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愛犬カルロ
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自分の体の柔らかさを外からの刺激で知ると、そこにアイツが張り付いている。
いつ始まるかわからない。飽きるまでキスして、揉んだり吸ったりして短時間で済むこともあれば、フルコースで1時間超えのこともある。
仕事もせずにブラブラしているから、アイツはさして時間の影響を受けない。よくいえば居候、悪くいえばヒモ、そして本人いわく無銭ルームシェアという、あらゆる意味で食えない男。
へたくそで独りよがりなエッチの後、ギブアンドテイクだと豪語するふてぶてしさ。そんなアイツがなぜ家にいるのか、それはあの日の出来事に起因する。
子供の頃から家族の一員として一緒に暮らしてきた愛犬 『カルロ』。そのカルロがあの日、酷い姿で家に帰ってきた。
車に轢かれて歩けなくなったところへ、また後続車に轢かれたらしかった。それ以上は悲しくて聞くことができなかった。
そのカルロを、首輪のタグに書かれていた住所をたどり、家まで運んできてくれたのがアイツだった。
外科医の父が、医大時代の恩師から、たっての頼みと言われて断れず、函館の病院に2年出張することになった。その父に母も同行することになり、その間アイツを同居させてはどうかということになった。それほど、仲が親密になっていた。
実は母は、年の離れた弟になるはずだった子どもを流産した。その傷付いた心を癒すために、犬を家族の一員として迎えることになった。
母は大学でピアノの講師をしていて、出産に失敗して以来、家にいてもピアノに触れることがなかった。
だから、辛さや悲しさを旋律で紡ぎ出し、普段ならピアノに代弁させるはずの言葉も語ることができなくなっていた。
それでも、生来の責任感の強さから、家族間の会話を絶やすことはなかったが、笑顔は作れなかった。
そのとき我が家にやってきたのがカルロだ。
カルロはシーズーで、2歳だった。人懐こく、母を慕って訪れる後輩や教え子達、家に訪れる者をみな笑顔にし、彼を中心に人の和が纏まった。私たち一家に神様が授けてくれた、なくてはならない存在だった。
その彼が、ある日忽然と姿を消したとき、私たちは神様に祈った。どうかもう一度会わせてほしいと。
だから、カルロの亡骸をアイツが運んできたときは、みんな運命的なものを感じていた。
善人然とした男の登場に、これは何かの縁に違いないと思っていた。
それほど、カルロを失った心の隙間は大きく、みんなそれが感動で埋められるのを待っていた。
離れて暮らす両親がビデオレターを送ってきた。
今の時代、パソコンならビデオチャットもできるし、スマホでだってビデオ通話ができる。ビデオ撮影の手間などを考えると、わざわざビデオレターなどにしなくても、と思った。
それをDVDプレーヤーで見ているとアイツが耳に息を吹きかけてきた。
「お似合いに見えないかな、俺達」
ビデオレターには両親の馴れ初めの話題が出ていた。2人切りになってその頃の気持ちになれたと言っている。離れて暮らしても元気でやっていると言いたいのだろう。その仲むつまじさに顔が綻びる横で、またアイツは出しゃばってきた。
両親の声に混ざり、アイツの息を吹きかける音と、頬に口を付ける音が聞こえる。出産の失敗を乗り越え、カルロとの死別を乗り越え、娘と離れて暮らす生活を乗り越えようとする夫婦の、互いに支えあう心を実感しているときにだ。
もうこの男への思いはとっくの昔に冷め切っていた。
無残な姿のカルロを家まで連れてきてくれたとき、この男には後光が差して見えた。
今では、私はあのときの感謝以上の好感を持っていない。それもそろそろ薄れてきた。
母はまだ、この男のことを命の恩人のように思っている。母を悲しませたくないから、今も我慢して同居している。
もっとも、出て行ってくれと言っても、この男に家を出る気はないだろう。
「結婚しようよ」
背中に悪寒が走った。多分、小刻みに震えていただろう。それさえも感じることがないよう、自分の感情を殺した。
「知り合いにペットショップをやっているやつがいてさ、俺も資金を貯めてペットショップを始めようかと思うんだ」
ビデオレターから受けた感動をこの男のせいで損ないたくない。体よくあしらうつもりで、適当に聞こえのいいことを言ってやり過ごすことにした。
「まだカルロのショックが大きくて、そんな感じの話を受け入れるのは無理よ」
「まさか犬と人間を天秤にかけるわけないよね」
天秤? 言っている意味がわからなかった。真剣にわからなかった。
「秤にかけられるものじゃないよね。愛は愛にしても」
だが、推測はできる。愛とか、それを天秤にかけるとか、この男がそんな言葉を使えば意味が遠のいていくだけだ。
「犬に嫉妬していたと知ったら、君ならどう思う」
「え?」
「殺したくならないか」
気分が優れない。生理的に合わなくなっていた。
「ねえ、ピザでも取らない? 私お腹空いてきちゃった」
話題を変えたかった。ピザのメニューを取りにいけば、はぐらかすことができるかも知れない。
宅配ピザのメニューは居間の、ファクスが置いてある棚に置かれている。だから居間へ向かった。アイツと距離を置き、少し間を置くことができるだけでも救われる。
「トッピング何にする、サイドメニューは」
アイツはそれには取り合わず話を続けた。人の神経を逆なでにすることにおいて天才的なものを持っている。
「君らにカルロを紹介した」
アイツの声があまりにもうざかったから、ピザの出前の注文なのにスピーカーホンにしてしまった。呼び出し音が聞こえる。
「え?」
「君らにカルロを紹介したペットショップ、実は俺の知り合いのペットショップってそこのことなんだ」
「え、何、聞こえない」
「店長がさ、すごく犬をかわいがってくれるお客がいるって、感激して俺に話をしてくれたんだよ」
宅配ピザの電話がつながった。
「はい、お電話ありがとうございます……」
「その犬が家族に囲まれる写真を見て一目惚れしたんだ。君に」
「……ピザ・マリーバードランドです」
でも応答ができない。
「それでさ、店長に頼んで店を手伝い、伝票とかを探してここの住所を調べたんだ」
「もしもしお客様、お電話が遠いようで聞き取りにくいのですが」
「色々調べてるうちに犬を溺愛する理由や、函館の病院にいって両親が長期間留守にするっていう話もわかって」
「もしもしお客様、もしもし……」
涙が電話機に滴って、それが精密機械だということに気付いて、ティッシュで水滴をふき取る手に力を込めてフックスイッチを押し、電話を切った。
「ツー、ツー」
「あ、あなたまさかカルロを、あなたがカルロを」
「僕の気持ち、わかってくれたかい」
不気味な笑いを浮かべて、
「ば、バカにしないでよ。人をからかうにもほ、ほどがあ……」
アイツは首を縦に振った。
「本当にあなたがカルロを殺したの?」
カルロ、カルロ、お前の懐かしい顔が浮かぶ。鼻をひくひくさせてほっぺを舐めてくれるお前の。私の頬を伝う涙を舐めてくれるお前はもういない。
「君の写真を見せたら、あの犬は鼻を鳴らして近付いてきた。遠くからデジタルズームで目いっぱい拡大して撮った解像度の低い写真だったのに」
「うん、うん」
この男の口から出たとはいえ、今は貴重なカルロの情報だ。
「ペットショップからこっそりくすねた麻酔剤を注射して、ぐったり眠ったところを通りがかった車に向けて放った」
「じゃあ、じゃあカルロは苦しまないで、苦しまないで死ねたのね」
「いや、麻酔は持ってきた量では足りなかったんだ。だから逃げ出して2台、3台の車が轢いてやっとくたばった」
無意識にキッチンへ走っていた。数本あるうちの、一番近い場所にあった包丁を取って部屋に戻り、それを翳した。この家から出て行ってくれと包丁を翳した。
「使い方わかるの?」
男の何も動じない、そして意味のわからない問いかけに体が震えだした。
「ねえ、あの事件知ってる?」
男の口から語られたのは、数年前、その残虐性で世間を震撼させた女子大生死体遺棄事件だった。男はゆっくりと立ち上がり、こちらに向かって歩き出した。
「包丁なんてのはね、まな板の上でものを切るためにできているんだ。動く人を殺傷しようと思ったら、それなりにいろいろ工夫しなきゃならないんだよ」
「それ以上近寄らないで」
「近寄らないと君だって刺せないだろう。刺す気あるの」
「来ないで」
「さあ、服を脱いで。包丁は邪魔になる。床にでも置いたら?」
視点が包丁とアイツの間を行き来する。包丁は振動して空気を震わせ、視界がぶれ始めた。
「あのとき、包丁で脅しながら服を脱がしたら下の肉まで切れちゃってさ、血が出て大騒ぎしたから首を絞めたんだ。何もできず終いだったよ。それじゃお互いつまらないよね」
もしこの男があの死体遺棄事件の犯人なら、私は殺されて死体を強姦された後に内臓を引き出され、バラバラに切り刻まれる。
「お父さんのカードでチェーンソーも買ってあるから」
怯える心を見透かしたように遺体切断を匂わせた。
カルロのモニュメントを作ろう、そう提案したこの男に、家族はそれを一任した。父がクレジットカードを渡し、ショッピングセンターへ買い物に行かせた。
その購入した品ものの中に、確かにチェーンソーはあった。
怖い。動けない。体が動かない。刺さないと私が死ぬ。それがどうしても理解できない。刺さないと私が死ぬのに私は刺さない。それがどうしても理解できない。
「やめてお願い、やめて助けて。あなたに良心があるなら……」
良心という言葉が引き金になり、そこから先しゃべれなくなった。そこから思考が止まった。
この男に良心を求める方がおかしい。
振り上げた手を見ると、握っていたはずの包丁はもうなかった。
何か音がした。多分、包丁が床に落ちた音だ。
霧が晴れて、視界が晴れるように部屋の壁が見通せる。
それは床に落ちた包丁を取るために男が屈んだせいだった。
無意識に違和感を覚えた善人面は、包丁を手にすることで剥がれ落ち、すっかり “それらしく” なった。
気にも留めなかったが、持ってきた包丁は出刃包丁で、それは男の手によく馴染んだ。
馴染むということにおいては、エクスカリバーを手にしたアーサー王もこの男に遠く及ばないだろう。
私は、キッチンで一番手近な包丁を手にしたはずだ。しばらく魚を捌いたりすることのなかった我が家のキッチンで、出刃包丁が手前に位置していたのはおかしい。
この男は、私の留守中に家で何をしていたのだ。
胸がチクッと痛む。動作が見えなかった。
アイツが振り回した出刃包丁がTシャツの上からブラジャーを切った。
40インチのHカップ、輸入物の高いブラジャーだ。今ここで殺されれば、もう買うこともない。
谷間はチリチリと痛み続ける。血が出ているのだろうか。
この程度で動じていてはこの先は長く、そして短い。
「誰か助けて! お願い、誰か助けて、お……」
男が包丁を落とし、首に手をかける。
ものすごい力、すさまじい形相。
息ができない。叫べば違う方法で殺されるだけとわからせたいのか、それとも苦しませたいだけなのか。
女子大生死体遺棄事件のことを思い出した。
あの犯人のセックスに相手の生死は関係がない。私は殺されてレイプされてその後……
気が遠くなる。神様助けて。
ああ、カルロ、ごめんね。助けてあげられなくてごめんね。
もうすぐお前の傍にいくわ。
母さん、父さん……
覚悟した刹那、ドアを突き破る音、そして怒号。
家の中で初めて聞く土足の靴音。大勢の、アドレナリンが上昇する熱と呼吸。
「警察だ。銃刀法違反、武器の不法所持、および殺人の現行犯で逮捕、拘束する」
誰? 警察が拳銃を構えている? 盾を持った警官が取り囲んでいる。なぜ?
「お嬢さん大丈夫ですか。じきに救急車も到着します」
「私、助かったんですか」
「宅配ピザチェーンから通報がありまして、所轄署に連絡が。間に合ってよかった」
強面の刑事は無理に顔を綻ばせてそう告げた。
「あなたのとっさの機転が犯人逮捕に結び付きました。犯人が脅迫した内容はピザチェーンが通話を録音という形で残してあります」
電話機を見ると、零れた涙を拭くために手で押したフックスイッチの横で受話器が横たわっていた。
スピーカーホンとリダイアルボタンには、汚れた犬の肉球の跡が付いていた。
いつ始まるかわからない。飽きるまでキスして、揉んだり吸ったりして短時間で済むこともあれば、フルコースで1時間超えのこともある。
仕事もせずにブラブラしているから、アイツはさして時間の影響を受けない。よくいえば居候、悪くいえばヒモ、そして本人いわく無銭ルームシェアという、あらゆる意味で食えない男。
へたくそで独りよがりなエッチの後、ギブアンドテイクだと豪語するふてぶてしさ。そんなアイツがなぜ家にいるのか、それはあの日の出来事に起因する。
子供の頃から家族の一員として一緒に暮らしてきた愛犬 『カルロ』。そのカルロがあの日、酷い姿で家に帰ってきた。
車に轢かれて歩けなくなったところへ、また後続車に轢かれたらしかった。それ以上は悲しくて聞くことができなかった。
そのカルロを、首輪のタグに書かれていた住所をたどり、家まで運んできてくれたのがアイツだった。
外科医の父が、医大時代の恩師から、たっての頼みと言われて断れず、函館の病院に2年出張することになった。その父に母も同行することになり、その間アイツを同居させてはどうかということになった。それほど、仲が親密になっていた。
実は母は、年の離れた弟になるはずだった子どもを流産した。その傷付いた心を癒すために、犬を家族の一員として迎えることになった。
母は大学でピアノの講師をしていて、出産に失敗して以来、家にいてもピアノに触れることがなかった。
だから、辛さや悲しさを旋律で紡ぎ出し、普段ならピアノに代弁させるはずの言葉も語ることができなくなっていた。
それでも、生来の責任感の強さから、家族間の会話を絶やすことはなかったが、笑顔は作れなかった。
そのとき我が家にやってきたのがカルロだ。
カルロはシーズーで、2歳だった。人懐こく、母を慕って訪れる後輩や教え子達、家に訪れる者をみな笑顔にし、彼を中心に人の和が纏まった。私たち一家に神様が授けてくれた、なくてはならない存在だった。
その彼が、ある日忽然と姿を消したとき、私たちは神様に祈った。どうかもう一度会わせてほしいと。
だから、カルロの亡骸をアイツが運んできたときは、みんな運命的なものを感じていた。
善人然とした男の登場に、これは何かの縁に違いないと思っていた。
それほど、カルロを失った心の隙間は大きく、みんなそれが感動で埋められるのを待っていた。
離れて暮らす両親がビデオレターを送ってきた。
今の時代、パソコンならビデオチャットもできるし、スマホでだってビデオ通話ができる。ビデオ撮影の手間などを考えると、わざわざビデオレターなどにしなくても、と思った。
それをDVDプレーヤーで見ているとアイツが耳に息を吹きかけてきた。
「お似合いに見えないかな、俺達」
ビデオレターには両親の馴れ初めの話題が出ていた。2人切りになってその頃の気持ちになれたと言っている。離れて暮らしても元気でやっていると言いたいのだろう。その仲むつまじさに顔が綻びる横で、またアイツは出しゃばってきた。
両親の声に混ざり、アイツの息を吹きかける音と、頬に口を付ける音が聞こえる。出産の失敗を乗り越え、カルロとの死別を乗り越え、娘と離れて暮らす生活を乗り越えようとする夫婦の、互いに支えあう心を実感しているときにだ。
もうこの男への思いはとっくの昔に冷め切っていた。
無残な姿のカルロを家まで連れてきてくれたとき、この男には後光が差して見えた。
今では、私はあのときの感謝以上の好感を持っていない。それもそろそろ薄れてきた。
母はまだ、この男のことを命の恩人のように思っている。母を悲しませたくないから、今も我慢して同居している。
もっとも、出て行ってくれと言っても、この男に家を出る気はないだろう。
「結婚しようよ」
背中に悪寒が走った。多分、小刻みに震えていただろう。それさえも感じることがないよう、自分の感情を殺した。
「知り合いにペットショップをやっているやつがいてさ、俺も資金を貯めてペットショップを始めようかと思うんだ」
ビデオレターから受けた感動をこの男のせいで損ないたくない。体よくあしらうつもりで、適当に聞こえのいいことを言ってやり過ごすことにした。
「まだカルロのショックが大きくて、そんな感じの話を受け入れるのは無理よ」
「まさか犬と人間を天秤にかけるわけないよね」
天秤? 言っている意味がわからなかった。真剣にわからなかった。
「秤にかけられるものじゃないよね。愛は愛にしても」
だが、推測はできる。愛とか、それを天秤にかけるとか、この男がそんな言葉を使えば意味が遠のいていくだけだ。
「犬に嫉妬していたと知ったら、君ならどう思う」
「え?」
「殺したくならないか」
気分が優れない。生理的に合わなくなっていた。
「ねえ、ピザでも取らない? 私お腹空いてきちゃった」
話題を変えたかった。ピザのメニューを取りにいけば、はぐらかすことができるかも知れない。
宅配ピザのメニューは居間の、ファクスが置いてある棚に置かれている。だから居間へ向かった。アイツと距離を置き、少し間を置くことができるだけでも救われる。
「トッピング何にする、サイドメニューは」
アイツはそれには取り合わず話を続けた。人の神経を逆なでにすることにおいて天才的なものを持っている。
「君らにカルロを紹介した」
アイツの声があまりにもうざかったから、ピザの出前の注文なのにスピーカーホンにしてしまった。呼び出し音が聞こえる。
「え?」
「君らにカルロを紹介したペットショップ、実は俺の知り合いのペットショップってそこのことなんだ」
「え、何、聞こえない」
「店長がさ、すごく犬をかわいがってくれるお客がいるって、感激して俺に話をしてくれたんだよ」
宅配ピザの電話がつながった。
「はい、お電話ありがとうございます……」
「その犬が家族に囲まれる写真を見て一目惚れしたんだ。君に」
「……ピザ・マリーバードランドです」
でも応答ができない。
「それでさ、店長に頼んで店を手伝い、伝票とかを探してここの住所を調べたんだ」
「もしもしお客様、お電話が遠いようで聞き取りにくいのですが」
「色々調べてるうちに犬を溺愛する理由や、函館の病院にいって両親が長期間留守にするっていう話もわかって」
「もしもしお客様、もしもし……」
涙が電話機に滴って、それが精密機械だということに気付いて、ティッシュで水滴をふき取る手に力を込めてフックスイッチを押し、電話を切った。
「ツー、ツー」
「あ、あなたまさかカルロを、あなたがカルロを」
「僕の気持ち、わかってくれたかい」
不気味な笑いを浮かべて、
「ば、バカにしないでよ。人をからかうにもほ、ほどがあ……」
アイツは首を縦に振った。
「本当にあなたがカルロを殺したの?」
カルロ、カルロ、お前の懐かしい顔が浮かぶ。鼻をひくひくさせてほっぺを舐めてくれるお前の。私の頬を伝う涙を舐めてくれるお前はもういない。
「君の写真を見せたら、あの犬は鼻を鳴らして近付いてきた。遠くからデジタルズームで目いっぱい拡大して撮った解像度の低い写真だったのに」
「うん、うん」
この男の口から出たとはいえ、今は貴重なカルロの情報だ。
「ペットショップからこっそりくすねた麻酔剤を注射して、ぐったり眠ったところを通りがかった車に向けて放った」
「じゃあ、じゃあカルロは苦しまないで、苦しまないで死ねたのね」
「いや、麻酔は持ってきた量では足りなかったんだ。だから逃げ出して2台、3台の車が轢いてやっとくたばった」
無意識にキッチンへ走っていた。数本あるうちの、一番近い場所にあった包丁を取って部屋に戻り、それを翳した。この家から出て行ってくれと包丁を翳した。
「使い方わかるの?」
男の何も動じない、そして意味のわからない問いかけに体が震えだした。
「ねえ、あの事件知ってる?」
男の口から語られたのは、数年前、その残虐性で世間を震撼させた女子大生死体遺棄事件だった。男はゆっくりと立ち上がり、こちらに向かって歩き出した。
「包丁なんてのはね、まな板の上でものを切るためにできているんだ。動く人を殺傷しようと思ったら、それなりにいろいろ工夫しなきゃならないんだよ」
「それ以上近寄らないで」
「近寄らないと君だって刺せないだろう。刺す気あるの」
「来ないで」
「さあ、服を脱いで。包丁は邪魔になる。床にでも置いたら?」
視点が包丁とアイツの間を行き来する。包丁は振動して空気を震わせ、視界がぶれ始めた。
「あのとき、包丁で脅しながら服を脱がしたら下の肉まで切れちゃってさ、血が出て大騒ぎしたから首を絞めたんだ。何もできず終いだったよ。それじゃお互いつまらないよね」
もしこの男があの死体遺棄事件の犯人なら、私は殺されて死体を強姦された後に内臓を引き出され、バラバラに切り刻まれる。
「お父さんのカードでチェーンソーも買ってあるから」
怯える心を見透かしたように遺体切断を匂わせた。
カルロのモニュメントを作ろう、そう提案したこの男に、家族はそれを一任した。父がクレジットカードを渡し、ショッピングセンターへ買い物に行かせた。
その購入した品ものの中に、確かにチェーンソーはあった。
怖い。動けない。体が動かない。刺さないと私が死ぬ。それがどうしても理解できない。刺さないと私が死ぬのに私は刺さない。それがどうしても理解できない。
「やめてお願い、やめて助けて。あなたに良心があるなら……」
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この男に良心を求める方がおかしい。
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何か音がした。多分、包丁が床に落ちた音だ。
霧が晴れて、視界が晴れるように部屋の壁が見通せる。
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無意識に違和感を覚えた善人面は、包丁を手にすることで剥がれ落ち、すっかり “それらしく” なった。
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馴染むということにおいては、エクスカリバーを手にしたアーサー王もこの男に遠く及ばないだろう。
私は、キッチンで一番手近な包丁を手にしたはずだ。しばらく魚を捌いたりすることのなかった我が家のキッチンで、出刃包丁が手前に位置していたのはおかしい。
この男は、私の留守中に家で何をしていたのだ。
胸がチクッと痛む。動作が見えなかった。
アイツが振り回した出刃包丁がTシャツの上からブラジャーを切った。
40インチのHカップ、輸入物の高いブラジャーだ。今ここで殺されれば、もう買うこともない。
谷間はチリチリと痛み続ける。血が出ているのだろうか。
この程度で動じていてはこの先は長く、そして短い。
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男が包丁を落とし、首に手をかける。
ものすごい力、すさまじい形相。
息ができない。叫べば違う方法で殺されるだけとわからせたいのか、それとも苦しませたいだけなのか。
女子大生死体遺棄事件のことを思い出した。
あの犯人のセックスに相手の生死は関係がない。私は殺されてレイプされてその後……
気が遠くなる。神様助けて。
ああ、カルロ、ごめんね。助けてあげられなくてごめんね。
もうすぐお前の傍にいくわ。
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覚悟した刹那、ドアを突き破る音、そして怒号。
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誰? 警察が拳銃を構えている? 盾を持った警官が取り囲んでいる。なぜ?
「お嬢さん大丈夫ですか。じきに救急車も到着します」
「私、助かったんですか」
「宅配ピザチェーンから通報がありまして、所轄署に連絡が。間に合ってよかった」
強面の刑事は無理に顔を綻ばせてそう告げた。
「あなたのとっさの機転が犯人逮捕に結び付きました。犯人が脅迫した内容はピザチェーンが通話を録音という形で残してあります」
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