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#29 流転する運命
#29−2
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夜になり、ミハイルはやっと解放され、相変わらず荒れ放題の自室に戻った。
いつもどんなに仕事がたてこんでも、疲れなど見せないように心掛けているが、洗面所の壁に掛けられた鏡に映った自分の顔を見て絶句した。
「なんですか、これが私の顔ですか?」
月明りしかない部屋の割れた鏡に映る自分の姿が、まるで自分ではないようだ。薄暗いのは仕方ない。電気が限られているせいだ。
しかし、目の下に色濃くできた隈、正気のない瞳は、ミズキの一件による精神的な疲労を顕していた。まるで今の自分は――
「亡霊のような顔だ。情けない」
ヴァリマンドの質問には、すべて「自分がやった」と答えた。クラウスに向けた銃弾もすべて自分が撃ったと答えた。1発目を撃ったのはミズキだが、それはミズキをみすみす老獪に渡してしまった自分の過ちから来たものだ。
しかし、自分だけが非を認めたわけではない。
クラウスの不可解な行動、ミズキへの執着、そこはすべて話した。なんなら監視画像でも分析してみればいいとも言ったので、ヴァリマンドに「男が男を抱く」シーンを見る勇気があるならば、監視カメラの映像の精査が始まっているだろう。
さすがのクラウスも、尋問室の監視カメラを停止するようなことまではしていないはずだ。もし停止されていれば、全館に警告が鳴り響く。カメラが停止していなければミハイルの証言が半分裏付けされるようなものとなる。
戦争が終わり、市民らはみな報復へと考えが傾いている。マスコミが煽動しているせいも大きい。国家全体に不満のガスが充満して、それが破裂寸前まで濃度を高めている。
大切な家族をディスタンシアに奪われた。自分たちの大切な家族を生かして返せと、日に日に高まる復讐の声。
捕虜の命で、市民の悲しみを癒せと騒いでいる。
こんな状況でミズキがクラウスを撃ったなんて知られれば、ミズキの処刑が早まるばかりだ。
そういえばミズキの容態をまだ聞いていない。彼はいったいどうなったのか。
こんな疲れた顔をしていると、ミズキに余計な心配をさせてしまうかもしれない。
ミハイルは水栓をひねって水を出し、バシャバシャと顔を洗う。冷たい水が一気に重い気分を引き締める。
顔を拭き、手櫛でさっと髪を軽く整え、部屋を出る。
今の自分は仲間殺しの容疑を掛けられているから、きっと何かしらの監視もついているだろう。
だがどうしてもひと目でいいから、今日中にミズキに会いたかった。
そっとドアを閉めると、そこにはまたグスタフが立っていた。
しかも今度は「お友達」がついている。ヴィルヘルムだ。
「兄貴、どこ行くんだよ」
「ミハイル、どこに行くんだ」
二人に似たような質問を浴びせられるが、ミハイルはいつも通りに答えた。
「ミズキのところです。たぶん、会わせてはもらえないでしょうけど」
「ミズキの手術は無事に終わった。今は集中治療室にいる。2、3日は会えないぜ」
「そうですか。で、ミズキはどうでした?」
「顔に分厚い包帯が巻かれてた。当たり前だが寝てる」
「――でしょうね」
ミハイルの脳裏に、血まみれのミズキの姿が蘇る。
銃弾が手のひらを貫通して、彼の目に当たって止まったのだ。
狙撃手として大切な身体の機能を、一気にふたつも傷つけられた。
もうミズキが前のように正確な狙撃を行えるかどうかはわからない。
逆に、目と手を失うことで、彼がディスタンシアでの呪縛から解放される様な気がするが、それはミズキがそう思えてこそ成立する話であって、ミハイルが判断することではない。
現実を知った彼はどう思うのだろう。
狙撃手ですらなくなった自分を、ちゃんと受け入れて前を向けるだろうか。
それとも、自分の存在理由を失って、生きることすらも諦めてしまうだろうか。
狙撃手であることは、ミズキのプライドだ。男に脚を開く男娼ではない証。
「申し訳ありませんが、今日はふたりに付き合える気分ではありません。私もミズキの姿を見たら、すぐに部屋に戻る予定です。道を開けていただいて宜しいですか」
二人の了承を聞かないまま、ミハイルはグスタフとヴィルヘルムの間をすり抜けようとしたが、グスタフの右手がミハイルの右肩をがしりと掴んだ。
「待てよ兄貴。話はまだ終わってない」
「私には話すらありませんが?」
「兄貴になくても――」
「私にはあるんだ」
グスタフのあとに続けたのは、ヴィルヘルムだ。彼はミハイルの前に回り込むと、頭を深々と下げた。
「君の部屋を最初に襲撃したのは、私だ。私の指揮だ」
「でも二度目は知らなかった。そうでしょう? そしてあなたは、老獪の指示に従って尋問室に私たちを誘い出した。そうですよね?」
ヴィルヘルムははっとして視線をあげた。
「ミハイル……どうして」
「あまりにも尋問室までが簡単すぎました。普通ならあのメンツで動いていれば目立ちます。それに、海軍ナンバー2のあなたが私たちにつきあうほどヒマとも思えなかったし、重装備の歩哨が眠っているのも解せなかった。普通なら懲罰ものですよ、見張りが寝てるなんて。そこにミズキを隠しているなら、私たちの訪問を何が何でも止めるだろうと思っていたのに、いろいろと拍子抜けだったのです」
「全てお見通しか、ミハイル?」
「お見通しと言えればカッコいいのですが、単純に直感です。かつて私の恩師とも言える人がそう教えてくれました。判断に迷ったなら、己の直感を信じろ、とね」
ミハイルの話を聞きながら、グスタフが「ジュリアの親父だな」とうんうんとうなづいている。ミハイルはそんな弟をみてクスリと笑った。
「そうですね。あの人は、私たちにとっても父親みたいなものでした。私はその方の教えに従ったまでで、ヴィルヘルムの思惑は初めて知りました。でももう、良いんです。今更そのような告白をされても、ミズキは……」
ミハイルは苦しげに眉を寄せて俯いたが、すぐに顔を上げた。
「さあどいて。私はミズキに会いに行くんです。明日も事情聴取がある。私には限られた時間しかない。同様にミズキにも。私たちが互いの顔を見られるのは、もうわずかな時間しかないのです」
「じゃあ簡単に用件を済ませてやるよ、兄貴」
「?」
ミハイルが足を止めた。
「グスタフ?」
振り返ったミハイルの頬に、突然強烈な激痛が走った。何が起こったかわからずに頬を押さえてグスタフを見ると、彼は硬く拳を握っていた。グスタフは怒りが頂点に達しているようで、ミハイルをきつく睨みつけたまま、握った拳を下ろさず、ケンカ腰だ。
その横ではヴィルヘルムが『やめろ』とグスタフをなだめつつ窘めるが、おろおろと何もできずにいる。
「少尉、ここは軍の施設で、相手は陸軍大将だぞ」
「その前に俺の兄貴だ。兄弟げんかに口を出すな」
そこで漸く、ミハイルはグスタフに殴られたのだと知った。
遠慮も容赦もない、ケンカ慣れしたグスタフの拳の強さをミハイルは知っている。当たり前だ、グスタフはミハイルにケンカで勝つために鍛錬を怠らなかったのだから。
歯は折れなかったが、さすがに口の中を切ってしまった。血の味がして気持ち悪い。口を拭うと、手の甲に赤い筋が付いた。どうやらグスタフは冗談抜きで本気でミハイルをぶん殴ったようだ。
「グスタフ……私に一発喰らわせるとは、あなたもなかなかやるもんですね」
「俺を置いてったからだ。そんなことするから、結局ミズキも兄貴も面倒なことになったじゃないか。兄貴言ったよな? ミズキを取り戻すカードはたった一枚しかないんだって。この結果じゃ、そのたった一枚のカードをちゃんと有効利用できたとは思えねえ」
「そうでもありませんよ。現に面倒ごとは一つ減ったでしょう?」
クラウスのことだと、グスタフもヴィルヘルムも気づいたようだ。今度はヴィルヘルムの顔つきがどんどん険しくなっていく。
「ミハイル、おまえは本気でそう思っているのか」
「結果、上に上がれるのですよ。良かったじゃないですか。これであなたはいずれ海軍上級大将間違いなし。お祝いしないといけないんじゃ?」
瞬間、バチンと大きな音が響き、廊下には一瞬だけ、静逸が暗さと重さを帯びて漂ってきたが、静けさは途中で引き返し、代わりにやってきたのは険悪な空気だ。
「……つっ」
手を上げたのはヴィルヘルムだった。
「ミハイル、おまえは昔から皮肉屋で口の悪い男だった。しかし、今回ばかりは私はおまえを軽蔑する」
「グスタフにしろ、ヴィルヘルムにしろ……人の顔を気軽に叩きすぎですよ」
「叩かれるようなことをするからだ。クラウス大将が亡くなって、私が喜んでいると? 本気でそう思っているのか」
「だってそうでしょう。海軍上級大将に上がるのを夢見ていたじゃないですか」
「何を自棄になっているんだ。おまえらしくないぞ」
「――うるさいですよ、ヴィルヘルム。あなたのそういうところが私は昔から大嫌いなのです」
「いいや」
ヴィルヘルムは毅然とミハイルの抵抗を流した。まったく面倒な男だと、ミハイルは心の中でうんざりする。「ミハイル、いいか」と、無駄に熱くなって今度は激しく肩を掴んで演説を始める始末だ。
「――自らの実力が認められるのではなく、混乱を抑える目的であてがわれる椅子に何の魅力があるというんだ。そこに座らせられる虚しさを一番よく知るおまえが、それを本気で言うのか」
「あなたこそ、何をそんなに感情的になっているんですか。言ったでしょう。私にもミズキにももう時間がないのだと」
「話をすり替えるな。海軍大将と私を侮辱しても、戦犯の運命は変わらない。どのみち戦犯を待つのは処刑台だ。それに」
「……なんですか」
「私のことを感情的になっていると言ったが、その言葉、そっくりおまえに返してやる」
「……え?」
「感情的になっているのは、おまえの方だ」
ミハイルの中で静かなる怒りのマグマが波を立てる。こんなふうにヴィルヘルムごときに説教される謂れはない。怒りが出口を求め始めているのを感じ、ミハイルは軽く目を伏せた。
ここで自らの感情に身を任せてしまえば、間違いなくヴィルヘルムを叩きのめしてしまう。
クラウスが死んだことで、陸軍と海軍に何かしらわだかまりができ始めているのは確かなのだ。ここで陸軍の長たるものが、海軍の暫定とはいえ、一応大将をぶん殴るわけにいかない。
それに今はヴィルヘルムとグスタフの相手をしている場合ではないのだ。
「――言うだけ言って気がすみましたか、ヴィルヘルム」
「なんだと?」
「運命は変わるものですよ。そして、変えるものです」
「ミハイル、おまえ……」
「どきなさい。私はミズキに会いに行くんです」
ミハイルはヴィルヘルムを脇に退けると、そのまま暗い廊下を歩きだす。
「どうしておまえはそんなに戦犯にいれあげるんだ? あいつはおまえたち兄弟にとって、長兄殺しの敵じゃないのか」
その言葉に、ミハイルの足が止まる。ゆっくりと振り返ると、グスタフとヴィルヘルムを交互に見やる。
「敵ですよ」
「……」
「ですが敵以上のものを、彼に感じてしまった。だから彼が欲しいのです。彼の命をコントロールするのは国家ではない。私だ」
「ミハイル、おまえ……」
「私は私自身の望みをかなえるために、彼の運命を変えるのです」
ミハイルはそう言い残し、また踵を返し歩き出す。
追いすがるように後ろでヴィルヘルムが何かを言っていたが、もう彼らに割く時間が惜しかった。彼らを残し、ミハイルはミズキのところへ向かう。
きっとあの二人は、ミハイルの背中を指さして「ミハイルはおかしくなった」と笑っているのだろう。
それならばそれで結構。自分の意思を貫くのに、相手の顔色を気にしては何もできない。
相手との絆などもう切れていい。
自分はミズキと約束したのだ。彼が戦犯でなかったら、ずっとそばにいると。
彼が戦犯でなくなる方法を探さなければならない。残り時間いっぱい方法を模索して、そのための手を入れなければ、おそらく自分は一生後悔する。
敵なのに、愛おしいなんて――おかしなものだ。
戦場で見つけた色違いの宝石は、捕らえた瞬間にスッと殺人者の鋭さと激しさを帯びた。光が一切存在しない漆黒の闇のような色の中の深い蒼がより深くなる変化の瞬間。ミハイルの心を掴んだ瞳の光。
ミズキとだけ繋がる世界が作れるならば、もう何も、何もいらない。
ミハイルの目の前に、軍病院の入り口が見えてきた。
*****
明かりだけは昼間と変わらない。しかし、夜の病院はしんと静まり返り、人気はなかった。
戦争中は常にどこかで交戦状態だったから、常に兵士が怪我をして運び込まれる状況で、病院は24時間常に何かしら混雑していた。
だが終戦を迎えてからは、夜は割と静かな状態になったようだ。
昼間は外来の窓口となっている受付もグレーの薄いカーテンが引かれている。
奥に人影はあるようだが、夜勤の看護師が病棟での仕事をしているのだろう。
ミハイルは受付横のエレベーターのボタンを押した。ほどなくドアが開く。エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押すと、エレベーターが静かに動き出した。回数表示のランプが1から3に変わり、エレベーターが停止する。軽く突き上げるような振動のあとにエレベーターのドアが開いた。
一歩踏み出すと、そこは非常灯と間接照明がいくつかついているだけの暗い廊下が続いていた。集中治療室のある階は、いつ来てもだいたいこんな感じで薄暗い。見舞いに来た家族の気持ちをさらに暗くさせてしまうような暗い道だ。
ミハイルはエレベーターを降り、右手に折れて歩き出す。暗い廊下の突き当たり、角から蛍光灯の明かりが漏れている。
足音だけがやけに響く。突き当たりを右に曲がると、そこはこの階のナースステーションだ。受付では白い看護服を着た女性がなにやら書類に目を通しているところだったが、ミハイルの気配を感じて顔を上げ、あわてて「お疲れ様です!陸軍大将殿!」と頭を下げた。
「お疲れ様。シュラルド先生はおられるかな」
「あ、はいっ。お呼びします!」
看護師は内線を取ると耳に当て、ボタンを押した。
「あ、シュラルド先生、あの――」
「貸して」
ミハイルは彼女から受話器を取り上げると、耳に当てた。
「どうもこんばんは。シュラルド先生。少しあなたと話がしたくて、やってきてしまいました。ほんの少しお時間を戴けませんか?」
****
アンジェイ・シュラルドとミハイルは幼いころからの知り合いだ。シュラルドはミハイルのことをミーシャと呼んでいる。親しい仲の通称や愛称ではなく、単にミハイルがこう呼ばれるのを嫌っているので、ミーシャと呼ぶのは半ばシュラルドの嫌がらせだ。
神から頭脳と身体能力という二物の特典を与えられた二人は、勉強、運動、ケンカ、イタズラ、肝試し諸々といろんなことで争っては互いを磨いてきた。
その結果、ミハイルは陸軍のトップに上り詰め、シュラルドは軍病院の中でも群を抜いて優秀な医師となった。
今でこそシュラルドは軍の病院で静かにしているが、戦争中は野戦病院で兵士の救護に当たっていた。しかし、あまりにも「看護兵をかわいがった」ので、シュラルドのもとで働く看護兵の数が減った。
とにかく厳しかったのだ。治療される方も例外ではなく、シュラルドは「痛いところがあったら言え」なんていうくせに、正直に「先生、そこがすごく痛い」と申告した日には大変だ。「兵士が甘いこと言ってんじゃねえ」と逆に激しく叱責されるので、誰もが治療中は唇を噛んでじっと我慢をしていた。唇を噛み切ってしまいそうなときは、看護兵がそっとサラミソーセージのような木の短い棒を咥えさせてくれたが、やはり痛いものは痛いので、兵士は激痛に耐えながら、叱責される精神の痛みにも耐えて治療を受けていた。
シュラルドにしてみれば、看護兵のミスひとつが「怪我人の死」に直結するから、薬品や包帯、装具など間違わないよう厳しくせざるをえないし、兵士にしてもガキじゃないんだから消毒薬の刺激くらい我慢してもらわないと……なのだが、実際身体に埋まってしまった銃弾を取り出すのに、麻酔なしで切開などされれば、誰だって悲鳴くらい上がるというものだ。
だがそこはシュラルドに言わせると「野戦病院だぞ。麻酔なんぞかけている時間がもったいない」なのだそうで、看護兵はもはや患者の容体以外で、誰もシュラルドに「患者の気持ち」を伝えることはなかった。
とはいえ、シュラルドが治療に当たった兵士の傷の治りは早く、皆が最終的にはシュラルドに礼を言って現場に復帰していった。
ミハイルが悪魔なら、シュラルドは鬼だ。そんな物騒な異名を戴く二人は、シュラルドの診察室でコーヒーを飲んでいた。
「ミーシャ、おまえなんでも海軍大将をハチの巣にしてやったんだって? あのヒゲじじい、何かと老害も度を過ぎてたからな。よくやったぜ。で、おまえの処刑日はいつなんだ?」
部屋に通されるなり、シュラルドはニヤニヤ笑ってそう話を切り出した。
おそらくシュラルドは、ここ最近軍を騒がせている噂を本気にはしていないのだろう。
クラウスのことを「ヒゲじじい」と罵るシュラルドだが、この口癖を真似したのがグスタフだ。
ミハイルは両手をあたためるようにコーヒーカップを包むように持ち、シュラルドの大笑いに眉をひそめた。
「そんなに笑わないでください。残り少ない命なんですから、もう少し特別扱いしてくださいよ」
「ははは、すまん。しかし、クラウス大将が死んだからって、陸軍のおまえが手を下しても何の得にもならないのに、なんであんなうわさが広まったんだろうな?」
「噂ではなく、真実だからですよ」
「え?」
「もう一度言いましょうか。私がクラウス大将を射殺したのが真実だからです。現に私は今、軍のトップから任意で事情を聞かれています。本格的な尋問に移行するのもそう遠くはないでしょう」
「ミーシャ、マジか……」
シュラルドは言葉を失い、コーヒーカップを机に置いた。
「なぜぶっ殺した?」
「あの方は捕虜に対する規則違反を犯したのです。捕虜を凌辱した。だから粛清した……そういうことです」
「捕虜ってのはあいつか。あの少女みたいな小柄の……なんて言ったかな、そう、美人ちゃん。ヒゲじじいはあいつを撃ったのか」
「正確には私を狙ったのです。ですが彼が私の盾になって銃弾を受けた。彼を執刀したのは当然あなたですよね、アンジェイ?」
「ったりまえだろ。あいつ、黄泉行の停留所に立ってたんだぞ。そこからこっちの世界に引っ張ってこれるような腕を持った奴、他にいないぜ? まあバスはじいさんだけ乗せて先に行っちまったけど。あれは俺の腕のせいじゃない。天命だ、天命。俺が目を離した隙に死んじまったからなぁ」
「じゃああなたがその目で老獪の死亡を確認したわけじゃないんですか」
「俺も忙しくてな。死亡確認をした医師から報告は受けてるが、遺体の引き取りやらは海軍がやったと聞いてる。あのじいさん、身寄りがいないんだろうなぁ」
シュラルドは椅子の背もたれに身体を預け、天井を仰ぎ見る。
「ミーシャの話を聞いていると、あの海軍大将のうわさもあながち嘘とは思えなくなってくるな」
「噂?」
怪訝な顔をするミハイルに、シュラルドは口元に人差し指を当て「他言厳禁だ。あくまでも噂だ」と言い置いた。「地下室で戦犯とドラッグセックスに興じてるってな」
「アンジェイ、そのうわさはいつごろから?」
「1週間くらい前じゃないのか。ひげじじいが短期間にずいぶんと麻薬の類を持ち出していて、使途を聞いたら、尋問に使うんだと言っていた。だがどうも様子が違う。だってありえるか? 薬貰いに来ているのに、股間をデカくさせてそわそわして、ニヤニヤしながら舌なめずりをしてる。大きなムスコを必死に隠しているようだったが、女性スタッフは皆ドン引きだ。麻薬もって臨戦態勢とか、もうヤル気満々だろ」
「……」
ミハイルは黙って、シュラルドの話を聞いていた。
彼の話は途中からもう頭に入ってこなかった。冷たいコンクリートに横たわっていた傷だらけのミズキを思い出すたび、胸が痛む。もともと細い身体がさらに痩せ細り、腕にはいくつもの注射痕で紫色に腫れ上がり、汗ではない忌まわしい体液で身体が汚れていた。
そんな噂が出回るほど、クラウスはミズキにご執心だったようだが、彼の愚かで歪んだミズキへの愛情が今回の騒動を招いたのだ。
どうみてもミズキは被害者なのだが、彼はクラリスにおいては大戦犯。しかもクラウスの性癖込みで彼のしたことを公にしても、民衆は信じることはないだろう。
「アンジェイ、それで戦犯……ミズキ・ブランケンハイムの容体はどうなんです? 彼の目は? 見えるようになりますか?」
ミハイルが問うと、シュラルドは少し俯いた。
「ミーシャ、正直に言っていいか」
「もちろん」
「彼の右手と右目はもう使い物にはならない。右手はほぼ使えない。利き手を左手に変えた方がいいかもな。あと右目はもうダメだ。あとこの怪我の影響で左目も徐々に見えなくなっていく恐れが高い」
「目は……ダメでしたか……」
「義眼を入れれば見た目にはわからない。しかし戦犯は……あいつなんだろ。オッドアイの……」
「ええ、異色光彩の狙撃手と呼ばれた彼です」
「狙撃手にとって目と手は命だ。それを失ったら二度と出撃はできないな」
シュラルドは残念そうに溜息をつく。
「彼は単身でクラリスにやってきて、さっと仕事を終えて姿を消す。かなり腕がよかったと聞く。あくまでも噂で聞いた限りだが」
「噂ではありませんよ。実際、本気の彼は重装備兵に囲まれても余裕で包囲網を突破できます。身軽で判断が速く、耳もいい。彼なら狙撃弾1発で戦闘機も落とせるでしょう。クラリス軍に欲しいくらいの人材だ」
「おまえがそこまで人を褒めるのは珍しいな」
シュラルドがほうと感心しきりだ。
「それにおまえの話を聞いていると、なんだか戦犯を殺したくないようにも聞こえる」
「勘がいい人は大好きですよ、アンジェイ」
「ミーシャがそこまで入れ込んだ奴なら絶対に助けないとな」
シュラルドはポンと膝を叩いて椅子から立ち上がる。
「そろそろ麻酔が切れるころじゃないかな。ミーシャ、美人ちゃんに会っていくだろ?」
「もちろん。でも大丈夫なのですか? うちの弟たちは病室の目の前で追い返されたようですが」
「あいつらうるせぇ。グスタフとヴィルのふたりが来ちゃ、他の患者に迷惑だ。だから俺の権限であいつらは面会謝絶にした。あと集中治療室に入れたのは脱走防止のためで、命の危険はもうないから安心しろ」
俺が手術したんだからな、とシュラルドは自信満々にサムズアップだ。常に消毒薬などに触れているせいか、シュラルドの親指は見てて痛くなるほどにひび割れている。
「俺はもう、必要は事はやった。あとは本人の体力次第だ」
「お手数おかけします」
「いいって。じゃ行こうか。彼のところまで案内しよう」
*****
シュラルドに連れられて、ミハイルはミズキの病室にやってきた。
消毒の匂いと規則的な電子音。それはミズキの心臓のリズムを刻んでいた。
ミズキの左手には、血液型など彼の身体のデータを記したリストバンドが巻かれていたが、その色が赤だった。
この病院で赤の識別リストバンドをしている者は、「罪人」であることを表す。危険な目に遭ったばかりなのだから、そのまま監視だけ強化しておけばいいのに、誰が巻いたのか、ミズキはここのスタッフに図らずも自らの身分を示すことになってしまった。
医療スタッフ全員が博愛精神を持っているならともかく、ミズキに身内を殺された人間がここに混ざっていたら、復讐するには最高の環境だ。
老獪の手から逃れたのに、今また危険に晒されている。
ミハイルはそれを心配していた。
「ミーシャ。立ったままで済まんが、この部屋には椅子を置いていないんだ」
「構いません。彼のそばに武器になるようなものは置けませんものね」
「帰るときはそっちのドアから。看護師たちには言っておく。時間は気にしなくていいし、会話出来そうなら話しても構わんが、あまり無理はさせないようにな」
シュラルドはそう言うと、部屋を出て行った。集中治療室にはいくつかベッドが並んでおり、それらはカーテン一枚で区切られているが、ここには現在、ミズキのほかは患者がいないようだった。
だが、このカーテンの外では命を繋ぐ作業が行われている。何かの包装を破る音、パタパタと小走りのナースシューズの足音、または呼び出し音に看護師が「どうしました?」と問いかけている声が聞こえる。
ミズキのいる場所だけが、それらの喧騒からぽっかりと切り取られているかのようだった。
ミハイルは床に膝をつくと、ベッドに両腕を乗せ、すうすうと静かな寝息を立てるミズキの頭をそっと撫でた。額に手を当てると、包帯越しからでもわかるほど熱かった。術後の発熱かもしれない。少し細めでサラサラだったミズキの柔らかい髪は、少し固まり気味になり束になり始めている。
ミズキは身体がべたつくのを嫌う。早くあったかいお風呂に入れてやりたい。怪我の具合が良くなったら、シュラルドに頼んでみるとするか。
「ミズキ」
頭をなでながら名前を呼ぶ。彼に触れながら名前を呼んだのは、もうどれくらい前だったろうか。最後に触れた日が遠い昔のようにも感じる。
ミハイルは布団に手を入れ、ミズキの右手にそっと触れる。手のひらの部分に包帯が分厚く巻かれていた。
「ごめんなさい。あなたを守れず、こんな目に遭わせてしまった……」
「ちが、うよ……」
弱々しい声。
「ミズキ?」
思わず立ち上がってみれば、ミズキが目を覚ましていた。だが傷が痛むのか「むぅ~……」と苦しそうに呻いている。
布団の中でミズキの右手が何かを探すように動き、ミハイルの手に触れた。そのままミハイルの手のかたちを確かめるようにゆっくりと触れると、包帯の巻かれていない指先でミハイルの指を捕らえ、わずかな力で握った。
「夢じゃない……僕、あなたと手を繋いでる」
ミズキはそう言って、か細い声でふふっと笑う。
「僕、まだ生きてるんだね……」
「ええ。命に別状はないそうですよ」
「ミハイルは……?」
「ん?」
「ミハイルは、ご主人様になにもされなかった?」
ご主人様とはクラウスのことだ。たった数日の監禁でミズキの脳は、クラウスに隷属することを覚えてしまった。それが不憫で、悔しくてならない。
ミズキはミズキ自身の意思があるのに。それを完全否定して征服した結果がこの状態かと思うと、ミハイルの胸は激しい怒りと罪悪感に苛まれるばかりだ。
「ミズキ、あの老獪はあなたの主人などではありませんよ?」
「うん……」
ミズキは弱々しく返事をすると、蛍光灯が眩しいのか、目を細めた。
「僕の目……どうなったの?」
片方だけが暗い、とミズキは不機嫌そうだ。なんでも包帯が邪魔して、ミハイルの姿が見づらいのだという。
「包帯とって。これ邪魔……」
「ダメです。今は我慢して」
「うぅ~っ……」
親に甘える子どものような彼の反応がかわいらしくて、ミハイルは巻かれた包帯の上からミズキの右目にキスを落とす。
「大丈夫。怪我がひどいだけ。しばらくは片目で不便でしょうから、私があなたの目の代わりになりますよ」
「そっかぁ……」
本当のことをミズキに言い出せなかった。
今の彼に、片目は無くなったのだと教えるのは酷な気がして。
だが。
「でも僕、片目失くしても平気だよ。だって僕、大好きになった人の盾になれたんだもん。命があるだけラッキーだよ」
「大好きに……なった? 私を?」
「あなたは僕にいろんなことを教えてくれて……汚いはずの僕を受け入れてくれて……そんな風にしてくれたのは、あなただけだった」
「でもあなたがその狙撃の腕を磨くために、あなたを指導し、応援してくれた人がいるのではないのですか?」
「おじさんは僕を育ててくれたけど……それは僕がおじさんに対して償いをしなければならなかったから……だからなんだろう……えーと、ミハイルが僕にくれたものとは違う……と思う」
「私があなたにあげたもの、ですか?」
「うん。なんだろう。あったかくておおきくて……ミハイルが僕にくれたこころのようなものなんだけど、なんて言えばいいかわかんないな……」
「愛情、ですか?」
「あっ、それだ……」
「ふふ、本当にあなたは子どもですね。無邪気でかわいらしい」
ミハイルがからかうと、ミズキは「子どもじゃないもん……」と頬をぷぅっと膨らませた。
この瞬間、ミハイルの全てを独占しているのはミズキだ。ミハイルの全てが自分に向いていてくれるこの時間がとてもとても特別に思えるのだと。
「僕……今がいちばん幸せかも」
「ミズキ……あなたという人は前向きにもほどがありますよ」
戦争と瓦礫と硝煙の匂いしか知らない、世間知らずの異色光彩にいろんなものを見せてやりたかった。移ろう季節、おいしい食べ物、人との語らい、いろんな景色……。
ミズキとミハイル、個々で心は繋げても、国家の事情が絆を分断する。
お互い手に指を絡めても、断罪という名の運命の鉈が、手首ごと斬りおとしに来るのだろう。
その日はいつだ。来るべき「その日」を思うほどに、絶対に結ばれることなど無いミズキへの恋情が、刃となって心臓を切り裂いていく。
激しい痛みは別れの日をくっきりと意識させ、この世にいないミズキの姿を探して血を流し続けるのだろう。
ーー耐えられない。ミズキなしの世界など。
どうしてミズキは、ミハイルのことを嫌いにならなかったのかと思う反面、ミハイルのことが大好きだと素直に気持ちを伝えるミズキがとても愛おしい。
だが……やらねばならない現実がミハイルを苦しめる。
「私は、あなたを処刑台に送るのですよ?」
「わかってる。そこが僕の行くべきところだもの」
「ミズキ……」
「死ぬのは怖くない。それよりこんな僕でも、あなたの役に立てたのなら嬉しい」
ミズキはそう言って「僕、やったでしょ」と自慢げに笑う。
「天国に行ったら、この目も身体もなにもかも、あなたの役にはたたないから……生きているうちにあなたの役に立てて良かったって……僕、思うんだ……」
そんな彼の笑顔が強くて――悲しい。互いを待ち受けているのは、非情な別離なのに。
「ミズキ。あなたというひとは――」
泣きたくなるほど純粋で儚い強さに、胸が締め付けられる。だが、ミズキはそんなミハイルの心知らずか、小さなあくびをしている。きっと疲れてしまったのだろう。
「ミハイル……僕、眠くなっちゃった……」
「ええ、ゆっくり休んで。私はずっと、あなたのそばにいますからね」
「うん……ありがと」
ミズキは満足げに微笑むと、また目を閉じ、ほどなく寝息を立て始める。
眠りについたミズキが、せめて今だけでも苦しまずにいい夢を見られるように、ミハイルはそう願わずにはいられなかった。
夜になり、ミハイルはやっと解放され、相変わらず荒れ放題の自室に戻った。
いつもどんなに仕事がたてこんでも、疲れなど見せないように心掛けているが、洗面所の壁に掛けられた鏡に映った自分の顔を見て絶句した。
「なんですか、これが私の顔ですか?」
月明りしかない部屋の割れた鏡に映る自分の姿が、まるで自分ではないようだ。薄暗いのは仕方ない。電気が限られているせいだ。
しかし、目の下に色濃くできた隈、正気のない瞳は、ミズキの一件による精神的な疲労を顕していた。まるで今の自分は――
「亡霊のような顔だ。情けない」
ヴァリマンドの質問には、すべて「自分がやった」と答えた。クラウスに向けた銃弾もすべて自分が撃ったと答えた。1発目を撃ったのはミズキだが、それはミズキをみすみす老獪に渡してしまった自分の過ちから来たものだ。
しかし、自分だけが非を認めたわけではない。
クラウスの不可解な行動、ミズキへの執着、そこはすべて話した。なんなら監視画像でも分析してみればいいとも言ったので、ヴァリマンドに「男が男を抱く」シーンを見る勇気があるならば、監視カメラの映像の精査が始まっているだろう。
さすがのクラウスも、尋問室の監視カメラを停止するようなことまではしていないはずだ。もし停止されていれば、全館に警告が鳴り響く。カメラが停止していなければミハイルの証言が半分裏付けされるようなものとなる。
戦争が終わり、市民らはみな報復へと考えが傾いている。マスコミが煽動しているせいも大きい。国家全体に不満のガスが充満して、それが破裂寸前まで濃度を高めている。
大切な家族をディスタンシアに奪われた。自分たちの大切な家族を生かして返せと、日に日に高まる復讐の声。
捕虜の命で、市民の悲しみを癒せと騒いでいる。
こんな状況でミズキがクラウスを撃ったなんて知られれば、ミズキの処刑が早まるばかりだ。
そういえばミズキの容態をまだ聞いていない。彼はいったいどうなったのか。
こんな疲れた顔をしていると、ミズキに余計な心配をさせてしまうかもしれない。
ミハイルは水栓をひねって水を出し、バシャバシャと顔を洗う。冷たい水が一気に重い気分を引き締める。
顔を拭き、手櫛でさっと髪を軽く整え、部屋を出る。
今の自分は仲間殺しの容疑を掛けられているから、きっと何かしらの監視もついているだろう。
だがどうしてもひと目でいいから、今日中にミズキに会いたかった。
そっとドアを閉めると、そこにはまたグスタフが立っていた。
しかも今度は「お友達」がついている。ヴィルヘルムだ。
「兄貴、どこ行くんだよ」
「ミハイル、どこに行くんだ」
二人に似たような質問を浴びせられるが、ミハイルはいつも通りに答えた。
「ミズキのところです。たぶん、会わせてはもらえないでしょうけど」
「ミズキの手術は無事に終わった。今は集中治療室にいる。2、3日は会えないぜ」
「そうですか。で、ミズキはどうでした?」
「顔に分厚い包帯が巻かれてた。当たり前だが寝てる」
「――でしょうね」
ミハイルの脳裏に、血まみれのミズキの姿が蘇る。
銃弾が手のひらを貫通して、彼の目に当たって止まったのだ。
狙撃手として大切な身体の機能を、一気にふたつも傷つけられた。
もうミズキが前のように正確な狙撃を行えるかどうかはわからない。
逆に、目と手を失うことで、彼がディスタンシアでの呪縛から解放される様な気がするが、それはミズキがそう思えてこそ成立する話であって、ミハイルが判断することではない。
現実を知った彼はどう思うのだろう。
狙撃手ですらなくなった自分を、ちゃんと受け入れて前を向けるだろうか。
それとも、自分の存在理由を失って、生きることすらも諦めてしまうだろうか。
狙撃手であることは、ミズキのプライドだ。男に脚を開く男娼ではない証。
「申し訳ありませんが、今日はふたりに付き合える気分ではありません。私もミズキの姿を見たら、すぐに部屋に戻る予定です。道を開けていただいて宜しいですか」
二人の了承を聞かないまま、ミハイルはグスタフとヴィルヘルムの間をすり抜けようとしたが、グスタフの右手がミハイルの右肩をがしりと掴んだ。
「待てよ兄貴。話はまだ終わってない」
「私には話すらありませんが?」
「兄貴になくても――」
「私にはあるんだ」
グスタフのあとに続けたのは、ヴィルヘルムだ。彼はミハイルの前に回り込むと、頭を深々と下げた。
「君の部屋を最初に襲撃したのは、私だ。私の指揮だ」
「でも二度目は知らなかった。そうでしょう? そしてあなたは、老獪の指示に従って尋問室に私たちを誘い出した。そうですよね?」
ヴィルヘルムははっとして視線をあげた。
「ミハイル……どうして」
「あまりにも尋問室までが簡単すぎました。普通ならあのメンツで動いていれば目立ちます。それに、海軍ナンバー2のあなたが私たちにつきあうほどヒマとも思えなかったし、重装備の歩哨が眠っているのも解せなかった。普通なら懲罰ものですよ、見張りが寝てるなんて。そこにミズキを隠しているなら、私たちの訪問を何が何でも止めるだろうと思っていたのに、いろいろと拍子抜けだったのです」
「全てお見通しか、ミハイル?」
「お見通しと言えればカッコいいのですが、単純に直感です。かつて私の恩師とも言える人がそう教えてくれました。判断に迷ったなら、己の直感を信じろ、とね」
ミハイルの話を聞きながら、グスタフが「ジュリアの親父だな」とうんうんとうなづいている。ミハイルはそんな弟をみてクスリと笑った。
「そうですね。あの人は、私たちにとっても父親みたいなものでした。私はその方の教えに従ったまでで、ヴィルヘルムの思惑は初めて知りました。でももう、良いんです。今更そのような告白をされても、ミズキは……」
ミハイルは苦しげに眉を寄せて俯いたが、すぐに顔を上げた。
「さあどいて。私はミズキに会いに行くんです。明日も事情聴取がある。私には限られた時間しかない。同様にミズキにも。私たちが互いの顔を見られるのは、もうわずかな時間しかないのです」
「じゃあ簡単に用件を済ませてやるよ、兄貴」
「?」
ミハイルが足を止めた。
「グスタフ?」
振り返ったミハイルの頬に、突然強烈な激痛が走った。何が起こったかわからずに頬を押さえてグスタフを見ると、彼は硬く拳を握っていた。グスタフは怒りが頂点に達しているようで、ミハイルをきつく睨みつけたまま、握った拳を下ろさず、ケンカ腰だ。
その横ではヴィルヘルムが『やめろ』とグスタフをなだめつつ窘めるが、おろおろと何もできずにいる。
「少尉、ここは軍の施設で、相手は陸軍大将だぞ」
「その前に俺の兄貴だ。兄弟げんかに口を出すな」
そこで漸く、ミハイルはグスタフに殴られたのだと知った。
遠慮も容赦もない、ケンカ慣れしたグスタフの拳の強さをミハイルは知っている。当たり前だ、グスタフはミハイルにケンカで勝つために鍛錬を怠らなかったのだから。
歯は折れなかったが、さすがに口の中を切ってしまった。血の味がして気持ち悪い。口を拭うと、手の甲に赤い筋が付いた。どうやらグスタフは冗談抜きで本気でミハイルをぶん殴ったようだ。
「グスタフ……私に一発喰らわせるとは、あなたもなかなかやるもんですね」
「俺を置いてったからだ。そんなことするから、結局ミズキも兄貴も面倒なことになったじゃないか。兄貴言ったよな? ミズキを取り戻すカードはたった一枚しかないんだって。この結果じゃ、そのたった一枚のカードをちゃんと有効利用できたとは思えねえ」
「そうでもありませんよ。現に面倒ごとは一つ減ったでしょう?」
クラウスのことだと、グスタフもヴィルヘルムも気づいたようだ。今度はヴィルヘルムの顔つきがどんどん険しくなっていく。
「ミハイル、おまえは本気でそう思っているのか」
「結果、上に上がれるのですよ。良かったじゃないですか。これであなたはいずれ海軍上級大将間違いなし。お祝いしないといけないんじゃ?」
瞬間、バチンと大きな音が響き、廊下には一瞬だけ、静逸が暗さと重さを帯びて漂ってきたが、静けさは途中で引き返し、代わりにやってきたのは険悪な空気だ。
「……つっ」
手を上げたのはヴィルヘルムだった。
「ミハイル、おまえは昔から皮肉屋で口の悪い男だった。しかし、今回ばかりは私はおまえを軽蔑する」
「グスタフにしろ、ヴィルヘルムにしろ……人の顔を気軽に叩きすぎですよ」
「叩かれるようなことをするからだ。クラウス大将が亡くなって、私が喜んでいると? 本気でそう思っているのか」
「だってそうでしょう。海軍上級大将に上がるのを夢見ていたじゃないですか」
「何を自棄になっているんだ。おまえらしくないぞ」
「――うるさいですよ、ヴィルヘルム。あなたのそういうところが私は昔から大嫌いなのです」
「いいや」
ヴィルヘルムは毅然とミハイルの抵抗を流した。まったく面倒な男だと、ミハイルは心の中でうんざりする。「ミハイル、いいか」と、無駄に熱くなって今度は激しく肩を掴んで演説を始める始末だ。
「――自らの実力が認められるのではなく、混乱を抑える目的であてがわれる椅子に何の魅力があるというんだ。そこに座らせられる虚しさを一番よく知るおまえが、それを本気で言うのか」
「あなたこそ、何をそんなに感情的になっているんですか。言ったでしょう。私にもミズキにももう時間がないのだと」
「話をすり替えるな。海軍大将と私を侮辱しても、戦犯の運命は変わらない。どのみち戦犯を待つのは処刑台だ。それに」
「……なんですか」
「私のことを感情的になっていると言ったが、その言葉、そっくりおまえに返してやる」
「……え?」
「感情的になっているのは、おまえの方だ」
ミハイルの中で静かなる怒りのマグマが波を立てる。こんなふうにヴィルヘルムごときに説教される謂れはない。怒りが出口を求め始めているのを感じ、ミハイルは軽く目を伏せた。
ここで自らの感情に身を任せてしまえば、間違いなくヴィルヘルムを叩きのめしてしまう。
クラウスが死んだことで、陸軍と海軍に何かしらわだかまりができ始めているのは確かなのだ。ここで陸軍の長たるものが、海軍の暫定とはいえ、一応大将をぶん殴るわけにいかない。
それに今はヴィルヘルムとグスタフの相手をしている場合ではないのだ。
「――言うだけ言って気がすみましたか、ヴィルヘルム」
「なんだと?」
「運命は変わるものですよ。そして、変えるものです」
「ミハイル、おまえ……」
「どきなさい。私はミズキに会いに行くんです」
ミハイルはヴィルヘルムを脇に退けると、そのまま暗い廊下を歩きだす。
「どうしておまえはそんなに戦犯にいれあげるんだ? あいつはおまえたち兄弟にとって、長兄殺しの敵じゃないのか」
その言葉に、ミハイルの足が止まる。ゆっくりと振り返ると、グスタフとヴィルヘルムを交互に見やる。
「敵ですよ」
「……」
「ですが敵以上のものを、彼に感じてしまった。だから彼が欲しいのです。彼の命をコントロールするのは国家ではない。私だ」
「ミハイル、おまえ……」
「私は私自身の望みをかなえるために、彼の運命を変えるのです」
ミハイルはそう言い残し、また踵を返し歩き出す。
追いすがるように後ろでヴィルヘルムが何かを言っていたが、もう彼らに割く時間が惜しかった。彼らを残し、ミハイルはミズキのところへ向かう。
きっとあの二人は、ミハイルの背中を指さして「ミハイルはおかしくなった」と笑っているのだろう。
それならばそれで結構。自分の意思を貫くのに、相手の顔色を気にしては何もできない。
相手との絆などもう切れていい。
自分はミズキと約束したのだ。彼が戦犯でなかったら、ずっとそばにいると。
彼が戦犯でなくなる方法を探さなければならない。残り時間いっぱい方法を模索して、そのための手を入れなければ、おそらく自分は一生後悔する。
敵なのに、愛おしいなんて――おかしなものだ。
戦場で見つけた色違いの宝石は、捕らえた瞬間にスッと殺人者の鋭さと激しさを帯びた。光が一切存在しない漆黒の闇のような色の中の深い蒼がより深くなる変化の瞬間。ミハイルの心を掴んだ瞳の光。
ミズキとだけ繋がる世界が作れるならば、もう何も、何もいらない。
ミハイルの目の前に、軍病院の入り口が見えてきた。
*****
明かりだけは昼間と変わらない。しかし、夜の病院はしんと静まり返り、人気はなかった。
戦争中は常にどこかで交戦状態だったから、常に兵士が怪我をして運び込まれる状況で、病院は24時間常に何かしら混雑していた。
だが終戦を迎えてからは、夜は割と静かな状態になったようだ。
昼間は外来の窓口となっている受付もグレーの薄いカーテンが引かれている。
奥に人影はあるようだが、夜勤の看護師が病棟での仕事をしているのだろう。
ミハイルは受付横のエレベーターのボタンを押した。ほどなくドアが開く。エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押すと、エレベーターが静かに動き出した。回数表示のランプが1から3に変わり、エレベーターが停止する。軽く突き上げるような振動のあとにエレベーターのドアが開いた。
一歩踏み出すと、そこは非常灯と間接照明がいくつかついているだけの暗い廊下が続いていた。集中治療室のある階は、いつ来てもだいたいこんな感じで薄暗い。見舞いに来た家族の気持ちをさらに暗くさせてしまうような暗い道だ。
ミハイルはエレベーターを降り、右手に折れて歩き出す。暗い廊下の突き当たり、角から蛍光灯の明かりが漏れている。
足音だけがやけに響く。突き当たりを右に曲がると、そこはこの階のナースステーションだ。受付では白い看護服を着た女性がなにやら書類に目を通しているところだったが、ミハイルの気配を感じて顔を上げ、あわてて「お疲れ様です!陸軍大将殿!」と頭を下げた。
「お疲れ様。シュラルド先生はおられるかな」
「あ、はいっ。お呼びします!」
看護師は内線を取ると耳に当て、ボタンを押した。
「あ、シュラルド先生、あの――」
「貸して」
ミハイルは彼女から受話器を取り上げると、耳に当てた。
「どうもこんばんは。シュラルド先生。少しあなたと話がしたくて、やってきてしまいました。ほんの少しお時間を戴けませんか?」
****
アンジェイ・シュラルドとミハイルは幼いころからの知り合いだ。シュラルドはミハイルのことをミーシャと呼んでいる。親しい仲の通称や愛称ではなく、単にミハイルがこう呼ばれるのを嫌っているので、ミーシャと呼ぶのは半ばシュラルドの嫌がらせだ。
神から頭脳と身体能力という二物の特典を与えられた二人は、勉強、運動、ケンカ、イタズラ、肝試し諸々といろんなことで争っては互いを磨いてきた。
その結果、ミハイルは陸軍のトップに上り詰め、シュラルドは軍病院の中でも群を抜いて優秀な医師となった。
今でこそシュラルドは軍の病院で静かにしているが、戦争中は野戦病院で兵士の救護に当たっていた。しかし、あまりにも「看護兵をかわいがった」ので、シュラルドのもとで働く看護兵の数が減った。
とにかく厳しかったのだ。治療される方も例外ではなく、シュラルドは「痛いところがあったら言え」なんていうくせに、正直に「先生、そこがすごく痛い」と申告した日には大変だ。「兵士が甘いこと言ってんじゃねえ」と逆に激しく叱責されるので、誰もが治療中は唇を噛んでじっと我慢をしていた。唇を噛み切ってしまいそうなときは、看護兵がそっとサラミソーセージのような木の短い棒を咥えさせてくれたが、やはり痛いものは痛いので、兵士は激痛に耐えながら、叱責される精神の痛みにも耐えて治療を受けていた。
シュラルドにしてみれば、看護兵のミスひとつが「怪我人の死」に直結するから、薬品や包帯、装具など間違わないよう厳しくせざるをえないし、兵士にしてもガキじゃないんだから消毒薬の刺激くらい我慢してもらわないと……なのだが、実際身体に埋まってしまった銃弾を取り出すのに、麻酔なしで切開などされれば、誰だって悲鳴くらい上がるというものだ。
だがそこはシュラルドに言わせると「野戦病院だぞ。麻酔なんぞかけている時間がもったいない」なのだそうで、看護兵はもはや患者の容体以外で、誰もシュラルドに「患者の気持ち」を伝えることはなかった。
とはいえ、シュラルドが治療に当たった兵士の傷の治りは早く、皆が最終的にはシュラルドに礼を言って現場に復帰していった。
ミハイルが悪魔なら、シュラルドは鬼だ。そんな物騒な異名を戴く二人は、シュラルドの診察室でコーヒーを飲んでいた。
「ミーシャ、おまえなんでも海軍大将をハチの巣にしてやったんだって? あのヒゲじじい、何かと老害も度を過ぎてたからな。よくやったぜ。で、おまえの処刑日はいつなんだ?」
部屋に通されるなり、シュラルドはニヤニヤ笑ってそう話を切り出した。
おそらくシュラルドは、ここ最近軍を騒がせている噂を本気にはしていないのだろう。
クラウスのことを「ヒゲじじい」と罵るシュラルドだが、この口癖を真似したのがグスタフだ。
ミハイルは両手をあたためるようにコーヒーカップを包むように持ち、シュラルドの大笑いに眉をひそめた。
「そんなに笑わないでください。残り少ない命なんですから、もう少し特別扱いしてくださいよ」
「ははは、すまん。しかし、クラウス大将が死んだからって、陸軍のおまえが手を下しても何の得にもならないのに、なんであんなうわさが広まったんだろうな?」
「噂ではなく、真実だからですよ」
「え?」
「もう一度言いましょうか。私がクラウス大将を射殺したのが真実だからです。現に私は今、軍のトップから任意で事情を聞かれています。本格的な尋問に移行するのもそう遠くはないでしょう」
「ミーシャ、マジか……」
シュラルドは言葉を失い、コーヒーカップを机に置いた。
「なぜぶっ殺した?」
「あの方は捕虜に対する規則違反を犯したのです。捕虜を凌辱した。だから粛清した……そういうことです」
「捕虜ってのはあいつか。あの少女みたいな小柄の……なんて言ったかな、そう、美人ちゃん。ヒゲじじいはあいつを撃ったのか」
「正確には私を狙ったのです。ですが彼が私の盾になって銃弾を受けた。彼を執刀したのは当然あなたですよね、アンジェイ?」
「ったりまえだろ。あいつ、黄泉行の停留所に立ってたんだぞ。そこからこっちの世界に引っ張ってこれるような腕を持った奴、他にいないぜ? まあバスはじいさんだけ乗せて先に行っちまったけど。あれは俺の腕のせいじゃない。天命だ、天命。俺が目を離した隙に死んじまったからなぁ」
「じゃああなたがその目で老獪の死亡を確認したわけじゃないんですか」
「俺も忙しくてな。死亡確認をした医師から報告は受けてるが、遺体の引き取りやらは海軍がやったと聞いてる。あのじいさん、身寄りがいないんだろうなぁ」
シュラルドは椅子の背もたれに身体を預け、天井を仰ぎ見る。
「ミーシャの話を聞いていると、あの海軍大将のうわさもあながち嘘とは思えなくなってくるな」
「噂?」
怪訝な顔をするミハイルに、シュラルドは口元に人差し指を当て「他言厳禁だ。あくまでも噂だ」と言い置いた。「地下室で戦犯とドラッグセックスに興じてるってな」
「アンジェイ、そのうわさはいつごろから?」
「1週間くらい前じゃないのか。ひげじじいが短期間にずいぶんと麻薬の類を持ち出していて、使途を聞いたら、尋問に使うんだと言っていた。だがどうも様子が違う。だってありえるか? 薬貰いに来ているのに、股間をデカくさせてそわそわして、ニヤニヤしながら舌なめずりをしてる。大きなムスコを必死に隠しているようだったが、女性スタッフは皆ドン引きだ。麻薬もって臨戦態勢とか、もうヤル気満々だろ」
「……」
ミハイルは黙って、シュラルドの話を聞いていた。
彼の話は途中からもう頭に入ってこなかった。冷たいコンクリートに横たわっていた傷だらけのミズキを思い出すたび、胸が痛む。もともと細い身体がさらに痩せ細り、腕にはいくつもの注射痕で紫色に腫れ上がり、汗ではない忌まわしい体液で身体が汚れていた。
そんな噂が出回るほど、クラウスはミズキにご執心だったようだが、彼の愚かで歪んだミズキへの愛情が今回の騒動を招いたのだ。
どうみてもミズキは被害者なのだが、彼はクラリスにおいては大戦犯。しかもクラウスの性癖込みで彼のしたことを公にしても、民衆は信じることはないだろう。
「アンジェイ、それで戦犯……ミズキ・ブランケンハイムの容体はどうなんです? 彼の目は? 見えるようになりますか?」
ミハイルが問うと、シュラルドは少し俯いた。
「ミーシャ、正直に言っていいか」
「もちろん」
「彼の右手と右目はもう使い物にはならない。右手はほぼ使えない。利き手を左手に変えた方がいいかもな。あと右目はもうダメだ。あとこの怪我の影響で左目も徐々に見えなくなっていく恐れが高い」
「目は……ダメでしたか……」
「義眼を入れれば見た目にはわからない。しかし戦犯は……あいつなんだろ。オッドアイの……」
「ええ、異色光彩の狙撃手と呼ばれた彼です」
「狙撃手にとって目と手は命だ。それを失ったら二度と出撃はできないな」
シュラルドは残念そうに溜息をつく。
「彼は単身でクラリスにやってきて、さっと仕事を終えて姿を消す。かなり腕がよかったと聞く。あくまでも噂で聞いた限りだが」
「噂ではありませんよ。実際、本気の彼は重装備兵に囲まれても余裕で包囲網を突破できます。身軽で判断が速く、耳もいい。彼なら狙撃弾1発で戦闘機も落とせるでしょう。クラリス軍に欲しいくらいの人材だ」
「おまえがそこまで人を褒めるのは珍しいな」
シュラルドがほうと感心しきりだ。
「それにおまえの話を聞いていると、なんだか戦犯を殺したくないようにも聞こえる」
「勘がいい人は大好きですよ、アンジェイ」
「ミーシャがそこまで入れ込んだ奴なら絶対に助けないとな」
シュラルドはポンと膝を叩いて椅子から立ち上がる。
「そろそろ麻酔が切れるころじゃないかな。ミーシャ、美人ちゃんに会っていくだろ?」
「もちろん。でも大丈夫なのですか? うちの弟たちは病室の目の前で追い返されたようですが」
「あいつらうるせぇ。グスタフとヴィルのふたりが来ちゃ、他の患者に迷惑だ。だから俺の権限であいつらは面会謝絶にした。あと集中治療室に入れたのは脱走防止のためで、命の危険はもうないから安心しろ」
俺が手術したんだからな、とシュラルドは自信満々にサムズアップだ。常に消毒薬などに触れているせいか、シュラルドの親指は見てて痛くなるほどにひび割れている。
「俺はもう、必要は事はやった。あとは本人の体力次第だ」
「お手数おかけします」
「いいって。じゃ行こうか。彼のところまで案内しよう」
*****
シュラルドに連れられて、ミハイルはミズキの病室にやってきた。
消毒の匂いと規則的な電子音。それはミズキの心臓のリズムを刻んでいた。
ミズキの左手には、血液型など彼の身体のデータを記したリストバンドが巻かれていたが、その色が赤だった。
この病院で赤の識別リストバンドをしている者は、「罪人」であることを表す。危険な目に遭ったばかりなのだから、そのまま監視だけ強化しておけばいいのに、誰が巻いたのか、ミズキはここのスタッフに図らずも自らの身分を示すことになってしまった。
医療スタッフ全員が博愛精神を持っているならともかく、ミズキに身内を殺された人間がここに混ざっていたら、復讐するには最高の環境だ。
老獪の手から逃れたのに、今また危険に晒されている。
ミハイルはそれを心配していた。
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「構いません。彼のそばに武器になるようなものは置けませんものね」
「帰るときはそっちのドアから。看護師たちには言っておく。時間は気にしなくていいし、会話出来そうなら話しても構わんが、あまり無理はさせないようにな」
シュラルドはそう言うと、部屋を出て行った。集中治療室にはいくつかベッドが並んでおり、それらはカーテン一枚で区切られているが、ここには現在、ミズキのほかは患者がいないようだった。
だが、このカーテンの外では命を繋ぐ作業が行われている。何かの包装を破る音、パタパタと小走りのナースシューズの足音、または呼び出し音に看護師が「どうしました?」と問いかけている声が聞こえる。
ミズキのいる場所だけが、それらの喧騒からぽっかりと切り取られているかのようだった。
ミハイルは床に膝をつくと、ベッドに両腕を乗せ、すうすうと静かな寝息を立てるミズキの頭をそっと撫でた。額に手を当てると、包帯越しからでもわかるほど熱かった。術後の発熱かもしれない。少し細めでサラサラだったミズキの柔らかい髪は、少し固まり気味になり束になり始めている。
ミズキは身体がべたつくのを嫌う。早くあったかいお風呂に入れてやりたい。怪我の具合が良くなったら、シュラルドに頼んでみるとするか。
「ミズキ」
頭をなでながら名前を呼ぶ。彼に触れながら名前を呼んだのは、もうどれくらい前だったろうか。最後に触れた日が遠い昔のようにも感じる。
ミハイルは布団に手を入れ、ミズキの右手にそっと触れる。手のひらの部分に包帯が分厚く巻かれていた。
「ごめんなさい。あなたを守れず、こんな目に遭わせてしまった……」
「ちが、うよ……」
弱々しい声。
「ミズキ?」
思わず立ち上がってみれば、ミズキが目を覚ましていた。だが傷が痛むのか「むぅ~……」と苦しそうに呻いている。
布団の中でミズキの右手が何かを探すように動き、ミハイルの手に触れた。そのままミハイルの手のかたちを確かめるようにゆっくりと触れると、包帯の巻かれていない指先でミハイルの指を捕らえ、わずかな力で握った。
「夢じゃない……僕、あなたと手を繋いでる」
ミズキはそう言って、か細い声でふふっと笑う。
「僕、まだ生きてるんだね……」
「ええ。命に別状はないそうですよ」
「ミハイルは……?」
「ん?」
「ミハイルは、ご主人様になにもされなかった?」
ご主人様とはクラウスのことだ。たった数日の監禁でミズキの脳は、クラウスに隷属することを覚えてしまった。それが不憫で、悔しくてならない。
ミズキはミズキ自身の意思があるのに。それを完全否定して征服した結果がこの状態かと思うと、ミハイルの胸は激しい怒りと罪悪感に苛まれるばかりだ。
「ミズキ、あの老獪はあなたの主人などではありませんよ?」
「うん……」
ミズキは弱々しく返事をすると、蛍光灯が眩しいのか、目を細めた。
「僕の目……どうなったの?」
片方だけが暗い、とミズキは不機嫌そうだ。なんでも包帯が邪魔して、ミハイルの姿が見づらいのだという。
「包帯とって。これ邪魔……」
「ダメです。今は我慢して」
「うぅ~っ……」
親に甘える子どものような彼の反応がかわいらしくて、ミハイルは巻かれた包帯の上からミズキの右目にキスを落とす。
「大丈夫。怪我がひどいだけ。しばらくは片目で不便でしょうから、私があなたの目の代わりになりますよ」
「そっかぁ……」
本当のことをミズキに言い出せなかった。
今の彼に、片目は無くなったのだと教えるのは酷な気がして。
だが。
「でも僕、片目失くしても平気だよ。だって僕、大好きになった人の盾になれたんだもん。命があるだけラッキーだよ」
「大好きに……なった? 私を?」
「あなたは僕にいろんなことを教えてくれて……汚いはずの僕を受け入れてくれて……そんな風にしてくれたのは、あなただけだった」
「でもあなたがその狙撃の腕を磨くために、あなたを指導し、応援してくれた人がいるのではないのですか?」
「おじさんは僕を育ててくれたけど……それは僕がおじさんに対して償いをしなければならなかったから……だからなんだろう……えーと、ミハイルが僕にくれたものとは違う……と思う」
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「うん。なんだろう。あったかくておおきくて……ミハイルが僕にくれたこころのようなものなんだけど、なんて言えばいいかわかんないな……」
「愛情、ですか?」
「あっ、それだ……」
「ふふ、本当にあなたは子どもですね。無邪気でかわいらしい」
ミハイルがからかうと、ミズキは「子どもじゃないもん……」と頬をぷぅっと膨らませた。
この瞬間、ミハイルの全てを独占しているのはミズキだ。ミハイルの全てが自分に向いていてくれるこの時間がとてもとても特別に思えるのだと。
「僕……今がいちばん幸せかも」
「ミズキ……あなたという人は前向きにもほどがありますよ」
戦争と瓦礫と硝煙の匂いしか知らない、世間知らずの異色光彩にいろんなものを見せてやりたかった。移ろう季節、おいしい食べ物、人との語らい、いろんな景色……。
ミズキとミハイル、個々で心は繋げても、国家の事情が絆を分断する。
お互い手に指を絡めても、断罪という名の運命の鉈が、手首ごと斬りおとしに来るのだろう。
その日はいつだ。来るべき「その日」を思うほどに、絶対に結ばれることなど無いミズキへの恋情が、刃となって心臓を切り裂いていく。
激しい痛みは別れの日をくっきりと意識させ、この世にいないミズキの姿を探して血を流し続けるのだろう。
ーー耐えられない。ミズキなしの世界など。
どうしてミズキは、ミハイルのことを嫌いにならなかったのかと思う反面、ミハイルのことが大好きだと素直に気持ちを伝えるミズキがとても愛おしい。
だが……やらねばならない現実がミハイルを苦しめる。
「私は、あなたを処刑台に送るのですよ?」
「わかってる。そこが僕の行くべきところだもの」
「ミズキ……」
「死ぬのは怖くない。それよりこんな僕でも、あなたの役に立てたのなら嬉しい」
ミズキはそう言って「僕、やったでしょ」と自慢げに笑う。
「天国に行ったら、この目も身体もなにもかも、あなたの役にはたたないから……生きているうちにあなたの役に立てて良かったって……僕、思うんだ……」
そんな彼の笑顔が強くて――悲しい。互いを待ち受けているのは、非情な別離なのに。
「ミズキ。あなたというひとは――」
泣きたくなるほど純粋で儚い強さに、胸が締め付けられる。だが、ミズキはそんなミハイルの心知らずか、小さなあくびをしている。きっと疲れてしまったのだろう。
「ミハイル……僕、眠くなっちゃった……」
「ええ、ゆっくり休んで。私はずっと、あなたのそばにいますからね」
「うん……ありがと」
ミズキは満足げに微笑むと、また目を閉じ、ほどなく寝息を立て始める。
眠りについたミズキが、せめて今だけでも苦しまずにいい夢を見られるように、ミハイルはそう願わずにはいられなかった。
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彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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