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#30 陸軍大将と優秀な秘書と暫定大将
#30 陸軍大将と優秀な秘書と暫定大将
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立ったまま壁にもたれて寝るなんて、前線に出ていた時以来だ。
うつらうつらしては目が覚める。そのたびにミズキがそこにいるのを確認して、また眠る。
夜中、何度かシュラルドがやってきて「横のベッド使っていいぞ。くっつけてやろうか」と言ってくれたが、普通の個室ならともかく、ここは生きるか死ぬかの境目にいる人間が入る部屋だ。さすがに使用者がいないとはいえどまずいだろうと、シュラルドの厚意は固辞させてもらった。
やがてスタッフ同士で朝の挨拶をする声、なにか業務連絡のような……交代の引継ぎだろうか。にわかに室内が騒々しくなってミハイルは目を開け、壁にもたれていた身体を起こした。どうやらミズキも目を覚ましたらしい。
「おはようミズキ」
「ミハイル……」
ミハイルの姿を見て、ミズキはニコッと笑うものの、すぐに彼は顔をしかめる。
「おや、今日はお顔が不機嫌ですね?」
「手と目が痛くて……」
包帯ごと怪我した部分を取り去りたいとミズキは唸る。かなり痛そうだ。
銃弾を浴びているのだ。1日2日で痛みが引くわけもない。
「痛い……」
「おやおや。でも痛いという事は、あなたの身体が一生懸命修復作業をしている証ですよ。じき良くなります。それにあなたは軍人でしょう? 軍人たるもの、痛みくらいどうという事はないと私に啖呵を切ったの、忘れましたか?」
「むぅ……」
ミハイルに捕まって間もないころ、ミズキは背中の痛みを訴えた。かなり痛かったはずなのに、彼は「痛くない」とやせ我慢をしたのだ。
ミズキもそれを覚えていたらしい。恥ずかしがって布団にもぐろうともぞもぞするが、まだ身体をうまく動かせないようだ。もそもそ動いたところで掛布がずり落ちてしまい、ミハイルは笑いながらそれを肩まで引き上げてやる。
「ほら、大人しくしてましょうね。じきに朝食の時間です。お腹がすいたでしょう?」
ミハイルが問うと、代わりにミズキの腹がキュウと返事をする
「ほら、お腹が鳴ってる」
「ちがうもん……」
ミズキはお腹の音を聞かれるのがとてつもなく恥ずかしいらしい。ミハイルの部屋にいたときは、お腹を鳴らさないようにと、むだに力を入れて腹を膨らましたりしていた。
腹が鳴るのは恥ずかしいことではないし、ミズキは狙撃手だったころの癖で、意識して食事を少なくとっていたので、腹が減るのが早いのだ。
しかもクラウスに捕らえられてからは、ろくに食事をしていない。麻薬で空腹感と眠気を飛ばすことができるかもしれないが、どのみち食べなければ、人間は死んでしまう。
ミズキは話題を変えようと、「えっと……」と話題を探している。
「ミハイルは……お仕事いいの?」
「御心配には及びませんよ。あなたのそばにいるのが今の私の仕事です。それに何かあれば、優秀な秘書もどきが私に連絡をくれるでしょう」
「ふうん……ミハイルに秘書なんていたの?」
「あれが秘書なら私の仕事は滅茶苦茶ですが、私が見つからなければ、自動的に彼に伝達が行くでしょう。だから大丈夫」
ミハイルはミズキの右目にキスを落とす。
「あなたの目が、早く良くなりますように」
ミハイルは祈る。
願わくば、もう二度とこの美しい瞳につらい現実を映さずに済みますようにと。
**********
同じころ――。
「グスタフ、兄ちゃんにこれどうするか聞いておいてくれよ」
「大将殿の裁可が必要なのです。連絡取れませんか?」
「郊外で爆発事故がありました。ディスタンシア軍のクリスタライズの仕業では?」
朝日眩しい朝食タイム。軍の施設の中にある食堂のおばさんが怒りでこめかみをぴくぴくさせながら見守る視線の先には、大勢の兵士に囲まれたグスタフがいた。
朝はいつも食堂でおばさん特製のピザトーストと目玉焼きと決めているグスタフだ。いつも通り朝食を食べにやってきたら、隣の席に座っている兵士がグスタフに話しかけてきた。
「なあブライデン少尉、君は陸軍大将の弟さんだよね?」
「ふぉーらへろ?」
口いっぱいピザトーストをほおばりつつ返事をすると、その兵士は大きめの封筒に入った書類をグスタフに差し出した。
「ふぁひふぉれ?」
「陸軍大将に出さないといけない書類なんだ。実は期限が昨日までで……昨日、庁舎中を探し回ったんだけど、いなかったんだよ」
「んなわけあるか。兄貴は部屋にいたぞ」
ミネストローネでトーストを流し込み、グスタフは憮然と答えた。
昨日、ミハイルとケンカしたばかりだ。昨夜、ミハイルは自室にいた。
「俺たちみたいな下っ端が、陸軍大将の私室なんかに行けるわけないだろう? だから頼んでいるんじゃないか。な? ほらピザトーストもう1枚奢ってあげるからさ」
「いらねー」
昨日の今日だ。ミハイルの顔なんか見たくないのが本音だ。
ミズキを助けに行くのに、自分を仲間はずれにしたミハイルなんて、大嫌いだ。
昔からそうだ。肝心なことはなぁーんにも言わない。自分一人で事を進めて、いい気になっている。そんな兄となんか、しばらく口もききたくない。
だが、相手も引き下がらない。すでに期日を過ぎている書類を手にしているのだ。ミハイルが怖いが故、相手も真剣だ。
「ピザトーストじゃ不満? じゃ、じゃあグラタン付けても構わないよ」
「そーいった問題じゃねえ」
「でもこの書類を上級大将に届けないと……」
「届けてくりゃいいじゃん」
「でもあの人怖いんだよっ!」
兵士はグスタフに書類を押し付けると、さっとトレーをもって、脱兎のごとくその場を離れる。
「あっ! 待てよ! 書類!」
「君が持って行ってくれるって信じてるからねーっ!」
追いかけようにも、グスタフの皿にはまだポテトサラダが残っている。食事は絶対に残すなと躾けられたから、このまま残飯とするのはとても心が痛い。
ミハイルの事なんか知るかと怒り心頭なのに、そのミハイルの教えをきっちり守るグスタフだった。
「くそっ……」
どうせミハイルはミズキのところだろう。集中治療室だった気もするが、ミハイルに用があると言えば通してもらえるか。
「ちっ、俺はクソ兄貴に用なんかねえっつの」
憤慨しつつもグスタフは椅子にすとんと座りなおす。
じゃがいもごろごろのポテトサラダにイライラをぶつけるかの如くフォークを突き刺し、もそもそと食事を続けていると、いつの間にかグスタフの周囲には兵士たちが集まってきた。
「おいグーちゃん、あいつの用件だけ聞いてやるのズルくね?」
「は?」
「俺たちだっておまえのお兄様に御用があるんだよ」
「はぁ?」
「だけど大将様はどこかにお隠れあそばしている。となると、大将に一番近い人に俺たちの願いを託すしかないわけよ」
「何が願いだよ。たんなる雑用係にしようとしているだけだろ」
「さすが上級大将の弟君であらせられる。素晴らしく聡明だ。だが、我々には喫緊の課題!」
そんなわけで兵士たちは自らの用件で、グスタフをおしくらまんじゅう状態にしているのだった。
書類の束をはじめ、何かの写真、小包などなど、いろんなものでグスタフが埋められていく。
「俺は小間使いじゃねえ!」
冗談ではない。グスタフにはグスタフの都合がある。勝手な理由で個人の、しかも業務上の連絡役などゴメンだ。
「兄貴の机にでも置いとけばいいだろ!」
「残念だが、それはできない相談だ! それこそあの方の怒りをかう。我々は長生きしたいのだ!」
「俺が短命でもいいってのかよ!?」
「心配ない。ゴキブリ並みの強さを誇るおまえなら、なんとかなる!」
グスタフはあのミハイルの弟なのだから強いはずだと言いたいのだろうが、それにしても、比較の仕方がひどすぎる。
グスタフがゴキブリ並みであるなら、グスタフの兄であり、陸軍トップにいる人はいったい何に例えられるのか。
「おまえら兄貴の前で、今の台詞を言ってみろぉ!」
「ハッハー。そんな恐ろしいこと、口が裂けても言えないな!」
グスタフの正論に対し、無駄にドヤ顔で反論が返ってくる。ついでにミハイル宛のいろんな荷物や用件もどんどん押し付けられていく。
もっとも癖が悪いのは用件だ。口頭であれこれ言われても困る。もともとグスタフは記憶することが得意ではない。しかもどこかの偉人ごとく、10人が一気に捲し立てたことをしっかり覚えているような、耳のよさも持ち合わせてはいない。
「わかったから!」
もう埒があかないとグスタフが叫ぶと、兵士たちは動きをピタッと止める。
「わかったから一気に言うな。じゃないと誰が何を言ってたのか、俺も兄貴に説明できない。結果、兄貴がキレる。依頼主探しが始まる。全員怒られる……この最悪ループになっちまうぞ!」
「おお、それは困る。して少尉、おまえにいい考えが?」
「物事はいつだってシンプルだ。おまえら、まずお口を閉じて、ここに並べ。順番に物を言え。口頭でモノ言うな、メモ準備しろ。それを俺がまとめて持って行ってやる」
兵士たちがざわつき始め、皆がグスタフの前に綺麗に列を作り始める。その列の連中に、グスタフは注意事項をあれこれ言い、最後にこう言った。
「運送中の事故に関しては、俺様の責は知るかコノヤローだからなっ」
*****
まるで曲芸師のようだと思う。
両手には、前が見えなくなるほどに山と積まれた荷物、モスグリーンの通常服のポケットにはメモの切れ端が零れ落ちんばかりにたくさん詰め込まれている。小包の一つなどはグスタフの頭の上に乗っかっていて、それを積み上げられた他の荷物で支えてやっているような状態だ。
上に立てば忙しいというのは聞いていたが、この物量を見ると、ミハイルが1日でも欠けると陸軍はとんでもないことになるのだと改めてグスタフは実感していた。
とはいえ、ミハイルには私室とは別に、ちゃんと執務室を持っている。陸軍の上級大将がこれほどの忙しい身であるなら、部屋に常駐していることの方が少ないような気もする。
本人も不在を見越して部屋に鍵をかけていないのだろうから、メモでも添えて机の上に置いとけばいいのにとも思うのだが、兵士たちに言わせると、ミハイルは不在時に荷物をぽんと部屋に置かれるのをとても嫌うのだという。
『その小包の中身は? そのメモの中身は? 大切なことを誰もいない部屋に放置するのですか? 私宛の業務はほとんどが重要機密の側面を持ちます。必ず私に渡すように』――かつて兵士の一人は淡々とそう怒られたのだという。
グスタフがミハイルに怒られるときは、必ずと言っていいほど取っ組み合いが始まる。ミハイルは手を出してから「あなたは叩かれないとわからないのですか?」と先制攻撃を仕掛けてくるので、それが腹立たしい。
それに比べれば淡々と言葉だけで叱責されるのなんかかわいいほうだと思うのだが、ミハイルは言葉の要所要所に心を抉る刃や棘などのきつい表現を織り交ぜてくるようで、兵士たちにはそれが堪えるらしい。
とはいえ、毎日これだけの物量が出るほどだ。本人不在でも、セキュリティなどに配慮してきちんと受け渡しができるようなシステムを構築しないと効率が悪い。むしろするべきだ。なんで兄貴はそれをしない? バカなのアホなの年取ったの?――グスタフよろよろ歩きながら心の中で舌打ちをこぼしていると、頭にあった重みが突然無くなった。
だが落としたわけでもない。果たして荷物はどこへ行ったのだときょろきょろしていると、前方の視界が突然開けた。
「なぜ台車を使わないのだ? 前が見えなくて歩きにくいだろう」
見ればヴィルヘルムだ。しかもグスタフの荷物を少し持ってくれていた。
「お、暫定一番。サーセン、持ってくれて」
「お礼の言葉はともなく、なんだその暫定一番とは」
「え、だってヒゲじじいいなくなって、あんたがとりあえず海軍牛耳ってるんじゃないの?」
「ま、まあとりあえずはそうだが」
「じゃあ暫定一番でいいじゃん」
「物は言いようだな」
ヴィルヘルムは呆れたように言うと、先に立って歩きだす。
「で、少尉。この大荷物をどこへ持っていくんだ」
「兄貴んところ」
「兄貴? ああミハイルのところか。そう言えば、彼は昨日から姿が見えない。どこにいるか知っているのか」
「ミズキんとこ以外にねえよ。だからこれをミズキのいる集中治療室まで配達するんだ」
「こんな薄汚れた小包やメモ用紙をあの部屋に持っていくつもりか。彼の執務室に置いておけばいいじゃないか」
ヴィルヘルムはさらにあきれ顔だ。しかし言ってることはごもっともだ。グスタフは歩きながらめんどくさそうに答える。
「それができないんだとさ。依頼主はどいつもこいつも口を揃えてそう言ってる」
「意味が分からんな。本人にこの物量を持っていくなんて、なんて非効率な」
「それに関しては暫定一番に超同意」
二人は並んで歩きながら、あれこれ不満を口にする。主に愚痴を言うのはグスタフで、ヴィルヘルムはそれをじっと聞いているだけだった。
「あんたもとりあえず海軍のトップになったんだ。うちの兄貴みたいに妙なところでこだわりのルール作るなよ。下が迷惑する」
「肝に銘じておこう」
ヴィルヘルムはうむと頷く。目の前に見えてきたのは、ミズキのいる病棟の看板。すぐそこの角を右に曲がれば、受付と待合用の長椅子がある。
大荷物の二人を看護師たちが怪訝そうに見つめていく。無理もない。白で統一された清潔な空間に、二人の持っている物はあまりにも多すぎるし、入院患者へのプレゼントにしては薄汚れている。
かといって、清潔さを保ちながら運ばねばならない医薬品にも見えない。
角を曲がり、すぐ目の前に現れた長椅子にどさりと荷物を下ろす。
「暫定大将、荷物ちょっと見ててくれよ」
「だから暫定大将とはなんだ。そのような貧乏くさい役職で呼ぶのは勘弁してくれ」
ヴィルヘルムの抗議は完全スルーで、グスタフは受付の女性看護師にミハイルを呼び出してくれるように頼む。
「ミハイル・ブライデン陸軍上級大将を呼び出してください。たぶん昨日からここにいるはずだから」
いちいち兄のフルネームに役職をつけて呼んだのは、組織に属する人間のウイークポイントをついたからだ。
薄桃色の服を着た看護師が受付と治療室を分けるカーテンの奥に姿を消したが、まもなく戻ってきた。
「お待たせいたしました、少尉、上級大将から中に入るようにと」
「え、入っていいの。俺たち、この間はここで追い返されたんだけど?」
「静かにしているならOKとのことです。横のドアから入れますので、どうぞ」
「じゃあ入らせてもらいます」
グスタフは受付の女性看護師に礼を言うと、あらためてヴィルヘルムに荷物の番を依頼し、集中治療室の中に入る。
戦争中、ここは多くの怪我人でごった返していた。廊下にもマットレスが敷かれ、看護師たちが緩やかに、あるいは高速で命を削られていく兵士たちの治療に当たっていた。
人いきれの中に漂う体臭、血生臭さ、怨嗟、悲しみ……絶命の瞬間を待つ苦痛と恐怖がここに満ちていたのに、今はそれがなく、元の清潔な病室にもどっていた。
集中治療室の中は患者の姿がほとんどなかったが、一つだけカーテンが引かれた病室がある。ミズキはおそらくそこにいるのだろう。そして職務放棄している兄も。
「あっちぃ……」
「片目が見えていないのです。しかも体力も落ちているし、あなたは利き手も使えない。ゆっくりとスプーンを口に運びなさい」
ミズキとミハイルの声が聞こえる。どうやらこちらも朝食を食べているようだった。
そっとカーテンの隙間から除くと、頭と手にぶあつく白い包帯をしたミズキが、左手にスプーンを持ち、テーブルの上の薄いスープに手を伸ばしている。だが手にもったスプーンは震えている。前後の感覚が全くつかめないのか、スプーンはお皿の手前で空振りしてしまっていた。たまたまうまくすくえても、手が震えているから、中身をほとんどこぼしている。
そのたびにミハイルがタオルハンカチで零れたスープを拭いている。
ミズキの怪我は自分の想像以上だ。しかも兄の話から推測するに、ミズキは右目と利き手を怪我している。手と目は狙撃手にとって命だ。
あいつ、右利きだったよな……とグスタフは思い出す。
となると、この食事タイムは、ミズキにとってはかなり難しい作業に違いない。
なのに、ミハイルがミズキの介助をする様子はなく、むしろミズキが不自由しているのに、ミハイルは口を出すばかりで手を出さない。あれではスープが冷めてしまうか、ミズキがこぼしてしまって中身がなくなるかだ。
たまらなくなってグスタフはカーテンを開けた。
「兄貴、手伝ってやれよ」
「おやグスタフ」
昨夜のケンカのことなど頭にはないようで、ミハイルはケロッとしている。
「で、用事ですか?」
「用事がなきゃ来ねえ。その前に、なんでミズキを手伝ってやらないんだよ。こいつ、こんなにひどい怪我してるんだぜ。メシもままならないじゃないか」
「ミズキを手伝わないのは、それが彼の望みだからですよ」
「はぁ?」
意味が分からない。
「ミズキ、本当か? 兄貴に嫌がらせされてるんじゃないのか?」
ミズキに訊くと、彼は違うよと首を横にふった。
「うん……僕がお願いしたんだよ」
「なんでだ。術後そんなに時間もたってないだろう。飯食えるような状態じゃないんじゃないのか」
「だからだよ。怪我して手が使えないからって、何もできないじゃ困るでしょ」
なるほど。それは一理ある。ミズキは早くもリハビリを開始したようだ。
だが……
「もう少し後からでもいいんじゃないのか。何も今、無理をしなくても……」
「僕にはあまり時間がないからね」
ミズキはそう言って笑う。それが何を意味しているのかを知って、グスタフも何も言えなくなってしまう。
「だから僕、先生にお願いして、スープを持ってきてもらったの」
「そうか。前向きなのはいいことだな」
「でしょ」
ミズキがえっへんと胸を張るが、包帯だらけの姿ではそれはとても無理をしているように見える。だが、ミズキはどことなく誇らしげだ。
小柄で丸みのある童顔であることも手伝って、まだまだこんな子供っぽさがある。それがかわいらしくもあり、グスタフの心配の種でもあるのだが。
「で、グスタフ。私に用とはなんですか?」
二人の会話の間にミハイルが割って入る。
そうだった。外の荷物を何とかしてもらわないといけなかった。
あの荷物の中には、ミハイルの決済を待っている陸軍兵士たちの戦々恐々さが詰まっているのだ。
「兄貴に用のあるやつらから荷物や手紙を預かってる。さっさと目を通して、とっとと返事出してやれよ」
「おやおやそれはすみませんね。で、それらはどこに?」
「外の長椅子で暫定大将が見張ってる」
「ああ、ヴィルヘルムですか。最近あなたたちは仲良しですよね」
「偶然だよ、偶然。あっちはあっちで忙しいだろうに俺なんかに付き合って。暇なのかね、海軍は」
「軍が暇なのは良いことですよ」
ミハイルはミズキの口を拭ってやりながら、にっこり笑う。
「戦争は終わったのです。この平和が永続するように願わずにはいられません」
「まあ、それは……」
平和が続くのは良いことだ。なら、平和が来たのなら、命を無駄に散らすこともないような気がする。
しかしミズキの存在は、この国では「恨みの象徴」だ。彼が断罪されて、初めて本当の平和が来るのだと思う人間はたくさんいるだろう。
だが怨嗟の対象となる象徴であるとするならば、この瞬間、町で暮らす民衆のどれだけが、ミズキの存在を意識しているだろう。
彼がいるから、まだ戦争は続行中だと、常に心に刻みながら生活を送っている人間は、はたしてどれだけいる?
おそらく、いない。
マスコミや一部民衆の扇動に踊らされ、雨後の筍みたいに一時的に声を上げる人間は増えるだろうが、それでも――。
目の前でミズキは一生懸命、慣れない左手を使ってスプーンを口に運んでいる。やっとスプーンの中身をこぼさずにスープを飲むことができ、彼は満足そうだ。
「やったあ、飲めた!」
「よかったですねミズキ。その調子です」
ミズキの笑顔で病室がぱっと明るくなる。なんにせよ、ミズキは自分の力で壁を一つ越えたのだ。
たったスプーンひとさじのスープをちゃんと飲めただけで、ミズキは大喜びだ。
ミハイルが「よかったですね。さ、もう一口がんばってみましょう」とミズキをぎゅっと抱きしめる。ミズキもミズキで嬉しそうだ。
ミズキを拉致するための作戦を行ったあの日が、グスタフの脳裏に浮かぶ。スナイパーライフルを構えていた時のミズキは、鋭い鷹のような目でスコープを覗いていた。
だが今は違う。ミハイルに褒められたのが嬉しいのか、目尻を下げてころころと笑っている。そこに暗殺者の面影はない。
本来のミズキは、こんなふうに穏やかなのだろう。
グスタフはそんな二人をじっと見つめながら考えていた。
ミズキが越えるべき一番大きな壁まで、彼の笑顔をあと何度見られるのだろうか、と。
*****
病室から出ると、ヴィルヘルムが長椅子に座ってグスタフを待っていた。
長剣を鞘ごと抜いて、杖よろしく床に立てて、周囲の人間がみだりに荷物に近づかぬよう、厳しい目つきで荷物番をしている。
よく歴史の教科書などで、戦場に出た皇帝がこんなふうに戦局を見守る写真なんてのは見たことある。それらに写る偉人たちはみな威風堂々と、長たる風格を醸し出していたが、こちらの暫定大将にはまだそのような重厚な風格はないように思えた。
グスタフはミハイルから言われたとおりに、受付の看護師に荷物の見張りをお願いし、長椅子に座るヴィルヘルムに視線を移す。
「荷物番させて悪かったな。用は済んだ」
グスタフが礼を述べると、ヴィルヘルムは「そうか」と頷き席を立った。
「ミハイルはたくさんの部下に慕われているのだな」
「なんでそう思う?」
「あの荷物や書類の量は、彼がいないと困るという部下たちの信頼の証だろう?」
ヴィルヘルムはどこか淋しそうだ。暫定とはいえ大将なのに、部下たちがあまり近寄ってこないのだという。
「正直、羨ましいな。ミハイルが」
「何言ってんだよ。どいつもこいつも、兄貴に面倒ごとを押し付けているだけさ」
「私の元には、面倒ごとの処理の依頼すらめったに来ないぞ」
「そりゃ部下が優秀なんだろうさ。あんたの手を煩わせなくても、ちゃんとひとりで処理できる。そういうことじゃねえの?」
「そういうことなのかな」
ヴィルヘルムはふむと頷くが、すぐにうーむと唸り出す。
「だが、上に立つものとして、私はやはり部下たちにとって、ミハイルのように人望の厚い、良き将軍でありたいのだ」
「ったく、わかってねえな」
四の五の理屈ばかり言うヴィルヘルムの頭を、グスタフはくしゃりと撫でた。
「なっ! 少尉! せっかく整えた髪が乱れるだろう!?」
「あんた、少し力み過ぎなんだよ。昔っからそうだ。少しは肩の力を抜いたほうがいい。髪だって少し乱れたくらいがちょうどいいぜ」
「私はおまえとは違うんだぞ!」
「ああ違う。全然違うさ。あんたはあんた。俺は俺。考えも感じることも何もかも違う。だがひとつだけ、同じものがある」
「同じもの……?」
「目の前の現実だけは、俺にもあんたにも等しくやってくる。いいことも悪いことも。あんたはそこから逃げ出さずに、あんたらしくあればいい。時にはゆるりと、だけど締めるとこは締めておけばいいんじゃねえの? 兄貴の事ばかり見ていても仕方ない。あんたはあんたのやり方で組織を引っ張っていくしかないんだ」
グスタフはそう言うと、ヴィルヘルムの背中をポンと叩く。
「俺はあんたのこと、結構好きだぜ?」
「少尉……」
「おっともう食堂か」
食堂の案内表示が見えた。グスタフに物を頼んだ連中がまだ食堂に残っているかもしれない。早く知らせてやらないと、また付きまとわれそうだ。
「じゃ俺、食堂に用があるからここでな」
「少尉、私は……」
グスタフはそのままヴィルヘルムを背に残し、「またな」と手を振り、自動ドアをくぐった。
ヴィルヘルムは食堂の中にまでついてこなかった。だが、さっきミハイルの言われた通り、最近はやたらとヴィルヘルムと絡んでいる気がする。別に示し合わせているわけではない。単なる偶然だ。その偶然が積み重なっているに過ぎない。
ヴィルヘルムは兄と同じ年くらいだったと記憶しているが、最近のヴィルヘルムはなんだかミズキかそれより年下のようにも思える。つまらないことでくよくよ悩むあたりは、ミズキ以下の子供のようだ。
だが、あれこれと常に難しく考えて頭を悩ませているヴィルヘルムのことが嫌いではない。むしろ、最近のグスタフにとってヴィルヘルムはいい気分転換の相手となっている。
ミズキのことが心配ではあるけれど、不安に苛まれる胸のつかえは、ヴィルヘルムと話したあとだとずいぶんと楽になる。とはいえ、グスタフの方がヴィルヘルムにいろいろアドバイスをしているような気もするが。
おかしなものだ。
話し相手にするには、大変面倒な人物であるのに。
グスタフの中で、ヴィルヘルムの存在が少しずつ変わり始めていた。
うつらうつらしては目が覚める。そのたびにミズキがそこにいるのを確認して、また眠る。
夜中、何度かシュラルドがやってきて「横のベッド使っていいぞ。くっつけてやろうか」と言ってくれたが、普通の個室ならともかく、ここは生きるか死ぬかの境目にいる人間が入る部屋だ。さすがに使用者がいないとはいえどまずいだろうと、シュラルドの厚意は固辞させてもらった。
やがてスタッフ同士で朝の挨拶をする声、なにか業務連絡のような……交代の引継ぎだろうか。にわかに室内が騒々しくなってミハイルは目を開け、壁にもたれていた身体を起こした。どうやらミズキも目を覚ましたらしい。
「おはようミズキ」
「ミハイル……」
ミハイルの姿を見て、ミズキはニコッと笑うものの、すぐに彼は顔をしかめる。
「おや、今日はお顔が不機嫌ですね?」
「手と目が痛くて……」
包帯ごと怪我した部分を取り去りたいとミズキは唸る。かなり痛そうだ。
銃弾を浴びているのだ。1日2日で痛みが引くわけもない。
「痛い……」
「おやおや。でも痛いという事は、あなたの身体が一生懸命修復作業をしている証ですよ。じき良くなります。それにあなたは軍人でしょう? 軍人たるもの、痛みくらいどうという事はないと私に啖呵を切ったの、忘れましたか?」
「むぅ……」
ミハイルに捕まって間もないころ、ミズキは背中の痛みを訴えた。かなり痛かったはずなのに、彼は「痛くない」とやせ我慢をしたのだ。
ミズキもそれを覚えていたらしい。恥ずかしがって布団にもぐろうともぞもぞするが、まだ身体をうまく動かせないようだ。もそもそ動いたところで掛布がずり落ちてしまい、ミハイルは笑いながらそれを肩まで引き上げてやる。
「ほら、大人しくしてましょうね。じきに朝食の時間です。お腹がすいたでしょう?」
ミハイルが問うと、代わりにミズキの腹がキュウと返事をする
「ほら、お腹が鳴ってる」
「ちがうもん……」
ミズキはお腹の音を聞かれるのがとてつもなく恥ずかしいらしい。ミハイルの部屋にいたときは、お腹を鳴らさないようにと、むだに力を入れて腹を膨らましたりしていた。
腹が鳴るのは恥ずかしいことではないし、ミズキは狙撃手だったころの癖で、意識して食事を少なくとっていたので、腹が減るのが早いのだ。
しかもクラウスに捕らえられてからは、ろくに食事をしていない。麻薬で空腹感と眠気を飛ばすことができるかもしれないが、どのみち食べなければ、人間は死んでしまう。
ミズキは話題を変えようと、「えっと……」と話題を探している。
「ミハイルは……お仕事いいの?」
「御心配には及びませんよ。あなたのそばにいるのが今の私の仕事です。それに何かあれば、優秀な秘書もどきが私に連絡をくれるでしょう」
「ふうん……ミハイルに秘書なんていたの?」
「あれが秘書なら私の仕事は滅茶苦茶ですが、私が見つからなければ、自動的に彼に伝達が行くでしょう。だから大丈夫」
ミハイルはミズキの右目にキスを落とす。
「あなたの目が、早く良くなりますように」
ミハイルは祈る。
願わくば、もう二度とこの美しい瞳につらい現実を映さずに済みますようにと。
**********
同じころ――。
「グスタフ、兄ちゃんにこれどうするか聞いておいてくれよ」
「大将殿の裁可が必要なのです。連絡取れませんか?」
「郊外で爆発事故がありました。ディスタンシア軍のクリスタライズの仕業では?」
朝日眩しい朝食タイム。軍の施設の中にある食堂のおばさんが怒りでこめかみをぴくぴくさせながら見守る視線の先には、大勢の兵士に囲まれたグスタフがいた。
朝はいつも食堂でおばさん特製のピザトーストと目玉焼きと決めているグスタフだ。いつも通り朝食を食べにやってきたら、隣の席に座っている兵士がグスタフに話しかけてきた。
「なあブライデン少尉、君は陸軍大将の弟さんだよね?」
「ふぉーらへろ?」
口いっぱいピザトーストをほおばりつつ返事をすると、その兵士は大きめの封筒に入った書類をグスタフに差し出した。
「ふぁひふぉれ?」
「陸軍大将に出さないといけない書類なんだ。実は期限が昨日までで……昨日、庁舎中を探し回ったんだけど、いなかったんだよ」
「んなわけあるか。兄貴は部屋にいたぞ」
ミネストローネでトーストを流し込み、グスタフは憮然と答えた。
昨日、ミハイルとケンカしたばかりだ。昨夜、ミハイルは自室にいた。
「俺たちみたいな下っ端が、陸軍大将の私室なんかに行けるわけないだろう? だから頼んでいるんじゃないか。な? ほらピザトーストもう1枚奢ってあげるからさ」
「いらねー」
昨日の今日だ。ミハイルの顔なんか見たくないのが本音だ。
ミズキを助けに行くのに、自分を仲間はずれにしたミハイルなんて、大嫌いだ。
昔からそうだ。肝心なことはなぁーんにも言わない。自分一人で事を進めて、いい気になっている。そんな兄となんか、しばらく口もききたくない。
だが、相手も引き下がらない。すでに期日を過ぎている書類を手にしているのだ。ミハイルが怖いが故、相手も真剣だ。
「ピザトーストじゃ不満? じゃ、じゃあグラタン付けても構わないよ」
「そーいった問題じゃねえ」
「でもこの書類を上級大将に届けないと……」
「届けてくりゃいいじゃん」
「でもあの人怖いんだよっ!」
兵士はグスタフに書類を押し付けると、さっとトレーをもって、脱兎のごとくその場を離れる。
「あっ! 待てよ! 書類!」
「君が持って行ってくれるって信じてるからねーっ!」
追いかけようにも、グスタフの皿にはまだポテトサラダが残っている。食事は絶対に残すなと躾けられたから、このまま残飯とするのはとても心が痛い。
ミハイルの事なんか知るかと怒り心頭なのに、そのミハイルの教えをきっちり守るグスタフだった。
「くそっ……」
どうせミハイルはミズキのところだろう。集中治療室だった気もするが、ミハイルに用があると言えば通してもらえるか。
「ちっ、俺はクソ兄貴に用なんかねえっつの」
憤慨しつつもグスタフは椅子にすとんと座りなおす。
じゃがいもごろごろのポテトサラダにイライラをぶつけるかの如くフォークを突き刺し、もそもそと食事を続けていると、いつの間にかグスタフの周囲には兵士たちが集まってきた。
「おいグーちゃん、あいつの用件だけ聞いてやるのズルくね?」
「は?」
「俺たちだっておまえのお兄様に御用があるんだよ」
「はぁ?」
「だけど大将様はどこかにお隠れあそばしている。となると、大将に一番近い人に俺たちの願いを託すしかないわけよ」
「何が願いだよ。たんなる雑用係にしようとしているだけだろ」
「さすが上級大将の弟君であらせられる。素晴らしく聡明だ。だが、我々には喫緊の課題!」
そんなわけで兵士たちは自らの用件で、グスタフをおしくらまんじゅう状態にしているのだった。
書類の束をはじめ、何かの写真、小包などなど、いろんなものでグスタフが埋められていく。
「俺は小間使いじゃねえ!」
冗談ではない。グスタフにはグスタフの都合がある。勝手な理由で個人の、しかも業務上の連絡役などゴメンだ。
「兄貴の机にでも置いとけばいいだろ!」
「残念だが、それはできない相談だ! それこそあの方の怒りをかう。我々は長生きしたいのだ!」
「俺が短命でもいいってのかよ!?」
「心配ない。ゴキブリ並みの強さを誇るおまえなら、なんとかなる!」
グスタフはあのミハイルの弟なのだから強いはずだと言いたいのだろうが、それにしても、比較の仕方がひどすぎる。
グスタフがゴキブリ並みであるなら、グスタフの兄であり、陸軍トップにいる人はいったい何に例えられるのか。
「おまえら兄貴の前で、今の台詞を言ってみろぉ!」
「ハッハー。そんな恐ろしいこと、口が裂けても言えないな!」
グスタフの正論に対し、無駄にドヤ顔で反論が返ってくる。ついでにミハイル宛のいろんな荷物や用件もどんどん押し付けられていく。
もっとも癖が悪いのは用件だ。口頭であれこれ言われても困る。もともとグスタフは記憶することが得意ではない。しかもどこかの偉人ごとく、10人が一気に捲し立てたことをしっかり覚えているような、耳のよさも持ち合わせてはいない。
「わかったから!」
もう埒があかないとグスタフが叫ぶと、兵士たちは動きをピタッと止める。
「わかったから一気に言うな。じゃないと誰が何を言ってたのか、俺も兄貴に説明できない。結果、兄貴がキレる。依頼主探しが始まる。全員怒られる……この最悪ループになっちまうぞ!」
「おお、それは困る。して少尉、おまえにいい考えが?」
「物事はいつだってシンプルだ。おまえら、まずお口を閉じて、ここに並べ。順番に物を言え。口頭でモノ言うな、メモ準備しろ。それを俺がまとめて持って行ってやる」
兵士たちがざわつき始め、皆がグスタフの前に綺麗に列を作り始める。その列の連中に、グスタフは注意事項をあれこれ言い、最後にこう言った。
「運送中の事故に関しては、俺様の責は知るかコノヤローだからなっ」
*****
まるで曲芸師のようだと思う。
両手には、前が見えなくなるほどに山と積まれた荷物、モスグリーンの通常服のポケットにはメモの切れ端が零れ落ちんばかりにたくさん詰め込まれている。小包の一つなどはグスタフの頭の上に乗っかっていて、それを積み上げられた他の荷物で支えてやっているような状態だ。
上に立てば忙しいというのは聞いていたが、この物量を見ると、ミハイルが1日でも欠けると陸軍はとんでもないことになるのだと改めてグスタフは実感していた。
とはいえ、ミハイルには私室とは別に、ちゃんと執務室を持っている。陸軍の上級大将がこれほどの忙しい身であるなら、部屋に常駐していることの方が少ないような気もする。
本人も不在を見越して部屋に鍵をかけていないのだろうから、メモでも添えて机の上に置いとけばいいのにとも思うのだが、兵士たちに言わせると、ミハイルは不在時に荷物をぽんと部屋に置かれるのをとても嫌うのだという。
『その小包の中身は? そのメモの中身は? 大切なことを誰もいない部屋に放置するのですか? 私宛の業務はほとんどが重要機密の側面を持ちます。必ず私に渡すように』――かつて兵士の一人は淡々とそう怒られたのだという。
グスタフがミハイルに怒られるときは、必ずと言っていいほど取っ組み合いが始まる。ミハイルは手を出してから「あなたは叩かれないとわからないのですか?」と先制攻撃を仕掛けてくるので、それが腹立たしい。
それに比べれば淡々と言葉だけで叱責されるのなんかかわいいほうだと思うのだが、ミハイルは言葉の要所要所に心を抉る刃や棘などのきつい表現を織り交ぜてくるようで、兵士たちにはそれが堪えるらしい。
とはいえ、毎日これだけの物量が出るほどだ。本人不在でも、セキュリティなどに配慮してきちんと受け渡しができるようなシステムを構築しないと効率が悪い。むしろするべきだ。なんで兄貴はそれをしない? バカなのアホなの年取ったの?――グスタフよろよろ歩きながら心の中で舌打ちをこぼしていると、頭にあった重みが突然無くなった。
だが落としたわけでもない。果たして荷物はどこへ行ったのだときょろきょろしていると、前方の視界が突然開けた。
「なぜ台車を使わないのだ? 前が見えなくて歩きにくいだろう」
見ればヴィルヘルムだ。しかもグスタフの荷物を少し持ってくれていた。
「お、暫定一番。サーセン、持ってくれて」
「お礼の言葉はともなく、なんだその暫定一番とは」
「え、だってヒゲじじいいなくなって、あんたがとりあえず海軍牛耳ってるんじゃないの?」
「ま、まあとりあえずはそうだが」
「じゃあ暫定一番でいいじゃん」
「物は言いようだな」
ヴィルヘルムは呆れたように言うと、先に立って歩きだす。
「で、少尉。この大荷物をどこへ持っていくんだ」
「兄貴んところ」
「兄貴? ああミハイルのところか。そう言えば、彼は昨日から姿が見えない。どこにいるか知っているのか」
「ミズキんとこ以外にねえよ。だからこれをミズキのいる集中治療室まで配達するんだ」
「こんな薄汚れた小包やメモ用紙をあの部屋に持っていくつもりか。彼の執務室に置いておけばいいじゃないか」
ヴィルヘルムはさらにあきれ顔だ。しかし言ってることはごもっともだ。グスタフは歩きながらめんどくさそうに答える。
「それができないんだとさ。依頼主はどいつもこいつも口を揃えてそう言ってる」
「意味が分からんな。本人にこの物量を持っていくなんて、なんて非効率な」
「それに関しては暫定一番に超同意」
二人は並んで歩きながら、あれこれ不満を口にする。主に愚痴を言うのはグスタフで、ヴィルヘルムはそれをじっと聞いているだけだった。
「あんたもとりあえず海軍のトップになったんだ。うちの兄貴みたいに妙なところでこだわりのルール作るなよ。下が迷惑する」
「肝に銘じておこう」
ヴィルヘルムはうむと頷く。目の前に見えてきたのは、ミズキのいる病棟の看板。すぐそこの角を右に曲がれば、受付と待合用の長椅子がある。
大荷物の二人を看護師たちが怪訝そうに見つめていく。無理もない。白で統一された清潔な空間に、二人の持っている物はあまりにも多すぎるし、入院患者へのプレゼントにしては薄汚れている。
かといって、清潔さを保ちながら運ばねばならない医薬品にも見えない。
角を曲がり、すぐ目の前に現れた長椅子にどさりと荷物を下ろす。
「暫定大将、荷物ちょっと見ててくれよ」
「だから暫定大将とはなんだ。そのような貧乏くさい役職で呼ぶのは勘弁してくれ」
ヴィルヘルムの抗議は完全スルーで、グスタフは受付の女性看護師にミハイルを呼び出してくれるように頼む。
「ミハイル・ブライデン陸軍上級大将を呼び出してください。たぶん昨日からここにいるはずだから」
いちいち兄のフルネームに役職をつけて呼んだのは、組織に属する人間のウイークポイントをついたからだ。
薄桃色の服を着た看護師が受付と治療室を分けるカーテンの奥に姿を消したが、まもなく戻ってきた。
「お待たせいたしました、少尉、上級大将から中に入るようにと」
「え、入っていいの。俺たち、この間はここで追い返されたんだけど?」
「静かにしているならOKとのことです。横のドアから入れますので、どうぞ」
「じゃあ入らせてもらいます」
グスタフは受付の女性看護師に礼を言うと、あらためてヴィルヘルムに荷物の番を依頼し、集中治療室の中に入る。
戦争中、ここは多くの怪我人でごった返していた。廊下にもマットレスが敷かれ、看護師たちが緩やかに、あるいは高速で命を削られていく兵士たちの治療に当たっていた。
人いきれの中に漂う体臭、血生臭さ、怨嗟、悲しみ……絶命の瞬間を待つ苦痛と恐怖がここに満ちていたのに、今はそれがなく、元の清潔な病室にもどっていた。
集中治療室の中は患者の姿がほとんどなかったが、一つだけカーテンが引かれた病室がある。ミズキはおそらくそこにいるのだろう。そして職務放棄している兄も。
「あっちぃ……」
「片目が見えていないのです。しかも体力も落ちているし、あなたは利き手も使えない。ゆっくりとスプーンを口に運びなさい」
ミズキとミハイルの声が聞こえる。どうやらこちらも朝食を食べているようだった。
そっとカーテンの隙間から除くと、頭と手にぶあつく白い包帯をしたミズキが、左手にスプーンを持ち、テーブルの上の薄いスープに手を伸ばしている。だが手にもったスプーンは震えている。前後の感覚が全くつかめないのか、スプーンはお皿の手前で空振りしてしまっていた。たまたまうまくすくえても、手が震えているから、中身をほとんどこぼしている。
そのたびにミハイルがタオルハンカチで零れたスープを拭いている。
ミズキの怪我は自分の想像以上だ。しかも兄の話から推測するに、ミズキは右目と利き手を怪我している。手と目は狙撃手にとって命だ。
あいつ、右利きだったよな……とグスタフは思い出す。
となると、この食事タイムは、ミズキにとってはかなり難しい作業に違いない。
なのに、ミハイルがミズキの介助をする様子はなく、むしろミズキが不自由しているのに、ミハイルは口を出すばかりで手を出さない。あれではスープが冷めてしまうか、ミズキがこぼしてしまって中身がなくなるかだ。
たまらなくなってグスタフはカーテンを開けた。
「兄貴、手伝ってやれよ」
「おやグスタフ」
昨夜のケンカのことなど頭にはないようで、ミハイルはケロッとしている。
「で、用事ですか?」
「用事がなきゃ来ねえ。その前に、なんでミズキを手伝ってやらないんだよ。こいつ、こんなにひどい怪我してるんだぜ。メシもままならないじゃないか」
「ミズキを手伝わないのは、それが彼の望みだからですよ」
「はぁ?」
意味が分からない。
「ミズキ、本当か? 兄貴に嫌がらせされてるんじゃないのか?」
ミズキに訊くと、彼は違うよと首を横にふった。
「うん……僕がお願いしたんだよ」
「なんでだ。術後そんなに時間もたってないだろう。飯食えるような状態じゃないんじゃないのか」
「だからだよ。怪我して手が使えないからって、何もできないじゃ困るでしょ」
なるほど。それは一理ある。ミズキは早くもリハビリを開始したようだ。
だが……
「もう少し後からでもいいんじゃないのか。何も今、無理をしなくても……」
「僕にはあまり時間がないからね」
ミズキはそう言って笑う。それが何を意味しているのかを知って、グスタフも何も言えなくなってしまう。
「だから僕、先生にお願いして、スープを持ってきてもらったの」
「そうか。前向きなのはいいことだな」
「でしょ」
ミズキがえっへんと胸を張るが、包帯だらけの姿ではそれはとても無理をしているように見える。だが、ミズキはどことなく誇らしげだ。
小柄で丸みのある童顔であることも手伝って、まだまだこんな子供っぽさがある。それがかわいらしくもあり、グスタフの心配の種でもあるのだが。
「で、グスタフ。私に用とはなんですか?」
二人の会話の間にミハイルが割って入る。
そうだった。外の荷物を何とかしてもらわないといけなかった。
あの荷物の中には、ミハイルの決済を待っている陸軍兵士たちの戦々恐々さが詰まっているのだ。
「兄貴に用のあるやつらから荷物や手紙を預かってる。さっさと目を通して、とっとと返事出してやれよ」
「おやおやそれはすみませんね。で、それらはどこに?」
「外の長椅子で暫定大将が見張ってる」
「ああ、ヴィルヘルムですか。最近あなたたちは仲良しですよね」
「偶然だよ、偶然。あっちはあっちで忙しいだろうに俺なんかに付き合って。暇なのかね、海軍は」
「軍が暇なのは良いことですよ」
ミハイルはミズキの口を拭ってやりながら、にっこり笑う。
「戦争は終わったのです。この平和が永続するように願わずにはいられません」
「まあ、それは……」
平和が続くのは良いことだ。なら、平和が来たのなら、命を無駄に散らすこともないような気がする。
しかしミズキの存在は、この国では「恨みの象徴」だ。彼が断罪されて、初めて本当の平和が来るのだと思う人間はたくさんいるだろう。
だが怨嗟の対象となる象徴であるとするならば、この瞬間、町で暮らす民衆のどれだけが、ミズキの存在を意識しているだろう。
彼がいるから、まだ戦争は続行中だと、常に心に刻みながら生活を送っている人間は、はたしてどれだけいる?
おそらく、いない。
マスコミや一部民衆の扇動に踊らされ、雨後の筍みたいに一時的に声を上げる人間は増えるだろうが、それでも――。
目の前でミズキは一生懸命、慣れない左手を使ってスプーンを口に運んでいる。やっとスプーンの中身をこぼさずにスープを飲むことができ、彼は満足そうだ。
「やったあ、飲めた!」
「よかったですねミズキ。その調子です」
ミズキの笑顔で病室がぱっと明るくなる。なんにせよ、ミズキは自分の力で壁を一つ越えたのだ。
たったスプーンひとさじのスープをちゃんと飲めただけで、ミズキは大喜びだ。
ミハイルが「よかったですね。さ、もう一口がんばってみましょう」とミズキをぎゅっと抱きしめる。ミズキもミズキで嬉しそうだ。
ミズキを拉致するための作戦を行ったあの日が、グスタフの脳裏に浮かぶ。スナイパーライフルを構えていた時のミズキは、鋭い鷹のような目でスコープを覗いていた。
だが今は違う。ミハイルに褒められたのが嬉しいのか、目尻を下げてころころと笑っている。そこに暗殺者の面影はない。
本来のミズキは、こんなふうに穏やかなのだろう。
グスタフはそんな二人をじっと見つめながら考えていた。
ミズキが越えるべき一番大きな壁まで、彼の笑顔をあと何度見られるのだろうか、と。
*****
病室から出ると、ヴィルヘルムが長椅子に座ってグスタフを待っていた。
長剣を鞘ごと抜いて、杖よろしく床に立てて、周囲の人間がみだりに荷物に近づかぬよう、厳しい目つきで荷物番をしている。
よく歴史の教科書などで、戦場に出た皇帝がこんなふうに戦局を見守る写真なんてのは見たことある。それらに写る偉人たちはみな威風堂々と、長たる風格を醸し出していたが、こちらの暫定大将にはまだそのような重厚な風格はないように思えた。
グスタフはミハイルから言われたとおりに、受付の看護師に荷物の見張りをお願いし、長椅子に座るヴィルヘルムに視線を移す。
「荷物番させて悪かったな。用は済んだ」
グスタフが礼を述べると、ヴィルヘルムは「そうか」と頷き席を立った。
「ミハイルはたくさんの部下に慕われているのだな」
「なんでそう思う?」
「あの荷物や書類の量は、彼がいないと困るという部下たちの信頼の証だろう?」
ヴィルヘルムはどこか淋しそうだ。暫定とはいえ大将なのに、部下たちがあまり近寄ってこないのだという。
「正直、羨ましいな。ミハイルが」
「何言ってんだよ。どいつもこいつも、兄貴に面倒ごとを押し付けているだけさ」
「私の元には、面倒ごとの処理の依頼すらめったに来ないぞ」
「そりゃ部下が優秀なんだろうさ。あんたの手を煩わせなくても、ちゃんとひとりで処理できる。そういうことじゃねえの?」
「そういうことなのかな」
ヴィルヘルムはふむと頷くが、すぐにうーむと唸り出す。
「だが、上に立つものとして、私はやはり部下たちにとって、ミハイルのように人望の厚い、良き将軍でありたいのだ」
「ったく、わかってねえな」
四の五の理屈ばかり言うヴィルヘルムの頭を、グスタフはくしゃりと撫でた。
「なっ! 少尉! せっかく整えた髪が乱れるだろう!?」
「あんた、少し力み過ぎなんだよ。昔っからそうだ。少しは肩の力を抜いたほうがいい。髪だって少し乱れたくらいがちょうどいいぜ」
「私はおまえとは違うんだぞ!」
「ああ違う。全然違うさ。あんたはあんた。俺は俺。考えも感じることも何もかも違う。だがひとつだけ、同じものがある」
「同じもの……?」
「目の前の現実だけは、俺にもあんたにも等しくやってくる。いいことも悪いことも。あんたはそこから逃げ出さずに、あんたらしくあればいい。時にはゆるりと、だけど締めるとこは締めておけばいいんじゃねえの? 兄貴の事ばかり見ていても仕方ない。あんたはあんたのやり方で組織を引っ張っていくしかないんだ」
グスタフはそう言うと、ヴィルヘルムの背中をポンと叩く。
「俺はあんたのこと、結構好きだぜ?」
「少尉……」
「おっともう食堂か」
食堂の案内表示が見えた。グスタフに物を頼んだ連中がまだ食堂に残っているかもしれない。早く知らせてやらないと、また付きまとわれそうだ。
「じゃ俺、食堂に用があるからここでな」
「少尉、私は……」
グスタフはそのままヴィルヘルムを背に残し、「またな」と手を振り、自動ドアをくぐった。
ヴィルヘルムは食堂の中にまでついてこなかった。だが、さっきミハイルの言われた通り、最近はやたらとヴィルヘルムと絡んでいる気がする。別に示し合わせているわけではない。単なる偶然だ。その偶然が積み重なっているに過ぎない。
ヴィルヘルムは兄と同じ年くらいだったと記憶しているが、最近のヴィルヘルムはなんだかミズキかそれより年下のようにも思える。つまらないことでくよくよ悩むあたりは、ミズキ以下の子供のようだ。
だが、あれこれと常に難しく考えて頭を悩ませているヴィルヘルムのことが嫌いではない。むしろ、最近のグスタフにとってヴィルヘルムはいい気分転換の相手となっている。
ミズキのことが心配ではあるけれど、不安に苛まれる胸のつかえは、ヴィルヘルムと話したあとだとずいぶんと楽になる。とはいえ、グスタフの方がヴィルヘルムにいろいろアドバイスをしているような気もするが。
おかしなものだ。
話し相手にするには、大変面倒な人物であるのに。
グスタフの中で、ヴィルヘルムの存在が少しずつ変わり始めていた。
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