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第1章

オークの洞窟生活 (7)

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 長いため息を吐いたノラの唇と頬には幾分か朱が差し、血行が良くなったのを窺わせた。はたと我に返った彼女は空になった器を横に寄せてオレに向き直る。

 「あの、本当に美味しかったです。ありがとうございました」

 そう言ってノラは深々と頭を下げる。この程度でそこまで有難がられては、逆にオレもどんな顔をして良いものやら返答に困る。次はもう少しマシな物を食わせてやるよと、柄にもなくついそんな事を口にすると、ノラは満面の笑みでオレを見上げて「はい」と素直な返事を返した。

 「ところでノラはいつからここに居るんだ?」
 「9日前です。地下牢の天井の一角に穴があってそこから少しだけ外の光が見えるんです。そこから陽の光を見て数えてました」

 地下牢とはきっとオレが最初に気が付いた、あの奇妙な巨獣の居た場所のことだろう。つまりノラはオレがあそこに連れて来られた瞬間を目撃していたと言うことか。

 「今朝方もそこに居たのか?」
 「はい。祭りの準備を始めるまでは」
 「そこからあの巨大な化物の居る鉄格子の中は見えたか?」
 「化物? 枝牙犀えだきばさいのことですか?」

 枝牙犀えだきばさい。どうやらあの巨獣はそういう名前の生物らしい。

 「ああ。その枝牙犀がいた鉄格子だ」
 「あっ、そう言えば不思議な青白い光があの部屋の中から見えて、暫くしたら飼育係が餌をあげに……えっ、あれってクロ様だったんですか?」

 やはりノラはその瞬間を見ていたのだ。青白い光とは何のことだ。

 「なあ、オレがはあそこへ連れて来られた瞬間を見たか? 誰にどうやって連れてこられた?」
 「クロ様、誰かに連れてこられたんですか?」

 ノラはオレの問い掛けに質問で返す。どうやらその決定的瞬間は目撃していなかったようだ。

 「私にはクロ様があそこに急に現れたように見えましたけど……」

 その言葉にオレは思わず眉間に皺を寄せ怪訝な表情を浮かべていた。この娘は何を言っているのだ。オレの顔にはそう書いてあったに違いない。それを感じ取ったのか慌ててノラが続ける。

 「いえ、もしかしたら見間違いかも知れないんですが、今朝は私ずっと枝牙犀の檻を眺めてたんです。私こう見えてもここに連れてこられる前は、獣医師の方の元でお手伝いをしながら勉強させてもらっていいので、動物にはけっこう詳しい方なんです。あの枝牙犀は凄いですよね、近頃では見られなくなった大型種。それも通常サイズよりひと回り以上は大きい上に、あんなに立派な牙はなかなかお目に掛かれませんもんね!」

 ノラは上気した表情で饒舌に枝牙犀えだきばさいのことを語り続ける。ところでオレの話はどこへ行ったのだ。そんなオレの思いなどお構いなしに、尚もノラは枝牙犀の話を続けようとする。

 「知ってますか? 枝牙犀って────」
 「ちょ、ちょっと待ってくれノラ、オレがあそこに急に現れたって言うのはどういう意味だ?」

 オレが説明を遮るようにして問い掛けると、枝牙犀の話に夢中になり過ぎたことに気付いたノラは手を口に当てて顔を赤らめた。気持ち良く話しているところ申し訳ないが、今はそれよりもオレがこんな姿になって地下牢で気付いた原因を知るのが最優先だ。

 「えっと、さっきも言いましたが、私ずっと枝牙犀の檻を眺めてたんです。地下牢は暇ですし他にすることもないので。そしたら、急に檻の中から青白い光が見えて、それが消えると中に人影があることに気付いたんです。あの光って魔導士の方たちが魔法を使ったときに現れる魔法陣じゃなかいなって」

 魔導士。魔法。魔法陣。ますます話がややこしくなっていく。

 「そ、その魔導士とか魔法陣と言うのは……つまりその……」
 「クロ様、もしかして魔導士の方にお会いしたことないのですか? 魔法陣は魔導士の方たちが魔法を使う際に現れる不思議な光です」

 当然のようにノラにそう言われると、まるで魔導士という存在を知らないオレの方がおかしいように感じてくる。いや、そうじゃないだろ。だが、彼女は嘘を言っているようにも、冗談を言ってるようにも見えない。

 茫然としたままジッと見詰めていると、ノラが気まずそうに体を包んだ布を引き上げた。彼女は未だにスリップ姿の上から薄汚れた布を被ったままの姿だった。そうだ。オレは慌てて視線を逸らすと、族長からもらった褒美の入った木箱を開けて中から美しい織物を取り出し、視線を背けたままそれをノラへと差し出した。

 「残念だけど服はないんだ。良かったらこれを使ってくれ」
 「こんな高価な織物……私が使わせてもらって良いのですか?」
 「構わない。必要なら好きに切っても構わない。裁縫道具も何もないんだが、服の代わりになりそうか?」

 再び問い掛けると、彼女は笑顔で受け取り「出来ます。ありがとうございます」とだけ答え、早速それを器用に折り曲げたり捻じったりしながら、器用に体に巻き付けていく。あっと言う間に1枚の布を、古代ギリシャのキトンを思わせる衣服に仕立て上げた手際には織物を差し出したオレ自身も驚かされた。

 「それと、護身用にこのナイフを持っておくといい」
 「でも、そんな……」
 「鞘に付いた紐がベルト代わりになるだろうしな?」

 オレがそう言うとノラは素直にナイフの鞘のベルトを腰に巻き付けた。

 「こ、これでどうでしょうか?」

 ノラはまるでオレがそれを望んだが如く、恥ずかしそうに頬を赤らめながらもワンピースのように垂れ下がった裾を僅かに摘まんで釣りあげてポーズを取る。萌葱色の生地が彼女の亜麻色の髪と白い肌に良く映えて、とても即席で仕上げた仮の衣服には見えない。勿論、それを見てドキリとしたことは口には出さないでおこう。お互いにようやく少し慣れてきたのに、話がややこしくなっては困る。

 それにして今日は疲れた。あまりにも色々なことがあり過ぎたし、酒も多少は効いてるのかも知れない。今すぐ全てを明らかにしたいと逸る気持ちと、毛皮が敷かれた寝床に倒れ込み眠りに落ちてしまいたい思いの狭間で意識が微睡はじめている。

 「ノラ、話の続きは明日にでもまた詳しく聞かせてくれ。今日は疲れた。悪いけどオレは先に寝かせてもらうよ。蝋燭は適当に消しておいてくれるかい?」

 同じこの部屋で眠ることに彼女は抵抗を感じることだろう。ナイフを手渡し、オレが先に眠ってしまえば少しは安心してもらえるのではないか。そんなことを思いながらオレは横になると、意識を手放し静かに闇の中へと落ちていく。闇の中で「ありがとうございます」と声が微かに聞こえた気がした。それがノラのものなのか、オレの心の片隅にある後ろめたさが作り出した幻聴なのかは定かではない。



 「おはようございます!」

 寝返りを打った拍子に薄く目を開けると、寝床の毛皮の上に行儀よく座った少女の姿が見える。どうして外国人の少女がオレの部屋にいるんだ。いや、どこかの店なのか。オレは寝ぼけた頭をフル回転させ、それが奴隷のノラでオレが豚面人族になったことを思い出す。

 やっぱり夢じゃないんだな。オレは人間とは掛け離れたその顔を手で触れながら、信じ難い現実に舞い戻ったのを実感する。もう朝か。洞窟での暮らしは時間の経過が実感し難い。オレはゆっくりと起き上がり笑顔で迎えてくれたノラに挨拶を返すと、だらしなく声を漏らしながら大きく背伸びをした。体のあちこちに筋肉の張りを伴う痛みを感じる。昨日の力試しのせいだろう。

 「あ、あの、これ。ありがとうございました」

 そう言ってノラが腰に回したナイフを返そうとするので、オレは身振りだけでそれを制した。

 「護身用にこれを身に着けておくといい」
 「えっ、でも、それじゃあ……」
 「大丈夫。オレには族長からもらったこれがある」

 そう言って起き上がって腰に回した中長剣を指す。

 「もっともそのナイフも、もらい物なんだけどな」

 そう言ってオレが笑うと釣られてノラも笑顔を浮かべた。

 不意に会話が途切れると昨夜の話の続きを思い出す。魔導士。魔法。魔法陣。あまりにもファンタジー過ぎる内容だが、自らが怪物となった今ではオレ自身も既にファンタジーの一端を担っていた。避けては通れない。意を決して話を切り出そうとするとキュルルと小さな音が聞こえる。聞き覚えのある音に思わずノラを見ると、彼女は顔を真っ赤にして腹を押さえ「すみません」と呟きながら俯いた。無理もない。昨日も結局、残り物で作ったスープしか与えてやれなかった。

 オレは昨夜と同じようにノラに留守番を頼み、部屋を後にし調理場へと向かった。

 「あ、クロ様、おはよう。何か用ガい?」

 調理場を覗くとハックが瓶から取り出した獅子猪の頭骨を、鋸の様な道具で更に小さく切り分ける作業をしていた。朝食の準備をしているのだろう。調理台には朝に摘んで来たであろう新鮮な野草と、既に焼き上がった薄いピザ生地のような物も置いてある。釜戸の火には水の入った巨大な寸胴が掛けられている。

 「何か手伝いますよ」
 「いいのガい? 副長にそんな事させちまっデ?」

 オレが笑顔で頷くとハックは嬉しそうに鼻を鳴らす。手伝いと言っても大まかに切断した頭骨を、鉈の様な分厚い包丁で適当な大きさに切って寸胴に放り込むだけだ。頭部の大きな骨や牙などを取り除いても、30キロ以上はありそうな獅子猪の肉ですぐに寸胴は一杯になった。入りきらないぶんは再び瓶の中の液体へと戻す。液体には味を引き出すのと腐敗を防ぐために、強い酒と沢山の塩が入っているらしい。瓶の中からは独特なアルコール臭が漂っていた。

 ハックは慣れた手付きで、少量の塩と数種類の香辛料を大量に寸胴に投げ入れると、隣の釜戸に大きな鍋を用意した。そこへ粒の大きな麦に似た穀類を入れて乾煎りする。暫くすると香ばしい香りと共に、パチパチと音を立てて麦が弾け出す。最後に煮込んでいた寸胴に刻んだ野草と、仕上げの塩と香辛料を振りかければ完成だ。後は盛り付けの際に器に麦を入れ、そこへ獅子猪の汁物を注ぎ入れるだけ。今日の朝食にはこの他にハックが焼いた薄いピザ生地のようなパンもどきが付くらしい。

 朝食は広場で配給されるらしいのだが、族長のババンバと班長のグズリ、副長のオレの分だけは、ひと足先に頂けるらしい。ハックは後で届けてくれると言ったのだが、折角なので自分で運ばせてもらうことにする。その代わり、本来はもらえないノラの分も用意してもらった。スープの入った器の上に薄いピザ生地のようなパンを乗せ、両手にそれを持ってハックにお礼を言うと、オレは足早にノラの待つ部屋へと向かった。

 ノックでオレが帰ったことを知らせようとしたが両手が塞がっているので、仕方なく2回、1回、2回と扉に頭突きをする。それを見掛けた通り掛かりの若い豚面人族が、見てはいけないものを見てしまったように顔を青褪めさせて「す、すみませんですた!」と悲鳴のような声を上げる。いや、ちょっと待って、そんなんじゃないから。オレの内心での言い訳など通じるはずもなく、若い豚面人族は視線を逸らすと足早に引き返して行った。

 「おかえりなさいませ、クロ様」

 扉を開けたノラが、狼狽しながら両手にスープとパンを持つオレを不思議そうに見つめるが「ただいま」とだけ告げるとオレは肩を落としながら部屋へと入った。取り敢えず朝飯でも食って気を取り直そう。片方の器をノラに差し出すとオレはまたしても匙を借りて来るのを忘れたことに気付く。

 「すまん、また匙を忘れたみたいだ」
 「問題ないですよクロ様、ほらこうして────」

 ノラはピザ生地のような薄いパンを千切ると、それを匙代わりに器用にスープを飲み、その後にスープの染み込んだパンを口にして笑みを浮かべた。オレもノラを真似てスープを飲みパンを食べる。大雑把な作り方をしていたわりには香辛料も効いていてなかなか美味い。淡白な味わいのパンを浸して食べるのも、味も良く手も汚れにくくて良いアイディアだ。まあ、結局この後で素手で骨の塊を持ってガツガツと食うことになったのだが。

 食事が終わると途端にトイレに行きたくなってきた。ここの奴らはいたる所で立小便をしているが、流石に野糞をする強者は見掛けない。やはり野糞というだけに、外の茂みに紛れて糞をしているのだろうか。

 「ノラ、ここのヤツらはトイレに行きたいときはどうしてるんだろうな?」
 「その辺でされているのを何度か見掛けたことがあります……」

 気まずそうに顔を逸らしながら彼女が答える。そりゃそうだよな。少女に聞くような内容でもないのはオレも重々承知なのだが、ノラ以外に聞く相手がいないのだから仕方がない。

 「いや、『小』じゃなくて『大』の方は?」
 「あっ、それならそこの糞桶にしていただければ、私が糞場ふんばまで捨てに行ってきます」

 そう言ってノラは部屋の隅に置かれた小さな桶を指す。いやいやいや、ちょっと待って。少女の目の前で桶にウンコをしてそれを捨てに行ってもらうとか、それどんな羞恥プレーなんだよ。ウンコするオレも、捨てに行くノラもどっちも得しないから。

 「そ、それって他の奴らもそうなのか?」
 「はい。共同で使う部屋に糞桶がいくつかあってそれを使っています。それ以外は直接、糞場へ用を足しに行く人も多いようですが」

 直接そこで用を足すのもありなのか。それなら。

 「オレちょっとその糞場へ行ってこようかな」
 「あっ、あの、私もお供させていただいてよろしいでしょうか?」
 「えっ!? 来るの!?」
 「そ、その……私もちょっと……」
 
 あ、もしかして。わぁ、ダメ。それ以上は言う必要ないから。オレはノラの言葉を遮るように「よし、行こ」と言葉少なに答え、我先にと部屋を出た。でも、よく考えたらオレは糞場がどこなのかわからない。結局は彼女を待つしかないのだ。遅れて部屋を出たノラの手には燭台が握られている。

 用を足すのに灯かりが必要なのか。疑問に思い怪訝な表情を浮かべるとそれを察したノラが説明する。これから向かう糞場とは洞窟の中でも少し深い場所にあるらしく、外からの光は全く届かないのだという。オレはノラの後に続き洞窟の深い場所へと進む。広場を越え地下牢へ降りる階段を越えると、木材で補強された下層へと続く古びた階段が見えてきた。

 「ここを降りた更にその先に糞場があります、クロ様、準備はよろしいですか?」
 「ああ……」

 内心で何の準備だろうと思いながらも、オレは咄嗟にノラの問い掛けに反応していた。
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