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三十一話 長い一日
しおりを挟む秋も深まりを見せはじめた頃、疲弊した重治の体も、ようやく本調子に戻りつつあった。
長く寝込んでしまったゆえ、体力回復のためしたのリハビリに時間を要してしまっていた。
重治自身が行動を起こせないからといって、何もせずにいた訳では決してない。
情報収集や今後の歴史上に発生する事件に対する分析に対策、出来得る限りの事を伊蔵を中心に『竹中重治一家』全員が取り組んでいったのである。
本能寺の変が起こるまで、あと八年。
それまでに起こる、最も有名な出来事が、来年の春先、四月に起こる長篠の合戦である。
長篠の合戦において、敵対する武田家の内情と言えば、武田信玄亡きあと家督を息子である勝頼が継いでいた。
しかし、『人は石垣』で有名な信玄の作り上げた武田家臣団を継承するには、力量が不足していた。
そんななか、信玄の遺言的命令、『信長を滅せよ』が、勝頼の力量如何に関わらず、武田家重臣たちの思惑によって実行にうつされる。
そしてその最初のターゲットになるのが、 織田家同盟国である徳川家、長篠城であった。
長島一向一揆の結末は、史実のとおり悲惨な結果をむかえ、重治には変える事が出来なかった。
しかもその真実、それが信長の最も信の厚い、徳川家康の手による工作であることを知った。
重治は、長篠の合戦を半年後に控え、どう行動を起こすか、心底、思い悩んでいた。
それは、信長に家康の裏切りの真実を告げることの出来ない重治が抱えた、最大のジレンマが起因していた。
信長に重治自身の口で説明すれば、間違いなく信長は重治の言うことを信じるだろう。
その事を重治は、重々、承知していた。
もし、信長が重治から真実を聞いたとして、どのような行動に出るのであろうか。
今の織田家の現状と言えば、当面の敵は、本願寺のみ、それも先の見えた戦いである。
対して、徳川家は、自家よりも遥かに強大な敵、武田家が当面の敵として戦いが始まっていた。
もし信長が真実を知れば、当然にして怒りを買う事になり、徳川家に生き残る術は有りはしないであろう。
徳川家の滅亡は、史実を歪めたくない重治にとっても、本意とするところではなかったのである。
長い間、考え抜いた末、重治が出した答えは、信長に何も伝えない事であった。
重治の出した決断。その事が、信長の将来にプラスと出るのか、はたまたマイナスとなるのか。重治は、どのような結果に繋がっていこうとも、最後まで信長の為に力を尽くしていく決意を固めたのであった。
そんな今後の対策の検討を繰り返す日々を送っていた重治に、良く晴れたある朝、体調の回復を喜ぶ信長からの文が届けられたのである。
重治は、送られてきた文を恭しく、使いの者から受け取ると、その場でその文を広げ、読み始めた。
信長の使いの去ったあと、玄関先に腰を降ろした重治は、読み辛い毛筆の崩し文字の本文を解読するように、ゆっくりと読み進めていった。
何とか理解出来た文の前半の内容は、重治の体を気づかったものが中心であった。
重治は、体調が回復してから、わざわざ文を送る信長の気遣いに、自然、心が熱くなるのを感じていた。
その時であった。
『ヒィヒイーン』
重治の屋敷の門の外、馬の走り来た蹄の音と嘶きが聞こえてきた。
この屋敷の中で、現在、最もその場所の近くにいるのは重治である。自らが門の外の様子を確認しに行くべく、読みかけの文をその場に置いた重治は、急ぎ外へと向かう。
外に出た重治は、驚いた。
なんとそこには、今まで読んでいた文の主、織田信長が、馬上からこちらに微笑みかけていたのである。
「準備は、できたか!?」
「……??」
信長の言った言葉の意味が理解不能な重治には、どう答えて良いものか、ただ黙っている事しか、返答を思いつくことはなかった。
「文は、読んでいないのか!?」
「……、はぁ、まだ‥‥半分ほどしか……」
「……ふむ。‥‥まあ、よい。出かけるぞ、重治。早よう、支度せよ!!」
信長の突然の来訪だけでパニック状態の重治には、なにがなんだか、ただ信長の命令をされるがままに、準備をこなしていく。
どうやら、信長の文の中には、今日これから行うつもりの内容が、書き記されていたようなのである。
準備をこなしていくと記しはしたが、こなしていくのは、重治本人だけではない。
屋敷の中にいた伊蔵と末松ではあったが、外の様子に気づいて重治よりもやや遅れはしたものの、気づけば重治のそばに控えていた。
当然、信長の話しから、重治のための準備となれば、屋敷での下働きをソツなくこなすこの二人がこなす事になる。
伊蔵と末松は、大急ぎでの準備をするために、命令よりも早い行動を始めていた。
伊蔵は、重治から信長の文を受け取ると、素早く目を通し、末松へと指示を飛ばす。
重治が準備を整える間も信長は、馬から降りることはなかった。
まるで一分一秒の時間さえ惜しく、準備を急かせているようにも感じさせるようである。
信長の指示通りの準備が整った重治は、伊蔵が馬房から連れ出した愛馬を眺めていた。
『もしかして遠出?』
厭な予感。
初心者でさえ容易に乗馬できる、信長から褒美として与えられた名馬である。しかし、どんな名馬とて乗り手が苦手であれば名馬となりはしない。
重治は、乗馬は得意ではない。苦手克服の努力は、ずっと続けている。しかし軍略や剣術を身につけるのとは訳が違った。
「‥‥うむ。準備は出来たようじやの。では、参るぞ重治」
愉しげに重治を見つめた信長は、言うが早いか、重治の方を向けていて愛馬の頭をぐるりと方向転換させた。
「えっ!?あっ、はいぃ!!」
信長は、愛馬をゆっくりと歩ませ始めていた。
それをみた重治は、それに遅れじと慌てて、いつも訓練に付き合ってくれる愛馬に飛び乗った?。
「頼むぞ、疾風」
しかし、実際のところは、そんなに格好良く飛び乗れたりしない。伊蔵にお尻を押し上げてもらい、おっかなびっくりで、何とか馬にしがみついたのが真実であったりする。
重治にとって、自分よりも大きな動物、馬は天敵のようなもので、どんなに練習をしても上手く乗りこなせない。
そんな重治の状況を知って、信長が贈った名馬が疾風という名前の馬であった。
疾風は、重治が指示を出さなくても歩き出した。
重治は、疾風の手綱をしっかりと握り、両足に力を入れて振り落とされないようにしがみつくのが精一杯だった。
「重治、もっと肩の力を抜かんか」
「‥‥は、はぁ」
重治には、声をかける信長の方を見る余裕すらもなく、生返事を返すのがやっとであった。
信長と重治の乗る二頭の馬と、その後に続く、自らの足で駆ける伊蔵は、井の口の町を通り抜け、大垣の城を右手に見ながら、更に走り続けた。
重治にとっては、初めての遠乗りであった。
最初は、おっかなびっくりの様にならない乗り方も、さすがにこれだけの長い距離を続けて走れば、いくら天敵の馬とは言えど、それなりの乗りこなしになってくる。
しかし、実のところ、流石と言えるのは、二頭の馬に離されることなく、休みもなしに付いて来る、伊蔵なのであるのだが……。
「重治、なかなか様に、なってきたではないか!?」
「まぁ、それなりには‥‥」
この頃になると、重治の会話にも、それなりの余裕がみられ、ようやく周囲の景色を見る余裕さえ持てるようになっていた。
右手には、光の反射を受け輝く琵琶湖の湖面を遠目に見ながら、暫く走って、やっとのことで、信長の当初の目的地である場所に到着したようであった。
その目的の場所は、到着前の、かなり離れた所からでも、一種異様な独特の姿を確認しる事ができていた。
馬を降りた信長と重治は、出迎えの者に馬の手綱を手渡し、その工事半ばの城の奥へと、どんどんと入っていった。
その城の最深部となる場所には、これまでこの国で造られた、どの城にも見ることの出来ない、何層にも重ねて造られた巨大な楼閣、空に向かってそびえ立つ、天守閣が造られていた。
城の重要な機能を果たす本丸部分に、この様な巨大な天守閣と言うものが造られ始めるきっかけになったのが、この建造中の城、安土城である。
元々、当時の城、戦の為の城と言うものの本丸自体に特別な意味合いがあったわけではない。
それを絢爛豪華な、幾重にも重なる特異な姿を権力の象徴として、信長が城の中心に据え造らせたのであった。
織田信長は、琵琶湖を中心とし水路を利用して、北は日本海から、南は京の都、摂津、近畿全域を結び、領土の繁栄を考えていた。
そして、その領土の中心の地を治めるための城が安土城であった。
「これは、お館様。ようこそ、お越し下されました」
信長と重治を恭しく出迎えたのは、この城の普請の責任者、丹羽長秀である。
「重治も、よくきた‥‥」
「……」
含み笑いの見え隠れする長秀は、重治に複雑な表情を見せた。
重治は、長秀の複雑な表情の裏に、自分の馬の遠乗りの苦労を見透かされている事を強く感じて、素直に言葉が返せなかった。
「大変であったろぉ……」
「……」
どうしても長秀の笑顔が、ニヤリと嫌みにしか見えない重治であった。
重治の乗馬苦手は、織田家の中でも有名で、そのことが、家臣のものから決して軍神としてからではなく、極、普通に親しみをもたれる要因の一つにもなっていた。
今、重治たちの居る城、安土城は、本能寺の変の時に焼け落ちて現存しておらず、未完成とは言え、歴史マニアでもある重治にとって感慨はひとしおであった。
「見事な、天守閣ですね‥‥」
「てんしゅかく?」
長秀は、重治に聞き返した。
そう、これまで造られてきた城に、天守閣などと言うものは存在しない。
したがって、天守閣という言葉さえ、重治が発するまで、この時代には存在しない言葉だったのである。
「天守閣‥‥、天守閣。うむ、良き、呼び名じゃ。重治、天晴れじゃ!」
信長は、権力誇示の象徴として、これまでとは全く違う城造りを長秀に指示して本丸を建造させていた。
そんな中での、重治のうっかりによるベストチョイスな命名が、信長の耳に留まったのである。
歌舞伎ものとまで言われた信長が、この優美なる新しい名前を採用しないほうが不思議なくらいであった。
こうして安土城の本丸部にある大楼を天守閣と命名。外観そして名前ともに、それまでにはない革新的な城がこの三年後に落成されることとなる。
完成までに七年の歳月をかけた安土城は、これまでの、戦の機能重視された城とは違い、絢爛豪華で見るもの全てを唸らせるほどの優美なものであった。
「重治、“天守閣”に登るぞ!」
信長は天守閣と言うネーミングが余程気に入ったのか、感慨でぼんやりとしてしまっていた重治を呼びかけるときにも、とても満足げであった。
信長と重治の二人は、長秀の案内で、天守閣の中へと案内された。
未だ、未完成ゆえ内部の工事も終えてはいない。しかし、内部吹き抜けの構造は、建築など全くの素人の重治でさえ、その凄さだけは肌で感じ取る事ができた。
重治は、最上階に登りついた時、思わず感嘆のため息を漏らしていた。
「はあー。凄い‥‥」
重治の眼下には、琵琶湖の湖面がきらきらと宝石のように輝き続けている。
遠く対岸さえ望むことのできる景色は、現代に架かっている琵琶湖大橋のような無粋な人工建造物など一切観られない。
今、城の周りには、この城の普請のために集められた職人たちの家が存在するだけであるが、いずれこの城が完成すれば、日本一の繁栄した城下町が現れる事になるのだ。
重治は、信長が側にいる事も忘れ、いろいろな事を考えながら、天守閣最上階から展望できる、この景色を楽しんでいた。
「……どうじゃ、なかなかの物であろう」
「あっ、は、はい。素晴らしい眺めです」
突然の信長の言葉に、重治は驚くとともに、どこか異世界へ迷い込んだ気分の状態から、現実へと一気に引き戻された。
織田家に現在は立ちふさがる当面の敵はいない。
強いてあげるならば、摂津の本願寺に、甲斐の武田の二つである。
本願寺に関しては、雑賀衆を切り離すことと、織田家への包囲網の無くなった今の状況では、苦もなく屈伏させることも可能だと思われた。
そして、武田家であるが、信玄の亡くなった今、織田家との力の差は歴然としていた。
翌年の春には、徳川家の領土である長篠城を巡って、戦が起こることになる。
重治は、影なる敵となる徳川家康に、もし、信長が力を貸さなければ‥‥。長篠城への後詰めを出さなければ‥‥。そんな、もしを本気で考えていた。
しかし、いつも答えは堂々巡りであり、歴史を変えることは、未来を変えることに繋がる。最後には必ず、そこで行き詰まるのであった。
「どうした、重治?悩み事か!?」
「‥‥い、いえ。何でもありません……」
重治は、信長に心配をかけまいと精一杯の笑顔をこしらえた。
重治に問いかけた信長の目は、とても優しかった。
重治には、その優しい信長に、どうしても悲しい思いをさせる気には、ならなかったのである。
『家康のことは、自分が何とかしよう』
そして、それにも増しての問題がある。未だに織田家の内部に蠢く、裏切り者の正体がはっきりとはしない。
本能寺の変まで、あと八年と少し。何ができるか、何をしなければならぬのか。重治は、全力で信長をサポートしようと考え決意するのであった。
「どうした!?帰りが、そんなに憂鬱か?なんなら、わしの後ろに乗せてやってもかまわぬぞ」
信長は、ニヤリと笑った。
重治は、信長の言葉に、影の敵の更なる上をいく敵が、今、目の前に現実に迫っていることを思い知らされる。
重治の苦手とする、岐阜城までの帰還のための半日がかりの遠乗りが待っているのである。
その日の夜は、信長の言葉通りの遠乗りを取り止め、長秀の配慮によって、一夜をこの地で過ごす事になる。
重治にとって、長秀の誘いは天の助けであった。
馬に揺られて、膝は、笑い。足は、がに股になったまま、未だに戻っていないままであった。
その夜は、長秀の安土城、建設普請の仮屋敷にて宿泊。重治は、ゆっくりする時間を得ることになった。
「あたったたたた。い、伊蔵、もう少し優しく‥‥」
まだまだ、お酒が飲めるなどとは人に言えないレベルの重治は、信長と長秀との晩酌の付き合いに、早々に挨拶を済ませた後、切り上げ、あてがわれた客間にて、先に就寝のつもりであった。
伊蔵のお節介さえなければであった。
「いたたたぁ~。痛い、痛いってばぁ」
「‥‥我慢してください。優しくやっていては、効果ありませんから‥‥」
伊蔵は、重治の背中に馬乗りになり、重治を押さえつけた。
伊蔵の行為は、重治が苦痛によって悲鳴をあげたとしても、それは決してお節介などではなく、今で言うマッサージ、指圧などの忍びの複合技である。
伊蔵のグッと力を入れた指が止まった。
それまで、庭先で風情を感じさせるよう美しい音色を聴かせていた虫の音が止まったのとほぼ同時の事であった。
重治の背中の上から伊蔵が飛び退いた瞬間、重治もまた、すぐさま立ち上がっていた。
「伊蔵、行くぞ!!」
床の間に置かれた愛刀を掴んだ重治は、勢いよく障子を開け放ち、庭先へと飛び出した。
「何か、ようかな‥‥」
「…………」
重治は、何も見えない暗闇に向かって叫んだ。
月が雲間に隠れて出来た真の暗闇の中から、黒い影が一つ、また一つと現れ出でた。
雲間から、ときより差し込む月明かりが照らし出していたのは、全身黒ずくめの三人の忍びであった。
こちらの予想外の早い発見に、強烈な殺気を放つ所をみると、情報収集などが目的でなく、始めから暗殺が目的の刺客に、まず間違いはなかった。
素早く、中庭に降り立った重治は、伊蔵よりも早く、鞘から刀を抜いていた。
重治は、刀を抜き去った鞘を伊蔵に向かい、放り投げたのである。
「伊蔵は、そこで見ていてくれ」
いきなり、自分にむかって投げられた鞘を伊蔵は、難なく受け取った。
当然、その鞘を受け取るという動作の分、重治に出遅れを取った伊蔵は、渋々ながらも、我が主の闘いを見守る事になった。
重治の本音は、伊蔵に、これ以上、仲間だったかも知れない、伊賀の忍の者を斬らせたくなかったのである。
もちろん、自分が人を斬りたい訳でなく、斬る事に慣れた訳でもない。
昨今の長島での戦い以降、重治は、以前にも増して、人の命の重さについて考えるようになっていた。
「さあ、誰から相手をしようか? それとも得意の連携ならば、纏めて相手しようか?」
重治は、大きく一歩、前に踏み出すと、相手の刺客との間合いを一気に詰めていった。
間合いを詰められた三人の刺客の忍びは、同時に動いた。
重治と伊蔵の実力は、当然、刺客たちには知られている。
暗殺の命を受けて来た、忍びの者が逃げ出す訳はなく、隠密利に事を運べなかった忍びには、玉砕覚悟の行動しか残されていなかった。
『キィン』
『ガギィーン』
重治は、三人の忍びの変則的な動きに惑わされることなく、目くらましに投げつけられた手裏剣を難なく弾いて、斬りつけてくる忍刀を軽々と受けとめた。
いつの間にかに雲が切れ、現れた月のあかりに照らし出された重治は、死闘による命のやり取りとはとても思えない、その流れるような一連の動きは、優雅に舞を舞う踊り手にさえ見えていた。
「ほう、これはまた‥‥。なかなか、よい酒の肴じゃの……」
騒ぎを聞きつけたのか気がついたのか、声のするその場所には、信長と長秀の二人が姿を見せていた。
『キィン』
「お館様。危のうぉ御座います」
隙を見て投げつけられた手裏剣を 信長の前に素早く飛び出した伊蔵は、刀を抜き見事に叩き落とした。
それをすぐ目の前で見て、更に信長はご機嫌になる。
「長秀。ここに、酒を持て!!」
突然の出来事(刺客の侵入)と信長の酔狂による命令を受けて、言葉をそのままきいて良いものやら悪いやらで、長秀は右往左往とするばかりである。
その間にも、重治は、三人の刺客と死闘を続けていた。
力の差は、歴然としているにも関わらず、重治は相手を倒せずにいた。
出来うることならば、刺客として現れたこの忍びの者たちさえ、命を救いたいと考えていたのである。
刺客からの攻撃を華麗にさばく重治の動きは、益々冴えを見せ始める。
三人の刺客の攻撃は、重治が主役で踊る舞い手の脇役にさえ見えてくる。
「ほぉ、見事なもんですなぁ……」
長秀が、右往左往しながらに出した結果は、部屋から運んだ徳利と杯。
長秀は、部屋にまでとりに戻った酒で信長に杓を始めた。
「‥‥美味い。こうして飲む酒もまた一興」
重治の気持ちも知らずに、真に呑気なものである。
そんな信長の晩酌の時がどれくらい流れたであろうか。
どれだけの攻撃を仕掛けようと重治は、難なくそれをかわした。
何度も何度も刀を交えているうちに、重治の気持ちが相手に伝わっていったのであろうか。
突然に、一人の忍びが攻撃を止め刀を納めたのである。
その思いもかけぬ行動は、残りの二人の忍びにすれば、寝耳に水に馬耳東風、それは驚いたなどと表現出来ないほどの事であった。
忍びの降伏は、死を意味しており、主の命令に背く事などあってはならない事である。
それまで重治を攻撃していた二人の動きも戸惑いからか、止まった。
相手を倒す事が目的でない重治から、攻撃を仕掛ける事はない。
「ふうぅ‥‥」
重治は、ため息ともつかぬ息を大きく吐き出した。
そんな重治の前に、それまで振り回していた忍刀を鞘に納めた三人の刺客の忍びが、重治の前にひれ伏した。
「天晴れ、見事じゃ。よき趣向じゃった!!!」
そう言うと、それまで縁側に座り込み、のんびりと酒を飲みながら重治を見ていた信長が、二度三度手を叩いて立ち上がった。
そうして信長は、何も喋ることなく、長秀を引き連れその場から消えていったのである。
重治の思いのこもった剣ざばきを見て、信長には暗殺を咎める気はなかった。
何も語らずに消えた信長の行為は、『すべて、重治の思いの通りにすればよし』と言うことなのであろうと考えられた。
重治は、三人の命を助けたいが為に、すぐに決着のつく闘いを長々と続けていたのであった。
重治は、自分の思惑通りの結果として、目前にひれ伏した相手を見下ろしていた。
しかしである。いざ、相手が降参となってからは、その相手にかける言葉が思いつかない。
闘いの時の生き生きとした表情とは変わり、困り果てた顔を重治は伊蔵へと向けた。
重治の困り顔をうけて、伊蔵は黙って庭に降り立ち、重治に近づいた。
伊蔵は、重治から預かった刀の鞘を重治に渡すと、三人の忍び達に語り始めた。
「おまえたちは、今、ここで、私の手により返り討ちにあって死んだ‥‥」
その伊蔵の言葉は、とてもゆっくりで、とても優しかった。
ひれ伏していた三人は、優しくかけられた伊蔵の言葉に、それまで布で被われていた顔の布を取り去り、露わにした。
「伊蔵様。伊賀の里を‥‥、伊賀をどうかお願い致します‥‥」
重治には、その忍びの言葉が、悲痛な叫びに聞こえていた。
伊蔵は、黙って頷いた。
「伊蔵。これでもう、伊賀を放っておく事は出来ないね‥‥」
「はい。……重治様。どうか、お力をお貸しください」
そう、重治に頭を下げて頼んだ伊蔵は、ひれ伏し続ける忍びに近づき、その背中に優しく手を置いた。
「‥‥里の事は、心配いたすな。わしと重治様とで、必ず何とかする」
長島での出来事に続いての今夜の襲撃は、重治に新たな決意をさせる事になる。
この時の重治の決意は、この年より五年のあと、伊賀の里で起こる、内乱へと結びつく起因となっていく。
『カコケッコー』
どこか遠くから、鶏の鳴く声が聞こえてきた。
いつのまにか、空は白み始め、夜明けを迎えようとしていた。
重治の長い長い一日は、こうして幕を閉じる。って、そんな訳には簡単にいかない。
安土から岐阜まで、重治にとっての地獄の遠乗りが終わるまでは……。
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