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第9話|嵐の前夜
しおりを挟む夜の後宮は、昼とは別の顔を持つ。
灯籠の明かりは抑えられ、
回廊は影を長く引き、
人の気配は、音よりも先に消える。
その静けさの中で、
確かに何かが動いていた。
皇孫・凌曜は、その夜、早く床についていた。
地方学舎設立の準備、
監察の継続、制度改正の草案。
景帝は多忙を極め、
凌曜と過ごす時間も、わずかに減っていた。
乳母は、眠る凌曜の寝顔を見つめながら、
胸の奥に拭えぬ不安を抱えていた。
(……静かすぎる)
ここ数日、後宮では誰も問題を起こしていない。
だが、それが逆に、不気味だった。
――嵐の前は、いつもこうだ。
同じ頃。
後宮の外れ、使われなくなった小殿で、
数人の男たちが集まっていた。
「これが、最後だ」
低い声。
「今を逃せば、もう手は出せぬ」
「皇帝は固い。だが、皇孫は――」
言葉が、途中で止まる。
誰もが、同じことを考えていた。
幼い。
だが、厄介すぎる。
「事故に見せる」
「泣かぬ子だ。気づかれる前に、終わらせられる」
張廉の失敗が、脳裏をよぎる。
慧妃の末路も。
それでも、引き返す者はいなかった。
――ここで止まれば、次は自分たちだ。
夜半。
風が、回廊を抜けた。
凌曜の寝所へ続く道。
警護は厳重だが、完璧ではない。
灯りの届かぬ角。
交代の隙。
黒衣の影が、音もなく忍び寄る。
そのとき。
凌曜は、目を開けた。
夢を見ていたわけではない。
ただ、胸の奥が、ざわついた。
「……?」
静かに身を起こす。
外は暗い。
だが、分かる。
(……ちがう)
いつもの夜と、何かが違う。
凌曜は、そっと寝台を降りた。
足音を立てぬよう、乳母の眠る部屋とは逆へ進む。
小さな手で、扉に触れた瞬間――
外で、わずかな気配が揺れた。
凌曜は、動きを止める。
泣かない。
声を出さない。
ただ、聞く。
呼吸。
衣擦れ。
――いる。
その瞬間、別の足音が、重なった。
「……何者だ」
低く、鋭い声。
景帝直属の護衛だった。
次の瞬間、闇が、弾けた。
剣が抜かれ、影が走り、
短い悲鳴が、闇に吸われる。
凌曜は、その一部始終を、
扉の影から見ていた。
怖くなかった、と言えば嘘になる。
だが、目を逸らさなかった。
数刻後。
後宮は、完全に封鎖された。
捕らえられた者。
その場で命を絶たれた者。
血の匂いは、抑えきれず、夜気に混じった。
景帝は、凌曜の寝所へ駆けつけた。
「凌曜!」
孫を抱き上げ、無事を確かめる。
「……じぃじ」
凌曜は、しがみついた。
その手が、かすかに震えている。
「怖かったか」
凌曜は、少し考え、頷いた。
「……でも」
「でも?」
「にげなかった」
景帝の胸が、締め付けられる。
「……よく耐えた」
それ以上の言葉が、見つからなかった。
夜明け前。
すべてが、明らかになった。
反改革派の残党。
地方官と結びついた重臣。
後宮内部の協力者。
根は、深かった。
だが――
これで、終わりだった。
景帝は、静かに詔を準備させる。
今回ばかりは、情は挟まぬ。
処罰は、公に行う。
見せねばならぬ。
これ以上、皇孫に手を伸ばせば、国そのものが敵に回ると。
凌曜は、夜が明ける頃、ようやく眠りについた。
夢は、静かだった。
嵐が過ぎたあとの、澄んだ空のように。
景帝は、その寝顔を見下ろしながら、悟る。
(……この子は、もう後戻りできぬ)
守られる存在ではない。
隠される存在でもない。
この国の――
中心に立つ存在だ。
だが、それでも。
(まだ、幼い)
だからこそ。
次は、恐れでも、粛清でもなく――
名を与えねばならぬ。
夜は、終わった。
嵐は、去った。
そして、瑞栄王朝は次の朝を迎える。
幼き改革者を名実ともに迎える朝を。
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