吉備大臣入唐物語

あめ

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第一章『文選』

文選 8

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 月は大分西に傾いてしまったが、辺りには夜の冷たさが残っている。高楼の扉を大きく開け放ったまま、真備と仲麻呂は必死に机に向かっていた。先程帝王宮殿で聞いてきた文選の内容を、持ち帰った旧い暦の余白に書き写していたのである。長い間手を動かしていて疲れたのか、真備は右手をぶらぶらと振りながら扉越しに見える透明な空を仰ぐ。寝不足なのか、その目はどこか虚ろげだった。
「なぁ仲麻呂」
「何でしょう?」
「無理かもしれん」
「······」
「もうさすがに頭に入らん」
 ごろりと仰向けに寝っ転がった真備を仲麻呂は心配そうに見つめる。
「手を動かした方が頭に入ると思ったんだけどなぁ。お前はどうだ?」
「何となくは掴めましたが、詳細を問われたとしたら正直厳しいです」
「だよなぁ」
 そう呟く仲麻呂もどこか疲れた様子をしていた。 そもそもなぜ文選を書き写しているのか。それは書きながらの方がより記憶できるのではないかという二人の憶測によるものであった。今日中にあの儒学者達が高楼を訪れ、文選についていくつか問いを投げかけてくる。それに真備が答えられないのを見て、「大したことないやつだ」と朝廷に言いふらすつもりであろう。
 そのために彼らの会話を盗み聞き、文選の内容を頭に叩き込んだ。しかし、一度聞いただけでずっと覚えていられるような代物ではない。二人はこっそりと盗み出した古い暦に文選の内容を書き付け、夜のうちに全て覚えてしまおうと計画していたのだが······。
「もうさすがに頭の容量がない。これ以上叩き込んだらせっかく覚えたものが抜けていきそうだ」
「······諦めますか?」
 真備は渋い顔をしながら目を閉じた。何も言わずに深いため息だけつくと、仰向けに寝ていたのをごろりと向きを変えて横になる。そしてゆっくりと仲麻呂を見上げた。
「諦めるしかないんじゃないか? お前もそろそろ限界だろう」
「そうですね······何だか頭がぼーっとしてきました」
「だよなぁ······そもそも運さえよければ覚えてなくても大丈夫なんじゃないか? あいつらが全部記憶してるとは思えない」
 仲麻呂は一度頷いたが、まだ苦い顔をしていた。首を捻った真備に対し、少々言いずらそうに重い口を開く。
「しかし、あちらには文選の現物があります。細かい部分まで問われる可能性は十分あるかと」
 真備は思わずうつ伏せになって自らの腕に顔を埋める。着物の袖にはどこか冷たい夜露の香りが混じっていた。
 わざわざ命の危険を犯して唐に来たというのに、まんまと彼らの策略にハマってしまうのだろうか。もし彼らの手によって真備の名が辱められれば、困るのは真備だけではない。日本という国そのものの価値まで下がってしまうのだ。真備は自らの手で国を汚すなどしたくはない。たとえそれが嫉妬による卑怯な手口だったとしても、彼らに負ければ少なからず真備の名誉が失われるのは確実だった。

 どうにかならないものか。真備は必死に打開策を考えた。その顔を腕に埋めたまま······開いた戸口から朝の光が差し込み、爽やかな風が吹いてくるのにも気づかないまま······。
 しかし頭はくるくると回るのに、一向にいい策は思いつかない。一つのことに集中したいのに、どうにも時間を気にしてしまうのだ。早くしないとやつらがここに来てしまう。もう時間がなかった。

 その時、ずっとうつ伏せになっていた真備は何か柔らかくてあたたかいものが自分の身体を包み込んだのを感じた。それを不思議に思ってそっと顔を上げる。
「あっ、真備さん起きてらしたんですか?」
 そこにあったのは朝日に大きな角を光らせた赤鬼の顔であった。身体を起こして見れば、肩にふんわりとした毛布がかけてある。
「すみません。ずっと動かないものですからてっきり眠ってしまわれたのかと」
 赤鬼は決まりが悪そうに微笑んだ。真備はぽかんとした表情でその笑顔を見つめていたが、しばらくして可笑しそうに笑みを漏らす。
「なんだよ。鬼のくせに優しいな」
「何も鬼が悪いものとは限りません。鬼が守り神だってこともあるでしょう?」
 柔和な赤鬼はそう言って立ち上がったのだったが、「あっでも······」と呟くとどこか意地の悪い笑みを浮かべた。
「もし、私が貴方に近づくふりをしてパクッと食べてしまおうと画策している正真正銘の人喰い鬼だったらどうします?」
 真備は不意をつかれたように目を丸くした。随分と悪戯っぽいことを言う。時たま見せる少年のような顔が、やはりどこか人間の面影を見せている気がした。しかし初めこそきょとんとしていたものの、真備は「いや?」と笑みを浮かべて目を伏せる。
「お前になら喰われてもいい」
「へ?」
 今度は仲麻呂が目を丸くする番だった。真備は彼の反応を見て楽しそうに笑う。
「もしお前が人喰い鬼だとして、それに気づかずにまんまと騙されたのは俺だろう? それは俺の落ち度であり、お前の頭脳がおれよりも上だったってことだ。それなら死ぬのに悔いはない」
 仲麻呂は数回目を瞬かせる。予想外の言葉だったのだろう。しばらく丸い目で真備を見つめていたが、一拍おいて口を開けて笑いはじめた。
「面白い方ですねぇやっぱり。その潔さ、好きですよ」
「お前もなかなか面白いけどな」
「鬼が笑っているからですか?」
「それもある」
 二人は顔を見合わせて吹き出した。外の木の枝にとまっていた一羽の小鳥が笑い声に驚いて翼を広げる。小鳥が飛び立った東の空から、白い朝日が差し込み始めていた。
「そんな騙し討ち大会だったら面白いだろうなぁ。冥土へのいい土産話になるだろう」
「ほんとですねぇ。きっと彼岸の高官たちのいい話のネタになるでしょう」
 仲麻呂の声にひときしり笑うと、息をついて目の端を抑える。仲麻呂もどうにか落ち着いてきたようで、文選を書き写した紙を拾い上げた。
「とりあえず、これは片付けていいですか?」
 真備は高楼の床を見渡す。そこには文選を書き写してきた暦の切れ端が点々とばらまかれていた。
「ああ、残念ながら結局覚えられなかったからな」
 真備は床を眺めながらそう言うと、苦笑して肩を竦めようとした。しかしその時、何か頭にチラついた言葉があった気がして「はて」と首を捻った。
 ──そんな騙し討ち大会だったら面白いだろうなぁ。
 それは先程、自分の口から出た言葉。騙し討ち、か。真備が横に目を向けると、そこでは仲麻呂が黙々と文選の写しを拾い集めている。
 騙す、彼らを?  彼らがしようとしているのは、文選の内容を問うて真備の無知を嘲笑うこと。つまり······。
「あいつらは俺が文選の内容を知らないと思っている」
「ん? 何か言いましたか?」
 突然何かを呟いた真備に仲麻呂が首をひねった。しかしそんな声など耳に入っていないのか、真備は顎に手を当てて何やら考え込んでいる。仲麻呂が再び声をかけようとした、その時······。
「そうだ! 騙すんだ!」
 突然立ち上がった真備に、仲麻呂はびくりと肩を震わせた。
「ま、真備さん?」
「そうだそれだよ! 何でもっと早く気づかなかったんだろう!」
 真備はぽかんとしたまま固まっている仲麻呂の方へずんずんと近寄っていき、その手をガシッと掴んだ。それと同時に、仲麻呂が集めていた文選の写しが再び高楼の床に広がった。
「いい事思いついた! これでもう文選の内容なんか覚えなくて済むぞ! あと、この紙は暦の部分を破り捨てて床にばらまいとけ。いいか、床にばらまいた後はそのままでいい」
 真備は目を輝かせると、興奮したように握った仲麻呂の手を振り回す。されるがままに手の力を抜いていた仲麻呂は、ただただ困惑したように真備を見つめて首を捻るのだった。








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