吉備大臣入唐物語

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第一章『文選』

文選 9

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 ちょうど太陽が頭上高く昇りきった頃、人気のない都の外れで、何やら紙を携えた一人の男がギシリギシリと軋んだ音を立てながら高楼のはしごを登っていた。彼は唐の国の現皇帝である李隆基りりゅうき──後の玄宗の使い、つまり勅使であった。
 なんと、真備を退けようと画策していた儒学者達は「真備が唐の国を傾けようと悪だくみをしている」という嘘の情報を流し、まんまと皇帝から真備を辱める許可を賜ったのだ。これで彼らはコソコソと動く必要はなくなり、それに加えて唐に迫る危機を奏上したという名目で株も上がった。皇帝が彼らの嘘に気づいていないため彼らからすれば万々歳なわけだ。
 そんなこんなで皇帝の後ろ盾を得た儒学者達は、文選の一部をしたためた紙を使者に持たせて彼を真備の元へと送った。それがここまでの経緯である。

 使者に選ばれた男は高楼のハシゴをのぼりきると、渡された鍵を使って重々しい扉を開く。扉は軋んだ音を立てながらゆっくりと開いていき、隙間から明るい光を高楼の中へと招き入れた。その光の先へと目を向ければ、しゃんとした姿勢で頭を垂れている一人の青年がいる。使者は彼がまだ生きていることに一瞬驚きを見せるも、すぐさま一つの咳払いをして姿勢を正した。
「真備であるな」
「はい」
「畏れ多くも、主上が直々になんじの力を試したいと申された」
 その言葉に真備は一瞬身体を固める。皇帝陛下?  そんな話は聞いていない。真備は頭を下げる仕草をして下を向くと、彼にバレないように困惑の表情を浮かべる。しかし動揺を少しは感じ取ったのか、使者は優越に浸った顔で真備を見下ろした。
「そこで、主上はこう仰せられた。この国に伝わる難読の書をその者に読ませてみよ、と。主上直々のお頼みである。まさか無下にするなどということはなかろうな?」
 まさか皇帝陛下まで出てくるとは思っていなかったのか、真備は咄嗟に言葉が出なくなった。これではますます日本の名に傷がつく可能性が増えるではないか。
 ピリッとした空気の中、真備はそっと目を瞑った。皇帝陛下が関わってきた分、下手な動きは出来ない。とりあえずここは彼らに従おうと唐式に礼をした。
「もちろん。畏れ多くはありますが、その試練、受けさせて頂きます」
 使者は真備の受け答えに軽く片眉をあげ、懐から数枚の紙を取り出した。案外素直なやつだとでも思ったのだろう。
「では早速読んでもらおうか」
 真備の手へと移った紙束が、手の中でカサリと音を立てた。「これは?」と首をひねった真備を見て、使者は面白そうに言い放つ。
「これは我が国に古くから伝わる難読の書だ。号を『文選』という。これを読み、ここに書かれている内容を今この場で述べてみよ」
 使者は「どうだ」と言わんばかりに真備を見下ろした。唐の学者でもなかなか読むのが難しい代物である。相当自信があったのだろう。紙を見たまま動かない真備を見て、勝ったと言わんばかりに微笑みを浮かべていた。
 しかしどうやら彼は気がつかなかったようだ。それは、それほどの矜恃が彼ら唐の役人にあったからであろうか。日本が全てにおいて遅れている国だと信じ込んでいたからであろうか。
 彼は気づかなかったのだ。真備が人知れず零していた笑みに。
「ほう、文選?」
 突然呟いた真備に、使者は「なんだ」と言いたげな目を向けた。しかしそんなことなど気にしていないように、真備は微笑んだまま言葉を続ける。
「奇遇ですなぁ。つい先程まで、私はその『文選』を読んでいたのです」
「はぁ?」
 使者は意味が分からないといった風に眉を寄せる。それを見た真備は、微笑みを口元に讃えたまま一枚の紙を差し出した。
「貴方がおっしゃるのはこの『文選』のことでございましょうか?」
 その言葉を聞いた瞬間、使者は真備の手から紙を奪い取るとまじまじと目を通した。それを読み進めるごとに、彼の額に冷や汗が流れてゆくのがよくみてとれた。
 彼は読み終わったそれを力ない様子で床に放り投げると、わなわなと口を震わせながら真備に問う。
「これは······他にもあるのか?」
「ええ沢山ありますよ。ほら、ここに」
 真備はさっと扉の前から身を引いて、高楼の奥を腕で示してみせる。そこには文選の内容がしたためられた紙が散らばっていた。それも何十枚と大量に。
「これは確かに······おい、『文選』は日本にも出回っているのか?」
駆け込んできた使者が目を見開く。その挙動に内心ほくそ笑みながら、真備は「ええ」と首を傾げてみせた。
「以前の遣唐使が日本にもたらし、複製されて学びの手本となっております。皆、慣用句として唱えておりますよ。もちろん私も日本で学ばせて頂きました」
 飄々と答える真備を他所に、使者は「なんという事だ」と額に手を当てる。
「全く同じだ、この唐の国にあるものと」
「おや、そうなんですか」
 今にも膝から崩れ落ちそうな使者を横目に、あっけらかんと応じてやる。そして突然何かを思いついたかのような顔をすると、真備は面白そうに瞳を細めてみせた。
「ならば比べてみましょう。私が知っている文選と、この唐の国にあるという文選を」
 使者は虚ろげな目で真備を見上げた。その瞳を見て真備は確信する。もう勝敗はついたと。
 しかしせっかくの勝利だ。真備としても何か報酬が欲しいところである。だからこんな提案をしたのだった。唐にある文選と日本の文選を見比べてみよう、と······。
 真備の話が真っ赤な嘘であることなど露知らず、勅使は半ば放心したように床に散らばる紙切れを眺めていた。真備はその惨状を見てふっと口の端を持ち上げる。そして使者を畳み掛けるかの如く楽しそうに口を開いたのだった。
「二つを見比べてみたいので、唐の国に伝わる本物の『文選』を持ってきて頂けませんか? 三日後までには全てお返し致しましょう」


 時はもう夕暮れ近く。使者は一度高楼を出ていくと、『文選』を三十巻あまり持って再び高楼へと現れた。礼を述べる真備を忌々しそうに睨みつけると、ついでに粗末な食事を押し付けてそそくさと去っていってしまう。
 真備は彼の背中が遠くに消えるのを見届けると、ふふっと笑みを漏らす。そして目の端を指で抑えながら仲麻呂の名を呼んだ。すると、高楼の裏手から一人の赤鬼が姿を現した。真備は彼を見つけるや否や、駆け寄って広い肩口を掴む。
「おい見たか仲麻呂! あいつらまんまと引っかかりやがったぞ!」
「ええ見ましたとも! とてもかっこよかったですよ真備さん! あそこまで上手くいくなんて······流石としか言えません!」
 赤鬼も喜びの言葉をかけたくてうずうずしていたのか、真備に向かって満面の笑みを浮かべる。それは鬼の顔だとは思えないほど、心から嬉しそうな表情であった。
「でさ、こうやって本物の文選も手に入れたわけだけど······」
 そう切り出した真備に、仲麻呂は「そうですそうです!」と詰め寄る。どうやら彼から見ても予期せぬ提案だったようだ。
「それが気になっていたのです。何故わざわざ本物を持ってこさせたのですか?」
 そんな問いに不敵な笑みを漏らすと、真備は自らの顔の前に人差し指を立ててみせる。
「せっかくだからこれを書き写して日本に持って帰ってやろうと思ってさ。唐の書物を集めるのも俺がこの国に来た目的の一つなんだ。こんな貴重な資料滅多に見れないぞ!」
 仲麻呂は一瞬驚きの表情を見せたが、直ぐに大口を開けて愉快そうに腹を抱えた。
「あははっ、まーた書き写すんですか? 真備さんは筆がお好きですねぇ」
「もちろん! 筆は俺の親友さ。ちゃんとお前にも筆と友達になってもらうぞ!」
 そう言うと真備は仲麻呂の肩を軽く叩いた。仲麻呂も微笑ましそうな顔をすると、「やっぱり私も書き写す人員なんですか」と早速筆を手にとって好奇心溢れる瞳を向けてくる。

 その日の夜、二人はひときしり笑い合うとほっとした表情で床についた。前日は徹夜をしていたせいか、夢を見る間もないほどの深い眠りについている。
 そして翌日には、再び必死に筆を握る二人の姿が見てとれたのであった。

 こうして、『文選』という第一の試練は真備の見事な頓智によって無事に乗り切ることができた。
 しかし儒学者達もこれで諦めた訳ではない。二人が文選を書き写すのに夢中になっている間にも、彼らは彼らなりに策をねり、新たな試練を持ちかけようとしていたのであった。











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