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第8話 守るべきものは、もう残っていなかった
しおりを挟む王太子アルフォンスは、その夜、一睡もできなかった。
天蓋付きの寝台に横たわりながら、天井の装飾を見つめ続けている。
目を閉じれば、昼間の光景が鮮明に蘇った。
淡い光。
癒えない傷。
記録官の、淡々とした声。
――治癒速度、従来報告の六割以下。
「……馬鹿な」
呟きは、虚しく空気に溶ける。
あれは、偶然だ。
体調不良だったのだろう。
緊張して、本来の力が出なかっただけだ。
そう思おうとすればするほど、心の奥で、別の声が囁く。
――本当に、そうか?
アルフォンスは、身体を起こした。
机の上には、書類が積まれている。
再検証の暫定報告。
過去の聖女記録との照合資料。
どれも、重い。
「……なぜ、今になって」
答えは、分かっている。
婚約破棄。
リリアーナ・フォン・エルヴェイン。
彼女を切り捨てた、その瞬間から――
歯車は、逆回転を始めた。
*
翌朝。
王太子執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
「殿下」
神殿代表が、深々と頭を下げる。
「聖女マリエルに関する件……神殿としても、見解をまとめねばなりません」
その言葉は、柔らかい。
だが、意味するところは一つ。
――守りきれない。
「……まだ、結論は出ていない」
アルフォンスは、低く答えた。
「正式な報告は――」
「もちろんです」
神殿代表は、にこやかに微笑む。
「ですが……王国の“象徴”に疑念が生じたままでは、信徒たちが不安に陥ります」
象徴。
その言葉が、胸に刺さる。
聖女は、信仰の柱だ。
そして王太子は――
その聖女を“選んだ存在”。
切り離せば、無傷では済まない。
だが、抱え続ければ――
もっと深く、沈む。
「……少し、考えさせてくれ」
アルフォンスは、そう言うしかなかった。
*
「殿下……」
午後。
執務室を訪れたのは、マリエルだった。
白い衣。
憔悴した顔。
かつて“慈愛”と呼ばれた微笑みは、影を帯びている。
「……どうして、呼ばれたのかしら」
不安を隠しきれない声。
アルフォンスは、彼女を見つめた。
――この女のために、自分は、何を失った?
「……再検証の結果は、聞いているな」
「……はい」
マリエルは、俯いた。
「でも……私は……」
「“奇跡”は、起きなかった」
遮るように、言う。
冷たい声だった。
「以前のようには」
マリエルの肩が、震える。
「……殿下」
縋るような視線。
「私は……あなたのために……」
その言葉を聞いた瞬間。
アルフォンスの脳裏に、別の声が浮かんだ。
『どうか、お幸せに』
あの日。
断罪の場で、リリアーナが残した言葉。
怒りも、涙もなく。
ただ――距離を置くような、静かな声。
「……マリエル」
アルフォンスは、重く口を開いた。
「一つ、聞く」
「……はい」
「お前は……本当に、すべての癒やしを、自分一人で行ったのか?」
空気が、凍りついた。
「……それは……」
マリエルの視線が、泳ぐ。
「……補助は……ありました……でも……」
「誰の?」
沈黙。
それは、答えだった。
アルフォンスは、ゆっくりと目を閉じる。
――ああ。
自分は、最初から、見ないようにしていただけだ。
*
その夜。
王太子は、兄弟のいない静かな回廊を歩いていた。
目指すのは――
国王の執務室。
「……入れ」
父王の声。
扉を開くと、そこには――
すでに、監察官と重臣が揃っていた。
「アルフォンス」
国王は、静かに言う。
「選べ」
それだけ。
説明は、なかった。
だが、選択肢は明白だった。
一つ。
聖女マリエルを守り、王太子としての信頼を失う道。
一つ。
聖女を切り捨て、すべてを“誤りだった”と認める道。
アルフォンスは、拳を握りしめる。
思い出すのは――
いつも自分を信じていた少女の背中。
守れなかった。
いや――守らなかった。
「……私は」
声が、かすれる。
「王太子として……王国の安定を、最優先します」
沈黙。
それは――
“切る”という選択だった。
国王は、短く頷く。
「よかろう」
それだけで、すべてが決まった。
*
翌日。
マリエルは、神殿からの正式な通達を受け取った。
――聖女位、一時停止。
――調査終了まで、公の場への露出を禁ずる。
「……そんな……」
紙が、指先から滑り落ちる。
守られるはずだった。
選ばれたはずだった。
なのに。
*
一方。
私は、屋敷の庭で、静かに花を見ていた。
「……風向きが、変わりました」
ユリウス兄様が、そう告げる。
「え……?」
「王太子は、切った」
短い言葉。
でも、その意味は――
あまりにも重い。
「……そう、ですか」
それだけ言って、私は俯いた。
勝った、という気持ちはない。
ただ――
戻れない場所が、確かに増えただけだ。
「リリアーナ」
アルベルト兄様の声。
「次は……お前が、呼ばれる」
胸が、静かに鳴る。
裁きは、もう“準備”ではない。
王太子は、選んだ。
守るべきものを、切り捨てるという形で。
そして次に問われるのは――
誰が、真実を語るのか。
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