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第6話 それを、番と呼ぶ
しおりを挟む――おかしい。
宴が終わり、城が静寂を取り戻しても、俺の内側は一向に落ち着かなかった。
執務室に戻り、書を広げても文字が頭に入らない。
集中しようとするほど、思考はひとつの存在へ引き寄せられる。
紗夜。
名を呼ぶだけで、喉の奥が熱を持つ。
「……馬鹿な」
人間だ。
契約で迎え入れただけの、仮初の妻。
そう定義したはずだった。
なのに。
宴で、他種族の視線が彼女に向けられた瞬間――
胸の奥が、焼けつくように疼いた。
奪われる想像。
触れられる想像。
それだけで、理性が剥がれ落ちた。
「……認めるわけがない」
番などという、不合理な本能。
俺は王だ。
感情に振り回される存在ではない。
そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
だが。
――匂いが、消えない。
夜気に混じって、はっきりと感じる。
城の奥。紗夜の部屋の方角から漂う、微かな気配。
意識するな。
そう思うほど、足が勝手に動いていた。
気づけば、彼女の部屋の前に立っている。
扉の向こうから、規則正しい寝息が聞こえた。
……眠っている。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
――守っている。
そんな感覚が、自然と湧き上がった。
静かに戸を開けると、紗夜は寝台で横になっていた。
月明かりに照らされた顔は、あまりにも無防備で。
「……」
近づくだけで、尾が勝手に揺れる。
抑えようとしても、言うことを聞かない。
俺は、そっと腰を下ろした。
触れない。
触れないが、近くにいる。
それだけで、呼吸が整っていく。
――異常だ。
人間の側にいるだけで、こんなにも安堵するなど。
指先が、無意識に彼女の髪へ伸びる。
柔らかい。
指に絡む感触が、心地よすぎた。
「……紗夜」
名を呼ぶと、彼女は小さく身じろぎした。
逃げない。
拒まない。
それが、余計に胸を締めつける。
――去る、と言っていた。
あの言葉が、脳裏に蘇る。
契約が終われば、ここを出る。
人間の世界へ、戻る。
その未来を思い浮かべた瞬間。
――駄目だ。
息が、詰まる。
胸の奥で、何かがはっきりと否定した。
離す。
手放す。
そんな選択肢は、最初から存在しなかった。
「……そういうことか」
呟いた声は、掠れていた。
これまで、無視し続けてきた感覚。
理屈では説明できない衝動。
匂いに惹かれ、気配を追い、触れずにはいられない。
守りたい。
奪われたくない。
それを、狐族は――
「……番、と呼ぶのだったな」
認めた瞬間、胸の奥が静かに定まった。
抗えない。
否定できない。
これは、呪いではない。
本能でもない。
選び取ってしまった、ただひとつの存在。
俺は、ゆっくりと彼女の額に額を寄せた。
触れない程度に。
だが、確かに繋がる距離で。
「……逃がす気はない」
眠る紗夜は、答えない。
それでも。
尾が、はっきりと彼女を囲った。
――契約など、もはや意味をなさない。
俺は決めた。
彼女が去ると言うなら、理由を消す。
人間であることが障害なら、覆す。
王としてではない。
一匹の狐として。
「……番だ」
初めて、その言葉を口にした。
夜は、まだ深い。
だがこの瞬間。
狐王は、すべてを理解してしまった。
――溺愛は、始まる前から、終わりを許さないものだと。
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