クリスタライズ~ある狙撃手へのレクイエム~

浅倉優稀

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#35 その日がやってくる

#35 その日がやってくる

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 数日後、ミハイルの部屋に1通の手紙が届けられた。
 封を切ると、それは軍事裁判の召集令状だった。
 日時は今から1か月後の日付。
 ミズキの体力回復を待つのなら、シュラルドは今から1か月半程度かかると見積もっていたが、どうも軍はそんなことはお構いなしのようだ。
 しかし不思議なことに、何の容疑で軍事法廷に呼び出しをされたのか、その理由が記載されていなかった。
 そしてその封筒にはもう一枚、同じような召集令状が入っていて、こちらの名前はミズキあてだった。
 大事な要件だというのに、二人まとめて同じ封筒に入れてくるなんてとミハイルは呆れたが、あの騒動以来、目下ミハイルとミズキはワンセット扱いになっている。
 それも仕方のないことかと思うと、やれやれとため息が出る。
「送り先は私のところで構いませんが、せめて体裁くらい整えられないものですかね……」
 軍事裁判の日程は、二人とも同日スタートだった。第1法廷と第2法廷に分かれ、同じタイムラインで審理が進められるようだ。
 ミズキは第2法廷で裁判が行われるようで、こちらの令状には罪状が記載されていた。
 ――クラウス海軍上級大将殺害、並びにクラリス軍将校らの暗殺――
 クラウスの罪は余計なのだが、軍部はやはりミズキだけに罪をかぶせるつもりだ。
 クラウスがミズキに対してはたらいた狼藉はなかったことにするのだという意図が透けて見える。
「……ミズキ」
 ミハイルの元を離れてもう何日?
 栗色の柔らかな髪、雪のような白い肌、子供のような無邪気な笑顔。
 そして彼の出自を示す、珍しい輝きを持つ二色の瞳。
「つい数か月前までは、こんな気持ちをあなたに抱くことはなかった……」
 ミハイルはベッドに目をやる。そこにミズキはいつもいた。
 何かに引き寄せられるかのように、ふらふらとベッドサイドに歩み寄り、力なくそのまますとんと座る。スプリングでミハイルの身体がふわっと浮く。
 そう、この間まではここにミズキがいたから、自分が座った程度でベッドが跳ねることなどなかった。
「ミズキ……」
 ミズキが使っていた枕をそっと手で撫でながら、ミハイルは呟く。
「私たちの審判の日が決まりました。あなたがここへ来てからずっと望んでいたことが、まもなく始まります」
 静かな闇の中で独白するミハイルの呼び掛けに返事はない。
 ふとミズキを捕らえたときを思い出す。ミハイルに向かって「早く殺せ」と毒づく彼を。
「いまもあなたはそう思っているのでしょうか。でも、遅かれ早かれ、私たちはもう二度と会うことができなくなる……かも……」
   枕を撫でるミハイルの手の甲に、ぽたりと雫が落ちた。
   クラウスに傷つけられ、ぼろぼろになったミズキの声が頭のなかに響く。
『僕、あなたを嫌いになれなかった……』
 ミズキの告白が頭の中でぐるぐる回る。
 衰弱しきり、薬で意識を壊されてもなお、ミズキはミハイルの事を忘れなかった。
「……私はやはり、あなたを失いたくない……。あなたは私の兄を殺した敵。でも……」
 愛しさが大きくなりすぎて、いつしかミズキへの激憤は無くしてしまった。
「ミズキ……っ!」
 人間が持つもののなかで、とりわけ感情とは残酷だ。
 どんなに自らを律しようとしても、感情は決心を鈍らせる。
 もはやミズキに恨みなどない。
 あるのは――この身が引き裂かれるかと思うほど強い愛しさだけだ。
 ――あなたがもし、私のそばからいなくなる日が来たら。
 ふと浮かんだ「その日」。
 ミハイルは腰のホルダーに手を伸ばし、愛用の銃をそっと手に取る。
 黒い銃身に残る赤黒い汚れ。それは乾いてぽろぽろ剥げはじめていた。
 ミズキが血まみれの手でこの銃を握り、クラウスに反撃した。その時の汚れだ。
「私も……あなたと一緒に」
 彼が旅立ったのを見届けた後に、自分も向かう。
 ミズキがいる場所がこの世ここで許されないのなら、誰にも邪魔されない場所へミズキを追って行く。
「私もお別れの準備をしないといけませんね」
 グスタフやジュリアにきちんと礼を言わなければならない。
 ミハイルは立ち上がると、自室の執務机に向かう。
 せめて、最愛の弟だけには、感謝と謝罪を書き残しておかなければ。
 たった一人残されても何の不自由がないように。
 死神が死神に進んでエスコートを願い出るなど滑稽だと、ひとり自嘲する。
 だが、ミハイルの心は不思議なほどすっきりとしていた。 

※※※※※※※※※※※※

 2週間後――
 晴れ渡る空はどこまでも青く、雲一つない。
 ミズキは窓からみえる空を見つめ、差し込む陽光を全身に浴びながら、大きく伸びをする。
 まもなくだろう。複数の足音と、ボールが弾むような明るく元気な女性の声。それは徐々に大きくなり、ミズキの病室のドアが開くと、一気に喧騒がなだれ込んだ。
「おはよう! ミズキ君、起きた? 朝ごはん食べられる?」
「あ、クッキーも持ってきたの。甘いもの、好き?」
「病院食ばかりじゃ飽きるよね? 何か欲しいのない?」
 食事時になると、ミズキの周りは世話を焼く看護師たちで賑やかになる。
 ミズキの状態は日に日によくなっていた。最初はスプーンでスープをすくうこともままならなかったが、徐々に感覚を掴んで、食事の介助はあまり必要なくなってきた。
 命の危険も脱走の危険もないため、一般の個室に移されたのだが、それでも女性看護師たちがミズキ可愛さにあれこれ世話を焼いたり、お菓子の差し入れを持ってきたりするようになった。
 それがここ最近の朝の恒例になった。そして。
「リハビリにならないだろ、散れ! 詰め所に戻れ! お前らが騒ぐと、ミズキは飯も食えないんだぞ! 治るものも治らん!」
 看護師たちを蹴散らす、大変に機嫌の悪いシュラルドの一声が病室に響くのも朝の恒例となった。これを合図に、看護師たちはしぶしぶと引き上げ、また病室に静けさがやってくる。
 彼女たちは知らない。手首に赤い識別リストバンドを巻いているから、何かしたのだろうとは思っても、実はミズキの正体が、クラリス全軍を本気にさせた狙撃手であることを。
 瞳の片方を失っているから、クラリス人と言っても見分けがつかない。捕虜扱いの負傷者として担ぎ込まれたと思っている。
 見た目も可愛らしくて、ころころ笑う素直な男の子。
 敵とか犯罪者とか関係なく、彼女たちにしてみれば、かわいい弟か、もしくはマスコット的ななにからしい。
 とはいえ、彼女たちの介護の甲斐あって、日に日に回復を見せてはいるが、まだ自由に歩き回れるほどではない。
 一般的な銃の時速はとてつもなく速いといわれている。
 そんなものが手のひらを貫通し、目に当たったのだ。生きているだけでも奇蹟だと、主治医は顎に手を当て、「まあ、これが俺の実力だ」とうんうんうなづいていた。
 ミズキの元にも出頭命令が届けられていたが、これはミハイルが手紙だけをシュラルドに渡していたようで、回診のついでに受け取った。
 それからというもの、クラリス軍の法務を担当する人物が数人やってきて、ミズキに事情聴取を行い、ついでにミハイルから貰った――シュトラウスが書いたものであるらしい――日記帳も押収していった。
 クラリス人の子であるミズキがなぜ同胞を殺したのか、掘り下げて調べる気のようだが、シュラルド曰く「だったら裁判期日にゆとりを持てばよかったんだ」だという。
「俺はどう早くても1か月半だと言ったんだが。上はどうしてもおまえとミーシャを早々に裁きたいらしい」
 それを聞いて、ミズキが目を丸くする。
「ミハイルも?」
「おまえとミーシャ、同日同時間に、法廷も壁を挟んで、隣同士で審理するんだと。そして裁判が始まったら、おまえたちは一時的に双方とも隔離となるそうだ。裁判中のやりとりなんかを互いで示し合わされても困るという事らしいんだが」
「示し合わせ?」
「口裏合わせと言った方がわかりやすいか。ったく、つまらんことを上は気にするが、まあ仕方がないんだろうな」
 クラウス殺しの裁判だしな、とシュラルドは付け加えた。
「裁判が始まるまでは、ミーシャさえ時間が合えば、おまえと会うことはできるだろう。しかし、肝心のあいつがここ2週間ほど姿を見せていない」
 シュラルドは腕を組んで唸っている。
「連絡もしてるんだが、ミーシャが電話に出ない。たまに弟がミーシャから雑用を言いつけられて、こちらに来る程度なんだよな。あれだけミズキミズキとうるさかった男が、妙に静かなのが気になる」
「シュラルド先生はミハイルのこと、何でもよく知っているんですね」
 ミズキが笑うと、「そんなんじゃねえよ」とシュラルドは首を振った。
「あいつは誰が見ても大変分かりやすい男なんだ。俺でなくても様子がおかしいと気づいている奴はいるだろう。でもあいつが怖くて、誰もそれを言い出せない」
「そんなものですか」
「悪魔なんて渾名がついているからな。ミーシャに会ったことなどなくても、噂で恐れている奴はたくさんいるのさ。さて、ミズキ、おまえさん傷の方はどうだ。まだ痛むか」
 聞かれてミズキは頷いた。ここに運ばれた最初の日に比べれば少しずつ良くなってはいるが、それでもまだ傷による熱が出ているし、痛み止めが必要だ。
 頷くミズキの頭をシュラルドは優しく撫で、ついでにおでこに手を当てた。シュラルドの冷たい手がほてった肌に気持ちよくて、ミズキは思わず「んふぅ」と鼻から抜ける声を出す。
「頭の傷と、胸の傷。まとめて塞いだからな。発熱は身体が一生懸命傷を治そうとしている証拠だ。もう少し我慢してくれよ」
「はい。ありがとうございます」
「そうか」
 シュラルドはそう言うと、ミズキの胸を指さした。
「胸に違和感はないか?」
「違和感……これと言って特には」
 傷があるから、その痛みくらいだ。正直にそうシュラルドに告げると、彼は「そうか、ならいい」と頷いた。
「おまえもミーシャも、2週間後にはなんらかの裁きが下りる。それまでにミーシャがおまえに会いに来てくれればいいのだが。……おまえだってこんな場所で一人じゃかわいそうだ。見知った相手がいた方が安心するよな」
「僕は……大丈夫です」
 ミズキは無理に笑顔を作る。我が儘を言える立場ではない。
 でも……会いたい。
 ミハイルに会いたい。
 あの温かい腕に抱かれて、名前を呼んでほしい。
 贅沢な望みなのはわかっているけれど、もうずいぶんミハイルの顔を見ていない。
 許されぬ罪人。抗えない運命の自分は――大好きな人のそばにいることを許されない。
「ミハイル……」
 口をついて出る、愛しい人の名。
 その人はここにはいないから。
 せめてこの想いが届くよう、自分はここにいると強く念じる。
 遠くから姿を見るだけでも出来たら、ミズキはそれだけで満足だ。
「会いたい……」
 軍事裁判がどれくらいの期間で結審するかわからない。
 もし即日結審なんてことになったら、そのまま刑場へ連行されかねない。
 ミズキがクラリス軍に対して犯した罪状も証拠も死亡者も、すべてのリストはとっくに出揃っているのだろうから、裁判なんて判決を言い渡すだけの場になるなんてこともあるかもしれない。
 己の明日がどうなるか、全く予想がつかない。明日をのんびり考えていられるほど、自分の立場は平穏なものでもないが、命が尽きる前に、1度だけでも彼に会いたい。
「ふ、ぐっ……」
 切なさに軋んだ思いが喉の奥から嗚咽が漏れる。
 押さえ込もうとするほどに、胸の中で大きな波となる。
 感情を抑えられない。ミハイルへの愛しさが全身を内側から刺し貫いていく。
 ミハイルに――会いたい!
「ひっ、くっ……」
「ミズキ、どうした、どっか痛いのか」
「違います、先生。ちが、ひっく……」
 否定を口にすれば、それはどんどん涙となって。
 彼への愛しさが増大する。自分で制御できない感情に、全身を震わせ、声を出さずに「ミハイルに会いたい」と叫ぶ。
 声にならない声と想いが、彼に届くことを祈って。

 ※※※※※※

 深夜、ミズキは眠れずにいた。ルームライトをつけ、ベッドに上半身だけを起こして月を眺めていた。
 漆黒の夜空に浮かぶ三日月は、日を追うごとに満月へと姿を変える。間もなく上弦の月だ。満月まではあと何日だろう。
 月齢からすると満月になるころ、軍事裁判が始まる見込みだ。
 夜空に浮かぶ月に願う。それまでに一度くらい、ミハイルに会わせてください、と。
 そんなことを考えていたが、不意に笑みが漏れる。
「僕、おかしいね……」
 クラリスでは残虐非道で有名な「黒衣の悪魔」。
 そんな人にミズキは恋焦がれている。会いたくて会いたくて、どうしようもなくなるくらい。
 昔、ミズキから感情の制御を奪うものは男たちとの性交だった。
 だが今、ミズキの感情を乱すのはミハイルの存在だ。
「大丈夫だったのかな……」
 結果的にクラウスを殺したのはミズキだ。
 だがシュラルドが言うには「自分がやったって、ミーシャが言い張ってる」だという。
 裁判が始まったら、そこは正しておかないといけない。
 ミハイルは軍の中でも将来がある人なのだから、彼の足かせになるものはすべてミズキが背負っていく。
     そのための証言をするつもりだ。
 それが、ミズキにできる唯一の……
「恩返しじゃ、おかしいのかな?」
 ミズキがうーんと唸る。
「僕、どうしたらミハイルに恩返しができるんだろう?」
「誰がそんなものをしなさいと言いました?」
「ふええっ!?」
 驚いて、つい声が裏返る。誰もいないはずの病室の、静寂を切り裂いた低く落ち着いた声。
 それは、ミズキが絶対に忘れることのないあの人の声だ。
「ミハイル!来てくれたの!」
「しーっ、ミズキ。静かになさい。ここは病室ですよ。とっくに消灯時間でしょう?」
 ミハイルだ、間違いない。
 ルームライトのおぼろげな光でもわかる。スラッと伸びた長身、ミズキを呼ぶ優しい声。
「元気そうで何よりです。心配していましたよ」
 ミハイルはベッドサイドに座ると、ミズキをそっと抱きしめた。
「あなたに会いたくて、暗闇に紛れてここに来ました。こんな遅い時間の来訪、許してくださいね」
「ううん!来てくれただけでもすごく嬉しい。僕、ミハイルに会いたかった。きっとお月様が僕のお願いを聞いてくれたんだ!」
「月?」
「そうだよ、僕、さっき空のお月様にお願いしたんだ」
「私に会いたいと、お願いしたのですか?」
「うん!」
「まったく、あなたという人は」
 ミハイルがミズキの背中をポンポンと叩きながら笑った。
「本当に幼子のように無邪気でかわいらしい」
「でも……お月様……」
「そうですね、お月様がかなえてくれたのでしょう。さあ、身体に障ります。ベッドに寝かせますよ」
 ミハイルは言いながら、ミズキの身体をそっとベッドに寝かせると、掛布を整える。
 捕らえられた最初のころ、ミズキはミハイルの部屋で生活をしていた。
 その時のことを思いだし、懐かしさが胸を締め付ける。
「ミハイル、来てくれて嬉しいんだけど 裁判の準備で忙しいんじゃないの?」
 ミズキと同日に裁きを受ける身になってしまったミハイルに、そう時間はないはずだ。
 ミズキが心配そうに聞くと、ミハイルは「いいえ」と首を横に振った。
「軍事裁判と言っても、私の場合は悪ガキが校長室に呼ばれて停学処分を言い渡されるようなものです。準備も何もない。粛々と処分を受ける。それだけです。ですが、あなたの場合はそうもいかない」
 ミズキの髪に指を絡めて手遊びしながら、ミハイルはため息をついた。
「あなたの場合は魔女裁判のようなものです。現に弁護士が誰もついていないと聞いています」
「軍事裁判なんてそんなもんじゃ?」
 ミズキは敵国の兵士、しかもたくさんの将校を殺害した戦犯だ。
 弁護もなにもないと、最初からそう思っている。
「僕を処刑すれば、すべてが終わる。そうでしょう?」
「あなたの命でカタがつくものではありませんよ。あなたが銃殺されても、壊れたものは元に戻らない。それは人も同じです。そんなもんですべてがきれいさっぱりになるのなら、あなたのクローンを何人でも作っておかなければ、この平和を保つことなどできませんよ? でもそれは不可能でしょう?」
「そうは言っても……僕は死ぬことでしか償いができない身だし……」
 死、という言葉を口にした瞬間、ミズキの全身にゾクリと冷たいものが走り、思わずからだがびくんと震えた。
「……?」
 何かがおかしい。歯の根も合わなくなるほどかたかたと身体が震え出す。気持ち悪い。まるで背筋からざっくりと氷の剣を突き立てられたような冷たさだ。
「あ、あれ……?」
「ミズキ? どうしました?」
「僕、寒いのかな……」
「確かに身体が震えていますね」
 同時に心臓の鼓動も早まって息苦しくなる。
 何かに縋りたくて、掛布をかき抱こうとしたが、ミズキがあまりにも震えるものだから、ミハイルがミズキに覆いかぶさるようにして、そっと抱きしめる。
(あったかい……)
 両手を伸ばして、愛しい人の背中を抱き返す。
 ずっとずっと待ち望んでいた温もりに触れ、ミズキの震えと動悸が落ち着きを取り戻していく。
「ミズキ、ゆっくり息をして……そう、そうですよ。ゆっくりね」
 優しい声が耳をくすぐる。
「ミハイル……」
「苦しくないですか? どこも痛くありませんか?」
「うん……うん……大丈夫……」
「そう……それならよかった」
「うん……」
 ミズキには時間がない。この腕のぬくもりを感じていられるのは、もしかしたらこれが最後かもしれない。そう思うと、自らの全身でこの温度を覚えておきたくて、ミズキは強くミハイルの背を抱きしめた。
 この温もり、大きな背中、優しい声。そして今この瞬間。絶対に忘れたくない愛しい人の記憶。
「僕、ね」
「ミズキ?」
「僕、もしかしたら……」
 怖い、なんて口にしたら笑われるだろうか。
 でも「死」とはミズキにとって、痛みや苦しみではなく、ミハイルと二度と会えなくなることだ。
 それを思うと、死ぬのが……怖い。
「死ぬのが嫌になりましたか?」
 ミハイルの声に思わず、ミズキははっとする。
   この人は、人の思考が読めるのだろうか。
「ミズキ」
 ミハイルはミズキからゆっくり離れ、ベッドサイドに座りなおす。
「ミズキ、顔を見せて」
 両手でミズキの頬を包むその手の温かさが、よくわからない不安に襲われたミズキの心の動揺を少しずつ鎮めていく。
「ミハイル……」
「あなたが私に捕らえられた時、あなたは怒り狂う獣のような目つきでした。昏い瞳の奥に見える、ギラリと光る鋭い刃……あなたはそんな目をしていました。あの時のあなたは、捕虜になるより、死を心から望んでいました。私を恐れず、命乞いをしないあなたは、軍人としてはとても強くて、そしてとても――悲しい覚悟でもって私に迫ってきた」
「ミハイル……」
「あのときのあなたは、とても美しかった。ミズキ、覚えていますか?」
「うん……」
 思い出す。グスタフとクラリスの施設を襲撃に行ったあの日。
 白い雪の上、すべてのものを白くかき消すような吹雪の中、スコープ越しにミハイルと目が合ったあの日。
 スコープ越しにニヤリと笑ったミハイルは――残酷さと美しさをその瞳に潜ませ、ミズキの意識を絡め取った。
 あの時は死なんて怖くなかった。死する方がましだと思うことをさせられていたから。
 でも今は――やはり、耐えられない。
「ミハイル……僕、ぼくね……」
 何と言えばいいか言葉を探す。昂る感情が吐き出す場所を求めて、残った片方の目から涙となって頬を伝い落ちる。
「僕……ひぅ……ぼ、く……」
「ミズキ、泣かないで。大丈夫」
   嗚咽が先になって、言葉を繋げない。
「私に伝えて。あなたの気持ちを」
「ぼく……死ぬの、いやだ……」
 あれほど殺せと抵抗した。自らのプライドを守ることが何よりも大事だった。
 でも今は……いざ、その日が近くなった途端、ミズキの中にこれまでの思い出がすべて鮮烈に蘇ってくる。それは次から次へとミズキを襲う、幸せの記憶を持った優しい津波だ。
 死にたいと抗った心をすべて浚い取って、何もなくなった地に楽しい思い出の花がいっぱいに咲いた。まるで美しい大地が蘇ったようだ。
 ミズキが生き続ける限り、その大地には新しい花がずっとずっと咲いていく。
 しかし、死んでしまえば、そこまでだ。いずれ記憶は朽ちていくだけ。
 しかも処刑だ。どうしたって普通ではない。
 死んだ後の躯はどうなる? ゴミのようにどこかに捨てられてしまって、そして皆の記憶からも――ミズキは消える。
 ミハイルだって、罪人の遺体を引き取る気などないだろう。
 現実でもあの世でも、一緒にいることはきっと叶わない。この安心できる腕の中にいられるのはあとどれくらい?
「僕……死にたくない……やっぱり僕、死ぬの嫌だ」
「ミズキ……」
「ミハイルとずっといたいよ、僕……」
 しゃくりあげながら泣くミズキの身体がまたミハイルにきつく抱きしめられる。この腕の中、今この瞬間が――とんでもなく不安定で、とても幸せで、とても怖い。
 それでも、縋っていたかった。
「ミズキ……ありがとう。私はあなたがそう言ってくれるのを待っていました」
「ふえ……?」
「あなたが自らの意思で、生きたいと願った。私はそれが嬉しいのです」
「嬉しい……?」
 どうしてだろう。
「手負いの獣だったあなたが、本来のあなたに戻った。本来のあなたはきっと、大人しくて臆病で繊細、とても優しい素直な人なのだと。死にたくないのだと私に伝えるのに、あなたは一生懸命言葉を探したでしょう? 笑われると思って」
「そんなこと……ないもん」
 優しいやら素直だなんて今まで誰からも言われたことなどない。なんだか気恥ずかしいくて顔を背けてしまう。
「そうやってすぐにむくれるところもかわいらしい。本当に戦争さえなかったら、あなたとこんなに幸せで残酷な時間を共有することもなかった。でも私は今が一番、幸せです。やっとあなたが命を手放すことを嫌だと思ってくれた……狙撃手でもディスタンシアの軍人でもない、ミズキという人間にあなたが戻ってくれた」
 戻った? ミズキはミズキだ。他の何も変わっていない。
 ミハイルの言葉はいつだって謎かけのようで、ミズキにはその意図することがわからない。
 何か自分は変わっただろうか。ただ好きな人と離れたくなくて、泣いているだけなのに。
 泣き止もうとしても、もう止められない。
 子供のように泣いてこの運命が変わるなら、いくらでも泣く。
 だけど現実はそうではない。
 ミズキに向かって、ゆっくりと歩を進める死神の影。
 そこから逃れたくて、誰かの手を掴んだところで、そのカマは繋いだ手ごと切り落としていくだろう。
 ミズキが黄泉へ連れて行かれる日まで、もうあまり時間がなかった。
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