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五十一話 信康処刑(その六)
しおりを挟むその時、決して才蔵は油断した訳ではない。
しかし、それまで笑みさえ浮かべていたこの部屋の主、信康の態度が一変したのである。
背にある床の間にある脇指を取り寄せると、才蔵の存在を察知したかのように信康は、脇指の柄に手をのせ身構えた。
『‥‥‥‥何故だ!?』
才蔵は、背中にひやりと冷たい汗が流れるのを感じた。
身構えたその信康の様子からは、明らかに才蔵の存在を意識しているのが伺える。
全ての気配を消していた筈の才蔵は、信康から放たれる強い殺気に、気づけば忍刀の柄を握り締めていたのである。
強い殺気を向けていた信康は、相手に反応がないことに詰まらなそうな表情を浮かべると、構えた姿勢を崩し、ゆっくりと腰を下ろすと、手に持った脇差しを床に置いた。
「‥‥どうじゃな、一つ、酒でも……」
信康にしてみれば、ほんの晩酌の肴程度の斬り合いなのかも知れない。
信康という人間は、気配を消した相手の技量を感じとりながらも命のやり取りを楽しめる根っからの武士なのである。
「……」
酒を注いだ杯を脇指を置いた代わりに持った信康は、一気に飲み干し、空になったその杯を才蔵がいるであろう方へと差し出した。
突然に向けられた言葉に杯。
才蔵には応えようもない。
まして、自負していた忍びの技量で、完全に気配を断っていたはずの自分を感じとられたショックの動揺が、まだまだ収まりきらないうちの事である。
『殺るか!?……まさか……』
才蔵は、自嘲ににも似た笑みを漏らすと、かけていた刀の柄からじっとりと汗ばんだ手を放した。
才蔵は、覚悟を決めた。
自らを一流と自負する才蔵にとっては、屈辱の白旗の掲揚である。
才蔵は、それまで断っていた気配を解き、信康の前へと姿を見せたのである。
「お前は何処の手……、いや、良い。‥‥何処の者であろうと……ほれ」
信康は、少し思案した様子を見せた後、手に持った杯を才蔵の方へと差し出した。
才蔵は、笑みさえ浮かべ杯を自分に向ける信康を見て、呆れかえってしまっていた。
刺客かもしれない得体の知れない、どこからどうみても、忍びである姿の自分と、差し向かいで酒を酌み交わそうというのである。
才蔵は、あっけらかんとしたそんな信康の様子を目の当たりにして、秀が口にした『若を、信康様を』と言う言葉の意味を強く感じていた。
信康の前に出た才蔵は、腰に差した忍び刀を抜き取ると、平伏の姿勢を取りながら、その忍刀を信康へと差し出した。
もちろん、これは、才蔵の示した敵意の無い証しである。
「……わしを殺めに来たのでないとすると義父殿の使いか……」
信康は、ニヤリと笑うと催促するように杯を上下に揺らした。
信康に存在を知られたからといって、差し出された杯を気安く手に取って、酒を酌み交わすなど出来ようはずがない。
まして才蔵には、命運が風前の灯火となって、尽きようとしているにも関わらず、呑気に杯を差し出す目の前にいる本人、信康救出という、大事が控えているのである。
才蔵は、杯に関しては拒絶する意味を込め、無言で手のひらを信康へと見せた。
「……ふっ」
信康は、身も知らぬ間違うことなき怪しげな忍びに、拒絶され悄げたようにわざとらしく、ため息をついて見せた。
「‥‥で、なにようで参った?」
「……」
信康の表情は、一変した。
それまでの温厚な人懐っこい笑みは消え失せ、殺気さえ醸し出す、出陣を前にした歴戦の戦国武将、徳川信康の本来の顔を才蔵に向けたのである。
「半蔵の手の者か?」
「……」
「武田のものか?」
「……」
「母じゃに頼まれたのか?」
「……」
「では、わしを殺しにきたか?」
「……」
信康は、厳しい表情のまま、矢継ぎ早に才蔵に質問を向けた。
もともと、人見知りが激しく、口下手な才蔵である。
それが、考えも纏まらないうちに、次から次ぎへと矢継ぎ早の質問である。才蔵は、首を横に振って答えとするより術がなかった。
「ふっ……」
らちのあかない才蔵の様子に、質問を諦めた信康は、一つ大きな溜め息を吐いた。
そして、それまでの警戒心を解き、ゆっくりと話し始めた。
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