「ミズキ!」
悲鳴にも似た声でミハイルはミズキの名前を叫びながら、苦し気に呻くミズキに駆けよった。
「どこを撃たれた? 傷を見せて!!」
「ぼ、くは……大丈夫……」
「いいから!」
ミハイルが手を真っ赤に染めたミズキの手を取った瞬間。
それは本当に一瞬の出来事だった
「ミズキ!?」
ミズキがミハイルの手から、ハンドガンを奪い取り、クラウスに向けて引き金を引いた。
「うああああっ!」
ミズキの咆哮と共に放たれた弾丸の一発目はクラウスの腹に。そして2発目を撃とうとしたとき――
「ミズキ、あなただけを地獄へは行かせない」
ミハイルがミズキの手に、自分のそれを重ねた。
「ど…して?」
ミズキが驚いてミハイルを振り返る。
「墜ちるときは共に墜ちればいい。以前、私はあなたに約束をした。ずっとそばにいると」
「この国では犯罪者ですよ、僕は……」
「これは私が撃つ弾です。あなたは何も心配しなくていい」
血で滑ってしまわないように、ミハイルはミズキの手を包むように銃を支えた。
「クラウス大将、ミズキをこのように扱ったのは、立派な軍務規定違反です。ミズキを嬲った罪をその身で贖いなさい」
手に手を重ね、2発目が放たれる。1発目の激痛か、それとも寸前でミズキが裏切ったことへの驚愕か、かっと目を開いたクラウスの眉間にぼつっと穴を開き、そのまま彼は後ろのソファーへと倒れ込んだ。同時にミズキも床にぺたんと座り込む。
「ミズキ……大丈夫ですか」
ミハイルがミズキの肩を抱いて、ハンドガンをきつく握ったミズキの指を一つずつ解いていく。傷の痛みも手伝っていたのか、あまりにもきつく握りしめていて、ミズキ自身もハンドガンを手放すことを忘れていたようだ。
「さあ、傷を見せて」
ミズキの出血が止まらない今、あまり時間を掛けられない。
だがミズキは子どものように「やだ」といい、傷を見せようとしない。
「ミズキ、応急処置だけでもしないと」
「痛いからやだ」
弱々しい抵抗が返ってくるが、ミハイルは構わずミズキの手を取った。
「見せないといつまでも痛いままですよ。さあ、みせて」
血まみれの右の手のひらにはなにやらくぼみのようなものがある。きれいに洗ってみないとわからないが、おそらくクラウスの銃弾はミズキの手のひらを貫通したのだろう。
痛みはもちろんのこと、手が動くかどうかも怪しいのに、よくミハイルからハンドガンを奪い取って撃てたものだと感心する。
ならば血に染まったミズキの顔は?
その手のひらを負傷した血がべったりとついたものか。
不意にミズキの身体から力が抜けるのを感じ、ミハイルはミズキの身体を支えながら、床に座らせた。
痛みで気を失ってしまったのだろう。ミズキのクリスタライズが起動していないことを祈りながら、ミズキの胸に手を当てたが、彼の胸は弱い鼓動を刻んでいるだけで、熱感は感じられない。
クリスタライズが起動すると、爆薬が埋められている場所がちりちりと炎に炙られるように熱くなるという。それは外から触ってもわかるようで、起動した爆薬を抱えた本人は恐怖と苦痛の1分間を過ごすことになるーー人づてに聞いた話ではあるが。
さっきクラウスがスイッチを押してしまった。
このままか、それともー?
「どのみち運命は数秒後ですか……」
運命のカウントダウンが始まっている。しばらく意識のないミズキを支えたまま、ミハイルはじっとしていたが、幸運にもクリスタライズが動いている様子もない。
「ふう……なんとか助かりましたね」
ミハイルはほっと安堵の息をついた。
ミハイルはミズキの頭を自分の肩にのせた。お腹いっぱいの赤ん坊にミルクを吐かせるような格好になり、ミハイルはミズキの背を優しく撫でる。
「ミズキ」
声をかけるが、ミズキから返事はない。
これだけの傷を負ったのだ。出血もひどい。早く軍医に見せなくては、このままではミズキが死んでしまう。意識がなくなったという事は、いよいよ猶予がない。
「とっさの判断とはいえ、やはりあなたは、戦局を見て風向きを変えられる。私が見初めた宝石は窮地に立たされた時ほど、その光で奇蹟を呼び起こす……流石です」
ミハイルはくったりと動かないミズキの頭をなでていたが、急速に肩口に広がってくる湿り気は衣服をぐっしょり濡らし、その感触が肌にまで到達した。
「ミズキ?」
不安を覚えてミズキを床に寝かせる。肩を見れば、自分の黒い衣服に赤いものが浮いている。ミズキの出血は手だけではなかったのか。
「ミズキ!」
ミハイルは血に濡れ、べっとりと額にくっついているミズキの 前髪をそっとどけた。
「――これは!」
手の出血など非ではないものが顔――ミズキの目からどくどくとあふれている。
「まさかミズキ!?」
血を流すミズキの右目に触れる。人間、目を閉じていれば瞼があるはずなのに、ミズキの右目に瞼の感触はなく、何か固いものが触れる。
そう言えば、ミズキの手のひらを貫通した弾丸を見ていない。
まさか、まさかー。
「冗談でしょう……っ?」
ミハイルは動揺する自分をなんとか抑え、尋問室の壁に走り、そこにあった内線をとる。
「尋問室に救護隊を派遣してください。負傷者2名! 早く!」
ミズキの命が尽きる前に。
早く、早く――。
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