悪女と呼ばれた令嬢は、親友の幸せのために婚約者を捨てた

由香

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第2話 親友のままでいられたなら

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 あの夜の光景が、何度も頭の中で繰り返される。

 大広間。
 燭台の光。
 そして、静かに婚約破棄を告げたリュシエンヌの声。

 ――後悔はいたしません。

 あまりにも即答だった。
 迷いも、揺らぎも、そこにはなかった。

「……くそ」

 カイル・レイフォードは、騎士団の詰所で剣を磨きながら、低く吐き捨てた。
 金属が擦れる音だけが、やけに耳につく。

 彼女は悪女だ。
 社交界はそう結論づけた。

 だが、カイルは知っている。
 リュシエンヌが、そんな女ではないことを。

 幼い頃、転んで泣いていた彼を、誰よりも早く見つけてくれた。
 誰にも言えない悩みを、茶化さずに聞いてくれた。
 自分が剣の道を選ぶと言った時、ただ一言、「似合っているわ」と微笑んだ。

 ――そんな彼女が、愛情がないから婚約を捨てた?

(ふざけるな)

 怒りは、彼女ではなく、状況に向いているはずだった。
 それなのに、胸の奥に溜まる感情は、どうしようもなく彼女へと向かってしまう。

 あの日、中庭で呼び止めた時のことを思い出す。

「あなたには関係ないわ」

 はっきりと突き放す声。
 あれは、今まで聞いたことのない冷たさだった。

「親友だからこそ、巻き込みたくない」

 その言葉が、妙に引っかかっている。

 親友。
 そうだ、俺たちは親友だ。

 何度もそう言い聞かせてきた。
 彼女が貴族社会の頂点に立つ存在で、自分は騎士の道を歩く人間だという現実を、受け入れるために。

 それなのに。

「……婚約を壊すほどのことかよ」

 彼女の行動は、どう考えても極端だった。
 誰かを庇った?
 それとも、別に想う相手がいた?

 思考がそこに辿り着いた瞬間、胸が軋んだ。

 理由もなく、息が苦しくなる。

 翌日から、城内は噂で溢れ返った。

「リュシエンヌ様は王太子を侮辱した」

「最初から権力目当てだったのでは」

「悪女の本性を現しただけだ」

 聞くたびに、カイルは無言でその場を離れた。
 否定すれば、かえって彼女を傷つける気がした。

 だが、彼女自身は弁解しない。
 いつも通り、背筋を伸ばし、凛と歩いている。

 まるで、すべてを引き受けると決めた人間のように。

 数日後、廊下で偶然すれ違った。

「……リュシエンヌ」

 名を呼ぶと、彼女は一瞬だけ立ち止まり、振り返った。

 相変わらず整った微笑。
 けれど、その奥にある疲労を、カイルは見逃さなかった。

「何か用?」

「……いや」

 本当は、聞きたいことだらけだった。
 どうしてあんなことをしたのか。
 誰のためなのか。
 俺は、何も知らされない存在なのか。

 だが、彼女の瞳を見た瞬間、言葉が喉で凍りついた。

 これ以上踏み込めば、何かが壊れる。
 そんな予感だけが、はっきりとあった。

「……体には気をつけろ」

 出てきたのは、情けないほど平凡な言葉だった。

「ええ。ありがとう」

 それだけ言って、彼女は去っていく。

 背中を見送りながら、カイルは拳を握りしめた。

(俺は、何をしている)

 親友だと言いながら、何も守れていない。
 何も理解していない。

 夜、独りで剣を振る。
 無心になろうとしても、思考は彼女へ戻る。

 もし、彼女が本当に悪女なら。
 最初から冷酷な人間なら。

 こんなにも胸が痛むはずがない。

「……親友、か」

 その言葉を口にした瞬間、違和感が膨らんだ。

 親友という言葉は、便利だった。
 越えてはいけない線を、はっきり示してくれる。

 だが同時に、
 向き合わなくて済む感情から、逃げるための言葉でもあったのではないか。

 あの夜、彼女が婚約を捨てた瞬間。
 胸を締めつけたのは、怒りだけではなかった。

 失う恐怖。
 置いていかれる感覚。
 そして、言葉にできない独占欲。

 それを認めるのが、怖かった。

「……俺は」

 答えは、まだ見えない。

 ただ一つ確かなのは、
 リュシエンヌが悪女だと、どうしても思えないこと。

 そして、その理由を知らないままでいることが、
 耐え難く苦しいという事実だった。

 親友のままでいられたなら、
 こんな痛みを知ることはなかったのだろうか。

 その問いに答えが出る日は、まだ遠い。

 けれどカイルは、知らず剣を強く握りしめていた。

 彼女の選択の意味を、必ず知りたいと願いながら。




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