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第7話 それでも、去ると決めた
しおりを挟む朝の空気は、ひどく澄んでいた。
紗夜は静かに息を吸い、吐く。
城の庭に立つと、ここへ来た日のことを思い出してしまう。
――怖かった。
それでも、今よりは簡単だった。
「……決めた」
小さく呟いて、紗夜は拳を握る。
宴が終わり、狐王の態度は明らかに変わった。
視線は以前より熱を帯び、距離は限りなく近い。
それが、嬉しくて。
同時に、怖かった。
(このままでは、戻れなくなる)
契約は、仮初。
自分は人間で、彼は狐族の王。
――並び立つ未来は、最初から用意されていない。
だから。
紗夜は、去る準備を始めた。
「……紗夜さま?」
荷をまとめていると、侍女が戸口に立っていた。
「お出かけですか?」
「……ええ。少し、外へ」
嘘ではない。
ただ、戻るかどうかを言っていないだけだ。
侍女は一瞬、不安そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「……陛下には」
「私から、お話しします」
その言葉が、どれほど重いか。
紗夜自身が一番、わかっていた。
城門へ向かう途中、背後から鋭い気配が走った。
「……どこへ行く」
低い声。
振り向く前から、わかっていた。
「……王」
狐王は、静かに立っていた。
だがその瞳は、明らかに紗夜だけを捉えている。
「荷を持っているな」
「……はい」
「説明しろ」
逃げ場は、ない。
紗夜は、深く息を吸った。
「……私は、人間です」
狐王の耳が、ぴくりと動く。
「契約妻としての役目は、果たしました。宴も終わりましたし……」
「それで?」
声が、低く沈む。
「……そろそろ、去るべきだと思いました」
言い切った瞬間、空気が変わった。
狐王の尾が、大きく揺れる。
「……誰が、許した」
「契約ですから」
「契約?」
一歩、距離が詰められる。
「俺は、終わらせると言ったか」
「……言われていません。でも」
紗夜は、視線を落とした。
「私は、ここに居続ける存在ではありません」
「理由を言え」
短い命令。
「……情が、移りました」
その言葉は、刃だった。
「これ以上そばにいたら……戻れなくなる」
狐王の瞳が、わずかに揺れる。
「それが、問題か」
「問題です」
はっきりと答えた。
「私は人間です。寿命も、立場も、違う」
「だから、離れる?」
「……はい」
沈黙。
狐王は、しばらく動かなかった。
やがて。
「……俺が、何もしていないと思っていたか」
紗夜は、顔を上げる。
「?」
「おまえが去る可能性を、考えないと思ったか」
一歩、また一歩。
距離が、詰まる。
「……番だ」
その言葉に、紗夜は息を呑んだ。
「な……」
「否定するな」
強くはない。
だが、逃げを許さない声。
「俺は、決めた」
狐王は、紗夜の荷を取る。
「おまえが人間であることも、寿命も、すべて含めて」
「……王、それは」
「俺の問題だ」
金色の瞳が、真っ直ぐに射抜く。
「去る理由を、消す」
紗夜の胸が、激しく鳴る。
「……そんなこと、できるわけが」
「できる」
即答だった。
「俺は王だ」
そして、少しだけ声を落とす。
「……それ以前に、一匹の狐だ」
尾が、はっきりと紗夜を囲む。
「逃がすつもりはない」
その言葉は、宣言だった。
紗夜の視界が、滲む。
「……ずるいです」
震える声。
「そんなふうに言われたら……」
「なら、行くな」
額が、そっと触れ合う。
「ここにいろ」
長い沈黙の後、紗夜は小さく息を吐いた。
「……少し、考える時間をください」
それが、精一杯だった。
狐王は、すぐには答えなかった。
やがて。
「……今夜までだ」
「え……?」
「それまでに、決めろ」
彼は、紗夜から一歩離れる。
「去るなら、俺が止める」
はっきりとした宣告。
紗夜は、その背を見送るしかなかった。
――選択の夜が、迫っていた。
逃げるか。
受け入れるか。
そのどちらも、もう簡単ではない。
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