3 / 11
第3話|泣かぬ子と、焦る宦官
しおりを挟む内務府の不正が暴かれてから、後宮の空気は目に見えて変わった。
笑顔は以前と同じ。
言葉遣いも、立ち居振る舞いも、何一つ変わらない。
――だが、視線だけが違った。
皇孫・凌曜の前では、誰もが一瞬、呼吸を忘れる。
無邪気な三歳児。
そう思おうとすればするほど、先日の出来事が脳裏をよぎる。
たった一言。
「なぜ、この銀は重いの?」
その言葉で、内務府は血を流さずに壊滅した。
だからこそ、ある者たちは焦り始めていた。
(このままでは、次は我らだ)
後宮の奥、人気のない回廊。
宦官のひとり――張廉は、震える指で小瓶を握りしめていた。
透明な液体。
香も色もない。
ほんの一滴で、幼子の命を奪う毒。
事故に見せかけるのは容易い。
食事に混ぜる必要すらない。
(泣き虫の子なら、すぐに気づかれるが……)
張廉の脳裏に浮かぶのは、あの静かな瞳。
(泣かぬ子だ)
だからこそ、隙がある。
そう、自分に言い聞かせる。
その日、凌曜は庭で遊んでいた。
春の日差しの下、白い石畳に小さな影が落ちる。
乳母が目を離さぬよう付き添い、少し離れたところに宦官が控えている。
「殿下、こちらは危うございます」
乳母が言うと、凌曜は素直にうなずいた。
その様子を、張廉は遠目に見ていた。
(今だ)
乳母が他の宦官に呼ばれ、ほんの一瞬、視線が逸れる。
張廉は、庭の隅に置かれた水瓶に近づいた。
手の中の小瓶を傾ける。
――ぽとり。
ほんの一滴。
誰にも気づかれない、はずだった。
「……?」
その時。
凌曜が、水瓶のほうを見た。
乳母は気づかない。
張廉の動きも、すでに自然を装っている。
だが、凌曜の視線だけが、水面に留まっていた。
「どうなさいました、殿下?」
乳母が尋ねる。
凌曜は、しばらく黙ってから言った。
「……におい、ちがう」
張廉の心臓が跳ね上がる。
「なにがでございます?」
乳母が水瓶に近づこうとした、その時。
凌曜は、小さな手でそれを制した。
「のまないで」
声は小さい。
だが、はっきりしていた。
「……え?」
乳母が戸惑う。
「きょうの、みず。おはなじゃない」
その言葉に、乳母の顔色が変わった。
香を焚く後宮では、水にもほのかな香りが移ることがある。
だが今日は違う。
乳母は、慎重に水瓶から離れ、宦官に目配せした。
「水を替えなさい」
命じられ、別の宦官が慌てて動く。
張廉は、平静を装ったまま、その場を離れようとした。
――が。
「そこのひと」
背後から、幼い声がした。
張廉の足が、止まる。
ゆっくりと振り返ると、凌曜が見ていた。
「さっき、なにしたの?」
その問いは、責める調子ではなかった。
ただの疑問。
ただの、確認。
だが張廉には、それが刃に聞こえた。
「い、いえ……何も……」
言葉が、震える。
次の瞬間。
「凌曜」
低い声が、庭に響いた。
景帝だった。
いつから見ていたのか分からない。
だが、その表情は、すでにすべてを察している。
「どうした?」
凌曜は、祖父の方へ歩み寄り、裾を掴む。
「このひと、みず、いじった」
――終わった。
張廉は、その場に崩れ落ちた。
「調べよ」
景帝の命令は、短い。
水瓶は封じられ、医官が呼ばれた。
結果は明白だった。
致死性の毒。
庭は一瞬で封鎖され、張廉は連行された。
乳母は震えながら、凌曜を抱きしめる。
「殿下……怖くなかったのですか……?」
凌曜は少し考えた。
「……こわかった」
初めて、そう口にした。
だが、泣かなかった。
「でも」
小さな手が、ぎゅっと乳母の衣を掴んだ。
「じぃじ、いる」
その言葉に、景帝は目を伏せた。
その夜。
張廉はすべてを吐露した。
背後にいたのは、反改革派の一派。
景帝は、静かに命じた。
「関わった者、すべてを洗い出せ」
血は流さぬ。
だが、逃がしもしない。
そして、眠る凌曜の寝所。
景帝は、孫の額にそっと手を置いた。
(この子は……国の鏡だ)
歪みがあれば、必ず映す。
隠そうとすればするほど、鮮明に。
後宮では、確信が広がり始めていた。
――皇孫は、泣かぬ。
――だが、見逃さぬ。
こうして、誰もが悟ったのだ。
幼き改革者には、触れてはならぬと。
1
あなたにおすすめの小説
雪嶺後宮と、狼王の花嫁
由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。
巫女として献上された少女セツナは、
封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。
人と妖、政と信仰の狭間で、
彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。
雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。
炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~
悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
【完結】偽りの華は後宮に咲く〜義賊の娘は冷徹義兄と食えない暗愚皇帝に振り回される〜
降魔 鬼灯
キャラ文芸
義賊である養父を助けるため大貴族の屋敷に忍び込んだ燕燕は若き当主王蒼月に捕まる。
危うく殺されかけた燕燕だが、その顔が逃げた妹、王珠蘭に似ていることに気付いた蒼月により取引を持ちかけられる。
逃げた妹の代わりに顔だけは綺麗な暗君である皇帝の妃を決める選秀女試験に出て不合格になれば父の解放を約束するという密約を交わした。
記憶力抜群、運動神経抜群、音楽的才能壊滅の主人公が父のために無難な成績での選秀女試験不合格を勝ち取れるのか。
実は食えない性格の皇帝と冷徹だがマメな義兄蒼月に振り回され溺愛される燕燕は無事2人から解放されるのか。
後宮コメディストーリー
完結済
人間嫌いの狐王に、契約妻として嫁いだら溺愛が止まりません
由香
ファンタジー
人間嫌いで知られる狐族の王・玄耀に、“契約上の妻”として嫁いだ少女・紗夜。
「感情は不要。契約が終われば離縁だ」
そう告げられたはずなのに、共に暮らすうち、冷酷な王は彼女だけに甘さを隠さなくなっていく。
やがて結ばれる“番”の契約、そして王妃宣言――。
契約結婚から始まる、人外王の溺愛が止まらない和風あやかし恋愛譚。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―
喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。
そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。
二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。
最初は手紙も返ってきていたのに、
いつからか音信不通に。
あんなにうっとうしいほど構ってきた男が――
なぜ突然、私を無視するの?
不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、
突然ルイスが帰還した。
ボロボロの身体。
そして隣には――見知らぬ女。
勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、
私の中で何かが壊れた。
混乱、絶望、そして……再起。
すがりつく女は、みっともないだけ。
私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。
「私を簡単に捨てられるとでも?
――君が望んでも、離さない」
呪いを自ら解き放ち、
彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。
すれ違い、誤解、呪い、執着、
そして狂おしいほどの愛――
二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。
過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる