婚約破棄短編集

由香

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『婚約破棄のその場で、私は紅茶を飲んでいた』

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 その日、私は壁際で紅茶を飲んでいた。
 それ以上でも、それ以下でもない。

 王立学園の卒業記念式典後に開かれた夜会は、例年通り豪奢で、例年通り息苦しかった。金糸の刺繍が施された天井布、過剰なほど輝く魔導灯、香りの強い花々。貴族として生まれ育った私ですら、長居したいとは思えない空間だ。

 私はセシリア・ノルン。子爵家の次女。
 公爵令嬢でもなければ、王族の婚約者でもない。
 だから今も、こうして誰の邪魔にもならない場所で、静かに時が過ぎるのを待っている。

 ——もっとも、その「時」が、今夜は大きく動くと知っていたけれど。

「セシリア、今夜はやけに静かね」

 声をかけてきたのは、同じく壁際常連の男爵令嬢だった。私は曖昧に微笑み、紅茶を一口飲む。

「いつも通りよ」

「そう?なんだか嵐の前みたいな顔してる」

 図星だったが、否定もしなかった。
 嵐は、もうすぐ来る。

 ほどなくして、楽団の演奏が不自然に途切れた。

 ざわめく会場の中央で、王太子レオンハルト殿下が一歩前に出る。
 彼の隣には、純白のドレスに身を包んだ平民出身の少女が立っていた。

 ああ、やっぱり。

「皆、注目してほしい」

 殿下の声はよく通る。自信に満ち、疑いを知らない声だ。
 視線の先には、青銀色の髪を結い上げた一人の女性——エリシア・ヴァルド公爵令嬢がいた。

 彼女は王太子の正式な婚約者。
 そして、この国の屋台骨を支えるヴァルド公爵家の令嬢。

「エリシア・ヴァルド。君との婚約を、ここに破棄する」

 空気が凍った。
 誰かが息を呑み、誰かが小さく悲鳴を上げる。

「私は真実の愛を見つけた。このマリアこそ、私の運命の相手だ」

 王太子はそう言い切り、少女の肩を抱いた。
 典型的で、あまりにも典型的な光景。

 私は紅茶を置き、エリシア公爵令嬢を見た。

 彼女は——泣いていなかった。
 怒っても、青ざめてもいない。

 ただ、静かに殿下を見返し、ゆっくりと一礼した。

「承知いたしました、殿下」

 その声は驚くほど落ち着いていた。
 ざわめきが大きくなる。

 私は心の中でそっと息を吐いた。

(やっぱり、何も知らないのね)

 殿下は満足げだった。
 周囲がどう思おうと、自分は正しいと信じて疑っていない顔。

 その横で、公爵家の使用人たちが一様に無言で目を伏せているのに、彼は気づいていない。

 ——あるいは、気づこうとしなかったのか。

 夜会は、そのまま形だけ続いた。
 人々はひそひそと囁き合い、視線を交わし、未来を測る。

 私は誰とも深く話さず、ただ眺めていた。

 なぜなら私は知っていたからだ。
 この婚約が、恋愛感情だけで結ばれたものではないことを。

 ヴァルド公爵家が管理していた魔導炉。
 王都を覆う防衛結界。
 そして王家財政の赤字を埋める、いくつもの事業。

 それらすべてが、婚約契約に基づく「協力関係」だったことを。

 私は偶然、それを知ってしまっただけの傍観者。
 だから何も言わなかったし、言う必要もなかった。

 数日後、正式な婚約破棄が発表された。
 同時に、ヴァルド公爵家はすべての王家支援から手を引いた。

 王都の結界は弱まり、魔導炉の管理者が不在となり、国庫は目に見えて逼迫した。

 殿下は慌てた。
 初めて、自分が何を失ったのかを知ったのだ。

 だが、もう遅い。

 エリシア公爵令嬢は、隣国へと渡った。
 より理性的で、より現実を理解する相手のもとへ。

 平民の少女は、重圧に耐えきれず姿を消したと聞く。

 そして私は今日も、社交界の片隅で紅茶を飲んでいる。

 誰にも責められず、誰にも褒められず。

「……何もしていないのに、ずいぶん静かな結末ね」

 かつての男爵令嬢が、ぽつりと言った。

 私はカップを置き、微笑む。

「ええ。私は何もしていないわ」

「ただ?」

「ただ、起こると分かっていた未来を、眺めていただけ」

 傍観者でいることは、ときに一番安全で、そして一番残酷なのだから。




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