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四十四話 御館の乱(その二)
しおりを挟む「……す、すまんな。…………」
勝頼は、たった一言を 申し訳なさそうに呟いたあと、黙り込んでしまったのである。
重治は、勝頼に頭を上げる事を許されてはいない。
しかし、どう考えても現在、その許しをくれる人物の勝頼は、すぐ目の前に座っていて、しかも自分に向かって頭さえ下げているようにも感じ取れる。
重治は、長らくの沈黙をおいて、恐る恐るも、ゆっくりゆっくりと頭を上げていった。
重治の目に飛び込んだ状況。それは、なんと勝頼が、自分のすぐ前で、鏡写しのように平伏する姿であった。
『な、な、なんなんだぁ??』
驚きのあまり、重治は、一度は上げかけた頭を 更に深く板の間にこすりつけた。
それは、今から、およそ一年くらい前に遡っての話しである。
長篠合戦で敗れ、国は疲弊し、家臣の心さえ離れ、当主でありながら孤立をどんどんと強めていった勝頼に、偉大なる父、信玄が、終生の好敵手(ライバル)とした、上杉謙信から勝頼に、助け船が贈られた時の話しである。
もちろん、それは謙信が自ら申し込んだ訳ではない。
この時、謙信が甲斐、信濃の国を奪うつもりが少しでもあったなら、それは、簡単に実現出来た事であったろう。
しかし、現実には、その時の武田からの使者の説得に応じて、勝頼の面子を潰さぬように、上杉家と武田家対等の同盟関係を謙信は受け入れたのである。
そうして、取り纏められた同盟の結ばれたその日、異例ちゅう異例として誰一人、邪魔者を介さずに、謙信、勝頼の当主、二人だけの直接会談が持たれたのである。
「此度の同盟の申し込み、心から感謝いたしております」
この時の勝頼は、真田昌幸が、武田家生き残りの為、上杉家との同盟関係を築くために、命をかけて動いていてくれていた事を知らない。
「……勝頼殿は、良い家臣を お持ちじゃ‥‥」
「……は、はあ!?」
「‥‥勝頼殿は、信頼というものを どう、お考えじゃ?」
「…………」
その時、勝頼は、謙信の言葉の真意を計りかねていた。
「信頼を裏切られるのを恐れて、人を信頼しないのであれば、決して、人から信頼される事など、ありはしない」
「………………」
「‥‥もしも、信頼を裏切られるような事があったなら、それは、自分が、相手から信頼に足る人間では、なかったというだけじゃ‥‥」
何とも応えようのない謙信の話しは、勝頼に聞かせるというよりも、自分自身に言い聞かせるように、淡々と続けられていった。
「……人の信頼を得ようとするならば、それに足る人となるように己を磨き、相手に誠実に真摯に向き合っていかねばならない……」
そこで、何かを思い出すかのように、謙信の長い話しは止まった。
それまで、ずっと何かを想い、中空で定まる事のなかった謙信の視線が、再び、勝頼へと戻ってきた。
「‥‥勝頼殿に、ぜひ、会わせてみたかったのぉ……」
謙信は、勝頼に寂しげに笑ってみせた。
「……どなたの事でしょうか、その御方は‥‥」
「……その者は、わしの命の恩人でのぉ。先ほどから申しておる『信頼』と言う言葉が、歩いておるような人物じゃった‥‥」
謙信は、とても懐かしそうに、うっすらと笑みを漏らしながら語った。
「……じゃった?とは………」
勝頼の言葉に、謙信の表情が一瞬、曇った。
「‥‥ふっ、生きていてくれたならば‥‥、わしのあとを、‥‥越後の国を継がせたかった……」
勝頼は、この時の謙信の一瞬見せた、寂しげ表情のせいで、その御方。その人物の名前を 謙信の口から直接聞く事は、かなわなかった。
勝頼は、同盟の会談をすべて終え、越後を去るその日、どうしてもその人物が気になり、忙しい最中にも関わらず、謙信の側近である直江兼続に会いに行ったのであった。
「‥‥すまぬ。重治の名前は、肝に銘じていた筈であったのに……」
その時間は、まるで止まってしまったのないかと思えるくらい、ゆっくりと流れているように感じられた。
重治が再び、頭を上げた時にもまだ、勝頼は、やはり、うなだれたように頭を下げているままであった。
「‥‥あのぉ、勝頼様。どういうことなのでしょうか……」
重治は、恐る恐るも勝頼に、今の状況をおうかがいする事を決意した。
「‥‥わしは、謙信様から教えられた大事な御言葉を‥‥家臣の心が離れた事で自暴自棄になり、全て忘れてしまっておった‥‥」
「………………」
勝頼と謙信とのやりとりを知らない重治に、その言葉の意味が解るはずもなく、ただ、勝頼の次の言葉を待つしかなかった。
「‥‥謙信様が、亡くなられた知らせを聞いて‥‥、あの時の‥‥あの時の言葉と、あの悲しみの表情が、ハッキリと頭の中に、浮かび上がってきたのじゃ」
「………………」
このあと重治が、勝頼の言葉の真意を全ての状況を掴むまで、かなりの時を有する事になる。
この話しをもし簡単にまとめるとしたならば、謙信は、死してなお、重治のために力を貸し与えてくれたと言えるのではないだろうか。
内部崩壊寸前の武田家を 上杉家との同盟で救ってくれた謙信の最も信頼していた人物、『竹中重治』という名を 勝頼が胸に留めていた。
勝頼は、謙信の死の知らせから、忘れてしまっていた、その名を 同盟の時の出来事すべてを 思い出したのである。
「重治殿。どうか、わしに力を……」
重治は、鬼気迫る険しい表情の勝頼に、にっこりと微笑みかけた。
「はい。‥‥私は、そのつもりで、初めからここに居ますから‥‥」
重治の言葉と表情で、勝頼のそれまでの深刻な表情が一気に和らいだ。
「何が出来るのか‥‥、二人で、いや、昌幸様を交えて、三人で考えていきましょう」
勝頼は、重治の口から出た昌幸の名前にも何も言わず、こくりと頷いた。
勝頼、昌幸と、膝を突き合わせ話しをするなかで、重治は、武田家の抱える他の大名家にはない特殊な事情を知る。
そして、その事情こそが、武田家の屋台骨を揺るがす真の原因と知るのである。
それは、信玄の後継者が、勝頼だったからでも、長篠合戦での大敗が原因でもない。
どちらもその要因の一つではあるが、しかしそれだけが理由で武田家が崩壊寸前に追い込まれた訳ではない。
元々の原因、それは、武田信玄が、領土の拡大をはかるのに用いた方針、方策にあった。
甲斐の国を治めていた武田家が 諏訪国、信濃国と領土を拡大した時、その国を武力のみで平定するのではなく、その地域の豪族に 安全と利権を与え、保証する代わりに、自分の配下として取り込んでいったのである。
それは、一見、とても合理的な手法に思われた。
しかし、領土が拡大していき、今の形にまで広がりを持った時、小さな国の集まり、連邦国家の形態となっていた。
そして、その連邦国家の規模は、元の甲斐の国の数倍となり、カリスマ性を持った信玄と言うつ柱なしには、存在出来ないものとなってしまっていたのである。
信玄亡きあと、一国の主の力しかない勝頼に、すべての豪族、配下を統べていく方法は、なかったのである。
つまり、信玄のカリスマによる統治こそが武田家であり、信玄の存在しない武田家は、大大名を名乗るだけの力を有していなかった事になる。
重治は、詳しい内情を知らされる度に、愕然となった。
勝頼に受け入れられた事から重治は、極秘中の極秘の情報さえ知り得る事が出来たのである。
しかし、重治には、すべての秘密を知り得てもなお、武田家を立て直す術を見つけだすことが出来ない。
この後の歴史の流れと照らし合わせてみても 取っ掛かりさえ見いだせないのである。
重治の大恩人の上杉謙信が亡くなって、はや一ヶ月。重治は、己の無力さを痛感していた。
この時代の人間ではない未来人である重治には、他の人にはない、史実を知っているという強みがあり、自分には不可能はないのではないかと思うほどの自惚れさえ持っていた。
しかし、この一ヶ月の間に、重治が、勝頼のため武田家に出来た事は、何一つない。
何をどうすれば、人の心を動かす事が出来るのか、まったく糸口が見えて来なかったのである。
「ふうぅ……」
重治は、大きなため息をついた。
この頃の重治は、出口の見えない、脱出不可能な迷路にはまりこんだような状況で、ため息をもらすのが癖にさえなりつつあった。
「ふうぅ……」
そんな状況など、まるで知らない信繁は、これまた特にする事なく、体を持て余しつつある末松と二人、一緒にいる機会が多くなっていた。
「……?師匠、どうかしたんですかねぇ??」
「……まぁ、その何だ‥‥、いろいろとな……」
突然の問いかけに末松は、言葉を濁した。
武田信玄亡きあとも、武田家の領地は、変わらず存在している。
つまり、表面上の武田家は、大々名の体裁は保たれたままと言えた。
その事が、武田家自体の屋台骨を揺るがす大きな要因であると理解している家臣の者が、数人でも存在していたならば、重治のため息も癖にはならなかったかも知れない。
領地が変わらず存在している事が、無敵を誇った武田家の力を維持している事には繋がらない。そんな簡単な事すら、武田家の内に在る者たちは、見落としていたのである。
それは、末松の目の前にある信繁さえ、他の家臣達と同様であった。
師匠と慕っていても、悩みの要因の武田家の窮地にまでは、気づいていない。
末松は、あえて重治のため息の真相は語らないつもりであった。
「末松様、そのいろいろ、お教え下さいよぉ……」
武田家の窮地をしらない信繁は、脳天気な笑顔を浮かべ、末松に迫った。
「……いや、だから‥‥その……」
「だから?その?」
末松に信繁は、笑顔で迫った。
『ヤバい』末松は、追い込まれつつある自分をはっきりと感じていた。
知略、剣術で勝負をするならともかく、この信繁のお願いと笑顔にだけは、勝てない末松である。
何といっても、現在、この府中に、信繁といること自体、その証拠と言えた。
信繁に笑顔で、お願いされると、たちどころに、どんな強固な砦も陥落してしまう。
だからといって、真相を告げて、まだまだ少年の信繁の心を患わせたくないのも末松の本音である。
「で、どうなんですか?お教えくださいよぉ」
信繁の必殺猫なで声で、末松は、最後の最後、相撲で言うところの徳俵に足がかかった状態にまで追い込まれていた。
「だから、……!!そ、そう、……いいか……」
それは、末松にすれば、突然ながらの会心の閃きであった。
もちろん、それが元での大騒動に発展する事など、閃いた本人が知る由もない。
とにもかくにも、その場しのぎの窮余の策として末松は、その閃きをさも誠の話しのように、信繁に耳打ちを始めた。
我が主、重治の純情可憐な乙女のような淡い恋心を知らずに‥‥
「……だから‥‥シゲハルサ‥‥ユウ……スキ……」
「ええっ~!」
「しぃっ、声が大きい!」
驚き叫ぶ信繁の口を末松は、慌てて塞いだ。
「スエマツサマ。ソレハマことの事でありますか?」
「しぃっ、コレハ、ゴクヒチュウ ノ ゴクヒダゾ」
末松は、してやったりの気持ちを抑え、気難しそうな表情を信繁に向けた。
「そうですか‥‥重治様が、祐姉をねぇ‥‥」
独り言を呟く信繁の表情は、やたらと、とにかく、ひたすらに嬉しそうである。
末松が、もしこの時の嬉しそうな信繁の表情にさえ気づいていれば、この後の大騒動は、避けられていたかもしれなかった。
こんな重治の周りでのドタバタ劇をよそに、天正六年五月。勝頼のもとへ、越後への出陣の依頼、いや、依頼と言うよりもその書状の文言は、拒否の有無さえ言わさぬ、絶対的命令でさえあった。
その要請の相手とは、上杉景虎。政略により北条家から人質として、上杉家に差し出された景虎を謙信が養子にしたという人物である。
北条氏康の子、景虎からの依頼を 北条家と同盟を結ぶ武田家当主、勝頼には、拒絶できるような状況はなかったのである。
越後の国では、絶対的カリスマを持った謙信が急死し、それまでは円満であるように見えていた上杉家を 景虎と景勝、二人の謙信の義息子が、二分する相続争いが勃発していたのである。
その越後を二分する戦いを『お館の乱』といい、その戦いは、序盤から景虎側優位で進められ、勝頼の介入によって、ますます春日山城に立て籠もった景勝には、不利な状況になろうとしていた。
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