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ヴレド伯爵領(47〜)
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しおりを挟む日が傾いて夕焼けとなり始めた頃、ようやくリュークがカーテンから出てきた。ミハルは何故かほっとして、なんとなくもう一度窓を覗いてみる。
「そういえば、ナナイはどこへ行ったの?」
ミハルが尋ねると、リュークはミハルが開けたカーテンの隙間からやや前方の空を指さして「あそこ」と言った。
ミハルは目を凝らして空を見つめる。
雲一つない、まだ青さの残る空。西から金色を溶かしたような美しい夕焼けの色がじんわりと滲んでいるだけで、他には何も見えない。
本当にいるのかしら、と半信半疑のまま車内に視線を戻すと、リュークは両手に一本ずつ持った木の枝を見比べている。
なんだ、冗談なのね、と思ったミハルは壁掛けのランプに杖を近付けて火を灯した。
ふと気が付くと、リュークがミハルの杖の先を見つめている。ずっと窓の外を眺めていたときよりも明らかに爛々と輝く子どもらしい瞳だ。
「気になるの?」
ミハルは少し意外そうに言った。好奇心旺盛なリュークが、今さら杖に興味を持ったことが可笑しかった。
「木の棒だったら杖の代わりになるわよ」
「どうやるの?」
リュークはいよいよ興味を持って身を乗り出した。そして、両手にある木の枝のうち微妙に太い方を残して、もう一本を革袋へ戻した。
長さは一般的な指揮棒ほど。何の変哲もないただの棒きれである。リュークにとっては、このくらいの長さが丁度良いらしかった。
「まずは自分と相性の良い木を探すところから始めるの。見たところ、その木は……うぅんと……何の木か分からないけど悪くなさそうだわ。リュークは魔法は……──そうよ、あなた、魔法を使うわよね?」
いつからか、リュークの魔法については触れないのが大人たちの暗黙の了解のようになっていた。
ワイバーンを弾いた魔法。石ころを建築素材としての石材に変えた魔法。泥団子を保護するために施した魔法。そして、黒いドラゴンのイオに投げた泥団子──のことは、魔法かどうか誰にも分からないが──。
ドラゴワームを呼んだのは魔法の力だろうか? ナナイやスライムを手懐けているのも魔法なのか? 生物を生かしたまま出し入れできる摩訶不思議なマジックバッグについては──?
理解できないことは見ないふりをするというのも至極真っ当な選択ではあるが、知っておかないと後が怖いこともある。
もしくは、抑えきれない好奇心に抗えないことも。
ミハルは今日、このときに、リュークという不思議な少年のことをもっと知りたいと願ってしまったのだった。
「魔法使うよ」
リュークは左手で持っている枝の先っぽを小さく振りながら答えた。ミハルはどこか緊張した面持ちで続ける。
「そうよね。じゃあ、その枝に少しだけ……本当に少しだけ魔力を流してみましょうか」
おそらく本能あたりが「やめろ」と叫んだ気がしたが、リュークの素直な「うん」と被ってかき消された。
リュークは枝を真っ直ぐ両手で持った。そして、クリクリの愛らしい目でミハルを見上げ、「こう?」と尋ねた。
ほぼ同時、鼓膜が破れるような大きな音が鳴った。
馬車が大きく揺れる。ミハルは、刹那にイオが森を破壊したときの轟音、破裂音、とにかくもの凄い音だったことを思い出し、どこか似ていた今の音で心臓を殴りつけられたような衝撃と恐怖に襲われ、なんとかリュークを抱いたところで動けなくなった。
馬たちが暴れている。兵士たちも恐怖を思い出して動揺し、混沌としている。
一団の先頭を行っていたギムナックも、予兆なき現象に驚いて狼狽えている。最後尾のソロウは、馬車の後ろから「どうした?」と、やや呑気にも見える顔を覗かせた。
「おっ、青天の霹靂か! いや、もう茜色だから青天とは言わないのか? すごいな、紫と黄色の雷が斜めに走るのがはっきりと見えたぞ!」
ミハルや兵士らと同じくイオの脅威にさらされたはずの辺境伯は、鼻息荒く興奮しきっている。レオハルトは「天候の変化に注意して先を急ぎましょう」と周りを落ち着かせながら列を整え始めた。
御者を務める兵士が馬をなだめ、馬車の揺れがおさまった。ミハルは青い顔で「大丈夫?」とリュークに声をかけ、腕を離す。
リュークは「うん」と頷いて、ミハルの視界に木の枝を入れる。
「ミハル、これ」
言われた通りに魔力を流したらしい枝。折れ口に微妙に根が生え、枝の先端近くに新芽がちょびっと出ている。
ミハルはあんぐりと口を開けたまま目を擦った。
──もう一度見てみる。
木の枝に、根っこと新芽が生えている。
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