裏信長記 (少しぐらい歴史に強くたって現実は厳しいんです)

ろくさん

文字の大きさ
86 / 104

五十一話 信康処刑(その六)

しおりを挟む

その時、決して才蔵は油断した訳ではない。

しかし、それまで笑みさえ浮かべていたこの部屋の主、信康の態度が一変したのである。


背にある床の間にある脇指を取り寄せると、才蔵の存在を察知したかのように信康は、脇指の柄に手をのせ身構えた。


『‥‥‥‥何故だ!?』

才蔵は、背中にひやりと冷たい汗が流れるのを感じた。

身構えたその信康の様子からは、明らかに才蔵の存在を意識しているのが伺える。

全ての気配を消していた筈の才蔵は、信康から放たれる強い殺気に、気づけば忍刀の柄を握り締めていたのである。


強い殺気を向けていた信康は、相手に反応がないことに詰まらなそうな表情を浮かべると、構えた姿勢を崩し、ゆっくりと腰を下ろすと、手に持った脇差しを床に置いた。


「‥‥どうじゃな、一つ、酒でも……」


信康にしてみれば、ほんの晩酌の肴程度の斬り合いなのかも知れない。

信康という人間は、気配を消した相手の技量を感じとりながらも命のやり取りを楽しめる根っからの武士なのである。


「……」


酒を注いだ杯を脇指を置いた代わりに持った信康は、一気に飲み干し、空になったその杯を才蔵がいるであろう方へと差し出した。


突然に向けられた言葉に杯。
才蔵には応えようもない。
まして、自負していた忍びの技量で、完全に気配を断っていたはずの自分を感じとられたショックの動揺が、まだまだ収まりきらないうちの事である。


『殺るか!?……まさか……』


才蔵は、自嘲ににも似た笑みを漏らすと、かけていた刀の柄からじっとりと汗ばんだ手を放した。


才蔵は、覚悟を決めた。

自らを一流と自負する才蔵にとっては、屈辱の白旗の掲揚である。

才蔵は、それまで断っていた気配を解き、信康の前へと姿を見せたのである。


「お前は何処の手……、いや、良い。‥‥何処の者であろうと……ほれ」


信康は、少し思案した様子を見せた後、手に持った杯を才蔵の方へと差し出した。


才蔵は、笑みさえ浮かべ杯を自分に向ける信康を見て、呆れかえってしまっていた。

刺客かもしれない得体の知れない、どこからどうみても、忍びである姿の自分と、差し向かいで酒を酌み交わそうというのである。


才蔵は、あっけらかんとしたそんな信康の様子を目の当たりにして、秀が口にした『若を、信康様を』と言う言葉の意味を強く感じていた。


信康の前に出た才蔵は、腰に差した忍び刀を抜き取ると、平伏の姿勢を取りながら、その忍刀を信康へと差し出した。


もちろん、これは、才蔵の示した敵意の無い証しである。


「……わしを殺めに来たのでないとすると義父殿の使いか……」


信康は、ニヤリと笑うと催促するように杯を上下に揺らした。


信康に存在を知られたからといって、差し出された杯を気安く手に取って、酒を酌み交わすなど出来ようはずがない。

まして才蔵には、命運が風前の灯火となって、尽きようとしているにも関わらず、呑気に杯を差し出す目の前にいる本人、信康救出という、大事が控えているのである。


才蔵は、杯に関しては拒絶する意味を込め、無言で手のひらを信康へと見せた。


「……ふっ」


信康は、身も知らぬ間違うことなき怪しげな忍びに、拒絶され悄げたようにわざとらしく、ため息をついて見せた。


「‥‥で、なにようで参った?」


「……」


信康の表情は、一変した。

それまでの温厚な人懐っこい笑みは消え失せ、殺気さえ醸し出す、出陣を前にした歴戦の戦国武将、徳川信康の本来の顔を才蔵に向けたのである。


「半蔵の手の者か?」

「……」


「武田のものか?」


「……」


「母じゃに頼まれたのか?」

「……」


「では、わしを殺しにきたか?」


「……」


信康は、厳しい表情のまま、矢継ぎ早に才蔵に質問を向けた。


もともと、人見知りが激しく、口下手な才蔵である。
それが、考えも纏まらないうちに、次から次ぎへと矢継ぎ早の質問である。才蔵は、首を横に振って答えとするより術がなかった。


「ふっ……」


らちのあかない才蔵の様子に、質問を諦めた信康は、一つ大きな溜め息を吐いた。
そして、それまでの警戒心を解き、ゆっくりと話し始めた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです

NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた

ダンジョンでオーブを拾って『』を手に入れた。代償は体で払います

とみっしぇる
ファンタジー
スキルなし、魔力なし、1000人に1人の劣等人。 食っていくのがギリギリの冒険者ユリナは同じ境遇の友達3人と、先輩冒険者ジュリアから率のいい仕事に誘われる。それが罠と気づいたときには、絶対絶命のピンチに陥っていた。 もうあとがない。そのとき起死回生のスキルオーブを手に入れたはずなのにオーブは無反応。『』の中には何が入るのだ。 ギリギリの状況でユリアは瀕死の仲間のために叫ぶ。 ユリナはスキルを手に入れ、ささやかな幸せを手に入れられるのだろうか。

悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる

竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。 評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。 身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

英雄一家は国を去る【一話完結】

青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。 - - - - - - - - - - - - - ただいま後日談の加筆を計画中です。 2025/06/22

死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜

のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、 偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。 水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは―― 古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。 村を立て直し、仲間と絆を築きながら、 やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。 辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、 静かに進む策略と復讐の物語。

断罪後のモブ令息、誰にも気づかれずに出奔する

まる
ファンタジー
断罪後のモブ令息が誰にも気づかれないよう出奔して幸せを探す話

処理中です...