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番外編② 発情期の、前夜
しおりを挟む異変に最初に気づいたのは、玄耀だった。
(……来る)
夜気に混じる、微かな甘さ。
普段の紗夜とは違う、熱を含んだ匂い。
――発情期の、前兆。
狐族にとって、それは理性を試される時だ。
番を得ていない者は、暴走する。
番を得た者は――耐える。
(……よりにもよって)
玄耀は、視線を落とす。
紗夜は、気づいていない。
いや、気づいてはいるが、意味を理解していない。
「……玄耀」
呼ばれて、胸が跳ねた。
「少し……暑い、です」
頬が、ほんのり赤い。
(……駄目だ)
近づけば、終わる。
「今夜は、距離を取る」
そう言った声は、思ったより低かった。
「え……?」
戸惑いの瞳。
――その顔で、見上げるな。
「理由は、後で説明する」
「……嫌われましたか」
ぽつりと落ちた言葉に、思考が止まる。
次の瞬間、玄耀は紗夜の手首を掴んでいた。
「違う」
即答。
だが、それ以上は近づかない。
距離は、拳ひとつ分。
「……触れないでいるのが、限界だからだ」
正直な答え。
紗夜の目が、大きくなる。
「……?」
玄耀は、深く息を吸った。
「狐族には、発情期がある」
「……はい」
「番の匂いに、強く反応する」
視線を逸らす。
「今のおまえは……危険だ」
沈黙。
紗夜は、しばらく考えてから、そっと一歩近づいた。
「……私が?」
「来るな」
命令だった。
だが、声が震えていた。
「……玄耀」
名を呼ばれる。
それだけで、尾が揺れる。
「……怖いですか」
紗夜は、怯えてはいなかった。
むしろ、不思議そうに見つめている。
「怖いのは」
玄耀は、歯を食いしばる。
「……自分だ」
番を傷つける可能性。
理性を失う可能性。
紗夜は、静かに息を吐いた。
「……じゃあ」
ゆっくり、距離を詰める。
「一緒に、耐えましょう」
――愚かだ。
そう思うのに、止められない。
「……後悔するぞ」
「しません」
小さな手が、玄耀の衣を掴む。
それだけで、世界が狭くなる。
(……一歩)
それ以上は、動けない。
玄耀は、震える息を抑えながら、紗夜を抱き寄せた。
強くない。
だが、離さない。
「……っ」
額が、触れる。
息が、近い。
匂いが、濃くなる。
「……今夜は」
玄耀の声は、低く掠れていた。
「ここまでだ」
唇は、触れない。
だが、距離は紙一枚。
「……玄耀」
「黙れ」
優しい命令。
「……これ以上は、理性が死ぬ」
尾が、強く絡む。
逃げ道を塞ぐように。
紗夜の呼吸が、早くなる。
「……熱い」
「だろうな」
自嘲気味に笑う。
「俺もだ」
しばらく、ただ呼吸だけが重なる。
夜は、長い。
玄耀は、一晩中、目を閉じなかった。
番を抱いたまま、動かず、離さず。
(……耐えた)
それだけで、誇りだった。
朝。
薄明かりの中で、紗夜は眠っている。
無防備に、胸に顔を埋めて。
玄耀は、そっと額に口づけた。
「……次は」
低く、確かな声。
「逃がさない」
それは、予告だった。
発情期の“前夜”は、こうして終わる。
――本番は、まだ先。
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