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#38 華と圧
#38−1
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軍事裁判からしばらく経ったある日、ミズキは病院の廊下にいた。傍らにはシュラルドとミハイル、そしてグスタフがいる。まさにその様子を例えるなら「圧と華」だ。華は言うまでもないが、圧が三人もいるものだから、他の患者が弾かれたように道を開ける。圧の三人はミズキを囲んで何やら賑やかに応援中だ。
「廊下の突き当たりまで、後少しだぞ、がんばれミズキ!」
「そうですよ、頑張って!」
「敵に囲まれたと思って、突き当たりまでいけ!」
三人が三様の、それも大変暑苦しい応援を受けミズキは苦笑した。時折自分の横をすり抜ける患者に「すみません」と頭を下げながら、廊下に突き当たりを目指していた。
目下、ミズキは絶賛リハビリ中だ。
怪我が治れば退院と思っていたが、シュラルド曰く「お前、長いことベッドの上にいて、ろくに運動をしていないだろう?退院前にリハビリやってもらうからな」だそうで、ミズキはその言いつけを守り、今歩行訓練に取り組んでいるのだった。
自分は若いから、リハビリなんて必要ないと思っていた。あれはおじいちゃんやおばあちゃんがやるものだと。
そうシュラルドに尋ねたところ、「だったら自分でベッドから降りて、歩いてみろ」と言われ、その通りにしたらなんということか、立ち上がれずにそのままバランスを崩して転倒してしまった。
「筋力ってのは、簡単に落ちる。おまえみたいな戦場を駆け抜けていた奴でも、長いことろくに運動していないと、最初は立ち上がるだけでも大変だ。それにおまえは衰弱していたから余計にな。大丈夫、おまえは現場に出てた兵士だろ。すぐに歩けるようになるさ」
シュラルドは得意げにそういうと、歩行器を出してきた。それはフレームが4脚付いており、体を囲むように胸の高さくらいの位置にクッションのようなものがついている。
なんでもシュラルドはいうには、「おまえは一応立ち上がって、そこで姿勢をキープできるから、まずはこいつで自分で足を前に踏み出して歩け」だという。これだと4脚のフレームがミズキの体を支えるから、杖を使うよりも安定はする。
「僕、赤ちゃんじゃないよ。これ、カッコ悪いなぁ」とミズキがこぼすと、「うるさい重傷患者が。四の五の言わずにさっさとやれ」とシュラルドに怒られてしまった。
とりあえず廊下の突き当たりまで歩いたらゲームクリアだ。今日クリアすれば明日からはこんなもの使わずに済むと思い、リハビリに取り組んでいるが、そうそう簡単に筋力は戻らない。
ミズキはよろよろとした足取りで、歩行器付きで歩いているのだった。
「きつい……」
今歩いている廊下は、端から端までの距離はせいぜい20メートルくらいだろうか。何もなければあっという間に歩けてしまう距離なのに、息が上がってしまってきつい。
落ちているのは本当に筋力だけなのか。肺もなんか病気があるんじゃないのか。それくらい、ただ歩くだけがこんなにもきつい。
「はあ、はあ……」
全身で呼吸して、一歩ずつゆっくりと歩みを進める。歩いているといっても、ほぼ年寄りのそれに近い。なのに、全力疾走をしているみたいに体が辛い。こんな辛さ、味わったことがない。
今のミズキがミハイルの配下に囲まれたとしたら、そこを突破するのは絶対に無理だ。予想以上に体力も落ちていた。
「きついよ。休みたい」
「ダメ」
「ダメだ」
「ダメだな」
三者三様の『ダメ』がミズキの要望を却下する。
「無理はしなくていいから、歩きなさい」
その歩くことがすでに無理なのだと言い返したいが、息が上がって喋るのもつらい。心臓も激しく鼓動を刻んでいるのに、なんだか足に力が入らない。
歩くことがこんなに重労働とは……思わなかった。
「う~っ」
もはや唸りながら、ただひたすらに正面の突き当たりだけを目指す。少しずつ突き当たりの壁にある非常灯の灯りや、そこに設置してある消化器類が近づいてくる。ゴールは目の前。がんばれと自分に鞭を打ち、ミズキはゆっくり進んでいく。
「ミズキ、もう少しで突き当たりだぞ!」
「うんっ……!」
グスタフが横でがんばれとミズキの背をさすってくれるのが、なんとも嬉しい。
「あとちょっと……!」
最後の一歩を踏み出し、突き当たりに辿り着く。
「やった!ゴールだ!」
やっと終わったとミズキは大きく息を吐き、グスタフもミハイルも、そしてシュラルドも大喜びしている。
「ミズキ、よく頑張りましたね」
「やりゃあできるじゃねえか、ミズキ! それでこそ俺の弟分だ!」
ミハイルがミズキの頭を撫で、グスタフが飛び跳ねて喜んでいる。ミズキ自身も何やら大きな達成感を感じている。
当たり前が当たり前でなくなると、その「当たり前」を取り戻すのがこんなに大変だなんて思わなかったけど、当たり前であることがこんなにも大切なことだと、今更ながら思う。
「僕、頑張ったー!」
「ああそうだな、ミズキ。おまえはよく頑張っている」
シュラルドがミズキの目線に腰を落として、にっこり笑って褒めてくれる。
人に褒められるのもとても嬉しい。呼吸を整えつつ、ミズキも「えへへ」と笑って返す。
だが。
「ミズキ、さあ今来た道を戻るぞ。復路スタートだ」
「え」
ミズキの笑顔が、凍りついた。
****
シュラルドのリハビリはなかなかに厳しかった。
疲れ果てて病室に戻り、夕食をとった後、ミズキはベッドにゴロンと横になったまま、ぐったりとしていた。
体がずんと重いが、それは最近味わったことのなかった達成感溢れる心地いい疲労感だ。
でも指一本も動かせそうにない。ミズキはぼんやりと天井の模様を見つめていた。片目だけだから、少しだけぼやけて見える視界。じっと見ているとその模様がだんだん何か別の模様に変化するような錯覚を見た。
ミズキが見た形は、ディスタンシアの国土の形に似ている気がして、ふとシュトラウスのことを思い出した。
ミズキがここクラリスに留め置かれて、終戦を迎えてからというもの、ディスタンシアの情勢が全く伝わってこない。
かの国は情報統制をする国だから、国内事情を漏らさないようにしているのかもしれないが、そんなものはクラリスの国営放送が戦場に入って状況を報じているからあまり意味はないようにも思う。
そしてミハイルもグスタフも、ディスタンシアの様子については何も教えてはくれなかった。ミズキが聞かなかったから、というのもあるが、おそらくは最近の騒動で、それどころではなかったのかもしれない。
実際、ミズキも故郷のことなど考えもしなかった。
今こうして、落ち着いてゆっくりできているから、故郷を思う余裕ができたのだろう。
ーーおじさん……どうしているのかな。
ミズキを狙撃手であり、男娼に育てたシュトラウスのことを思う。
戦争は終わったのだから、ミズキの帰りを待っているだろうか。
どんなに酷いことをされても、ミズキの帰る場所はシュトラウスのところしかなかった。
そして彼は、絶対にミズキを待っていてくれた。
(おかえりミズキ。どこも怪我をしていないか)
シュトラウスに怒られてばかりだったが、ミッションから戻ると、彼は必ず「おかえり」と言い、ミズキを優しく抱きしめてくれた。
ひどいこともたくさん言われたが、それでも不思議とシュトラウスを恨む気にはなれない。
シュトラウスの顔を思い出した途端、懐かしくも切なく不安定なノスタルジーに襲われ、キュウっと胸を締め付ける。
自分のことはもう死んだと思っているだろうか。ディスタンシアの兵士たちのみならず、シュトラウス自身もミズキを手酷く抱いた。それなのに、どうしても彼への情を切り離せずにいる。
胸にモヤモヤと渦巻く感情は、懐かしさなのか。
命の有効期限がいつまでかわからないことからくる望郷の念か。
なぜかシュトラウスのことばかりが浮かぶ夜だ。
そんな頃、ミハイルがやってきた。昨夜はずいぶん遅い来訪だったが、今夜は早めだ。
それでも面会時間が終わる間際だった。
一応、シュラルドが「子供は9時には寝るんだぞ」とミズキに消灯時間を念押しに来たが、「9時以降は静かにしてろよ」と付け加えて出て行った。
特に食事の制限もないことから、今日はミハイルがミズキの好きなプリンを持ってきてくれて、ふたりで舌鼓を打っていた。
ミズキは上半身を起こし、ベッドテーブルでプリンを食べている。片目になってから、どうも感覚がおかしくなっているようで、よくものを落とすようになった。食べものを布団の上でこぼすと大変なので、用心のためにいつもテーブルを出している。
クリームたっぷりで甘くてとろんとして、とてもいい香り。黒い部分もほろ苦くて美味しい。……この黒い部分、なんて言うのか知らないけれど。
「ミハイル、このプリン美味しいね。でもいつものプリンより色が濃いね」
今日のプリンは濃いオレンジ色に近い色をしていた。とろんとしているが、味がどっしりとしている。いつものプリンではなさそうだった。
「これもいつものプリンなの?」
「いいえ、これはかぼちゃで作ったプリンです」
「かぼ……ちゃ」
目を丸くするミズキに、ミハイルがスマートフォンを取り出し、画面を軽快に操作して、プリンの正体を教えてくれた。
濃い緑、ゴツゴツした表面。見た目は固そうな果実……と言うには、そのままかぶりつけそうな感じでもない。
「ほら、これがかぼちゃです。ジュリアが薄く切ってよくグラタンに入れていたでしょう。あと、リーベットの国の料理で、小麦粉の衣をつけて油であげたのを出してくれたこともありましたよ。あなたは甘くて美味しいと言って、喜んでパクパク食べていました。覚えていませんか、この野菜」
「あ!」
ものを見てもわからないが、美味しいものはよく覚えている。
「あれが、これになっちゃうの!?」
目の前のプリンはどう見ても美味しいお菓子だ。食事にも使えて、デザートにもなる。
「かぼちゃ万歳だね、ミハイル」
「そうですよ。しかも栄養価も高いと聞きますし、あなたは甘いお菓子が大好きでしょう? 体力をつけなければならない今のあなたにはぴったりです」
「……ディスタンシアには、こんな美味しいものはなかったなぁ」
食べ終わったプリンの容器をテーブルに置く。不意に故郷への想いが口をついた。少なくとも、ミズキはディスタンシアでかぼちゃなど見たことがない。それでもシュトラウスが軍人だったから、普通の市民に比べれば粗末なものでも口にできていた。
シュトラウスがものを食べているのをあまり見たことがないけれど、ひもじくてつらい思いは言うほど記憶にない。むしろミッション中の方が辛かったくらいだ。
なにせ敵地で自分の痕跡を残せないから、排泄の手間がかからないよう、わざと飲食は控えていた。お腹が空いてたまらなかったのは、その時くらいだ。
「おじさんたちは元気なのかな……」
今日はどうしたことか、望郷の念が強い。どだい帰ることは不可能だけれど、リハビリ後にシュトラウスのことを思い出してしまったせいか、ディスタンシアがどうなっているのか、シュトラウスは元気にしているのか、なぜか今夜は、そんなことが気になって仕方ない。
「おじさんにも、これを食べさせてあげられたらなあ……」
「ミズキ、どうしました? ホームシックですか?」
「そんなんじゃないんだけど、なんだか今日はおじさんのことをよく思い出してしまうんだ。僕、おじさんには怒られてばっかりで」
「でもミズキ、なんで急にあなたの故郷を思い出したりしたのですか? もしかして、故郷に帰りたくなりましたか?」
「そういうんじゃないんだ……」
プリンを食べながら、故郷で待つ家族と言える人に思いを馳せる。
「ただ元気にしているのかなって……思ったんだ。ディスタンシアがどうなったか、僕は詳しくは知らないし、それに……」
「それに?」
「おじさんも軍人だったから、ディスタンシアが負けた戦争なら、どうなったんだろうって……。僕と同じように戦争の責任をとったのか、それともどこかで元気にしているのか……そう、思っただけなんだ。元気にしているといいんだけど」
「あなたは本当に優しい人ですね。つらい思い出しかない故郷の人をそんなふうに思えるなんて」
「優しくなんか……ないよ」
優しい人間が、クラリスの軍人を片手では足りないほど殺したりはしない。なるべく顔を見られたくなくて、ミズキは俯いた。
ミハイルは、ミズキを捕らえてからずっと、否定したりからかったりすることはなかった。知らないものは教えてくれたし、こうしてミズキのいいところを探しては、たくさん褒めてくれる。でもそんな扱いがなんだか気恥ずかしい。
「あなたはそうやって、すぐに自分を否定する。私は知っていますよ、あなたが素敵な人であるのをね」
俯いた顔を無理やり上向かせられる。そこに降ってくるのはミハイルの唇だ。額に、瞼に、頬にそして、唇にも。彼の熱いキスが顔中に降ってくる。
「や……くすぐったい」
「仕方ないでしょう。可愛らしいミズキがいけないんです。これでも我慢しているんですよ」
「え?」
「あなたを抱きたい、と言っているんです」
瞬間で心臓が甘く跳ね上がった。
「ここ、病室だよ……」
一応の抵抗を試みる。だが。
「ええ、それで?」
あっさりと突破されてしまった。それでも再び抵抗してみる
「シュラルド先生が静かにしなさいって……言ってた気がするんだけど……」
「あなたがおとなしくしていればいいんです。それか」
熱いキスが、ミズキの唇を塞いでくる。
「こうやって、あなたの声を封じてしまえば、問題ないでしょう?」
だめだ。思考が甘やかに麻痺してくる。
「なに言って……だめ…んっ……」
ミハイルの唇が啄むようにミズキのそれを弄ぶものだから、反論もろくにできない。
ミズキの唇と歯列を割ってミハイルの舌が入り込んでくる。ミズキを官能の海へ突き落とそうとする意志を持って、彼の舌がミズキのそれに絡み、くちゅくちゅと愛撫される。
久しく忘れていた。ミズキの全身が淫らな熱を持って色づき始め、その先の期待で切なく震える。
「ん……うふぅ……ちゅ……」
抵抗なんかもうできやしない。彼をもっと感じたくて、ミズキも必死にミハイルに絡んでいく。
「んん……んはぁ、んん……」
唾液が交わり、息ができなくなるほどの深い接吻。
やがてミハイルが唇を離した。二人を繋ぐ唾液のラインが、ツッと切れてしまった。名残惜しそうに追いかけるミズキの唇にミハイルは自分の人差し指を当てた。
「……今日はここまでにしておきましょう。これ以上はあなたの身体にさわってしまいます」
「うん……」
本当は……その先の……夢を見せてほしい。
でもそんなこと言えない。
渋々ミズキがうなづくと、ミハイルは「いい子ですね」とミズキをベッドに寝かしつけてくれる。
「あなたは寝相が良くないから、夜中に布団を落として風邪をひいたりしないか、心配しているんですよ」
掛布を整えてくれながら、ミハイルが笑う。
「ミズキは知らないでしょうけど、あなたが私の部屋で眠っていた時は、寝返りを打つたび、よく上掛けを落としていました。私は夜中に起きて、何度もあなたに掛け直したんですよ」
「僕、そんなに寝相悪かった?」
「上掛けを落とすか、上掛けを巻き込んでミノムシのようになっているかどちらかでした。特にミノムシの時は、私にかかっている分まで巻き込むから、私はずいぶん寒い思いをしました。でもあなたは眠っている時も甘えん坊さんだった」
「甘えん坊? 僕が?」
「私が上掛けを分けて欲しくて引っ張ると、寝返りを打って私にくっついてくるんです。あなたもきっと上掛け一枚では寒かったんでしょう。なら二人で暖まれば良いと、あなたを抱きしめて眠りました。あなたは眠ると体温が高くなる人だったから、くっつくととても暖かった」
「……それ、褒めてるの?」
「褒めてますよ。あなたのいいところは、たくさんあってどこから話そうか迷うくらいです。できることならみんなに自慢したいくらい」
ミハイルはとても楽しそうに話していたが、ふっとその表情が翳った。
「こんなふうに世話を焼けるのも……いつまでかわかりませんから」
「うん……」
互いの間に漂う、漠然とした言い知れぬ感情。それが先端鋭いランスのようにミズキの全身を貫く。
わかっている。
この関係は、割と早くに終わってしまう。
「ミハイル……」
「なんです、ミズキ」
「もう一回、ぎゅって抱っこしてほしい……」
「仕方ありませんね。甘えん坊さん」
不安に駆られた腕が、彼へと助けを求める。
ミハイルの肩越しに、死神が鎌を持って、早く地獄へ来いとミズキを見ているような気がして。
「廊下の突き当たりまで、後少しだぞ、がんばれミズキ!」
「そうですよ、頑張って!」
「敵に囲まれたと思って、突き当たりまでいけ!」
三人が三様の、それも大変暑苦しい応援を受けミズキは苦笑した。時折自分の横をすり抜ける患者に「すみません」と頭を下げながら、廊下に突き当たりを目指していた。
目下、ミズキは絶賛リハビリ中だ。
怪我が治れば退院と思っていたが、シュラルド曰く「お前、長いことベッドの上にいて、ろくに運動をしていないだろう?退院前にリハビリやってもらうからな」だそうで、ミズキはその言いつけを守り、今歩行訓練に取り組んでいるのだった。
自分は若いから、リハビリなんて必要ないと思っていた。あれはおじいちゃんやおばあちゃんがやるものだと。
そうシュラルドに尋ねたところ、「だったら自分でベッドから降りて、歩いてみろ」と言われ、その通りにしたらなんということか、立ち上がれずにそのままバランスを崩して転倒してしまった。
「筋力ってのは、簡単に落ちる。おまえみたいな戦場を駆け抜けていた奴でも、長いことろくに運動していないと、最初は立ち上がるだけでも大変だ。それにおまえは衰弱していたから余計にな。大丈夫、おまえは現場に出てた兵士だろ。すぐに歩けるようになるさ」
シュラルドは得意げにそういうと、歩行器を出してきた。それはフレームが4脚付いており、体を囲むように胸の高さくらいの位置にクッションのようなものがついている。
なんでもシュラルドはいうには、「おまえは一応立ち上がって、そこで姿勢をキープできるから、まずはこいつで自分で足を前に踏み出して歩け」だという。これだと4脚のフレームがミズキの体を支えるから、杖を使うよりも安定はする。
「僕、赤ちゃんじゃないよ。これ、カッコ悪いなぁ」とミズキがこぼすと、「うるさい重傷患者が。四の五の言わずにさっさとやれ」とシュラルドに怒られてしまった。
とりあえず廊下の突き当たりまで歩いたらゲームクリアだ。今日クリアすれば明日からはこんなもの使わずに済むと思い、リハビリに取り組んでいるが、そうそう簡単に筋力は戻らない。
ミズキはよろよろとした足取りで、歩行器付きで歩いているのだった。
「きつい……」
今歩いている廊下は、端から端までの距離はせいぜい20メートルくらいだろうか。何もなければあっという間に歩けてしまう距離なのに、息が上がってしまってきつい。
落ちているのは本当に筋力だけなのか。肺もなんか病気があるんじゃないのか。それくらい、ただ歩くだけがこんなにもきつい。
「はあ、はあ……」
全身で呼吸して、一歩ずつゆっくりと歩みを進める。歩いているといっても、ほぼ年寄りのそれに近い。なのに、全力疾走をしているみたいに体が辛い。こんな辛さ、味わったことがない。
今のミズキがミハイルの配下に囲まれたとしたら、そこを突破するのは絶対に無理だ。予想以上に体力も落ちていた。
「きついよ。休みたい」
「ダメ」
「ダメだ」
「ダメだな」
三者三様の『ダメ』がミズキの要望を却下する。
「無理はしなくていいから、歩きなさい」
その歩くことがすでに無理なのだと言い返したいが、息が上がって喋るのもつらい。心臓も激しく鼓動を刻んでいるのに、なんだか足に力が入らない。
歩くことがこんなに重労働とは……思わなかった。
「う~っ」
もはや唸りながら、ただひたすらに正面の突き当たりだけを目指す。少しずつ突き当たりの壁にある非常灯の灯りや、そこに設置してある消化器類が近づいてくる。ゴールは目の前。がんばれと自分に鞭を打ち、ミズキはゆっくり進んでいく。
「ミズキ、もう少しで突き当たりだぞ!」
「うんっ……!」
グスタフが横でがんばれとミズキの背をさすってくれるのが、なんとも嬉しい。
「あとちょっと……!」
最後の一歩を踏み出し、突き当たりに辿り着く。
「やった!ゴールだ!」
やっと終わったとミズキは大きく息を吐き、グスタフもミハイルも、そしてシュラルドも大喜びしている。
「ミズキ、よく頑張りましたね」
「やりゃあできるじゃねえか、ミズキ! それでこそ俺の弟分だ!」
ミハイルがミズキの頭を撫で、グスタフが飛び跳ねて喜んでいる。ミズキ自身も何やら大きな達成感を感じている。
当たり前が当たり前でなくなると、その「当たり前」を取り戻すのがこんなに大変だなんて思わなかったけど、当たり前であることがこんなにも大切なことだと、今更ながら思う。
「僕、頑張ったー!」
「ああそうだな、ミズキ。おまえはよく頑張っている」
シュラルドがミズキの目線に腰を落として、にっこり笑って褒めてくれる。
人に褒められるのもとても嬉しい。呼吸を整えつつ、ミズキも「えへへ」と笑って返す。
だが。
「ミズキ、さあ今来た道を戻るぞ。復路スタートだ」
「え」
ミズキの笑顔が、凍りついた。
****
シュラルドのリハビリはなかなかに厳しかった。
疲れ果てて病室に戻り、夕食をとった後、ミズキはベッドにゴロンと横になったまま、ぐったりとしていた。
体がずんと重いが、それは最近味わったことのなかった達成感溢れる心地いい疲労感だ。
でも指一本も動かせそうにない。ミズキはぼんやりと天井の模様を見つめていた。片目だけだから、少しだけぼやけて見える視界。じっと見ているとその模様がだんだん何か別の模様に変化するような錯覚を見た。
ミズキが見た形は、ディスタンシアの国土の形に似ている気がして、ふとシュトラウスのことを思い出した。
ミズキがここクラリスに留め置かれて、終戦を迎えてからというもの、ディスタンシアの情勢が全く伝わってこない。
かの国は情報統制をする国だから、国内事情を漏らさないようにしているのかもしれないが、そんなものはクラリスの国営放送が戦場に入って状況を報じているからあまり意味はないようにも思う。
そしてミハイルもグスタフも、ディスタンシアの様子については何も教えてはくれなかった。ミズキが聞かなかったから、というのもあるが、おそらくは最近の騒動で、それどころではなかったのかもしれない。
実際、ミズキも故郷のことなど考えもしなかった。
今こうして、落ち着いてゆっくりできているから、故郷を思う余裕ができたのだろう。
ーーおじさん……どうしているのかな。
ミズキを狙撃手であり、男娼に育てたシュトラウスのことを思う。
戦争は終わったのだから、ミズキの帰りを待っているだろうか。
どんなに酷いことをされても、ミズキの帰る場所はシュトラウスのところしかなかった。
そして彼は、絶対にミズキを待っていてくれた。
(おかえりミズキ。どこも怪我をしていないか)
シュトラウスに怒られてばかりだったが、ミッションから戻ると、彼は必ず「おかえり」と言い、ミズキを優しく抱きしめてくれた。
ひどいこともたくさん言われたが、それでも不思議とシュトラウスを恨む気にはなれない。
シュトラウスの顔を思い出した途端、懐かしくも切なく不安定なノスタルジーに襲われ、キュウっと胸を締め付ける。
自分のことはもう死んだと思っているだろうか。ディスタンシアの兵士たちのみならず、シュトラウス自身もミズキを手酷く抱いた。それなのに、どうしても彼への情を切り離せずにいる。
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なぜかシュトラウスのことばかりが浮かぶ夜だ。
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クリームたっぷりで甘くてとろんとして、とてもいい香り。黒い部分もほろ苦くて美味しい。……この黒い部分、なんて言うのか知らないけれど。
「ミハイル、このプリン美味しいね。でもいつものプリンより色が濃いね」
今日のプリンは濃いオレンジ色に近い色をしていた。とろんとしているが、味がどっしりとしている。いつものプリンではなさそうだった。
「これもいつものプリンなの?」
「いいえ、これはかぼちゃで作ったプリンです」
「かぼ……ちゃ」
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濃い緑、ゴツゴツした表面。見た目は固そうな果実……と言うには、そのままかぶりつけそうな感じでもない。
「ほら、これがかぼちゃです。ジュリアが薄く切ってよくグラタンに入れていたでしょう。あと、リーベットの国の料理で、小麦粉の衣をつけて油であげたのを出してくれたこともありましたよ。あなたは甘くて美味しいと言って、喜んでパクパク食べていました。覚えていませんか、この野菜」
「あ!」
ものを見てもわからないが、美味しいものはよく覚えている。
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「かぼちゃ万歳だね、ミハイル」
「そうですよ。しかも栄養価も高いと聞きますし、あなたは甘いお菓子が大好きでしょう? 体力をつけなければならない今のあなたにはぴったりです」
「……ディスタンシアには、こんな美味しいものはなかったなぁ」
食べ終わったプリンの容器をテーブルに置く。不意に故郷への想いが口をついた。少なくとも、ミズキはディスタンシアでかぼちゃなど見たことがない。それでもシュトラウスが軍人だったから、普通の市民に比べれば粗末なものでも口にできていた。
シュトラウスがものを食べているのをあまり見たことがないけれど、ひもじくてつらい思いは言うほど記憶にない。むしろミッション中の方が辛かったくらいだ。
なにせ敵地で自分の痕跡を残せないから、排泄の手間がかからないよう、わざと飲食は控えていた。お腹が空いてたまらなかったのは、その時くらいだ。
「おじさんたちは元気なのかな……」
今日はどうしたことか、望郷の念が強い。どだい帰ることは不可能だけれど、リハビリ後にシュトラウスのことを思い出してしまったせいか、ディスタンシアがどうなっているのか、シュトラウスは元気にしているのか、なぜか今夜は、そんなことが気になって仕方ない。
「おじさんにも、これを食べさせてあげられたらなあ……」
「ミズキ、どうしました? ホームシックですか?」
「そんなんじゃないんだけど、なんだか今日はおじさんのことをよく思い出してしまうんだ。僕、おじさんには怒られてばっかりで」
「でもミズキ、なんで急にあなたの故郷を思い出したりしたのですか? もしかして、故郷に帰りたくなりましたか?」
「そういうんじゃないんだ……」
プリンを食べながら、故郷で待つ家族と言える人に思いを馳せる。
「ただ元気にしているのかなって……思ったんだ。ディスタンシアがどうなったか、僕は詳しくは知らないし、それに……」
「それに?」
「おじさんも軍人だったから、ディスタンシアが負けた戦争なら、どうなったんだろうって……。僕と同じように戦争の責任をとったのか、それともどこかで元気にしているのか……そう、思っただけなんだ。元気にしているといいんだけど」
「あなたは本当に優しい人ですね。つらい思い出しかない故郷の人をそんなふうに思えるなんて」
「優しくなんか……ないよ」
優しい人間が、クラリスの軍人を片手では足りないほど殺したりはしない。なるべく顔を見られたくなくて、ミズキは俯いた。
ミハイルは、ミズキを捕らえてからずっと、否定したりからかったりすることはなかった。知らないものは教えてくれたし、こうしてミズキのいいところを探しては、たくさん褒めてくれる。でもそんな扱いがなんだか気恥ずかしい。
「あなたはそうやって、すぐに自分を否定する。私は知っていますよ、あなたが素敵な人であるのをね」
俯いた顔を無理やり上向かせられる。そこに降ってくるのはミハイルの唇だ。額に、瞼に、頬にそして、唇にも。彼の熱いキスが顔中に降ってくる。
「や……くすぐったい」
「仕方ないでしょう。可愛らしいミズキがいけないんです。これでも我慢しているんですよ」
「え?」
「あなたを抱きたい、と言っているんです」
瞬間で心臓が甘く跳ね上がった。
「ここ、病室だよ……」
一応の抵抗を試みる。だが。
「ええ、それで?」
あっさりと突破されてしまった。それでも再び抵抗してみる
「シュラルド先生が静かにしなさいって……言ってた気がするんだけど……」
「あなたがおとなしくしていればいいんです。それか」
熱いキスが、ミズキの唇を塞いでくる。
「こうやって、あなたの声を封じてしまえば、問題ないでしょう?」
だめだ。思考が甘やかに麻痺してくる。
「なに言って……だめ…んっ……」
ミハイルの唇が啄むようにミズキのそれを弄ぶものだから、反論もろくにできない。
ミズキの唇と歯列を割ってミハイルの舌が入り込んでくる。ミズキを官能の海へ突き落とそうとする意志を持って、彼の舌がミズキのそれに絡み、くちゅくちゅと愛撫される。
久しく忘れていた。ミズキの全身が淫らな熱を持って色づき始め、その先の期待で切なく震える。
「ん……うふぅ……ちゅ……」
抵抗なんかもうできやしない。彼をもっと感じたくて、ミズキも必死にミハイルに絡んでいく。
「んん……んはぁ、んん……」
唾液が交わり、息ができなくなるほどの深い接吻。
やがてミハイルが唇を離した。二人を繋ぐ唾液のラインが、ツッと切れてしまった。名残惜しそうに追いかけるミズキの唇にミハイルは自分の人差し指を当てた。
「……今日はここまでにしておきましょう。これ以上はあなたの身体にさわってしまいます」
「うん……」
本当は……その先の……夢を見せてほしい。
でもそんなこと言えない。
渋々ミズキがうなづくと、ミハイルは「いい子ですね」とミズキをベッドに寝かしつけてくれる。
「あなたは寝相が良くないから、夜中に布団を落として風邪をひいたりしないか、心配しているんですよ」
掛布を整えてくれながら、ミハイルが笑う。
「ミズキは知らないでしょうけど、あなたが私の部屋で眠っていた時は、寝返りを打つたび、よく上掛けを落としていました。私は夜中に起きて、何度もあなたに掛け直したんですよ」
「僕、そんなに寝相悪かった?」
「上掛けを落とすか、上掛けを巻き込んでミノムシのようになっているかどちらかでした。特にミノムシの時は、私にかかっている分まで巻き込むから、私はずいぶん寒い思いをしました。でもあなたは眠っている時も甘えん坊さんだった」
「甘えん坊? 僕が?」
「私が上掛けを分けて欲しくて引っ張ると、寝返りを打って私にくっついてくるんです。あなたもきっと上掛け一枚では寒かったんでしょう。なら二人で暖まれば良いと、あなたを抱きしめて眠りました。あなたは眠ると体温が高くなる人だったから、くっつくととても暖かった」
「……それ、褒めてるの?」
「褒めてますよ。あなたのいいところは、たくさんあってどこから話そうか迷うくらいです。できることならみんなに自慢したいくらい」
ミハイルはとても楽しそうに話していたが、ふっとその表情が翳った。
「こんなふうに世話を焼けるのも……いつまでかわかりませんから」
「うん……」
互いの間に漂う、漠然とした言い知れぬ感情。それが先端鋭いランスのようにミズキの全身を貫く。
わかっている。
この関係は、割と早くに終わってしまう。
「ミハイル……」
「なんです、ミズキ」
「もう一回、ぎゅって抱っこしてほしい……」
「仕方ありませんね。甘えん坊さん」
不安に駆られた腕が、彼へと助けを求める。
ミハイルの肩越しに、死神が鎌を持って、早く地獄へ来いとミズキを見ているような気がして。
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山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
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誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
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結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
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